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第47話 : 新しい教室

第47話 : 新しい教室


 目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。


 朝六時。カーテンの隙間から光が入っている。三月末の朝の光。薄いオレンジ色。天井を見た。罅が三本。いつもと同じ。いつもと同じ朝。でも今日は、いつもと同じじゃない。


 今日、教室に行く。


 布団を蹴った。起き上がった。心臓が速い。昨日の夜から速いままだ。白石さんに「行っておいで」と言われた。グループLINEで「明日、教室に行く」と宣言した。ルカ姉が「えらいじゃん」と返してくれた。もう後には引けない。引きたくもない。


 洗面所で顔を洗った。水が冷たい。目が覚める。鏡を見た。


 鏡の中のわたし。十ヶ月前と同じ顔。でも少し違う。目の下のクマが薄くなっている。頬の肉が少しだけ戻っている。母さんの弁当を食べるようになってから、体重が増えた。いい意味で。


 メイクをした。ナチュラルメイク。レンに教わった技術の穏やかな応用。地雷系じゃない。盛るためのメイクじゃない。整えるためのメイク。肌のトーンを均一にして、眉を描いて、まつげを少し上げる。それだけ。


 レンが「メイクってさ、変身じゃないんだよ。自分を "ちょっとだけ好き" にするための儀式だよ」と言っていた。あのとき歌舞伎町のネカフェの薄暗い鏡の前で教えてもらった技術が、今、埼玉の洗面台の鏡の前で生きている。


 制服に着替えた。ブラウス。スカート。リボン。靴下。十ヶ月ぶりの制服。クローゼットの奥にしまってあった。母さんがアイロンをかけてくれていた。皺がない。ブラウスの襟がパリッとしている。


 鏡に映る自分を見た。制服を着たわたし。去年の四月に着ていたのと同じ制服。でもあの頃のわたしとは違う。あの頃は、この制服を着ること自体が苦しかった。今は——苦しくはない。少し窮屈だけど。


 制服を着たわたし。地雷系メイクのなぎ。ナチュラルメイクのなぎさ。全部がわたしだ。一人の人間の中に、いくつもの自分がいる。どれか一つが「本当のわたし」なんじゃなくて、全部が本当。


 階段を降りた。台所から味噌汁の匂いがする。母さんが立っている。エプロン。背中。小さい背中だと思った。わたしより低い。いつの間にか、わたしのほうが背が高くなっていた。


「おはよう」


 母さんが振り返った。わたしの制服を見て、一瞬だけ目が大きくなった。でもすぐにいつもの顔に戻って「おはよう」と返した。


 何も言わなかった。「学校行くの?」とも「大丈夫?」とも聞かなかった。ただ「おはよう」。わたしが制服を着て階段を降りてきたことを、母さんは受け止めた。騒がずに。泣かずに。「おはよう」だけで。


 それが嬉しかった。母さんが学んでくれている。踏み込まないこと。聞きすぎないこと。「おはよう」で十分だと、わかってくれている。


 食卓に座った。味噌汁。白ご飯。卵焼き。弟の陸が向かいに座っている。わたしの制服を見て、ちょっとだけ笑った。「行ってくんの?」とだけ聞いた。わたしが「うん」と答えると、陸は「そっか」と言って卵焼きを食べた。


 陸の「そっか」は、ルカ姉の「そっか」に似ている。追及しない。受け止めるだけ。この家族も、少しずつ変わっている。


 味噌汁を飲んだ。豆腐となめこ。温かい。胃の中に温度が広がる。この味噌汁を、わたしは十ヶ月間飲んでいなかった。コンビニのカップ味噌汁は飲んだ。農園でインスタントの味噌汁も飲んだ。でも母さんが作った味噌汁は、味が違う。出汁が濃い。なめこが多い。わたしがなめこ好きだと知っているから。



 玄関。靴を履く。


 十ヶ月前のあの朝を思い出した。連休明けの月曜日。靴を履こうとして、手が震えて、結局脱いでベッドに戻った朝。あのとき、わたしの足は動かなかった。


 今日の足は、動く。


 震えている。でも動く。靴紐を結ぶ指が少しだけ震えている。でも結べる。鍬を振ったとき、水ぶくれができかけた手。鶴見から逃げたとき、路地裏を走った足。母さんに電話をかけたとき、震えていた指。全部の「震え」を経験してきた手足が、今、靴を履いている。


「行ってきます」


 玄関のドアを開けた。母さんが台所から「行ってらっしゃい」と返した。陸が「いってらー」と言った。普通のやりとり。日本中の家庭で毎朝交わされている、ごく普通のやりとり。それがこんなに温かいとは知らなかった。



 通学路。


 桜が咲いている。七分咲き。ピンクの花が枝いっぱいについている。風が吹くと花びらが揺れる。まだ散ってはいない。咲いたばかりの桜。去年の四月もこの道を歩いた。あのときは「リセットボタン」を押すつもりだった。新しい学校、新しい教室、新しいわたし。でもリセットはできなかった。


 今日は違う。リセットじゃない。「続き」だ。壊れた場所から、そのまま続ける。十ヶ月分の空白がある。その空白は消せない。消さなくていい。空白も含めて、わたしの時間だ。


 駅から学校までの道。住宅街を抜けて、坂を上って、校門が見える。桜並木。正門の前に数人の生徒が立っている。笑いながら歩いている。制服。カバン。スマホ。普通の高校生。


 校門の前で足が止まった。


 十ヶ月前と同じだ。足が止まる。でも十ヶ月前は、ここから引き返した。今日は——。


 深呼吸した。四秒吸って、七秒吐く。別室登校を始めた日に覚えた呼吸法。フラッシュバックが来そうなとき用。廊下で笑い声が聞こえたとき用。今も使える。吸って、吐いて。もう一回。吸って、吐いて。


 足を踏み出した。校門をくぐった。


 正面玄関。下駄箱。自分の名前が書いてある。「瀬川凪沙」。この名前がここにある。消されていなかった。十ヶ月間、わたしの名前はこの下駄箱に残っていた。


 上履きに履き替えた。廊下を歩いた。二階。教室は二階の廊下の奥。歩くたびに心臓が速くなる。廊下の先に、教室のドアが見える。


 ドアの前に立った。


 中から声が聞こえる。話し声。笑い声。椅子を引く音。朝のホームルームの前の時間。ざわざわした教室の音。


 この音が怖かった。中学のとき、この音の中でわたしは透明になった。笑い声が刃物みたいに刺さった。話し声がわたしを避けて通った。教室の音は、わたしにとって暴力だった。


 今は——。


 怖い。まだ怖い。怖さは消えていない。でも、怖いまま動くことを、わたしはもう知っている。灯台のドアも怖かった。開けた。母さんへの電話も怖かった。かけた。教室のドアも怖い。開ける。


 ドアに手をかけた。引いた。開いた。


 教室の中。机が並んでいる。黒板。窓からの光。生徒たち。二十数人の顔。何人かがわたしを見た。一瞬の沈黙。


「おはようございます」


 声が出た。自分でも驚くくらい、ちゃんとした声が出た。小さくはなかった。かすれてもいなかった。


 数人が「おはよう」と返した。それだけ。ドラマティックな展開はない。拍手もない。歓迎の言葉もない。振り返らなかった子もいる。スマホを見続けている子もいる。わたしが教室に来たことに気づいていない子もいる。


 それでいい。それで十分だ。「おはよう」が返ってきた。数人だけど。それは、わたしがここにいることを認識してくれたということだ。透明じゃない。声が届いた。


 自分の席に向かった。窓側から三列目。後ろから二番目。十ヶ月前と同じ席。座った。椅子が冷たい。机の表面に傷がある。誰かがシャープペンで彫った落書き。わたしの知らない間にできた傷。


 隣の席。佐藤ひなた。ショートカットで丸い目の女の子。放課後に教室で「瀬川さん? 久しぶり」と声をかけてくれた子。あの日、わたしはこの子の名前を思い出せなかった。今は知っている。佐藤ひなた。


 ひなたがわたしのほうを向いた。少し驚いた顔。でもすぐに笑った。小さな笑顔。


「瀬川さん、おかえり」


 小声。周りに聞こえないくらいの声。でもわたしには、はっきり聞こえた。


「ただいま」


 答えた。「おかえり」と「ただいま」。家族以外の人とこの言葉を交わしたのは初めてかもしれない。ルカ姉やレンとは「おかえり」を交わさなかった。歌舞伎町には「帰る」という概念がなかったから。ここには「帰る」がある。「おかえり」がある。


 ホームルームが始まった。横山先生が教壇に立つ。出席を取る。名前が呼ばれていく。五十音順。「さ」行。


「佐藤さん」「はい」

「瀬川さん」


 横山先生がわたしのほうを見た。丸眼鏡の奥の目が笑っている。


「はい」


 返事をした。名前を呼ばれて「はい」と答えた。教室で。十ヶ月ぶりに。「瀬川凪沙」という名前が、この教室の中に存在している。出席簿に丸がつく。わたしは今日、ここにいる。



 一時間目。数学。


 黒板にチョークの文字。先生の声。ノートを開く音。シャープペンのカチカチ。教室のこの音を、わたしは忘れていた。別室では聞こえなかった音。大勢の人間が同じ部屋にいて、同じことをしている音。ざわめきじゃない。静けさの中に混ざる小さな音の集まり。


 授業の内容は、十ヶ月分の遅れがあるから、ほとんどわからない。先生が何を説明しているのか、半分も理解できない。ノートを取ろうとするけれど、黒板の文字が速い。書ききれない。


 焦る。置いていかれている。みんなが当たり前に解いている問題が、わたしにはわからない。放物線の公式は別室で覚えた。でもその先の応用が。


 ひなたが横から小さくノートを差し出した。自分のノート。きれいな字で、要点がまとめてある。色ペンで重要なところに線が引いてある。


「見る?」


 小声。先生に見つからないように。わたしは「ありがとう」と小声で返した。ひなたのノートを横目で見ながら、自分のノートに写した。ひなたの字は丸くて読みやすい。


 ありがとう。この三文字を言えた。以前のわたしは「ありがとう」が苦手だった。助けてもらうことが、借りを作ることに感じられたから。でも今は違う。「ありがとう」は借りじゃない。繋がりだ。


 二時間目。国語。教科書を開いた。短歌の単元。先生が万葉集の歌を読み上げる。古い日本語。でも意味はわかる。千年以上前の人が書いた言葉が、今のわたしに届いている。言葉は時間を超える。メモ帳に書いた二百十五件の短文も、いつか誰かに届くだろうか。


 三時間目。英語。四時間目。社会。


 お腹が空いた。


 授業を四コマ受けただけで、こんなに疲れるとは思わなかった。頭が重い。首が痛い。椅子に座り続けることに身体が慣れていない。別室では好きなときに立ち上がれた。教室では、チャイムが鳴るまで座っていなければならない。当たり前のこと。でもその「当たり前」が、十ヶ月のブランクの後では重い。



 昼休み。


 チャイムが鳴った。教室がざわめく。弁当を出す子。購買に走る子。友達と固まる子。教室の中に小さなグループがいくつもできる。


 わたしは一人で弁当を開こうとした。机の上に弁当箱を置いた。白い布の包み。母さんが毎朝包んでくれる。


 弁当箱を開けた。


 中身。白ご飯。卵焼き。ほうれん草のおひたし。鶏の唐揚げが三個。ミニトマト。隙間にブロッコリー。彩りがいい。母さんが丁寧に詰めてくれたのがわかる。


 弁当箱の蓋の裏に、小さなメモが貼ってある。付箋紙。母さんの字。


 「おいしく食べてね」


 五文字。「がんばれ」じゃない。「おいしく食べてね」。


 母さんは「がんばれ」とは書かなかった。別室登校を始めた日から、母さんは一度も「がんばれ」と言っていない。言わないと決めたのだと思う。わたしがこれ以上がんばる必要がないと、やっとわかってくれたのかもしれない。あるいは、白石さんの「それで十分」と同じ感覚を、母さんなりに掴んだのかもしれない。


 「おいしく食べてね」。わたしに求めているのは、ただ一つ。おいしく食べること。それだけ。


 鼻の奥がツンとした。泣きそうになった。教室で泣くわけにはいかない。深呼吸した。四秒吸って、七秒吐いて。


 卵焼きを一口食べた。甘い。母さんの卵焼きは甘い派だ。砂糖が多め。子供の頃から変わらない味。コンビニのおにぎりは百円の約束だった。この卵焼きは、母さんの朝の時間でできている。砂糖を量って、卵を割って、焼いて、切って、弁当箱に詰める。その全部の時間が、この甘さに入っている。


「瀬川さん、一緒に食べない?」


 顔を上げた。ひなたが弁当箱を持って、わたしの机の横に立っている。


「え、いいの?」


「うん。一人で食べるの寂しいじゃん」


 ひなたが隣の席に座ったまま、机をわたしの机にくっつけた。二人分の弁当が並ぶ。ひなたの弁当も手作り。おかずが違うけれど、白いご飯は同じ。


「瀬川さんのお弁当、美味しそう。唐揚げいいなあ」


「一個あげようか」


「え、いいの? やった」


 唐揚げを一個、ひなたのお弁当に移した。ひなたが「ありがとう」と笑った。代わりにひなたのお弁当からウインナーが一本、わたしの弁当に来た。


 おにぎりを分け合ったルカ姉たちのことを思い出した。「ツナマヨはカケル。鮭はレン。なぎは昆布でしょ」。歌舞伎町の非常階段の踊り場で、コンビニのおにぎりを分け合った夜。今、教室の机で弁当のおかずを交換している。場所が違う。食べ物が違う。相手が違う。でも「分け合う」という行為は同じだ。


「瀬川さん、ずっと別室にいたんだよね」


 ひなたが唐揚げを食べながら聞いた。直接的な質問。でも責める声じゃなかった。確認する声。


「うん。三月の頭から」


「そっか。大変だったね」


 大変だった。でも「大変だったね」と言われると、少しだけ楽になる。白石さんは「大変だったね」ではなく「よく話してくれたね」と言った。横山先生は「よく来てくれたね」と言った。ひなたは「大変だったね」と言う。全部違う言葉だけれど、全部が受け止めてくれている。


「ひなた、さん」


「ひなたでいいよ」


「ひなた。ありがとう。ノートも。お昼も」


「全然。わたしも一人で食べるの嫌だったから、ちょうどよかった」


 ひなたが笑った。屈託のない笑い方。この子にも事情があるのかもしれない。一人で食べるのが嫌だと言った。前は誰かと食べていたのに、今は一人になった。それとも最初から一人だったのか。聞かない。聞かなくていい。トー横で学んだルール。理由を追及しない。「そっか」で済ませる。


 弁当を食べ終えた。ミニトマトを最後に食べた。酸っぱくて甘い。母さんのメモ「おいしく食べてね」。おいしく食べた。ちゃんと。



 五時間目、六時間目。午後の授業は眠かった。頭が重い。一日中教室にいることの疲労が、身体にのしかかってくる。でも耐えた。最後まで席にいた。


 放課後のチャイム。


 教室がざわめく。帰り支度。部活に行く子。残って喋っている子。わたしは荷物をまとめて立ち上がった。


 廊下で横山先生に呼び止められた。


「瀬川さん」


 振り返った。横山先生が丸眼鏡をちょっと押し上げて、笑っている。


「今日、教室に来れたね。どうだった?」


「怖かったです」


 正直に答えた。嘘をつく理由がない。


「でも、前よりは大丈夫でした」


 横山先生が頷いた。


「それで十分だよ」


 その一言に、心が揺れた。「それで十分」。白石さんが灯台の事務所で言った言葉と同じだ。「今日はここに来れただけで十分だよ」。白石さんと横山先生は会ったことがない。でも同じ言葉を使う。押しつけない大人は、同じ言葉に辿り着くのかもしれない。


「先生、"それで十分" って、白石さんと同じこと言いますね」


 横山先生が首を傾げた。「白石さん?」。


「あ、知り合いの大人の人です。穏やかな人で」


「その人とわたしが同じこと言うなら、きっと正しいことなんだろうね」


 横山先生が笑った。穏やかな笑い方。白石さんの笑い方に似ている。大人にも色々な人がいる。奪う大人、見ないふりをする大人。でも、照らしてくれる大人もいる。灯台みたいに。横山先生もたぶん、灯台の一つだ。


「瀬川さん、明日も来る?」


「はい。来ます」


 断定形で答えた。「来ると思います」でも「来れたら」でもなく。「来ます」。



 帰り道。


 校門を出た。桜並木。朝見たときより花びらが増えている気がする。午後の光の中の桜は、朝よりピンクが濃い。風が吹いた。花びらが一枚、目の前を横切った。


 スマホを出した。グループLINE。写真を撮った。教室の窓から見えた空。授業中にこっそり撮った一枚。青い空に白い雲。校庭の隅に桜が映り込んでいる。


 写真をグループLINEに送った。メッセージを添えた。


 「教室に行った。一日いた」


 送信。


 歩きながら画面を見る。既読がつくのを待つ。一つ。二つ。三つ。


 ルカ姉から。


 「えらいじゃん!!」


 ルカ姉の「えらい」は軽い言葉じゃない。ルカ姉自身が、シェルターの規則を守ること、高卒認定の勉強をすること、猫カフェの面接を受けることを「えらい」とは思っていないだろう。でもわたしの「教室に行った」には「えらい」と言ってくれる。わたしにとってそれがどれだけ大きなことか、ルカ姉は知っている。


 レンから。


「マジで!? おれっちもがんばろ」


 レンの「がんばろ」は、わたしに向けた言葉じゃない。自分に向けた言葉。わたしが教室に行ったことが、レンの通信制高校の勉強へのモチベーションになっている。円になっている。わたしの一歩がレンの一歩になり、レンの一歩がわたしの次の一歩になる。


 カケルから。


「……よかった」


 二文字。カケルの最大限。「よかった」にカケルの全部が入っている。嬉しいも、おめでとうも、すごいも、全部を「よかった」に詰め込む。カケルの言葉はいつも短い。でもその短さの中に、長い感情がある。カケルの音楽と同じだ。少ない音で、多くを語る。


 スマホを閉じた。


 歩いた。桜並木の下を。花びらが時々落ちてくる。肩に一枚乗った。薄いピンク。軽い。指で摘んで、手のひらに置いた。桜の花びら。春の証拠。


 去年の四月、この道を歩いたとき、桜は「リセット」の象徴だった。新しい場所で、新しい自分になれる。そう信じていた。でもリセットはできなかった。


 今年の桜は、「続き」の象徴だ。去年の続き。十ヶ月の空白の続き。壊れた場所からの続き。桜は毎年咲く。去年の桜と今年の桜は別の花だけれど、同じ木から咲いている。わたしも同じだ。去年のわたしと今年のわたしは別の花だけれど、同じ根っこから生えている。


 歌舞伎町の地べたと、ネカフェの固い椅子と、病院の廊下と、灯台のソファと、農園の土と、教室の机。全部の「座った場所」が、わたしをここまで運んできた。


 家に着いた。玄関のドアを開けた。


「ただいま」


 母さんが台所から顔を出した。わたしの顔を見て、何かを確認するように少し見つめた。それから笑った。


「おかえり。お弁当、おいしかった?」


「おいしかった。卵焼き、甘くてよかった」


 母さんが嬉しそうに目を細めた。「明日も作るね」と言った。


 明日も。明日もわたしは学校に行く。明日も母さんは弁当を作る。明日もひなたが「おはよう」と言ってくれるかもしれない。明日も横山先生が「十分だよ」と言ってくれるかもしれない。「明日」がある。その確かさが、今のわたしにはいちばん大切なものだ。


 自室に上がった。ベッドに座った。制服を脱いで、部屋着に着替えた。


 スマホを開いた。グループLINEの続きを見た。ルカ姉が追加メッセージを送っている。


 「なぎ、今度みんなでビデオ通話しない? 久しぶりに四人で顔見たい」


 レンが「いいね」。カケルが「……いつ?」。


 わたしも打った。


 「いつでもいいよ。わたしは毎日、夜なら空いてる」


 四人で通話。歌舞伎町の路上じゃなく、それぞれの部屋から。画面越しに。バラバラの場所にいるけれど、声は繋がる。灯台の光みたいに。遠くにいても見える光。


 窓の外を見た。埼玉の夕空。オレンジと紫が混ざっている。明日もこの空の下を歩いて、学校に行く。教室のドアを開ける。「おはよう」と言う。


 今日、わたしは教室に座った。地べたに座るのとは違う。ネカフェの椅子とも違う。灯台のソファとも違う。教室の椅子は硬くて冷たくて、でもわたしの名前が下駄箱にあって、隣の席にひなたがいて、弁当箱の中に母さんのメモがある。


 どの場所も、わたしの場所だ。歌舞伎町も、教室も、農園も、灯台も。座った場所のすべてが、わたしを作っている。


 メモ帳を開いた。書いた。


 「"おかえり" と言ってくれる人がいる場所が、教室だ。"おいしく食べてね" と書いてくれる人がいる場所が、家だ。"えらいじゃん" と返してくれる人がいる場所が、スマホの中だ。全部がわたしの居場所。居場所は一つじゃなくていい」


 保存した。二百十六件目。

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