第46話 : 白石の過去
第46話 : 白石の過去
紅茶の匂いがする。
「灯台」の事務所。三階の狭い部屋。窓から春の日差しが入ってきている。三月末の午後二時。白石さんが小さなキッチンで紅茶を淹れている。電気ケトルの湯気。茶葉を蒸らす時間。白石さんはいつも三分きっちり待つ。
わたしはソファに座って、事務所の中を見回している。本棚。パソコンが二台。壁に貼られたチラシやポスター。「困ったらいつでもどうぞ」と書かれた案内。スタッフの名札が掛かったフック。白石さんの名札だけが裏返しになっている。たぶん今日は相談対応がない日なのだろう。
ここに初めて来たのは一月。あのときは冬だった。雑居ビルの階段を上って、ドアの前で十分間立ち尽くした。ドアノブに手を伸ばしては引っ込めた。今日は、迷わず開けた。
「はい、どうぞ」
白石さんが紅茶のカップを差し出した。いつもの白いカップ。持ち手のところに小さなヒビが入っている。初めて来た日からこのカップだった。わたし専用、というわけではないだろうけれど、いつもこのカップが出てくる。
紅茶を受け取った。両手で包むように持つ。温かい。三月だけど、事務所の中はまだ暖房が入っている。古いビルだから隙間風が入るらしい。白石さんが「四月になったら切るんだけどね」と言っていた。
「今日は、お話ししたいことがあって来ました」
白石さんが向かいの椅子に座って、自分のカップに口をつけた。少し首を傾げる。
「うん。わたしも、なぎさちゃんに話したいことがあったんだよね」
二人とも同じことを考えていたのかもしれない。白石さんは笑った。穏やかな笑い方。この人の笑顔は、いつも穏やかだ。大きく笑うことがない。声を上げて笑うこともない。静かに口角を上げて、目を細める。それだけ。
「白石さん、前に言いましたよね。"わたしも昔、同じだったから" って」
白石さんの手がカップの上で一瞬止まった。すぐに動き出す。紅茶をもう一口飲んで、カップをテーブルに置いた。
「言ったね」
「聞いてもいいですか。白石さんの "昔" のこと」
白石さんはしばらく黙った。窓の外を見た。向かいのビルの壁。灰色の壁に、エアコンの室外機が並んでいる。きれいな景色じゃない。でも白石さんはその灰色の壁を見ながら、何かを考えているようだった。
「なぎさちゃんに話すつもりだったの。今日。だからちょうどよかった」
白石さんが膝の上で手を組んだ。指が少しだけ力んでいる。この人が緊張するのを、わたしは初めて見た。
「わたしもね、昔、トー横にいたんだよ」
知っていた。暗示はあった。白石さんが歌舞伎町の裏道を迷わず歩けること。ネカフェの料金体系に詳しいこと。トー横の子たちの警戒心を理解していること。全部が、「経験者」の知識だった。でも白石さん自身の口から聞くのは、今日が初めてだった。
「高校一年のとき。今のなぎさちゃんと同じ年齢だった」
白石さんの声は穏やかだった。いつもと変わらないトーン。でも、話し方が少しだけ遅い。言葉を選んでいる。一つ一つの文を、丁寧に置いている。
「家のことはね、省略するね。細かく話すと長くなるから。簡単に言うと、お母さんが再婚して、新しいお父さんとうまくいかなくて、家に居場所がなくなった。よくある話」
よくある話。白石さんはそう言った。よくある。この事務所に来る子たちの多くが、同じような背景を持っている。よくある話だからこそ、この場所が必要なのだろう。
「最初は友達の家に泊めてもらってた。でも長くは続かないでしょ。友達の親に怒られて、出ていくしかなくなって。それで新宿に来た。歌舞伎町」
白石さんが紅茶のカップに目を落とした。
「あの頃のトー横は、今とはちょっと違ったけどね。でも構造は同じ。居場所のない子が集まって、お互いを "ファミリー" って呼んで、夜の街で生きてた」
ファミリー。ルカ姉が使った言葉と同じだ。十年前にも、同じ言葉が使われていた。場所は変わっても、言葉は残る。
「友達ができたよ。わたしにも」
白石さんが少し笑った。今度の笑い方は、いつもの穏やかなものとは違った。懐かしさと、痛みが混ざった笑い方。口元は笑っているのに、目が笑っていない。
「名前は——ユキって呼んでた。本名かどうかはわからない。あの頃は本名で呼び合わないのがルールだったから」
わたしたちと同じだ。「なぎ」と呼ばれていたわたしと同じ。
「ユキはね、明るい子だった。いつも笑ってた。冗談ばかり言って、周りを笑わせて。レンくんに似てるかな。ムードメーカーだった」
白石さんがレンの名前を出した。白石さんはルカ姉やレンやカケルのことをよく知っている。わたしを通じて。手紙や通話を通じて。直接会ったのはルカ姉だけだけれど、四人の話はたくさんしてきた。
「ユキと一緒にいると、歌舞伎町も怖くなかった。二人でネカフェに泊まって、朝はコンビニでパンを買って、昼間は漫画喫茶で寝て。夜になるとまた街に出る。そういう生活。楽しかったよ。ほんとに」
楽しかった。白石さんの声に嘘はなかった。あの場所が楽しかったことは、わたしにもわかる。ネオンの下で仲間といた夜は、確かに楽しかった。教室にいるよりも、自室にいるよりも、ずっと。
「でもユキは、わたしが気づかないところで、壊れていってた」
白石さんの声のトーンが変わった。半音下がった。速度も落ちた。一語一語に、重さが乗っている。
「最初は小さなサインだった。急に黙り込む時間が増えた。笑い方が変わった。前は目も口も全部で笑ってたのに、口だけで笑うようになった。長袖を脱がなくなった」
長袖。ルカ姉と同じだ。
「わたしは気づいてた。気づいてたけど、聞けなかった。聞いたら、ユキの "元気" が壊れてしまう気がして。ユキが笑っていてくれることが、わたしの安心材料だったから。ユキの本当の状態を知ることが、怖かった」
白石さんの手が、膝の上で握られている。指の関節が白くなっている。力が入っている。
わたしも同じだった。ルカ姉のサインに気づいていた。腕の傷。「いなくなったら」という言葉。時々ぼんやりする目。全部見ていた。でも聞けなかった。聞いたら本当のことになってしまうから。
「ある夜、ユキから連絡が来たの。深夜の二時。"ごめんね" っていうメッセージだけ」
白石さんが窓の外を見た。灰色の壁。室外機。春の日差し。白石さんの横顔に光が当たっている。頬に小さな影がある。
「電話したけど出なかった。何度かけても出なかった。それで走った。ユキがいそうな場所を全部回った。ネカフェ、公園、いつもの路地。見つからなくて。朝になって、警察に連絡して。病院を教えてもらって、駆けつけて」
白石さんが言葉を切った。
沈黙。事務所の中が静かになった。エアコンの音だけが低く鳴っている。窓の外で車が通り過ぎる音。遠い。
「間に合わなかった」
三文字。白石さんの声は平坦だった。感情を抑えている。抑えないと話せないのだろう。十年以上前の出来事を、今もこの声で話さなければならない。
わたしは何も言えなかった。言葉が出てこない。紅茶のカップを持つ手に力が入る。カップのヒビに指が触れる。小さなヒビ。割れてはいない。ヒビが入っただけ。でもヒビの向こう側に、温かい紅茶がある。
「ユキのことは、一生忘れない」
白石さんの目に涙はなかった。でも、手が微かに震えていた。膝の上で組んだ手の指先が、かすかに揺れている。わたしはその手に気づいた。白石さんは気づかれていることに気づいていないかもしれない。
「あの子を救えなかったから、わたしはこの仕事をしている」
白石さんがわたしのほうを向いた。目が真っ直ぐだった。いつもの穏やかな目ではなく、何かを伝えようとする強い目。
「"灯台" を作ったのは、ユキみたいな子を少しでも減らすため。全員は救えない。わかってる。でも、一人でも二人でも——"ごめんね" の前に手を伸ばせる場所があれば」
白石さんの声が少し震えた。この人が感情を見せるのは稀だ。初めて会った夜から今日まで、白石さんはいつも穏やかで、冷静で、押しつけなかった。その穏やかさの奥に、これがあったのだ。
友達を失った夜。間に合わなかった朝。その記憶が、白石さんの土台になっている。穏やかさは生まれつきのものじゃなかった。痛みの上に築いた穏やかさだった。
「白石さん」
声が出た。小さかった。
「はい」
「白石さんは、"プロ" だと思ってました。支援のプロ。困った子の話を聞いて、制度に繋いで、解決する人。そういうふうに見えてました」
白石さんが小さく頷いた。
「でも違いました。白石さんも傷がある。その傷があるから、わたしたちの傷が見える」
白石さんが目を伏せた。長い睫毛が影を落としている。しばらく黙っていた。わたしも黙っていた。沈黙が重くなかった。温かい沈黙。ルカ姉と二人で缶ジュースを飲んでいた夜の沈黙に似ている。言葉がなくても、同じ方向を見ている沈黙。
「なぎさちゃん、一つ聞いていい?」
「はい」
「あなたにとって、トー横は何だった?」
質問が返ってきた。白石さんはいつもそうだ。自分の話をした後に、相手に問いかける。自分だけが「語る側」にならない。対話にする。
考えた。窓の外を見た。向かいのビルの灰色の壁。空は見えない。でも、空があることは知っている。壁の向こうに。
「わたしにとって、トー横は必要な場所でした。あの場所にいなかったら、わたしはたぶんもっと壊れてました。名前を呼んでもらえなかったら。"ファミリー" がいなかったら。メモ帳に言葉を書く理由がなかったら」
白石さんが頷いた。
「でも、ずっといる場所じゃなかった。通過する場所でした。ルカ姉が教えてくれたこと、レンが言ってくれた "すごいよ"、カケルの音楽。全部が、わたしを育ててくれた。でも、あそこにい続けたら、育ったものが枯れていた気がする」
「通過する場所。いい言い方だね」
「白石さんにとっては?」
白石さんが少し考えた。紅茶のカップを両手で持ち直した。わたしと同じ持ち方。両手で包むように。
「わたしにとっては "灯台" だった。真っ暗な海の中で光ってた場所。でもね、灯台の光に近づきすぎると、火傷するんだよ。適切な距離を知ることが大事だった。わたしはそれを知るのに、時間がかかった」
適切な距離。近すぎると火傷する。遠すぎると光が見えない。その間のどこかに、正しい距離がある。わたしは十ヶ月かけて、その距離を見つけた。ルカ姉はもっと近くにいた。だから火傷した。白石さんも近くにいた。だから友達を失った。
「白石さん」
「うん」
「わたし、言葉を外に出そうと思ってます。メモ帳に書き溜めた言葉を、ネットに上げようと思ってます」
白石さんの目が少し大きくなった。驚いたというより、嬉しそうだった。
「そう。いいと思う」
「でも怖いです。笑われるかもしれないし。中学のLINEみたいになるかもしれない」
「怖いよね」
白石さんは「怖くないよ」とは言わなかった。「大丈夫だよ」とも言わなかった。「怖いよね」と、わたしの感情をそのまま受け止めた。この人は、いつもそうだ。否定しない。上書きしない。ただ、受け止める。
「でも、怖いまま動くことを、わたしはもう知ってるので」
白石さんが笑った。今度は目も口も全部で笑った。穏やかな笑い方ではなく、嬉しい笑い方。白石さんの感情がむき出しになる瞬間を、わたしは初めて見た。
「なぎさちゃん、あなたはあの場所にいたから失ったものもあるかもしれない。学校の時間とか、普通の高校生活とか。でもね、あの場所にいたから得たものもある。仲間とか、自分の言葉とか。両方あるの。どっちかだけじゃない」
「はい」
「トー横は "悪い場所" じゃなかった。"危ない場所" ではあったけど。あなたにとって必要な場所だった。でも、ずっといる場所じゃなかった。——あなたはそのことを、自分でわかってた。それが、あなたの強さだよ」
強さ。ルカ姉も「あんたならできる」と手紙に書いてくれた。わたしは強くない。でも、弱いまま動いた。それを「強さ」と呼ぶなら、たしかにわたしには、少しだけ強さがあるのかもしれない。
紅茶が冷めていた。
白石さんが「おかわり淹れようか」と立ち上がりかけた。わたしは「大丈夫です」と首を振った。冷めた紅茶を飲んだ。渋みが強い。でも甘さも残っている。温かいときとは違う味。冷めても紅茶は紅茶だ。
白石さんがデスクの引き出しから封筒を取り出した。茶色い封筒。普通の事務用封筒。
「これ、渡したかったの」
封筒を受け取った。中を見ると、メモ用紙が二枚。一枚にはルカ姉の名前と、手紙の転送先住所。もう一枚にはカケルの名前と、メールアドレス。
「シェルターの住所とかは教えられないんだけど、手紙は転送できるから。ルカちゃんに手紙書きたかったら、この住所に送って。カケルくんはメールのほうがいいって言ってたから」
メモ用紙を見つめた。ルカ姉の名前。丸い字。白石さんが書いたのだろうか。それともルカ姉が自分で書いたのだろうか。わからない。でも、この紙の上に、ルカ姉に届く道がある。
「ありがとうございます」
声が震えた。泣きそうになっている。泣かない。ここで泣いたら、白石さんがまた紅茶を淹れてくれてしまう。
「こちらこそ」
白石さんが立ち上がって、わたしの前に来た。少し屈んで、わたしと目の高さを合わせた。
「なぎさちゃん。あなたがドアを開けてくれて、ありがとう」
「え?」
「一月に、ここのドアを開けてくれたでしょ。あの日、あなたがドアを開けなかったら、ルカちゃんにも繋がらなかった。鶴見さんの件も動かなかった。全部、あなたがドアを開けてくれたから」
わたしが、ドアを開けた。白石さんがドアを開けてくれたのだと思っていた。「よく来たね」と迎えてくれた白石さんが、ドアを開けてくれたのだと。でも違う。ドアを開けたのはわたしだ。ドアノブに手を伸ばして、回して、押した。あの十分間の葛藤の末に。
「灯台は、光を出すだけなんだよ。あとは船が自分で進む。わたしは光を出しただけ。進んだのは、なぎさちゃん自身」
前にメモ帳に書いた言葉と、同じことを白石さんが言っている。書いた言葉が、現実の声になって返ってきた。灯台は船を引っ張らない。光を出すだけ。わたしがあの言葉を書いたとき、白石さんの在り方を言い当てていた。でも今、白石さん自身がそれを口にしている。言葉が巡っている。
「白石さん」
「うん?」
「わたし、明日は学校に行きます。別室じゃなくて、教室に」
自分で言って驚いた。考えていたわけじゃない。でも口から出た。白石さんの前にいると、言葉が自然に出てくる。灯台の光の中にいると、自分の進みたい方向が見える。
「いいね。行っておいで」
白石さんは「がんばって」とは言わなかった。「行っておいで」と言った。送り出す言葉。背中を押すのではなく、道を照らす言葉。
立ち上がった。カバンを持った。封筒をカバンの中にしまった。ルカ姉とカケルの連絡先。大切なもの。名刺と同じくらい大切なもの。
事務所のドアに手をかけた。振り返った。白石さんが机の横に立って、わたしを見ていた。
「白石さん。ユキさんのこと、話してくれてありがとうございました」
白石さんが頷いた。目が潤んでいるように見えた。光のせいかもしれない。窓から差し込む午後の光が、白石さんの目を濡らしているように見せているだけかもしれない。でも、白石さんは少し長く瞬きをした。
「ユキのことを覚えていてくれる人が増えるのは、嬉しいことなんだよ。ありがとう、なぎさちゃん」
ドアを開けた。階段を降りた。狭い階段。壁が薄汚れている。蛍光灯の光がちらつく。この階段を上がるのが怖かった一月。今は、降りるのが少し寂しい。
ビルを出た。外は明るかった。三月末の午後の光。春の光。白石さんの事務所にいると時間を忘れる。二時に来て、もう三時半を過ぎている。
駅に向かって歩いた。道路の向こうに桜の木が見える。五分咲き。ピンクの花が枝に並んでいる。風が吹くと花びらが少し揺れる。まだ散るには早い。咲いたばかりの桜。
歩きながら、白石さんの言葉を反芻した。
「灯台は光を出すだけ。進んだのは、なぎさちゃん自身」。
そうだろうか。自分で進んだのだろうか。振り返ってみると、わたしはいつも誰かに背中を押されていた。ルカ姉に「またおいでよ」と言われて歌舞伎町に通い始めた。レンに「これすごいよ」と言われてメモ帳の意味に気づいた。カケルに「なぎの言葉が要る」と言われて書く理由を見つけた。白石さんに「よく来たね」と言われて助けを求められるようになった。母さんに「待てるから」と言われて帰る決心がついた。
全部、誰かの声だった。でも、声を聞いて動いたのはわたしだ。足を動かしたのはわたし。ドアを開けたのはわたし。電話をかけたのはわたし。声がなかったら動けなかっただろう。でも声だけでは動かない。聞いて、受け止めて、自分の足で踏み出す。その最後の一歩は、わたしのものだ。
灯台の光と、船の舵。両方が要る。片方だけじゃ足りない。
駅に着いた。改札をくぐった。ホームで電車を待つ。埼玉方面。帰る。家に。
ポケットの中のスマホが振動した。グループLINE。ルカ姉からメッセージが来ている。
「猫カフェの面接、受かった」
ルカ姉の声が聞こえるようなメッセージだった。文字の向こうにルカ姉の顔が見える。あの姉御肌の、でも照れくさそうな顔。
レンが即座に反応している。
「マジで!? やったじゃんルカ姉!」
カケルも。「……おめでとう」
わたしもスマホを持って、返信を打った。
「おめでとう。ルカ姉に世話される猫、幸せだね」
送信した。画面の中に四人の会話が並んでいる。バラバラの場所にいる四人。ルカ姉はシェルターから。レンはシェアハウスから。カケルは自宅から。わたしは駅のホームから。でも画面の中では隣にいる。
ルカ姉から返信。
「なぎもなんか報告しなよ。みんながんばってんだからさ」
報告。何を報告しよう。
打った。
「明日、教室に行く。別室じゃなくて」
送信。レンが「おーー」。カケルが「……すごい」。ルカ姉が「えらいじゃん」。
三人の声がスマホの画面から聞こえる。嬉しい声。応援の声。わたしの背中を押す声。灯台の光みたいに。
電車が来た。乗った。座席に座った。窓ガラスに額を押しつけた。冷たくない。三月末の午後の窓ガラスは、太陽に温められてぬるい。
カバンの中の封筒。ルカ姉とカケルの連絡先。白石さんの紅茶。ユキという名前の、会ったことのない人の話。灯台の光。船の舵。
全部を持って、わたしは帰る。明日、教室のドアを開ける。白石さんが事務所のドアで迎えてくれたように、誰かがいるかもしれない。誰もいないかもしれない。どちらでもいい。ドアを開けるのは、わたしだ。
窓の外を流れていく景色を見た。住宅街。春の花。桜。沈丁花の匂いが、さっきの灯台の周りでもしていた。白石さんは気づいていただろうか。
メモ帳を開いた。書いた。
「灯台は、光を出す場所だ。船を引っ張らない。進むのは船自身。でも、光がなければ船は方向を見失う。光があるから、船は進める。白石さんはわたしの灯台だった。わたしはいつか、誰かの灯台になれるだろうか」
保存した。二百十五件目。
電車が揺れている。埼玉に向かっている。明日は教室。別室じゃなく、教室。怖い。でも、もう知っている。怖い場所のドアの向こうに、何かがあることを。




