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43/50

第43話 : カケルの曲

第43話 : カケルの曲


 通知音が鳴った。


 放課後。三階の別室で数学のプリントを解いていた。窓が少し開いていて、校庭の土の匂いが入ってくる。春の匂い。二次関数のグラフの問題。横山先生が作ってくれたプリントの五枚目。放物線の頂点を求める計算を鉛筆で書いて、消しゴムで消して、また書いている。頂点の座標。x=-b/2a。公式は覚えた。でも符号を間違える。何度やっても符号を間違える。


 スマホが震えた。グループLINE。机の上に置いてあるスマホの画面が光った。


 カケルの名前。


 カケルがグループLINEにメッセージを送るのは珍しい。普段はルカ姉やレンのやりとりに「……うん」とだけ返すか、スタンプを一つ押すだけ。自分から発信することは、ほとんどない。


 メッセージを開いた。


 SNSのリンクが一つ。SoundCloudのURL。その下に一行。


 「曲、上げた」


 三文字。カケルらしい。説明がない。タイトルも書いていない。リンクだけ。でもこの三文字に、どれだけの時間と勇気が詰まっているか。わたしには、わかる。


 カケルが「おれの曲に言葉つけてよ」と言ったのは、夏の夜だった。歌舞伎町のビルの屋上で、新宿の夜景を見ながら。あの日から半年以上が経っている。カケルは世田谷の自宅に帰って、両親との対話を始めて、それでも音楽を作り続けていた。わたしの言葉に曲をつけると言っていた。USBメモリをもらったのは一月の非常階段。あのデータは「まだ途中」だった。


 途中が、完成した。


 リンクをタップした。


 SoundCloudのページが開いた。アカウント名は「kk_nightsound」。プロフィール画像は黒い背景にイコライザーの波形だけ。カケルらしい。顔は出さない。名前も出さない。音だけを置いている。


 楽曲が一つだけアップロードされている。


 タイトル——「透明の声」。


 再生ボタンを押した。


 イヤホンをつけていない。別室に一人だから、そのまま流した。スマホの小さなスピーカーから音が出る。


 最初は、静かなピアノの音。一音ずつ、ゆっくり。歌舞伎町のビルの屋上で聴かせてもらった曲の冒頭に似ている。でも違う。あのときより洗練されている。音の輪郭がくっきりしている。カケルの技術が上がっている。


 ピアノの音に、電子音が重なり始める。低いビートが入ってくる。心臓の音のようなリズム。ドン、ドン、ドン。一定のテンポ。その上に、ノイズが乗る。ざわめき。雑踏の音。車のクラクション。遠くのサイレン。


 歌舞伎町の音だ。


 カケルが毎晩、スマホで録っていた歌舞伎町の環境音。サンプリングして、楽曲に組み込んでいた。あのイヤホンは、音楽を聴くためだけじゃなかった。街の音を集める道具だった。カケルの耳は、歌舞伎町の全部を拾っていた。


 曲が進む。ビートが強くなる。ピアノが速くなる。歌舞伎町の音がぶつかり合うように重なっていく。夜の熱気。ネオンの騒々しさ。コンビニの自動ドアの音。酔客の笑い声。全部が音楽の中に閉じ込められている。


 そして——声が入った。


 合成音声。テキスト読み上げの、平坦な機械の声。感情がない。抑揚がない。でも、言葉がある。


 「透明人間には影がない。だから誰にも踏まれない。でもそれは、誰にも触れられないということでもある」


 わたしの言葉だ。


 メモ帳に書いた言葉。ネカフェの隣のブースでレンに見せた、あの言葉。


 息が止まった。


 合成音声が続ける。カケルの電子音に乗って、わたしの言葉が流れてくる。


 「コンクリートの隙間から、空が見えた。星はなかったけど、飛行機が横切った。あれに乗っている人は、わたしたちが地面にいることを知らない」


 歌舞伎町の地べたで見上げた夜空。あの夜に書いた言葉。


 「コンビニのおにぎりは、百円で買える小さな約束だ。明日もここにあるっていう」


 レンが「これすごいよ」と言ってくれた、あの一節。


 曲の中盤。ビートが一度止まる。静寂。歌舞伎町の音も消える。ピアノだけが残る。一音、一音。水滴が落ちるような間隔で。


 合成音声がささやく。


 「居場所は住所じゃない。誰かが "いていいよ" と言ってくれる、その声が居場所になる」


 昨日、メモ帳に書いた言葉。レンとのDMの後に書いた言葉。カケルはいつの間にこれを知ったのだろう。レンがグループLINEにスクリーンショットを送ったのか。それとも、カケルが直接メモ帳を見たのか。


 どちらでもいい。わたしの言葉が、ここにある。カケルの音の中に。


 曲の後半。ビートが戻ってくる。歌舞伎町の音が戻ってくる。でも前半とは違う。音が柔らかくなっている。ノイズが減って、ピアノの音量が上がっている。朝が来るような変化。夜から朝へ。ネオンの光が、太陽の光に変わっていくような。


 最後の合成音声。


 「ネオンの下で息をすることを覚えた。今は、静かに息をしている」


 メモ帳の、最近の言葉。帰ってきた夜に書いた言葉。


 曲が終わった。最後のピアノの音が消えて、残響だけが残って、それも消えた。静寂。三階の別室の静寂。窓の外で鳥が鳴いている。春の鳥。三月下旬の、午後の鳥の声。


 わたしは泣いていた。


 いつから泣いていたのかわからない。曲の途中から。たぶん最初の言葉が聞こえた瞬間から。「透明人間には影がない」。あの一行が合成音声で読み上げられた瞬間に、涙腺が壊れた。


 泣いている。声を出さずに。別室に一人だから、声を出してもいいのに。でも出ない。涙だけが頬を流れている。スマホの画面が涙で滲んでいる。SoundCloudの再生バーが最後まで到達している。再生時間は四分三十八秒。四分半の曲。その中に、わたしの十ヶ月が詰まっている。


 嬉しくて泣いている。恥ずかしくて泣いている。怖くて泣いている。


 嬉しいのは、わたしの言葉が音になったこと。カケルの音と、わたしの文字が、一つの作品になったこと。歌舞伎町の地べたで出会った二人が、こんなものを作れたこと。


 恥ずかしいのは、わたしの内面がむき出しになっていること。メモ帳に閉じ込めていた言葉が、外に出てしまったこと。インターネットという開かれた場所に。誰でも聴ける場所に。


 怖いのは、笑われるかもしれないこと。中学のLINEと同じことが起きるかもしれないこと。わたしの言葉を加工して、揶揄して、晒す人がいるかもしれないこと。


 でも。


 カケルはわたしに許可を取っていない。勝手に公開した。怒るべきだろうか。たぶん、怒ってもいい。でも怒りは湧いてこない。カケルが無断で公開したのは、カケルなりの「背中の押し方」だとわかるから。レンが「ネットに上げなよ」と言って、わたしが「無理」と断った。カケルはそれを知っている。だからカケルは、わたしの代わりに、わたしの言葉を外に出した。わたしが押せなかったボタンを、カケルが押してくれた。


 涙を拭いた。手の甲で。乱暴に。鼻をすすった。


 グループLINEを開いた。返信を打った。


 「聴いた。泣いた」


 送信。四文字。これがわたしの精一杯だった。


 カケルから。速い。いつもは遅いのに。待っていたのかもしれない。わたしの反応を。


 「……よかった」


 二文字。カケルの精一杯。「よかった」は、カケルが言える最大限の感情表現。嬉しいとか、ありがとうとか、そういう大きな言葉をカケルは使わない。「よかった」に全部を詰め込む。


 レンが割り込んできた。


 「え、聴く聴く」


 数分後。


 「おれっちも泣いた! これバズるよマジで」


 レンの「バズる」は予言というより願望だ。でもレンが「泣いた」と言っているのは本当だろう。レンはふざけるけど、音楽の話では嘘をつかない。


 ルカ姉からも来た。シェルターのWi-Fiで聴いたらしい。


 「なぎの言葉、やっぱすごい。カケルの曲もすごい。うちのファミリー、才能あるじゃん」


 ファミリー。ルカ姉がその言葉を使った。歌舞伎町のファミレスで「うちら、もう "ファミリー" でしょ」と言った夜から、長い時間が経っている。あの夜の「ファミリー」と、今の「ファミリー」は同じ言葉だけれど、形が違う。歌舞伎町の路上で身を寄せ合っていた四人が、今はそれぞれの場所にいて、スマホの画面越しに繋がっている。バラバラになった。でも、バラバラのまま、一つ。



 家に帰った。


 電車の中でもう一度聴いた。今度はイヤホンをつけて。音の細部が違って聞こえる。スピーカーでは拾えなかった低音が、イヤホンだと鳴っている。歌舞伎町の地下を走る電車の振動。あの音もサンプリングされていたのか。カケルの耳は、わたしが気づかない音まで拾っている。


 自室に戻った。ベッドに座って、三度目の再生。


 今度は泣かなかった。冷静に聴けた。構成を追った。冒頭のピアノ。歌舞伎町の環境音の導入。ビートの加速。合成音声の挿入タイミング。中盤の静寂。後半の「朝」の変化。終わりのピアノ。


 四分三十八秒の中に、物語がある。夜から朝へ。歌舞伎町から日常へ。透明から、声へ。カケルはわたしの言葉を時系列で並べている。最初に書いたメモから、最近のメモまで。順番に。凪沙の歩いた道を、音楽でなぞっている。


 SoundCloudのページをもう一度開いた。再生数を確認する。


 12。


 十二回。わたしが三回聴いたから、残りの九回は他の誰かが聴いたということだ。ルカ姉、レン、カケル自身。それで六回。残りの三回は、知らない誰か。


 コメント欄を見た。


 空っぽ。まだ誰もコメントしていない。


 そうだろう。再生数12の曲にコメントがつくほうが珍しい。カケルのアカウントのフォロワーは一桁。知名度はゼロに等しい。わたしたちの声は、インターネットという大海原の中の小さな泡だ。誰にも見つからないまま消えていくかもしれない。


 でも、泡でもいい。ゼロじゃない。十二回。十二人の耳に届いた。世界の人口の中のほんの一粒。でも、ゼロじゃない。



 翌日。水曜日。


 学校の別室で数学のプリントを解きながら、時々スマホを見た。SoundCloudの再生数。昼休みに見たら28。放課後に見たら43。少しずつ増えている。誰かがカケルの曲を見つけて、聴いて、また誰かにシェアしている。小さな波紋が広がるように。


 コメント欄をチェックした。


 一件。


 心臓が跳ねた。


 匿名のアカウント。アイコンは初期設定のまま。名前もハンドルネームも意味のない英数字の羅列。誰かわからない。どこにいる人かもわからない。


 コメントを読んだ。


 「この曲に救われました。居場所がなくて辛い人はここにいるよって、言ってもらえた気がしました」


 画面を持つ手が震えた。


 読み返した。もう一度。もう一度。


 「救われました」。


 わたしの言葉が、知らない人を「救った」。大げさかもしれない。たった一件のコメント。匿名の、顔も名前も知らない人。この人がどこにいるのか、何歳なのか、何に苦しんでいるのか、わたしは何も知らない。


 でも、この人はわたしの言葉を聴いた。カケルの音に乗ったわたしの言葉を。「透明人間には影がない」を。「コンビニのおにぎりは百円の約束」を。「居場所は住所じゃない」を。そして「救われた」と言ってくれた。


 歌舞伎町のネオンの下で、スマホのメモ帳に書き溜めた言葉。自室の天井を見ながら打った言葉。レンとのDMの後に書いた言葉。全部がわたしの中にしかなかったもの。わたしのメモ帳の中に閉じ込められていたもの。それがカケルの音楽に乗って、インターネットの海を漂って、どこかの誰かの暗い部屋に届いた。


 暗い部屋。わたしにもあった。天井の罅を数えながら、カーテンを閉めたまま、スマホの画面だけが光っている部屋。あの部屋にいたとき、わたしはトー横の猫アイコンの子の投稿を見て「今日も生きてる」という言葉に救われた。あの子の言葉が、画面を通じてわたしに届いたように。今、わたしの言葉が、誰かに届いている。


 円になっている。受け取った人が、送る人になる。救われた人が、救う人になる。意図してなくても。計画してなくても。ただ言葉を書いて、ただ音楽を作って、ただ公開しただけ。それだけで、繋がりが生まれる。


 カケルにLINEを送った。個人で。


 「コメント、見た?」


 カケルから。


 「……見た」


 「あの人、わたしたちのこと知らない人だよね」


 「知らない。でも聴いてくれた」


 「カケルの曲がよかったからだよ」


 「なぎの言葉があったから」


 しばらく、二人とも何も打たなかった。タイピング中のアイコンも出ない。沈黙。でも、温かい沈黙。歌舞伎町の屋上で、二人で夜景を見ていたときの沈黙に似ている。言葉がなくても、同じ方向を見ている沈黙。


 カケルから。


 「おれは音を作ることしかできない。でもなぎの言葉があると、音が "声" になる。おれ一人じゃ、届かなかった」


 カケルがこんなに長い文章を打つのは、感情が動いているときだけだ。普段は「……うん」で済ませる子が、二行も打っている。


 「わたしも一人じゃ届かなかった。メモ帳に閉じ込めたままだった。カケルが音にしてくれなかったら、あの言葉はずっとわたしのスマホの中で眠ってた」


 「……おれたち、合ってるのかもしれない」


 合ってる。カケルの音と、わたしの文字が。イヤホンの少年と、メモ帳の少女が。歌舞伎町の地べたで出会って、片方は音を録り、片方は言葉を書いていた。別々のことをしていた。でも、同じものを見ていた。同じ夜の中で、同じ光と影を。


 「合ってると思う」


 送信した。断定形。「合ってるかもしれない」じゃなくて、「合ってると思う」。


 コメント欄の言葉をスクリーンショットに撮った。メモ帳に保存した。「救われました」の一行を。この言葉は、わたしの宝物になる。レンが「これすごいよ」と言ってくれた夜と同じくらい大切な言葉。カケルが「なぎが初めて」と言ってくれた夜と同じくらい。ルカ姉が「あんた、作家になれよ」と笑ってくれた夜と同じくらい。


 「救われました」と言ってくれた人のことを、わたしは知らない。名前も顔も年齢も住んでいる場所も。何も知らない。でも、その人のことを、きっと忘れない。


 自分の言葉に意味があると教えてくれたのは、最初はレンだった。「これすごいよ」と言ってくれた。次はカケルだった。「おれの曲に言葉つけてよ」と言ってくれた。そしてルカ姉が「作家になれよ」と言ってくれた。


 でも、三人はわたしの仲間だ。身内の評価は嬉しいけれど、どこかで「優しさで言ってくれているだけかもしれない」と疑ってしまう部分があった。この見知らぬ人は違う。わたしのことを何も知らない。優しさも義理もない。ただ、曲を聴いて、言葉を受け取って、「救われた」と書いた。純粋な反応。わたしの言葉が持つ力を、他人の言葉ではなく、他人の「反応」として証明してくれた。


 メモ帳を開いた。書いた。


 「"救われました" と言ってくれた人のことを、わたしは知らない。でも、その人のことを、ずっと忘れないと思う。自分の言葉に意味があると教えてくれたのは——レンと、カケルと、この見知らぬ人だ。三人目は、いちばん遠くて、いちばん確かな証人」


 書き終えて、スマホを閉じた。


 窓の外を見た。埼玉の夜空。星が見えている。三月の終わりの星。冬の星座が西に傾いて、春の星座が東から上ってきている。星座が入れ替わる。季節が変わる。


 わたしの言葉が、外に出た。わたしが押さなかったボタンを、カケルが押した。怖かった。恥ずかしかった。でも、届いた。たった一件のコメント。でもそれは、「ゼロじゃない」という証拠。ゼロから一への距離が、いちばん遠い。カケルが、その距離を越えてくれた。


 明日、学校に行く。別室で数学のプリントを解く。放物線の頂点を求める。符号を間違える。消しゴムで消す。やり直す。それでいい。数学にも、言葉にも、正解にたどり着くまでの「消しゴム」は何回でも使っていい。


 白石さんがこの前言っていた。「灯台」の活動で、農園での体験プログラムがあるらしい。千葉の農園。土を耕して、苗を植える。日曜日。参加してみないか、と。


 参加してみようかと思う。土に触ったことがない。畑を見たことがない。太陽の下で身体を動かしたことが、十ヶ月間なかった。ネオンの下にいた十ヶ月。太陽の下に出てみたい。


 スマホの画面が暗くなる。でも、SoundCloudの中に「透明の声」がある。再生数は明日にはもう少し増えているだろう。コメントがもう一件つくかもしれない。つかないかもしれない。どちらでもいい。


 わたしの声は、もう透明じゃない。音になった。カケルの音に乗って、インターネットの海を漂っている。どこかの誰かの耳に届いている。わたしの言葉が、わたしの手を離れて、誰かの居場所になっている。


 それは、怖くて、嬉しくて、少しだけ誇らしいことだった。

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