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第42話 : レンからのDM

第42話 : レンからのDM


 スマホが光った。


 夜の十時。自室のベッドに寝転がっていた。天井の罅を数えるでもなく、ただぼんやりと見上げていた。三本。変わらない。もう数えなくなっている。確認するだけ。三本あることを確かめて、安心する。増えていない。わたしも、割れていない。


 枕元からラベンダーの芳香剤の匂いがかすかにする。母さんが置いてくれたもの。歌舞伎町の匂いとは違う、穏やかな匂い。


 スマホが震えた。画面が光る。暗い部屋に四角い光。以前はこの光がわたしの唯一の窓だった。歌舞伎町のSNSを見て、トー横の動画を見て、ネオンの色を画面越しに浴びていた頃。今は違う。昼間の光を浴びている。教室の窓から入る光を。校庭の桜の蕾を見る光を。


 通知を見た。レンからのDM。グループLINEではなく、個人のDM。


 画像が一枚。開いた。


 レンの自撮り。教室で撮っている。木の机。窓からの光。レンが斜め横のアングルで写っている。メイクをしている。アイラインがきれいに引かれていて、リップの色が鮮やか。髪は明るい茶色で、前髪を少し巻いている。制服——通信制高校のスクーリングだから、私服のはず。でもレンが着ているのはシャツにカーディガン。きちんとしている。歌舞伎町にいた頃の、ダメージジーンズにオーバーサイズのパーカーとは全然違う。


 キャプションが書いてある。


 「ちゃんとメイクしてる自分、悪くない」


 わたしは画面を見て、笑った。声に出して。小さく。でも確かに笑った。レンらしい。自撮りの角度にこだわりがある。光の当たり方を計算している。トー横にいた頃からそうだった。レンはいつも「盛れてるかどうか」を気にしていた。でも今のこの写真は、「盛れてる」じゃない。「ちゃんとしている自分」を撮っている。盛るのではなく、整えている。


 返信を打った。


 「かわいい。メイクうまくなった?」


 既読。すぐに返事が来る。レンの返信速度は相変わらず速い。


 「なぎにメイク教えたの誰だと思ってんの。おれっちの腕は上がる一方よ」


 「自分で言うんだ」


 「事実だからね。てかなぎ、今日学校行った?」


 「行った。別室だけど」


 「えらすぎ。おれっちも今日スクーリングだったんだけどさ、マジで眠かった。朝イチの英語、先生の声が子守唄」


 「寝たの?」


 「寝てない。寝たら単位落とす。おれっちマジで高校卒業するから。絶対」


 レンの「絶対」が、画面の中で光って見えた。歌舞伎町にいた頃のレンは「絶対」を使わなかった。「たぶん」「かもね」「知らんけど」。断定を避ける言い方。わたしと同じ。でも今のレンは「絶対」と言う。


 「レン、最近どうなの。スクーリング以外は」


 送信してから、少し緊張した。個人DMでちゃんと近況を聞くのは久しぶりだ。グループLINEでは軽いやりとりが続いているけれど、一対一で深い話をする機会が減っていた。歌舞伎町にいた頃は、ネカフェの隣のブースで壁越しに話していたのに。



 レンの返信は、少し間が空いた。


 タイピング中のアイコンが点滅している。長い文章を打っているらしい。レンにしては珍しい。レンは普段、短文を連打するタイプだ。一文ずつ送ってくる。スタンプを挟む。絵文字を使う。今は、打っては消し、打っては消ししている。タイピング中のアイコンが消えて、また出て、また消える。


 三分後。長文が来た。


 「おれっちさ、今シェアハウスに住んでるんだけど。灯台の紹介で。4人で住んでる。おれ以外は年上ばっかで、一人は社会人、二人は専門学校生。みんな事情ある人。でもいい人たち。夜ごはん一緒に食べたりする。おれが作る日もある。カレーしか作れないけど。スクーリングは週3で、レポートが月に何本か。今んとこ全部出してる。あとメイクの勉強は自分でやってる。YouTubeで海外のチュートリアル見て練習してる。フォロワー、SNSで200人超えた。メイク動画あげてるやつ。まだ少ないけど」


 一気に読んだ。情報量が多い。でも全部がレンの「今」だ。シェアハウス。スクーリング。レポート。メイク動画。フォロワー200人。歌舞伎町の路上で自撮りしていた子が、今はシェアハウスでカレーを作って、通信制高校のレポートを出して、メイク動画をSNSに上げている。


 「すごいじゃん。全部ちゃんとやってる」


 「ちゃんとって何よ。おれっちは昔からちゃんとしてるよ」


 「嘘つけ」


 「嘘じゃないし。ていうかなぎも別室登校してるんでしょ。おれたち、ちゃんとやってんじゃん」


 ちゃんとやってる。そうだろうか。別室で一人で教科書を読んでいるだけだ。教室にはまだ入れていない——いや、昨日入った。放課後の、ほぼ空っぽの教室に。あの子に「久しぶり」と言ってもらえた。あの子の名前をまだ知らない。


 「レン」


 「ん」


 「メイクアップアーティストになりたいの、本気?」


 「本気だよ。前から言ってたじゃん」


 「うん。でも今聞くと、前と重みが違う」


 「……わかる?」


 「わかる」


 歌舞伎町の非常階段で「もし何でもなれるとしたら」という話をしたとき、レンは「メイクアップアーティスト」と答えた。あの夜の王国で。あのときは夢だった。遠くにある、きれいな光。今は目標になっている。カレンダーに日付が入っている夢。具体的な手順がある夢。


 「おれね、メイクって "変身" だと思ってたの。前は。別の自分になるための魔法。地雷系やってた頃もそう。"おれじゃない誰か" になれるから好きだった」


 「今は違うの?」


 「今は "整える" って感じかな。なぎが前に言ってたでしょ、メモ帳に。"書くことは、自分の輪郭を見つけること" みたいなやつ。おれにとってのメイクがそれ。鏡の中の自分を整えて、"これがおれだ" って確認する作業」


 わたしのメモ帳の言葉を覚えてくれている。ネカフェの隣のブースで見せた夜の言葉を。レンはあの夜、「これすごいよ」と言ってくれた。わたしの言葉が、レンの中に残って、レンの言葉になって返ってきている。


 「レンのメイク動画、見ていい?」


 「え、恥ずかしいんだけど」


 「見せてよ」


 リンクが送られてきた。SNSのアカウント。アイコンはレンの横顔のシルエット。アカウント名は「@ren_makeup_log」。メイク動画が並んでいる。最初の投稿は二ヶ月前。最新の投稿は三日前。


 一本再生した。レンが鏡の前でメイクをしている。最初はすっぴん。そこから下地、ファンデーション、アイメイク、リップ。手際がいい。ブラシの動きが滑らか。途中でカメラに向かって「ここがポイントね」と話しかける。声が明るい。歌舞伎町のレンと同じ声。でも、落ち着いている。BGMは静かなローファイ。


 動画の最後に、完成した顔で「今日のおれ、けっこう好き」とカメラに向かって言う。


 胸が温かくなった。


 「見た。すごくいい」


 「マジで? 再生数まだ50とかなんだけど」


 「50人がレンのメイク見たってことでしょ。ゼロじゃないじゃん」


 「……それ、おれっちがなぎに言ったセリフじゃない? メモ帳のやつ、"ネットに上げなよ" って言ったとき」


 覚えている。あの夜のことを。わたしが「無理。恥ずかしい」と言ったときのことを。


 「返してもらった」


 「はいはい、おあいこね」



 しばらく他愛ないやりとりが続いた。シェアハウスの同居人の話(社会人の人がやたらカレーにこだわるらしい)。スクーリングの先生の話(数学の先生がイケメンでレンがざわついた話)。SNSにつけてくれたコメントの話。


 それから、少し間が空いた。タイピング中のアイコンが、また点滅と消滅を繰り返す。レンが何かを書こうとして、ためらっている。


 待った。急かさない。白石さんがわたしにそうしてくれたように。ルカ姉がそうしてくれたように。相手のペースで待つ。


 五分後。メッセージが来た。


 「なぎ、一個聞いていい?」


 「いいよ」


 「おれさ、自分のこと "男の子" って言うの、ずっと違和感あったんだよね」


 心臓が少し速くなった。レンが、こういう話をしてくれている。わたしに。


 「トー横にいた頃は考えないようにしてた。だってそれどころじゃないじゃん。生き延びるので精一杯で、"自分が何者か" とか考える余裕なかった。でも今、シェアハウスに住んで、ごはん食べて、学校行って、メイクして。生活が安定したら、ずっと蓋してたものが出てきた」


 レンの言葉を読みながら、わたしは息を止めていた。


 「おれは男でもないし、女でもない気がする。でも "何か" ではある。何なのかはわかんない。Xジェンダーとかノンバイナリーとか、言葉はネットで見たことある。でもどれもぴったりこない。ラベルを貼ると楽になるのかもしれないけど、今のおれにはまだ早い気がする」


 読み終えて、返信を考えた。何を言えばいい。「わかるよ」と言えるほどわたしはこの問題を理解していない。「大丈夫だよ」は無責任すぎる。「応援してる」は的外れだ。


 でも、一つだけわかることがある。レンが「わからない」と言えていること。それ自体が、強さだということ。


 「レン、"わからない" まま生きるのって、けっこうすごいことだと思う」


 送信。不安。こんな返信でいいのか。


 レンからの返信。


 「……なぎにそう言ってもらえると、楽になる」


 「前は "わからない" のが怖かったんだよね。自分が何者かわかんないまま生きるの、不安定じゃん。でも最近思うんだ。"わからないまま生きる" のもアリかなって。だって、なぎだって一年前は自分のこと "透明人間" って言ってたじゃん。今は違うでしょ。人は変わるんだよ。今ラベル貼っても、来年には違うかもしれない。だったら、今は "わからない" でいいかなって」


 読みながら、目が熱くなった。レンの言葉が、わたしの胸に落ちてくる。石ころみたいに、一つずつ。


 わたしは一年前、透明人間だった。名前を失くして、声を失くして、教室から消えた。今は別室にいる。教室のドアを開けた。「久しぶり」と言ってもらえた。変わった。一年前の自分には想像できなかった場所にいる。


 レンも変わっている。歌舞伎町の路上でメイクをしていた子が、シェアハウスでカレーを作って、通信制高校に通って、自分のジェンダーについて言葉にしようとしている。変わった。でも、変わったのは「外側」だけじゃない。「自分は何者か」を問えるようになったこと。それが、いちばん大きな変化だ。


 「レンらしい答えだね」


 「なぎらしい返しだ笑」


 笑った。画面越しに。レンも笑っているだろう。文字の向こうで。


 スマホを持つ手が温かい。充電中のスマホは熱を持っている。物理的な温かさ。でも、それだけじゃない。画面の中にレンがいる。文字として。スタンプとして。自撮りとして。歌舞伎町の路上にいた頃は、隣に座っていた。今は画面の向こうにいる。距離は離れた。でも繋がっている。文字で。声で。写真で。


 「ねえ、おれたちって結局さ、"居場所" を探してたんだよね」


 レンのメッセージ。


 「で、居場所は場所じゃなかった。人だった」


 居場所は場所じゃなかった。人だった。


 その一文が、画面の中で光っている。ネオンみたいに。いや、ネオンとは違う。ネオンは嘘の太陽だった。明るいのに温かくない。レンの言葉は温かい。画面越しでも。


 歌舞伎町は「居場所」だと思っていた。あの街に行けば息ができると思っていた。実際、息ができた。でもそれは歌舞伎町という場所のおかげじゃなかった。ルカ姉がいて、レンがいて、カケルがいて、わたしの名前を呼んでくれる人がいたからだ。場所じゃない。人。


 今、わたしの居場所はどこだろう。埼玉の家。三階の別室。母さんの弁当。父さんの「おはよう」。陸の「姉ちゃん」。横山先生のプリント。そして、このスマホの画面。レンの文字。ルカ姉のLINE。カケルの「よかった」。全部が居場所だ。全部が「いていいよ」と言ってくれている。


 「そうだね」


 短い返信。でも、これがわたしの精一杯だった。レンの言葉が深すぎて、長い文章で返すと薄まってしまう気がした。


 「おれは今、一人だけど、一人じゃない。なぎがいるから。ルカ姉もカケルも」


 一人だけど、一人じゃない。大丈夫じゃないけど、大丈夫。わたしたちはいつも、矛盾した言葉で本当のことを言う。


 「わたしもだよ」


 送信。


 メモ帳を開いた。書いた。


 「居場所は住所じゃない。誰かが "いていいよ" と言ってくれる、その声が居場所になる。声は場所を超える。スマホの中にも、手紙の中にも、音楽の中にも。わたしたちの居場所は、わたしたちの間にある」


 書き終えて、読み返した。これはわたしの言葉だけれど、レンの言葉でもある。わたしたちの間で生まれた言葉。ネカフェの隣のブースで交わした夜の会話から、シェアハウスと埼玉の自室を繋ぐDMまで。全部が一つの線になっている。



 十一時を過ぎた。


 レンとのDMはまだ続いている。話題がメイクの新しいテクニックに移って、レンがビフォーアフターの写真を送ってきた。コンシーラーの使い方一つでこんなに変わるのか、と驚く。レンが「なぎも今度教えてあげるよ。オンラインで」と言う。わたしは「お願いします先生」と返す。


 母さんの足音が廊下で聞こえた。わたしの部屋の前で一瞬止まって、通り過ぎていった。以前はドアをノックして「まだ起きてるの」と言ったはず。今は通り過ぎるだけ。わたしが起きていることを知っていて、でも言わない。それが母さんなりの「距離」だ。


 レンから最後のメッセージ。写真が一枚。


 スクーリングの帰り道で撮ったらしい。夕日をバックに。逆光。レンのシルエットが金色の光に縁取られている。髪が風に揺れている。表情は影になっていて見えにくいけれど、口元が笑っている。


 キャプションはない。写真だけ。


 少し待った。追加のメッセージが来た。


 「おれ、今日のおれ、けっこう好き」


 画面がにじんだ。涙じゃない。たぶん。目が疲れているだけ。たぶん。


 レンが「自分を好き」と言えるようになった。歌舞伎町にいた頃は言えなかった。「おれっちかわいいでしょ」とふざけては言っていた。でもそれは鎧だった。本気じゃなかった。今の「けっこう好き」は本気だ。「けっこう」がついているのがレンらしい。まだ「すごく」じゃない。「けっこう」。七割くらいの自己肯定。でもゼロだった頃に比べたら、七割は充分すぎる。


 「わたしも、今日のレン、けっこう好きだよ」


 送信。


 レンから。


 「やだ、告白? 笑」


 「違うよ」


 「わかってるって。おやすみ、なぎ」


 「おやすみ、レン」


 スマホを胸の上に置いた。画面が暗くなる。部屋が暗い。天井の罅が見える。三本。カーテンの隙間から街灯の光が入ってきている。オレンジ色。弱い光。ネオンじゃない。住宅街の街灯の、静かな光。


 レンが「自分を好き」と言えた。


 わたしは、まだ言えない。「自分がけっこう好き」とは、まだ言えない。教室に入れたのは昨日が初めてで、名前も知らない子に「久しぶり」と言ってもらっただけで胸がいっぱいになるくらい、まだ不安定だ。数学は因数分解で止まっている。友達はいない。別室登校。壁際を歩く癖が抜けない。


 でも。


 「今日のわたし、嫌いじゃない」とは言える。嫌いじゃない。「好き」の手前。「嫌いじゃない」は「好き」への途中経過。レンが七割なら、わたしは三割くらい。三割の自己肯定。ゼロじゃない。


 ゼロじゃない。その言葉を、わたしはよく使う。因数分解が七問正解だったとき。フォロワーが50人だったとき。「いいね」が一件だったとき。ゼロじゃないことが、始まりだ。ゼロから一への距離が、いちばん遠い。


 目を閉じた。明日も学校に行く。別室に座る。数学のプリントを解く。お弁当を食べる。母さんのメモを読む。そして——放課後に、また教室を覗くかもしれない。あの子がいるかもしれない。名前を聞けるかもしれない。


 眠りに落ちていく。スマホの画面が完全に暗くなる。でも、その中にレンがいる。ルカ姉がいる。カケルがいる。消灯しても消えない光。電源を切っても消えない繋がり。


 居場所は住所じゃない。


 わたしの居場所は、わたしの大切な人たちの声の中にある。

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