第41話 : 一歩目
第41話 : 一歩目
チャイムが鳴る。四時間目の終わり。
三階の別室。窓際の席。わたしはいつの間にか、この席を「自分の席」と思うようになっていた。窓から校庭が見える。桜の木。三日前より蕾が大きくなっている。先端のピンクが濃くなった。あと数日で咲くだろう。
別室登校を始めて五日目。水曜から始めて、木、金、月、そして今日が火曜日。五日間、毎日来た。皆勤。別室の皆勤。誰にも褒められない皆勤。でも、わたしは知っている。五日間、毎朝この校門をくぐったことを。
毎朝、足が止まる。校門の前で。セメントを流し込まれた靴底が、毎朝リセットされる。昨日くぐれたからといって、今日くぐれるとは限らない。怖さは貯金できない。水のように、握っても指の間からこぼれる。毎日ゼロからやり直し。でも「くぐった実績」は積み重なる。一回、二回、三回、四回、五回。五回分の「くぐった」が、足の裏に刻まれている。
教科書を閉じた。国語は一通り読んだ。英語はリーディングのセクションまで進んだ。数学は相変わらず二次関数で止まっている。因数分解の先が霧のかかった山道みたいに見えない。横山先生が「数学は授業のプリント用意するから、焦らなくていいよ」と言ってくれた。焦っていないふりをしているけれど、十ヶ月の空白は教科書のページ数にすると途方もない。
ケトルでお湯を沸かした。五日目にして、わたしはこの部屋の住人になりつつある。ケトルの水は自分で入れるようになった。初日は横山先生が入れておいてくれたけれど、二日目からは自分でやっている。マグカップも自分のものを持ってきた。家から。白い、何の模様もないマグカップ。母さんが「学校で使うの?」と聞いて、「うん」と答えたら、「洗ってあるの使いなさい」と食器棚から出してくれた。
白湯を飲む。温かい。三月の教室は暖房が効いているけれど、窓際は少し冷える。窓ガラスの向こうから春の光が差し込んでいる。午前中の光。柔らかくて、でも芯がある光。ネオンの光とは違う。ネオンは夜の光。昼間のように明るいのに温かくない。教室の光は、温かい。太陽の光だから当たり前なのだけれど、当たり前を当たり前と思えるのは、当たり前じゃなかった時間を知っているからだ。
窓の外。校庭で体育の授業をしている。ジャージ姿の生徒たちが走っている。サッカーだろうか。ボールを蹴る音が微かに聞こえる。歓声。笑い声。三階まで届くほどの大きな声。
笑い声。
初日は、この音が怖かった。二階の教室の前で、笑い声を聞いて逃げた。廊下の角まで走って、壁にもたれて、呼吸法をやった。四秒吸って、七秒吐いて。
二日目も怖かった。でも逃げなかった。立ち止まっただけ。教室の前で三秒間止まって、それから歩いた。三階に上がった。
三日目は、立ち止まらなかった。足が止まりそうになったけれど、そのまま歩いた。笑い声は笑い声だと、頭が身体に教え始めていた。
四日目。昨日。笑い声を聞いても心臓が跳ねなかった。初めて。
五日目。今日。窓の外の笑い声を聞きながら、白湯を飲んでいる。穏やかに。怖くない。三階の窓越しに聞く笑い声は、二階の廊下で聞くそれより遠い。距離があると、音は脅威じゃなくなる。水槽の外から魚を見ているみたいに、ガラス一枚が安全を作ってくれる。
距離。適切な距離。白石さんが灯台について言っていたことを思い出す。「灯台の光に近づきすぎると、火傷する。適切な距離を知ることが大事だった」。教室も同じかもしれない。いきなり中に入るのではなく、まず三階から見下ろす。距離を取りながら、少しずつ近づく。
リュックから弁当箱を出した。今日も母さんが作ってくれた。五日連続。毎日中身が違う。月曜は鮭のおにぎりとから揚げ。火曜は焼きそばパンとサラダ。水曜は卵焼きとウインナー。木曜はそぼろご飯。金曜は焼き鮭弁当。そして今日、火曜日。開けてみる。
サンドイッチ。卵サンドとハムサンド。ラップに包んであって、小さなメモが挟まっている。
「きょうはサンドイッチ。パンの耳は切ったよ」
母さんの字。丁寧な字。「おいしく食べてね」の初日から、メモの内容が少し変わっている。初日は五文字だけだった。今日は「パンの耳は切った」という、ちょっとした情報が入っている。会話の量が増えているのと同じ。メモの文字数が増えている。
母さんはメモで話しかけてくれている。弁当箱の蓋の裏が、母さんの手紙だ。ルカ姉は封筒に手紙を入れてくれた。母さんは弁当箱に手紙を入れてくれる。形が違うだけで、同じだ。「あなたのことを考えている」という証拠。
卵サンドを食べた。パンが柔らかい。卵のマヨネーズ味。母さんのマヨネーズは少し多い。昔から。幼稚園の遠足のとき、サンドイッチのマヨネーズがはみ出て手がべたべたになった記憶がある。あの頃は普通に家族だった。普通に遠足に行って、普通にお弁当を食べて、普通に帰ってきた。
普通が壊れたのはいつからだろう。中学のいじめからか。不登校からか。歌舞伎町に行ったからか。たぶん、一つの「いつから」ではない。少しずつ、少しずつ壊れていった。罅が入るように。天井の罅と同じで、最初は一本。気づいたら三本。でも四本にはならなかった。壊れかけて、止まった。
今、修復している。母さんのサンドイッチで。毎朝の「いってきます」で。毎晩の「おかえり」で。父さんの無言の同席で。陸の「姉ちゃん」で。少しずつ。少しずつ。罅は消えないけれど、罅の上に新しい日々を塗り重ねていくように。見えなくはならない。でも、新しい層が重なっていく。
午後一時。
横山先生が来た。ノックの音。三回。いつも三回。
「入っていい?」
「どうぞ」
横山先生がドアを開けて入ってくる。手にプリントの束を持っている。数学のプリント。約束してくれていたやつ。
「はい、これ。二次関数の基礎から。教科書よりわかりやすいと思う」
「ありがとうございます」
プリントを受け取った。表紙に「二次関数のきほん」と手書きで書いてある。横山先生の字。丸い字。先生が自分で作ったプリントだ。市販の問題集をコピーしたのではなく。
「先生が作ったんですか、これ」
「うん。瀬川さんが因数分解のところで止まってるって言ってたから。因数分解の復習から入って、二次関数に繋がるように組んでみた」
わたしのために作ってくれた。一人の生徒のために、プリントを自作してくれた。前の担任はそんなことしなかった。「双方から話を聞いて対応する」と言って、結局何もしなかった人。横山先生は何も言わずに、プリントを作ってくれた。
「ゆっくりやればいいからね。わからないところはいつでも聞いて」
「はい」
横山先生が椅子を引いて、わたしの斜め向かいに座った。いつもはすぐ帰るのに。今日は座った。
「瀬川さん、ちょっと話していい?」
「はい」
「五日間、毎日来てくれたね」
「はい」
「すごいことだよ」
「すごくないです。別室にいるだけですから」
横山先生が首を振った。
「別室にいるのがすごいんだよ。校門をくぐって、階段を上って、ここに座る。それを五日間続けた。簡単なことじゃない」
簡単じゃない。そうかもしれない。でも、わたしにはもっと簡単じゃないことがあった。歌舞伎町で路地裏を走ったこと。灯台のドアを開けたこと。母さんに電話をかけたこと。それに比べたら、階段を上ることは「まだまし」だ。「まだまし」を選べるようになった。それが成長なのかもしれない。
「それでね、一つ提案があるんだけど」
横山先生が少し前のめりになった。
「放課後に、教室に行ってみない?」
心臓が一拍跳ねた。
「教室」
「うん。授業中じゃなくて、放課後。みんなが帰った後。誰もいない教室。見に行くだけでいい。座らなくてもいい。ドアの前に立つだけでもいい」
誰もいない教室。放課後。それなら——笑い声はない。視線もない。ただの空間。机と椅子と黒板がある空間。
「考えます」
「うん。考えてね。無理しなくていいから」
横山先生が立ち上がった。ドアに向かう。振り返って「数学、がんばって」と言った。「がんばって」。この先生は「がんばって」と言う。母さんは言わなくなった。白石さんも言わない。横山先生は言う。でも、不快じゃない。この「がんばって」は、数学のプリントに向けられたものだから。わたしの人生全体に向けられた「がんばって」じゃない。数学だけ。それなら大丈夫。
ドアが閉まった。
プリントを見た。一ページ目。因数分解の復習。x²+5x+6=(x+2)(x+3)。見覚えがある。中学で習った。忘れかけているけれど、骨格は残っている。
鉛筆を出した。問題を解き始めた。
一問目。正解。二問目。正解。三問目。間違えた。符号が逆だった。消しゴムで消して、やり直した。正解。
問題を解いていると、頭の中が静かになる。まるで水面が凪いでいくように。数式には答えがある。正しいか間違っているか、はっきりしている。人間関係にはそれがない。なぜ美月がわたしを笑ったのか、答えがない。なぜ楓が距離を置いたのか、答えがない。でも因数分解には答えがある。
一時間で十問解いた。七問正解。三問間違えた。成績としては悪い。でも七問は合っていた。七問分の「わかる」がある。ゼロじゃない。
午後三時。放課後のチャイムが鳴った。
窓の外。生徒たちが校庭に出てくる。いつもの風景。部活に行く子、門に向かう子。わたしはいつもこの時間に帰る。リュックを背負って、三階から一階に降りて、靴を履き替えて、校門を出る。
今日は違う。
リュックを背負わない。机の上に置いたまま。数学のプリントをしまった。マグカップを洗った。窓を閉めた。ドアを開けた。
階段を降りる。三階から二階へ。
二階の廊下。放課後の廊下は五日間で慣れた。まばらに歩く生徒。ロッカーを開ける音。おしゃべり。足音。わたしは壁際を歩く。まだ壁際。でも、初日よりは壁から離れている。五センチくらい。たぶん誰にも気づかれない距離。でもわたしにはわかる。五センチ。小さな五センチ。
二年B組の前に来た。
立ち止まった。ドアの前。ドアは閉まっている。磨りガラス。向こう側に人影が見える。まだ残っている生徒がいる。
五日前と同じ場所に立っている。あのときは笑い声を聞いて逃げた。今日は——放課後。授業中じゃない。横山先生が「見に行くだけでいい」と言った。
手をドアにかけた。金属の取っ手。冷たい。指先に力を入れた。引いた。
ドアが開いた。
教室。
十ヶ月ぶりの教室。
匂いが来た。チョークの粉。誰かの香水の残り香。汗。タイムカプセルを開けたような匂い。教室特有の匂い。この匂いを、身体が覚えている。去年の四月から五月までの一ヶ月間、毎日嗅いでいた匂い。
教室の中に、数人の生徒が残っていた。窓際で女の子が三人、おしゃべりしている。後ろの席で男の子が一人、机に突っ伏して寝ている。そして、窓から二列目の、真ん中あたりの席に、女の子が一人座って本を読んでいる。
全員がわたしを見た。一瞬。ドアが開いた音に反応して。おしゃべりしていた三人が顔を上げた。本を読んでいた子が目を上げた。寝ていた男の子は起きなかった。
視線。四つの視線。胸がきゅっと締まった。見られている。でも——笑われていない。不思議そうな顔をしている。「誰?」という顔。十ヶ月間いなかった人間が突然ドアを開けたのだから、不思議に思うのは当然だ。
三人の女の子は、わたしを見て、すぐにおしゃべりに戻った。興味がないのか、気を遣っているのか。たぶん前者。わたしのことを覚えていないのかもしれない。五月の連休前に消えた子。名前もあやふやだろう。
わたしは教室の中に入った。一歩。二歩。自分の席を探す。窓から二列目、前から四番目。ここだ。
席の前に立った。椅子が引いてある。机の上には何もない。五日前、放課後にこの前を通ったとき、横目で見た席。空いていた席。今、目の前にある。
座った。
椅子が冷たい。硬い。三階の別室の椅子と同じ形なのに、感触が違う。この椅子にはわたしの「過去」が染みついている。去年の四月、この椅子に座って自己紹介をした。「読書が好きです」とだけ言った。楓が隣の席から「お昼一緒に食べない?」と誘ってくれた。連休明けに来なくなった。この椅子から立ち上がって、二度と座らなかった。
十ヶ月。この椅子はここにあった。わたしを待っていたわけじゃない。ただ、ここにあった。机も。椅子も。窓も。黒板も。全部が十ヶ月前と同じ場所にある。変わっていない。
机の中に手を入れた。何かがある。紙の感触。引き出した。
教科書。去年の教科書。国語と英語と数学。三冊。表紙が少し曲がっている。端が折れている。十ヶ月間、机の中に入れっぱなしだった教科書。母さんが取りに来なかった。学校も処分しなかった。ただ、ここに残っていた。
国語の教科書を開いた。最後に開いたページに折り目がついている。四月末の授業で読んだ範囲。ここで止まっている。ここから先は、わたしが読んでいないページ。クラスメイトたちは読み進めた。わたしだけが止まっていた。
でも今、三階の別室で、同じ教科書を読み直している。止まっていた時間が動き出している。ここで止まったページの先を、別の場所で読んでいる。
この席に座ったのは十ヶ月前。あの日から、わたしは色々な場所に座った。歌舞伎町の地面。非常階段の踊り場。ネカフェのリクライニングチェア。病院の廊下の硬い椅子。灯台のソファ。コンビニの前のコンクリート。三階の別室の窓際。そして今、この席に戻ってきた。
全部の「座った場所」が、わたしをここまで運んできた。地べたに座ったから、空が見えた。ネカフェに座ったから、レンにメモ帳を見せた。灯台のソファに座ったから、白石さんに話せた。全部が繋がっている。
窓の外を見た。校庭。桜の木。蕾。あと少し。
教科書を机の中に戻した。立ち上がろうとした。
そのとき、声が聞こえた。
「あ、瀬川さん?」
ドアのほうを向いた。
女の子が立っていた。教室のドアの横。わたしがさっき入ってきたドアの前に。制服姿。ショートカット。丸い目。表情が柔らかい。手にノートを持っている。忘れ物を取りに戻ってきたらしい。
顔を知っている。でも名前を思い出せない。四月に同じクラスだった子。話したことはほとんどない。お昼を一緒に食べたこともない。でも、顔は知っている。
その子がわたしを見て、一瞬驚いた顔をした。それからすぐに表情を戻した。
「久しぶり」
久しぶり。その二文字が、教室の空気を揺らした。わたしに向けられた言葉。わたしの名前を呼んで、わたしに話しかけてくれている。十ヶ月間この教室にいなかったわたしに。
「……うん、久しぶり」
声が出た。小さかった。でも聞こえたはずだ。その子が少し笑った。嘲笑じゃない。普通の笑顔。道で知り合いに会ったときの、普通の笑顔。
その子はノートを取りに自分の席に行って、戻ってきた。ドアの前で立ち止まって、もう一度わたしを見た。
「また来るの?」
「……わからない。でも、たぶん」
「そっか」
そっか。二文字。ルカ姉の「そっか」と同じ二文字。追及しない。掘り下げない。ただ受け止める二文字。
その子が教室を出ていった。足音が廊下に消えていく。わたしは一人になった。教室に。十ヶ月ぶりの教室に、一人で。
名前を思い出せなかった。あの子の名前。四月の自己紹介で聞いたはずなのに。でも顔は覚えている。柔らかい表情。丸い目。「久しぶり」と言ってくれた顔。
教室を出た。ドアを閉めた。廊下を歩いた。今度は壁際じゃなく、少しだけ真ん中寄りに。十センチくらい。
靴を履き替えた。校門を出た。
三月の空。夕方近い光。西に傾く太陽。空気が昨日より温かい。春が一日ごとに近づいている。
スマホを出した。グループLINEを開いた。打った。
「今日、教室に入った。放課後の、誰もいない教室。自分の席に座った。机の中に去年の教科書があった」
送信。
駅に向かって歩く。住宅街の道。沈丁花の匂いがどこかからする。甘くて重い匂い。春の匂い。歌舞伎町の匂いとは全然違う。でもどちらも「季節の匂い」だ。
スマホが震えた。レンから。
「マジで? えらすぎ。おれっちなんかスクーリングサボりそうになったのに」
ルカ姉から。
「えらいじゃん。で、教室どうだった?」
どうだった。どう答えよう。怖かった。懐かしかった。椅子が冷たかった。教科書が残っていた。匂いが同じだった。全部本当。でも、一つだけ選ぶなら。
「教室の中で、わたしに話しかけてくれる人がいた」
送信。
ルカ姉から。
「ほらね。あんたならできるって言ったじゃん」
カケルから。
「……よかった」
カケルの「よかった」は、カケルが言える最大限の祝福だ。短い。でも、温かい。
スマホをポケットにしまった。
駅が見えた。改札。電車。帰る。家に。
今日、教室に入った。自分の席に座った。教科書を見つけた。名前を思い出せない子に話しかけられた。「久しぶり」と言ってもらえた。「そっか」と言ってもらえた。
たったそれだけのことが、十ヶ月かかった。校門をくぐるのに九ヶ月。別室に座るのに五日。教室のドアを開けるのに一週間。全部の時間が、今日の「久しぶり」に繋がっていた。
電車の窓に額を押しつけた。冷たい。ガラスの冷たさ。でも、もう泣いていない。泣く理由がない。
教室の中で、わたしに話しかけてくれる人がいた。
それだけで、一歩目は踏めた。




