表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

40/50

第40話 : 教室の影

第40話 : 教室の影


 校門の前で、足が止まった。


 三月中旬。水曜日の午前十時。平日。授業の時間帯。校門は開いている。守衛のいない、公立高校の鉄の門。門の向こうに校舎が見える。三階建て。灰色の壁。窓が等間隔に並んでいる。どの窓にもカーテンが半分引かれている。二年の教室は二階。わたしの教室も二階。


 十ヶ月ぶりの場所。


 隣に母さんがいる。紺色のカーディガンにスカート。仕事用の服。今日はパートを休んで来てくれた。「半休使ったから大丈夫」と言っていたけれど、半休は母さんにとって貴重なはずだ。


 足が動かない。右足が地面に貼りついている。左足も。靴底にセメントを流し込まれたみたいに、重い。


「凪沙」


 母さんが呼んだ。振り返らない。校門を見ている。門柱に学校名が刻まれている。去年の四月、入学式の日にこの門をくぐった。真新しい制服で。期待と不安を半分ずつ持って。「リセットボタン」を押したつもりで。


 あのときの自分に会えたら、何て言うだろう。「やめておけ」か。「大丈夫だよ」か。どっちも嘘になる。やめなかったし、大丈夫でもなかった。


「大丈夫?」


 母さんが聞いた。声が優しい。以前の母さんなら「ほら、行くよ」と背中を押しただろう。今は聞いている。わたしの答えを待っている。押さない人になっている。


「大丈夫じゃない。でも、行く」


 足を動かした。右足。左足。一歩ずつ。校門をくぐった。校庭の隅に桜の木がある。まだ咲いていない。蕾がふくらみかけている。先端がうっすらピンク色。来週か、再来週には咲くだろう。


 去年の四月、この桜は満開だった。花びらが風に散っていた。新入生たちが桜の下で写真を撮っていた。わたしは撮らなかった。一緒に撮る人がいなかったから。


 今も一緒に撮る人はいない。でもこの桜が咲くのを見届けたいと思える。それだけで、去年とは違う。



 職員室。


 ドアの前で深呼吸した。消毒液と紙の匂い。コピー機のトナーの匂い。学校の匂い。十ヶ月間忘れていた匂い。嗅いだ瞬間、胸の奥がきゅっと締まった。身体が覚えている。この匂いの先にある教室を。廊下を。笑い声を。


 母さんがドアをノックした。「失礼します」。声が少し緊張している。母さんも緊張している。


 中に入ると、デスクの並ぶ空間。先生たちが何人かいる。パソコンに向かっている人、電話をしている人。奥のほうから、女の人が立ち上がった。


「瀬川さんのお母さまですか? 横山です」


 二十代後半くらい。丸い眼鏡をかけている。髪は肩の長さ。カーディガンにスラックス。笑顔が柔らかい。白石さんと同じ種類の柔らかさ。作り笑いじゃない。でも、距離は保っている。プロの笑顔。


 横山先生はわたしを見た。目が合った。


「瀬川さん。来てくれてありがとう。面談室、こっちです」



 面談室は小さな部屋だった。テーブルが一つ。椅子が四つ。窓から校庭が見える。さっきの桜の木が見える。蕾。


 三人で座った。母さんとわたしが並んで、向かいに横山先生。テーブルの上にお茶のペットボトルが三本置いてある。横山先生が用意してくれたものだろう。


「まず、来てくれたことが嬉しいです。無理しなくていいですからね」


 横山先生が言った。「無理しなくていい」。母さんと同じ言葉。白石さんと同じ言葉。みんな同じことを言う。それが「押さない人」の共通語なのかもしれない。


「先生、わたしのこと、どこまで知ってますか」


 自分で聞いた。声が出た。小さいけれど、はっきり。断定形。質問形。逃げない言い方。


 横山先生が少し驚いた顔をした。それから真っ直ぐわたしを見て答えた。


「前の担任の先生から引き継ぎを受けています。中学時代のこと、高校に入ってからのこと、不登校になった経緯。それから、お母さまから事前にお電話いただいた内容も」


 母さんが事前に電話していた。わたしは知らなかった。母さんを見ると、母さんが少し申し訳なさそうな顔をした。「勝手に、ごめんね」。わたしは首を振った。「ありがとう」。母さんが一瞬目を伏せた。


 横山先生が続けた。


「でも、大事なのは過去じゃなくて、今のあなたがどうしたいかだと思っています。瀬川さん、どうしたいですか」


 どうしたいか。


 歌舞伎町を通過して、灯台のドアを開けて、母さんに電話して、ルカ姉の手紙を読んで、カケルの曲を聴いて、歌舞伎町にさよならを言って、家に帰って、カレーを食べて、父さんにじゃがいもを褒められて。全部を経由して、今ここに座っている。全部の「経由地」が、わたしをこの椅子まで運んできた。


「学校、もう一回やり直したいです」


 口から出た。自分でもこんなはっきり言えるとは思わなかった。「やり直したいかも」でも「できたら」でもなく。断定。


 横山先生が頷いた。笑顔が少し深くなった。


「わかりました。最初から教室に入る必要はないです。別室登校から始めましょう。空いている教室を一つ使えるようにします。時間は午前中だけでも、一時間だけでもいい。自分のペースで来てください」


「出席はつくんですか」


 母さんが聞いた。実務的な質問。母さんらしい。


「はい。別室登校も出席扱いにできます。ただ、単位の問題はあるので、個別にフォローしていきますね。十ヶ月のブランクは大きいですが、やり方はあります」


 十ヶ月。数字で言われると重い。十ヶ月間、この学校に来なかった。十ヶ月間、教室の席が空いていた。わたしがいなかった十ヶ月。クラスメイトはその間、授業を受けて、テストを受けて、文化祭をやって、友達を作って、普通の高校生活を送っていた。わたしはその間、歌舞伎町のネオンの下にいた。


 同じ十ヶ月なのに、まったく違う時間を過ごした。その溝を、これから埋めなければならない。


「瀬川さん」


 横山先生がわたしの名前を呼んだ。


「一つだけ約束してほしいことがあります」


「なんですか」


「辛くなったら、言ってください。わたしに。保健室の先生に。お母さんに。誰でもいいから。黙って抱え込まないで。それだけ、約束してください」


 困ったら言う。見捨てない。ヤバいときだけは嘘つかない。ルカ姉が作ったルール。ファミリーのルール。それが、この学校でも求められている。


「約束します」


 わたしは答えた。横山先生が微笑んだ。母さんが隣で、小さく息を吐いた。ずっと息を止めていたのかもしれない。



 面談が終わった。母さんは先に帰ることになった。わたしは今日、このまま残って別室登校の初日を過ごす。


 玄関で母さんが靴を履き替えている。わたしは上履きに履き替える。白い上履き。十ヶ月間、靴箱の中にあった上履き。忘れ物みたいに埃をかぶっている。指で払った。


「じゃあ、がんばって」


 母さんが言いかけて、止まった。言い直した。


「帰ったらカレーの残りあるから」


 がんばって、と言わなかった。カレーの残りがあるから、と言った。「帰ったら何かがある」という言い方。「帰る場所がある」という意味。母さんは学んでいる。わたしに何を言えばいいか。何を言わないほうがいいか。少しずつ。


「うん。夕方には帰る」


 母さんが校門に向かって歩いていく。背中が少し丸い。カーディガンの裾が風に揺れている。三月の風。母さんの背中を見るのは久しぶりだ。いつも正面から向き合うか、ドア越しに声だけ聞くか。背中を見送る距離が、今は心地いい。


 振り返った。校舎がある。階段がある。二階に上がれば廊下がある。廊下の先に教室がある。わたしの教室。十ヶ月間、行けなかった場所。


 心臓が速くなっている。手のひらに汗。呼吸が浅い。身体が反応している。「ここは危険な場所だ」と身体が言っている。いじめの記憶。加工された画像。グループLINEの未読87件。担任の「悪意はなかったそうだ」。美月の笑顔。楓のよそよそしさ。全部が一度に押し寄せてくる。波のように。引いたと思ったら、また来る。


 でも。


 歌舞伎町で鶴見から逃げたとき、心臓はもっと速かった。路地裏を走って、コンビニに逃げ込んだとき、息ができなかった。灯台のドアの前で十分間立ち尽くしたとき、手のひらの汗で名刺が濡れた。母さんに電話をかけたとき、指が震えてボタンが押せなかった。


 全部やった。全部、怖かった。全部、やった。


 怖さには慣れない。でも「怖くても動ける」ことを、わたしは知っている。


 階段を上った。



 二階。廊下。


 長い廊下。窓からの光が床に落ちている。光の帯が等間隔に並んでいて、まるでピアノの鍵盤のように白と影が交互に繰り返されている。リノリウムの床。上履きのきゅっきゅという音。自分の足音だけが響く。授業中だから、廊下には誰もいない。


 教室が並んでいる。二年A組。二年B組。二年C組。わたしのクラスは二年B組。ドアが閉まっている。磨りガラスの向こうに人影が見える。声が聞こえる。先生の声。生徒の声。笑い声。


 立ち止まった。


 教室の前。磨りガラス越しに見える影。机に座っている影。立っている影。動いている影。あの中に、わたしの席がある。あの中に、十ヶ月前のわたしがいた場所がある。


 笑い声が聞こえた。女の子の声。何人かが一緒に笑っている。


 身体が強張った。反射的に。笑い声が怖い。自分が笑われている気がする。中学のとき、廊下を歩くたびに笑い声が追いかけてきた。消えない耳鳴りのような音。クスクス。ヒソヒソ。スマホの画面をちらりと見て、わたしを見て、笑う。あの音が、今もフラッシュバックする。


 教室の前から離れた。足が勝手に動いた。逃げた。三歩。五歩。十歩。廊下の角を曲がって、壁にもたれた。呼吸が荒い。心臓が跳ねている。


 大丈夫。大丈夫。あの笑い声は、わたしに向けられたものじゃない。授業中の笑いだ。先生が何か面白いことを言ったのかもしれない。わたしとは関係ない。


 頭ではわかっている。でも身体がわからない。身体は十ヶ月前のまま止まっている。教室の笑い声を「脅威」として記憶している。書き換えるには時間がかかる。


 呼吸を整えた。壁に背中をつけて、目を閉じた。ゆっくり息を吸う。吐く。白石さんに教わった。「息が苦しくなったら、四秒吸って、七秒吐いて。それだけでいいから」。四秒。吸う。七秒。吐く。三回。四回。


 心臓が落ち着いてきた。目を開けた。廊下の先に、横山先生が言っていた「別室」がある。三階の空き教室。そこに行けばいい。教室には行かなくていい。今日は、別室にいるだけでいい。


 階段を上った。三階。



 別室は、使われていない教室だった。


 机が十脚ほど、不規則に並んでいる。黒板には何も書かれていない。窓際に小さなテーブルがあり、電気ケトルとマグカップが置いてある。横山先生が準備してくれたのだろう。壁に時計がかかっている。十時四十三分。


 窓から校庭が見える。誰もいない校庭。授業中だから。砂のグラウンドと、端にある鉄棒と、桜の木。蕾。まだ咲いていない。


 座った。窓際の席。椅子が冷たい。木の椅子。教室の椅子は全部同じ形。背もたれが硬い。


 静かだ。


 三階だから、二階の教室の声はほとんど聞こえない。遠くで体育の授業のホイッスルが鳴っている。それだけ。あとは静寂。水底に沈んだような静かさ。


 灯台の事務所に似ている。白石さんのデスクの横で紅茶を飲んでいた時間に似ている。来てもいい、来なくてもいい場所。でも来たら、何かがある場所。灯台には紅茶があった。ここには電気ケトルがある。


 ケトルのスイッチを入れた。水が入っている。横山先生が入れておいてくれた。湯が沸く音。カチカチという泡の音。ネカフェの自動販売機とは違う。家のケトルとも違う。学校のケトル。新しい場所の、新しい音。


 お湯が沸いた。マグカップに注いだ。ティーバッグは見当たらない。ただのお湯。白湯。温かい。マグカップを両手で包む。灯台で紅茶のカップを持ったときと同じ仕草。


 リュックから教科書を出した。国語。十ヶ月前に止まったページ。折り目がついている。教科書の裏表紙に「瀬川凪沙」と書いてある。去年の四月に、新品の教科書に名前を書いた。丁寧な字で。新学期の凪沙。リセットボタンを押した凪沙。


 ページを開いた。近代文学のセクション。太宰治の「走れメロス」。授業で読んだのか、読んでいないのか、もう覚えていない。たぶん読んでいない。五月の連休明けから行っていないから、この辺りはまだだ。


 読み始めた。「メロスは激怒した」。有名な一行目。中学の教科書にも載っていた。でも今読むと、違う風に読める。メロスは友達を信じて走った。途中で何度も挫けそうになりながら、走った。走ることが正しいかどうかわからなくても、走った。


 わたしも走った。歌舞伎町の路地裏を。鶴見から逃げるために。でもメロスとは違う。メロスは「友達のために」走った。わたしは「自分のために」逃げた。逃げることと走ることは違う。でも、足を動かしたことは同じだ。


 教科書を読んでいる間、時間が流れた。静かに。穏やかに。チャイムが鳴った。授業の区切り。窓の外から生徒の声が聞こえる。休み時間。廊下に足音が増える。でも三階のこの部屋には誰も来ない。ここはわたしだけの場所。


 二回目のチャイムが鳴って、また静かになった。授業が始まった。わたしは教科書のページをめくった。


 お昼前に横山先生が顔を出した。ドアをノックして、開けて、顔だけ出す。


「元気?」


「はい」


「お昼は食べる? 学食は混むから、ここで食べてもいいよ」


「お弁当持ってきました」


「えらい。何時に帰る?」


「午後、もう少しいてもいいですか」


 横山先生が少し驚いた顔をした。初日で午後まで残るとは思っていなかったのだろう。


「もちろん。いたいだけいていいよ。鍵は開けておくから」


 横山先生が去った。ドアが閉まった。静寂が戻った。


 お弁当を開けた。母さんが作ってくれた。卵焼きとミニトマトとウインナー。ご飯の上に梅干し。シンプル。


 弁当箱の蓋の裏に、小さなメモが貼ってあった。母さんの字。


 「おいしく食べてね」


 五文字。たった五文字。「がんばれ」じゃない。「おいしく食べてね」。


 鼻の奥がツンとした。涙が出そうになって、堪えた。弁当箱を持つ手が震えていた。


 母さんは変わった。「ねえ、いつまでこうしてるの」と言っていた人が、「おいしく食べてね」と書く人になった。わたしが変わったように、母さんも変わっている。十ヶ月かかった。わたしたちは十ヶ月かけて、お互いへの言葉を選び直している。


 卵焼きを食べた。甘い。母さんの卵焼きは砂糖が多い。昔からそう。子どもの頃は好きだった。中学のいじめが始まってから、味がわからなくなっていた。今は、わかる。甘い。卵焼きの甘さ。母さんの味。


 窓の外を見ながら、一人でお弁当を食べた。校庭の桜の木。蕾。風が吹いている。枝が揺れている。蕾は堅そうに見えるけれど、中には花が詰まっている。見えないところで準備している。


 わたしも、見えないところで準備している。この別室で。一人で。教科書を読んで、お弁当を食べて、窓の外を見て。誰にも見えない場所で、少しずつ、花を咲かせる準備をしている。



 午後。


 教科書を三教科分読んだ。国語、英語、数学。数学は全然わからなかった。二次関数のところで止まっている。因数分解はかろうじて覚えているけれど、その先が深い霧のように見えない。ルカ姉が手紙に「数学がマジで無理」と書いていたのを思い出した。わたしも無理かもしれない。でもルカ姉は中学の範囲からやり直している。わたしは高校の範囲。ルカ姉より少しだけ先にいる。少しだけ。


 三時のチャイムが鳴った。六時間目が終わる時間。放課後。


 窓の外に生徒が出てきた。校庭を横切っていく。部活に行く子。門に向かう子。友達と並んで歩く子。笑い声。話し声。スマホを見ながら歩く子。


 十ヶ月前まで、わたしもあの中にいた。いや、いなかった。五月の連休前には、もうお昼を一人で食べていた。グループから外れていた。廊下を歩くのが怖かった。あの中に「いた」のは、最初の一ヶ月だけ。


 帰ろう。


 教科書をリュックにしまった。マグカップを洗って、棚に戻した。椅子を元の位置に戻した。部屋を出る。ドアを閉める。


 階段を降りた。三階から二階へ。


 二階の廊下。放課後で、生徒がまばらに歩いている。ロッカーに寄る子、教室から出てくる子。わたしは壁際を歩いた。目立たないように。透明になるように。


 この癖は、まだ抜けていない。壁際を歩くこと。視線を下に向けること。存在を消すこと。中学で身につけた「透明の技術」が、身体に染みついている。


 でも、今は意識してやっている。無意識じゃない。「壁際を歩いている自分」を自覚している。自覚しているということは、やめることもできるということだ。今日はまだやめない。でもいつか、廊下の真ん中を歩けるようになるかもしれない。


 教室の前を通りかかった。二年B組。ドアが開いている。中から声が聞こえる。残っている生徒がいる。


 ちらっと中を見た。横目で。三人くらいの女の子がおしゃべりしている。一人の男の子が机に突っ伏して寝ている。窓際の席に女の子が一人、本を読んでいる。


 わたしの席が見えた。窓から二列目、前から四番目。あの席。十ヶ月前、制服を脱いでベッドに戻った日から、ずっと空いていた席。


 空いている。まだ、空いている。


 誰かの荷物が置かれているわけでもない。ただ空いている。わたしを待っているように見えるのは、感傷が過ぎるだろうか。


 目を逸らした。通り過ぎた。靴箱に向かう。上履きを脱いで、外履きに替える。


 校門を出た。三月の空気。午後三時過ぎの陽光。冬と春の間の光。まだ弱いけれど、角度が高くなっている。影が短い。春が近い証拠。


 スマホを出した。白石さんにLINEを送った。


 「今日、学校に行きました。別室登校の初日でした。教室には入れなかったけど、空き教室で教科書を読みました。お弁当も食べました」


 送信。歩きながら。駅に向かう。住宅街の道。ブロック塀とプランターの花。黄色い水仙が咲いている。


 白石さんから返信。速い。


 「すごいね。よく行ったね。お弁当おいしかった?」


 白石さんの「すごいね」は、横山先生の「えらいね」とは少し違う。白石さんは、わたしがどれだけ怖かったかを知っている。灯台のドアの前で十分間立ち尽くしたことを知っている。だから「すごいね」が重い。


 「おいしかったです。母さんが作ってくれました」


 「お母さんの弁当って、最強だよね」


 最強。白石さんにしては珍しい言葉遣い。少しだけ、白石さんの「元トー横」の片鱗が見える。


 スマホを閉じた。


 グループLINEにも報告しようかと思ったけれど、やめた。また今度でいい。今日の分の勇気は使い切った。これ以上は出ない。


 駅に着いた。改札を通る。ホームで電車を待つ。平日の午後三時台。電車は空いている。座席に座って、窓の外を見た。


 学校に行った。別室で教科書を読んだ。お弁当を食べた。教室の前を通った。笑い声を聞いた。怖かった。逃げた。でも、三階の別室にはいられた。


 一日目。


 完璧じゃない。教室に入れなかった。クラスメイトと一言も話さなかった。廊下で壁際を歩いた。笑い声にフラッシュバックした。


 でも行った。学校に、行った。門をくぐった。階段を上った。椅子に座った。教科書を開いた。お弁当を食べた。全部、足を動かしてやったことだ。怖いまま。震えながら。


 灯台と教室は似ている。来てもいい、来なくてもいい場所。でも来たら、何かがある場所。灯台には紅茶があった。教室にはケトルとお湯があった。白石さんの「よく来たね」があった。横山先生の「来てくれてありがとう」があった。母さんの「おいしく食べてね」があった。


 全部が、足を運んだから手に入ったものだ。


 電車の窓に額を押しつけた。冷たい。ガラスの冷たさ。歌舞伎町からの帰りにもこうしていた。でもあのときは、家に帰るのが嫌だった。今は、帰りたい。カレーの残りが待っている。陸がゲームに誘ってくる。母さんが「おかえり」と言う。天井の罅が三本ある部屋がある。


 帰る場所がある。帰りたい場所がある。その二つが重なっている。初めて重なっている。


 メモ帳を開いた。書いた。


 「教室の笑い声は、まだ怖い。耳の奥に残る。でも今日わかったことがある。笑い声は笑い声でしかなかった。わたしに向けられたものじゃない。そう思えるようになるまで、十ヶ月かかった。でも、思えた。少しだけ」


 書き終えて、スマホを閉じた。


 電車が最寄り駅に着いた。降りた。改札を通った。家に向かって歩いた。


 空が広い。埼玉の空。三月の空。雲が流れている。薄い雲。太陽が西に傾きかけている。オレンジ色の光。夕方の光。歌舞伎町のネオンとは違う光。穏やかで、退屈で、確かな光。


 家が見える。リビングの灯りがついている。


 玄関のドアを開けた。


「ただいま」


「おかえり」


 母さんの声。キッチンから。何かを温めている音がする。カレーだ。


「どうだった?」


「行けた。明日も行く」


 母さんが何かを言おうとして、やめた。代わりに「カレー温まるまで、ちょっと待ってね」と言った。わたしは「うん」と答えて、自室に上がった。


 部屋に入る。ドアを閉める。ベッドに座る。天井。罅。三本。


 今日、学校に行った。十ヶ月ぶりに。教室には入れなかった。でも、別室にいた。廊下を歩いた。教室の前を通った。自分の席を見た。空いていた。


 明日も行く。明後日も。少しずつ。


 蕾はまだ咲いていない。でも、ふくらんでいる。見えないところで、花の準備が進んでいる。


 わたしも、同じだ。まだ咲いていない。でも準備している。別室で、一人で、教科書を読みながら。


 咲くかどうかはわからない。でも、蕾のまま枯れるつもりはない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ