第4話 : 家という檻
第4話 : 家という檻
不登校が始まって一週間が経った朝、わたしは天井を見ていた。
カーテンは閉めたままだ。隙間から差す光が天井に白い線を引いている。その線の横に、罅がある。三本。入居したときからあるらしい。母さんは気にしていない。不動産屋にも言わなかったそうだ。でもわたしは毎朝数える。一本、二本、三本。今日も三本。増えていない。
部屋の空気が閉じている。カーテンを閉め切って、窓も開けないまま何日も過ごすと、部屋に自分の匂いが溜まる。布団の匂い。昨日から着替えていないパジャマの匂い。汗ではなくて、もっと淀んだ、動かない人間の匂い。窓を開ければいい。カーテンを引けばいい。でも腕が重い。水底に沈んだまま天井を見上げているような感覚がある。
階下から、音が聞こえる。
食器の触れ合う音。テレビのニュース。水道の蛇口をひねる音。母さんが出勤の準備をしている。わたしがベッドから出なくなっても、家の朝は変わらない。同じ時間に同じチャンネルがつく。トーストが焼ける匂いが階段を上がってくる。小麦とバターの匂い。それだけは嫌いじゃなかった。でも起き上がって食べにいく気力がない。
玄関のドアが開く音。弟の靴音。
「姉ちゃん、行ってくるね」
陸の声が階段の下から聞こえた。中学一年生。毎朝ちゃんと起きて、ちゃんと制服を着て、ちゃんと学校に行く子。わたしとは違う。
「いってらっしゃい」
声を出した。今日最初の言葉。この「いってらっしゃい」が、わたしの一日で唯一の、自分から発する言葉になるかもしれなかった。他はぜんぶ返事だ。「食べた」「うん」「わかんない」。聞かれたことに最短の音で答える。それだけ。
玄関のドアが閉まる。鍵がかかる音。
しばらくして、もう一度ドアの音。母さんも出勤した。
家の中が静かになる。冷蔵庫のモーターだけが、キッチンの方で低く鳴っている。あの音はわたしが起きていても寝ていても止まらない。冷蔵庫は律儀だ。わたしよりずっと。
一人になった。ここからが、わたしの一日だ。
布団の中でスマホを見る。充電ケーブルが枕元から壁のコンセントまで白く伸びている。このケーブルがわたしの生命線だった。スマホの電池が切れたら、本当に何もなくなる。天井の罅を数えるしかなくなる。
SNSを開く。タイムラインをスクロールする。知らない人の投稿、フォローしている漫画家の新作告知、ニュースの見出し。指だけが動いている。何も頭に入ってこない。
クラスメイトの投稿は見られない。楓のアカウントも佳奈のアカウントもミュートにした。見ると胸の奥が締まる。楓が誰かと撮った写真。佳奈がカフェで撮ったドリンクの画像。そういうものを見ると、心臓がどくんと不規則に跳ねて、息が浅くなる。だからミュートにした。見なければ存在しないのと同じだ。わたしが透明になったのと同じように、彼女たちも透明にしてやった。
公平な取引だと思った。誰も損をしていない。
代わりに知らない人の動画を流す。YouTubeの作業配信。画面の中で誰かがキーボードを叩いている。カタカタカタ。その音だけが部屋に響く。知らない人の、知らない場所の、知らない日常。わたしに関係のない音だから安全だった。
昼になると起き上がってキッチンに行く。冷蔵庫を開ける。母さんが作り置きしたおかずがタッパーに入っている。ハンバーグ。ポテトサラダ。煮物。ラップに包まれたおにぎりが二つ。
おにぎりを一つ取って、自室に戻る。ベッドの上で食べる。鮭。塩加減がいい。母さんは料理が上手い。わたしに面と向かって優しい言葉は言えないけど、おにぎりの塩加減は毎回ちょうどいい。
もう一つのおにぎりは食べられない。胃が小さくなっている。一口目はおいしいと思うのに、三口目で味がわからなくなる。残りをラップに包んで枕元に置く。夜に食べるかもしれないし、食べないかもしれない。
午後は寝ている。寝ているのか起きているのか、自分でもわからない時間がある。夢と現実の境目が曖昧で、気づくとカーテンの隙間の光の角度が変わっている。朝は右上にあった光が、午後には左下に移動する。その移動だけが時間の経過を教えてくれる。
夕方。玄関のドアが開く音で意識が戻る。
母さんの足音が階段を上がってくる。ドアの前で止まる。ノック。コンコン。二回。いつも二回だ。
「凪沙、ご飯食べた?」
「食べた」
嘘ではない。おにぎりを一つ食べた。一つだけど。
「学校に電話したんだけど、担任の先生が面談したいって」
「……うん」
ドアの向こうで母さんが息を吸い込む音がした。次の言葉を、わたしは知っていた。パターンがある。「がんばって行ってみたら?」か、「お母さんも仕事があるのよ」か、「いつまでこうしてるの」か。どれが来ても、わたしの返事は同じだ。
「ねえ、いつまでこうしてるの」
三番目のパターンだった。母さんの声が少し高くなる。疲れているとき、母さんの声は高くなる。怒りではなく消耗の音だ。
「お母さんも仕事があるのよ。あなたが学校行かないから、先生から電話が来て、仕事中に出なきゃいけないの。わかってる?」
わかってる。わかってるから余計に何も言えない。わかっているのに変えられないことが、いちばんつらい。
「あなた、中学のときもそうだったでしょ。あのときだって、あなたにも原因があるって先生が言ってたじゃない」
あなたにも原因がある。
ドアは閉まったままなのに、その言葉だけが貫通してきた。声は壁を越える。ドアも布団も、声の前では意味がない。
母さんは悪い人じゃない。
そう思おうとした。母さんは疲れている。パートの仕事をして、帰ってきて家事をして、夫は何もしなくて、娘は学校に行かない。誰だって限界がある。母さんがわたしにきつく当たるのは、母さん自身が追い詰められているからだ。頭ではわかる。
でも、頭でわかることと、胸が痛まないことは違う。
「あなたにも原因がある」。中学の担任が言った言葉を、母さんはそのまま信じた。先生が言ったから正しい。大人が言ったから正しい。わたしの側の話は聞かれていない。動画のことも、加工画像のことも、机の上に置かれたプリントのことも、母さんには話していない。
話そうとしたことはあった。一度だけ。中学三年の冬。「学校でね、ちょっと嫌なことがあって」と言いかけた。母さんは洗い物をしながら振り返りもせずに言った。「学校ではよくあることでしょ。気にしすぎよ」。
よくあること。
わたしの痛みは、蛇口の水の音にかき消された。
わたしにも原因がある。そうかもしれない。でもその原因って何だろう。目立たなかったこと? 反論しなかったこと? それとも——ただ、そこに存在していたこと?
何も答えなかった。ドアの向こうで母さんが溜息をついた。あの溜息。家の中でいちばん大きな音。テレビよりも、食器よりも、冷蔵庫のモーターよりも大きい。わたしの鼓膜にだけ届く周波数で鳴っている。
足音が遠ざかる。階段を降りていく。リビングのテレビがつく。ニュース番組の音声。それでこの話は終わりだ。明日もたぶん、同じことが繰り返される。
わたしは布団をかぶった。
夜。もう一つの声が聞こえた。
今度は一階から。テレビの音量が下がっている。母さんと父さんが話している。壁の薄い建売住宅だ。二階にいると、一階の会話が断片的に聞こえる。
「……凪沙のことなんだけど」
母さんの声。
「学校のことはお前に任せてるだろ。俺は仕事で疲れてるんだ」
父さんの声。低い。ビールの缶を開ける音。プシュッ。テレビのチャンネルが変わる音。会話はそれで終わった。
父さんはそういう人だ。朝早く出て、夜遅く帰って、ビールを飲んで、テレビを見て、寝る。仕事のことは話すけど、家のことには関わらない。わたしの不登校が始まってから、父さんがわたしの部屋に来たことは一度もなかった。廊下ですれ違っても「おう」としか言わない。目が合わない。テレビを見ているふりなのか、本当にわたしが見えていないのか、区別がつかない。
わたしが「透明」を覚えたのは、もしかしたらこの人を見ていたからかもしれなかった。父さんはずっと前から、この家の中で透明だった。仕事に行って帰ってくる。それだけの存在。母さんが何を言っても、チャンネルを変えることで会話を終わらせる。リモコンは父さんの武器だ。チャンネルを変えれば、世界が変わる。少なくとも画面の中は。
母さんが何か言い返そうとした気配があった。でも聞こえなかった。言わなかったのか、言えなかったのか。
この家ではみんなが黙っている。同じ屋根の下に四人いるのに、四つの沈黙が別々に漂っている。家族ってこういうものなのだろうか。テレビドラマの家族はもっと喋る。喧嘩もするけど、仲直りもする。うちの家族は喧嘩すらしない。喧嘩するには相手を見なきゃいけないから。
わたしはイヤホンをつけて、作業配信を流した。カタカタカタカタ。知らない人のキーボードの音。この音だけが安全だった。
夜の十時過ぎ。部屋のドアが控えめにノックされた。母さんとは叩き方が違う。軽くて、遠慮がちで、でも確実に二回。
「姉ちゃん、起きてる?」
陸だった。声でわかる。イヤホンを外して「起きてる」と答えた。
ドアが少しだけ開いて、陸が顔を覗かせた。パジャマ姿で髪がぼさぼさ。風呂上がりの、寝る前の顔だ。
「ちょっとだけいい?」
「うん」
陸が部屋に入ってきて、ベッドの端に座った。わたしの足元あたり。近すぎない。遠すぎない。この子はいつもちょうどいい距離にいる。中学一年生なのに、大人の誰よりも距離の取り方が上手い。
「今日さ、学校でゲームの話になってさ。新しいの出るんだって。RPG。オンラインで一緒にできるやつ」
ゲームの話。陸はいつもゲームの話をしに来る。学校のことじゃなく。わたしの不登校のことでもなく。ゲームの話。
それが陸なりのやり方だと、わたしにはわかっていた。「大丈夫?」とは聞かない。「学校行きなよ」とも言わない。ただゲームの話をして、わたしが笑うのを待っている。
「姉ちゃんとやりたいなって」
「いいよ。出たら教えて」
「マジで? やった」
陸が嬉しそうに笑った。スマホの画面光に照らされた顔。まだ丸くて、あどけなくて。でも目はこちらをまっすぐ見ている。
何か言いたそうな顔をしていた。口が少し動いて、止まって、それから陸は立ち上がった。ドアの前まで歩いて、背中を向けたまま小さな声で言った。
「姉ちゃん、無理しなくていいよ」
振り返らない。わたしも陸の背中に向かって言った。
「大丈夫だよ」
笑顔を作った。見えていないのに。
ドアが閉まる。陸の足音が廊下を進んで、自分の部屋に消えた。
大丈夫だよ。嘘だ。大丈夫じゃない。でも陸にそれを見せたくなかった。この子まで巻き込みたくない。陸は毎朝ちゃんと起きて、ちゃんと学校に行って、ちゃんと友達と話して、ちゃんと帰ってくる。その「ちゃんと」をわたしが壊すわけにはいかない。
だから「大丈夫」と言う。大丈夫じゃない人間がいちばんよく使う、いちばん便利な嘘。
深夜。家が完全に静まった。
父さんはとっくに寝ている。母さんも。陸も。わたしだけが起きている。暗い部屋で、天井を見ている。罅。一本、二本、三本。
スマホを持ち上げた。画面の光が顔を青白く照らす。この光だけが、暗い部屋の光源だった。天井の罅が、画面の光に浮かび上がる。昼間はぼんやりとしか見えないのに、夜はくっきり見える。暗いほうが、罅は目立つ。
何かを書きたい、と思った。
突然だった。胸の奥から衝動が湧いてきた。誰かに送るメッセージじゃない。SNSに投稿するわけでもない。ただ、頭の中にあるものを外に出したい。指が動きたがっている。
メモ帳アプリを開いた。白い画面。カーソルが点滅している。
書いた。
「この家の天井には罅が入っている。三本。毎日数えている。明日四本になったら、わたしも割れるかもしれない」
指が止まった。画面を見つめた。
自分が書いた文字を読み返すと、不思議なことが起きた。胸の中にあった重たいものが、少しだけ軽くなっている。何も変わっていない。天井の罅は三本のまま。母さんの溜息は消えていない。父さんのビールの音も、陸の小さな「無理しなくていいよ」も、全部そのままだ。なのに、文字にしただけで、形のなかった苦しさに輪郭が生まれた気がした。
書くと、自分が少しだけ見える。
透明なわたしの影が、画面の上に文字という形をして映っている。
もう一行、書いた。
「母さんの溜息は、家の中でいちばん大きな音だ」
それからもう一行。
「"大丈夫" は、大丈夫じゃない人が使う言葉」
指が止まらなくなった。一行、また一行。どれも短い。一行か二行。日記とは違う。今日何があったかではなく、今わたしが何を感じているか。その断片が、メモ帳の中に溜まっていく。
「冷蔵庫のモーターは律儀だ。わたしが寝ていても起きていても止まらない」
「父さんのリモコンは魔法の杖だ。チャンネルを変えれば会話が消える」
「おにぎりは一つだけ食べた。もう一つは枕元にある。食べるかもしれない。食べないかもしれない。それを決められないことが、いちばん疲れる」
書き終えて、スマホを枕の横に置いた。画面を下にして。いつもの位置。
天井を見上げる。罅は三本。
明日もたぶん同じだろう。母さんはドアの向こうで溜息をつき、父さんはビールを飲み、陸はゲームの話をしに来る。わたしはベッドで天井を数える。一本、二本、三本。
でも今夜、わたしは文字を書いた。誰にも見せない文字。誰にも聞こえない声。でも、確かにわたしの声だった。
それだけが、昨日までと違う。
日が経った。二日、三日、五日。何日経ったのか正確にはわからない。曜日の感覚がなくなっている。平日も休日もわたしには同じだ。カーテンの隙間の光で朝と昼と夕方を見分ける。それだけが時計の代わりだった。
母さんとの会話はパターンが減っていた。最初の頃は三種類あった母さんの言葉が、最近は「ご飯食べた?」だけになった。わたしが「食べた」と答える。それで終わり。母さんはもう「いつまでこうしてるの」とは言わなくなった。追及すると、わたしがもっと深く黙り込むことを学んだからだろう。代わりに冷蔵庫の作り置きが増えた。タッパーの数が、三つから五つになっている。言葉の代わりに料理を置いていく。それが母さんの愛情の形なのかもしれないし、罪悪感なのかもしれなかった。
メモ帳には毎晩書くようになっていた。深夜、家が寝静まった後の習慣になった。長い文章ではない。一行、二行の短い断片。その日感じたことを、言葉の欠片にして画面に置く。
不思議なもので、書くことを始めてから、昼間の時間の質がわずかに変わった。母さんの溜息を聞いたとき、前は胸が締まるだけだった。今は「今夜、これを書こう」と思う。父さんがリモコンを持つ手を見たとき、その指の形を覚えておこうとする。書くために、観察するようになった。観察するために、少しだけ目を開けるようになった。
ある日の深夜、いつものようにSNSをスクロールしていた。おすすめ欄に、見慣れない動画が表示された。
地雷系メイクの女の子たちが、夜の街で自撮りをしている。背景にネオンが見える。赤、青、ピンク。看板の文字はぼやけて読めないけれど、繁華街だとわかる。
キャプションに「トー横」と書いてあった。
コメント欄をスクロールした。
「ここにいれば一人じゃない」
「居場所がない子はおいで」
「毎日いるよ」
指が止まった。「居場所がない子はおいで」。その一文が、わたしの目に貼りついて離れなかった。居場所がない。わたしのことだ。学校にも、家にも、どこにも居場所がない。この部屋の中で天井を数えているわたしのことを、画面の中の知らない人が呼んでいる。
動画を保存した。見たかったわけじゃない。行きたいと思ったわけでもない。ただ、画面の中のネオンの光が、わたしの暗い部屋にまで届くような気がした。
カーテンの隙間から差す光は細くて白い。メモ帳を照らすスマホの光は青白い。でもあの動画の中の光は、赤くて青くてピンクで、嘘みたいに明るかった。
わたしは画面の中の歌舞伎町を見ていた。天井の罅ではなく、ネオンの光を。あの光の下に立ったら、わたしは透明じゃなくなれるだろうか。
答えは、まだどこにもなかった。




