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第39話 : 埼玉の空

第39話 : 埼玉の空


 目が覚めた。


 天井。白い天井。罅が三本。右から一本目は窓に近いほうから斜めに走っている。二本目はエアコンの横。三本目は照明の傘のすぐ上。去年の五月に数え始めてから、増えていない。


 三本のまま。


 わたしも、割れなかった。


 カーテンの隙間から光が差し込んでいる。白い光じゃない。薄い金色。朝の光。まるで薄い蜂蜜を空気に溶かしたような色。三月の朝日は、冬のそれより少しだけ色が濃い。暖かみがある。


 スマホを見た。午前九時十二分。日曜日。昨夜、歌舞伎町から帰って、肉じゃがを食べて、布団に入ったのが十一時過ぎ。十時間近く眠っていた。こんなに眠れたのは久しぶりだ。歌舞伎町に通っていた頃は、いつも三、四時間しか眠れなかった。ネカフェのリクライニングチェアか、路上のコンクリートの上で。身体は疲れているのに目が冴えて、うとうとしては目が覚める夜の繰り返し。


 今朝は違う。深く眠った。夢を見た気がするけれど、内容は覚えていない。覚えていないということは、怖い夢ではなかったのだろう。


 布団が温かい。母さんが干してくれた布団。太陽の匂いがまだかすかに残っている。この匂いは灯台のシャワーとも、ネカフェのタオルとも違う。家の匂い。わたしの家の匂い。


 起き上がった。身体が軽い。いや、軽くはない。昨夜歌舞伎町を歩き回ったから、足が少し重い。でも頭は軽い。頭の中が静かだ。いつも鳴っていたノイズが、今朝は鳴っていない。耳鳴りが止んだ朝のような静けさ。


 階下から音が聞こえる。テレビの音。日曜日の朝のワイドショー。食器の音。誰かが何かを食べている。コーヒーの匂い。インスタントコーヒーの匂いが階段を上ってきている。


 父さんだ。日曜の朝にコーヒーを飲むのは父さん。母さんは紅茶派。コーヒーの匂いがするということは、父さんがリビングにいるということ。


 休日の朝。父さんが家にいる日曜日。


 着替えた。パジャマから、Tシャツとスウェットパンツに。髪をゴムで束ねた。顔を洗いに洗面所へ。鏡を見る。目の下のクマは薄くなっている。頬の色が少し戻っている。歌舞伎町にいた頃は、蛍光灯の下で見る自分の顔がいつも青白かった。今は、窓から差す朝日の中で見ている。色が違う。


 階段を降りる。


 リビングに入った。テレビがついている。ソファに父さんが座っている。コーヒーカップを片手に新聞を読んでいる。紙の新聞。父さんはまだ紙で読む人だ。


 母さんがキッチンにいた。フライパンの音。何か焼いている。卵の匂い。目玉焼きだ。


 陸がテーブルに座ってスマホを見ている。パジャマのまま。日曜の朝の陸はいつもパジャマのまま。


 三人の日曜日。そこに、わたしが加わる。


「おはよう」


 わたしが言った。声が出た。小さくない声。聞こえる声。


 陸が顔を上げた。


「おはよう、姉ちゃん。よく寝たね」


「うん。すごく寝た」


 母さんがキッチンから振り返った。


「おはよう。目玉焼き、何個食べる?」


「一個でいい」


「パンは?」


「食べる」


 普通のやりとり。日曜の朝の、普通のやりとり。何ヶ月もなかったもの。わたしがこの家にいなかった間、母さんと陸と父さんは三人でこの朝を過ごしていた。わたしがいない食卓。わたしの分の食器が並ばないテーブル。


 今日は四人分の食器がある。


 父さんが新聞から顔を上げた。わたしを見た。目が合った。一瞬。父さんはすぐに目を逸らした。コーヒーカップに口をつけた。


「おはよう」


 父さんが言った。新聞に目を落としたまま。小さい声。でも聞こえた。


 父さんの「おはよう」。この人がわたしに直接「おはよう」と言ったのは、いつぶりだろう。不登校が始まってから、父さんはわたしと目を合わせなくなった。朝も夜も、わたしが自室にいる間はリビングにいて、わたしがリビングに降りると自室に引っ込んだ。避けていたのか、関わり方がわからなかったのか。たぶん両方。


 「学校のことはお前に任せてるだろ。俺は仕事で疲れてるんだ」。母さんに言ったあの台詞を、わたしは二階から聞いていた。関与を拒む言葉。でもそれは「関わりたくない」ではなく「関わり方がわからない」だったのかもしれない。今、そう思える。


 父さんはわたしの名前を呼ばなかった。「凪沙」とも「おい」とも言わなかった。ただ「おはよう」と言った。それは不器用な人の精一杯かもしれない。


 カケルの父さんは既読だけだった。「帰りたい」というLINEに、言葉を返さなかった。わたしの父さんは「おはよう」と言った。既読よりはましだ。ましだ、というのは低い基準だけれど。


 完璧じゃなくていい。この家族は完璧じゃない。父さんは無関心で、母さんは不器用で、わたしは逃げた。でも今、四人でテーブルを囲もうとしている。それだけで十分だ。



 テーブルに着いた。四人分の食器。目玉焼きとトースト、サラダ。母さんが紅茶を淹れている。父さんはコーヒーの二杯目。陸が食パンにバターを塗っている。


「いただきます」


 四人の声が重なった。ばらばらのタイミング。揃っていない。でも四つ。


 目玉焼きを食べた。黄身が半熟。フォークで割ると、とろりと流れる。トーストに染み込ませて食べる。温かい。塩気がちょうどいい。母さんの目玉焼きは塩が少し多い。昔からそうだった。


 陸がサラダのトマトを避けている。


「陸、トマト残すの」


 母さんが言った。


「トマトは無理。姉ちゃんにあげる」


「わたしもトマト嫌い」


「え、そうだっけ」


「昔から嫌い」


 陸がわたしの皿にトマトを載せようとして、わたしが手で止めた。二人で目が合って、笑った。母さんが呆れた顔で「じゃあわたしが食べるわよ」とトマトを引き取った。


 父さんは何も言わない。新聞を畳んで、目玉焼きを食べている。でも口元が少しだけ緩んでいる。笑っているわけじゃない。でも、険しくもない。


 テレビのワイドショーが天気予報を流している。「来週は全国的に気温が上がり、桜の開花が例年より早まる見込みです」。桜。来週。もうすぐ。


「桜、もうすぐだね」


 母さんが誰にともなく言った。


「花見行きたい」


 陸が言った。


「どこがいい?」


「権現堂でよくない? 近いし」


 権現堂。幸手市の桜の名所。車で三十分くらい。小学生の頃、家族四人で花見に行った。父さんがレジャーシートを広げて、母さんがお弁当を出して、陸とわたしが走り回った。いつの頃からか行かなくなった。中学に上がってから。家族で出かけることが減って、わたしが自室にこもるようになって、金曜の夜に消えるようになって。


「行く?」


 陸がわたしを見た。


「うん」


 口から出た。「行く」。断定形。「行くかも」でも「行けたらね」でもなく。


 母さんが少し驚いた顔をした。それからすぐに、笑顔に変わった。柔らかい笑顔。泣きそうな笑顔。でも泣かなかった。


「じゃあ来週の日曜日ね。お弁当作るから」


 陸が「やったー」と小さくガッツポーズした。13歳。花見で喜ぶ年齢ではないかもしれない。でも陸が喜んでいるのは花見じゃなくて、「四人で出かける」ことだ。


 父さんは何も言わない。でも新聞を置いた。テーブルの上に両手を置いて、コーヒーを飲んでいる。拒否はしていない。「俺は行かない」とも「仕事がある」とも言わなかった。沈黙は、この人なりの同意かもしれない。



 食器を片づけた。


 わたしが皿を流しに運ぶと、母さんが「やってくれるの」と言った。「うん」と答えた。昨夜も食器を洗った。二日連続。母さんはそのことに触れない。ただ「ありがとう」と言う。


 洗い物をしている間、窓の外を見た。キッチンの窓。小さな庭が見える。父さんが昔植えた紫陽花の株。冬の間は枯れ枝だけだったのが、根元から新芽が出始めている。緑色の、小さな芽。


 春が来ている。目に見える形で。


 洗い物を終えて、リビングに戻ると、陸がソファでゲームをしていた。コントローラーを握って、テレビの画面に向かっている。レースゲーム。車が走っている。


「姉ちゃん、やる?」


「下手だよ、わたし」


「いいじゃん、やろうよ」


 コントローラーを受け取った。二人でレースゲームをした。わたしの車は壁にぶつかってばかりで、陸が笑った。「姉ちゃん、そこ曲がるとこ」「え、どこ」「おっそ、もう周回遅れじゃん」。


 下手だった。ゲームなんて何年もやっていない。指が思い通りに動かない。画面の中の車がふらふらする。でも、笑えた。下手で、負けて、笑えた。


 母さんがリビングを通りかかって、わたしと陸がゲームをしている姿を見た。立ち止まった。何秒か見ていた。それから何も言わずに二階に上がっていった。泣きに行ったのかもしれない。嬉しくて。わたしはそう思うことにした。


 父さんは庭に出ていた。窓越しに見える。紫陽花の株の横で、何かをしている。土をいじっている。園芸。父さんは昔、庭いじりが好きだった。中学のわたしが荒れ始めてから、庭にも出なくなった。今日、久しぶりに出ている。わたしが帰ってきたからかどうかは、わからない。たぶん関係ない。たぶん、ただ天気がよかっただけ。


 でも、もしかしたら。少しだけ、関係あるかもしれない。



 午後。自室に戻った。


 ベッドに座って、スマホを開いた。グループLINEに通知。ルカ姉から返信が来ている。今朝の分。


 「ばかだね、寒いのに。でもえらいじゃん。さよなら言えたんだ」


 二つとも当たった。「ばかだね」と「えらいじゃん」。ルカ姉らしい。


 その下にレンからの追加メッセージ。


 「つか、なぎが歌舞伎町卒業って感慨深いわ。おれっちも卒業したけど。うちら全員卒業組じゃん」


 カケルから。


 「全員帰った。……いいと思う」


 カケルの「いいと思う」は、カケルが言える精一杯の祝福だ。短い。でも重い。


 四人がそれぞれの場所にいる。ルカ姉はシェルター。レンはシェアハウス。カケルは世田谷の家。わたしは埼玉の家。歌舞伎町の路上ではなく、屋根のある場所。壁のある場所。ドアのある場所。


 わたしたちは「ファミリー」だった。血の繋がりではなく、歌舞伎町の路上で結ばれた関係。コンビニのおにぎりを分け合って、非常階段に座って空を見上げて、台風の夜にネカフェで「ずっと一緒にいよう」と約束した。


 その約束は、形を変えた。「ずっと一緒にいる」ことは「ずっと同じ場所にいる」ことではなかった。離れても繋がっている。スマホの中に、手紙の中に、カケルの曲の中に。場所じゃなくて、人。レンが言った言葉。居場所は住所じゃない。


 スマホを閉じて、窓の外を見た。


 埼玉の空。


 広い。歌舞伎町の空はビルに挟まれた細い帯だった。ここでは空が全部見える。左右も上も、遮るものがない。住宅街の屋根の上に、三月の空が広がっている。薄い青。雲が少し。風がある。洗濯物が揺れているのが見える。隣の家のベランダ。布団が干してある。


 歌舞伎町の空を見上げるとき、いつも首が痛くなった。ビルの谷間から覗く空は狭くて、首を真上に向けなければ見えなかった。ここでは窓を開けるだけで空がある。座ったまま見える。


 どっちの空が好きかと、あの夜に考えた。あのときは「まだわからない」と答えた。今も、たぶん、わからない。でも一つわかったことがある。どちらの空の下にも、わたしはいた。歌舞伎町のビルの隙間の空も、埼玉の広い空も、同じ空だ。繋がっている。雲は歌舞伎町の上も埼玉の上も同じように流れる。


 窓を開けた。三月の風が入ってくる。冷たいけれど、昨日より柔らかい。土の匂いがかすかにする。隣の家の庭から。春の匂い。


 深呼吸した。肺に空気が入ってくる。冷たくて、清潔な空気。歌舞伎町の空気とは違う。焼き鳥の煙も排水溝の匂いもタバコの残り香もない。ただの空気。でも、ただの空気がこんなに美味しいと思えるのは、別の空気を知っているから。


 ネオンの下で息をすることを覚えた。あの街で。あの光の下で。深い夜の中で、息の仕方を覚えた。今は、朝の光の下で息をしている。どちらの息も、わたしの息だ。



 夕方。


 母さんが買い物から帰ってきた。スーパーの袋を二つ提げている。陸が「何買ってきたの」と聞く。母さんが「カレーの材料」と答えた。昨夜の約束。「明日はカレーにしようか」。明日が今日になった。


 キッチンで母さんがカレーを作り始めた。玉ねぎを刻む音。にんじんの皮を剥く音。肉を炒める音。油が跳ねる音。ジュー、という音。カレールーの箱を開ける音。水を注ぐ音。


 わたしはリビングのソファに座って、その音を聞いていた。キッチンから漏れてくる音。料理の音。生活の音。


 この音を、わたしは九ヶ月間聞いていなかった。自室にこもっていた頃は、階下から聞こえてくる母さんの料理の音が重荷だった。「ご飯できたよ」という声が、「降りてきなさい」という命令に聞こえた。食欲がないのに食べなければならないプレッシャー。


 今は違う。カレーの匂いが階段を上ってきて、わたしの鼻に届く。玉ねぎが飴色になっていく甘い匂い。スパイスの香り。温かい匂い。この匂いを、わたしは嬉しいと思っている。


「手伝おうか」


 キッチンに行って言った。三日連続。母さんが笑った。


「じゃあ、じゃがいも切ってくれる?」


「うん」


 じゃがいもの皮を剥いた。ピーラーで。うまく剥けない。厚く剥きすぎる。母さんが横から「もうちょっと薄く」と言いかけて、やめた。言いかけて、やめた。以前の母さんなら「下手ね」と言っただろう。今は、言わない。わたしのやり方を見ている。口を出さない。白石さんと同じ。


 じゃがいもを切った。不揃い。大きいのと小さいのが混ざっている。母さんが「いい感じ」と言った。嘘だ。全然いい感じじゃない。でもその嘘は優しかった。


 カレーを煮込んでいる間、母さんとキッチンに並んで立っていた。二人で鍋を見ている。グツグツ煮えている。カレーの匂いが部屋中に広がっている。


「母さん」


「うん」


「わたし、学校のこと、考えてる」


 母さんの手が止まった。おたまを持ったまま、わたしを見た。


「学校?」


「うん。戻ろうかなって。まだ、すぐには無理かもしれないけど。白石さんに相談して、先生にも話して、少しずつ」


 母さんが黙った。長い沈黙。鍋がグツグツ言っている。カレーの泡が弾ける音。


 母さんの目が潤んだ。でも泣かなかった。唇を噛んで、おたまを鍋に戻して、エプロンで手を拭いた。


「無理しないでね」


 それだけ。「がんばって」でも「やっと」でも「当然でしょ」でもなく。「無理しないでね」。白石さんと同じ言葉。母さんはいつの間にか、押さない人になっている。


「うん。無理しない」


「困ったら、言ってね。お母さんにも」


 困ったら言う。ルカ姉が作ったファミリーのルール。困ったら言う。見捨てない。ヤバいときだけは嘘つかない。そのルールが、この家でも通用するかもしれない。


「うん。言う」


 母さんが小さく頷いた。わたしも頷いた。二人で鍋のカレーを見た。煮込み中。あと二十分。



 夕食。


 四人でテーブルを囲んだ。カレーライス。白い皿に茶色いカレー。じゃがいもが不揃い。わたしが切ったやつ。


「いただきます」


 四人の声。朝より少しだけ揃っていた。


 カレーを食べた。辛い。市販のルーの辛口。母さんはいつも辛口を選ぶ。陸が「辛い」と言いながらご飯を大盛りにしている。父さんは黙って食べている。口数が少ないのはいつも通り。でも今夜は「少ない」だけで「ない」ではない。


「じゃがいも、大きいな」


 父さんが言った。わたしのじゃがいもに言及した。大きい。切り方が雑だから。


「わたしが切った。下手で」


「いや、大きいほうがうまい」


 父さんがそれだけ言って、じゃがいもにスプーンを入れた。崩れた。ほくほく。


 大きいほうがうまい。フォローなのか本心なのかわからない。でも、父さんがわたしの作ったものについて何か言ったのは初めてだ。「大きいほうがうまい」。それが父さんの精一杯の言葉。


 カケルの父さんは「お前の曲、聴いたぞ」と言った。カケルが照れた。わたしの父さんは「大きいほうがうまい」と言った。わたしも照れた。


 陸がおかわりをした。母さんが「よく食べるね」と笑った。父さんがテレビのリモコンを操作してチャンネルを変えた。ドラマの再放送。誰も文句を言わない。


 食卓の温度が、ほんの少し上がっている。カレーの湯気みたいに、目に見えないけれど確かに。劇的に変わったわけじゃない。父さんはまだ口数が少ない。母さんとの間にはまだ距離がある。学校のことも、トー横のことも、「あなたにも原因がある」のことも、解決していない。何も終わっていない。


 でも、テーブルの上にカレーがあって、四人がスプーンを持っていて、陸がおかわりをして、父さんがじゃがいもを褒めた。


 それだけの夜が、九ヶ月前のわたしにとっては想像できない光景だった。天井を見ながら涙を流していた頃のわたしが見たら、信じないかもしれない。家族四人でカレーを食べている。笑いはないけれど、怒号もない。沈黙はあるけれど、冷たくない。不完全で、ぎこちなくて、ずれている。でも、テーブルの上にある。


 この家は変わっていない。壁紙も、家具の配置も、テレビの場所も。変わったのはわたしだ。以前のわたしは、この家の「正しさ」に押し潰されそうだった。「ちゃんとしなさい」「学校に行きなさい」「普通にしなさい」。正しさの圧力。今は違う。この家の「不完全さ」を受け入れられる。完璧な家族じゃなくていい。わたしも完璧じゃない。不完全同士が、同じテーブルに座っている。それでいい。



 夕食の後。自室。


 布団の中でスマホを開いた。メモ帳。


 書いた。


 「帰ってきた。わたしの部屋。わたしのベッド。天井の罅は三本。変わっていない。でもわたしは変わった。ネオンの下で息をすることを覚えたから。今は、この部屋で、静かに息をしている」


 書き終えて、一度読み返した。それから、もう一つ追加した。


 「不完全な家族と、不完全なわたし。合わせても完璧にはならない。でも、テーブルの上にカレーがある。四人分の皿がある。不揃いなじゃがいもが入っている。それで十分だ」


 スマホを閉じた。


 窓の外を見た。カーテンを少し開ける。埼玉の夜空。星が見える。オリオン座は沈みかけている。三月の終わりになると、冬の星座は西に傾く。代わりに春の星座が東から上ってくる。しし座。おとめ座。冬が終わって、春が来る。星座が入れ替わる。季節が入れ替わる。


 窓を閉めた。暖かい空気が部屋に満ちている。暖房の温かさ。布団の温かさ。この家の温かさ。


 歌舞伎町にいた頃は、温かさが欲しかった。缶コーヒーの温度。コンビニのおにぎりの温度。ルカ姉の声の温かさ。レンの笑い。カケルの音楽。全部が温かかった。でも、夜の路上は冷たかった。冬のコンクリートは冷たかった。温かさと冷たさが同じ場所に同居していた。


 ここでは、全部が温かい。布団も、カレーも、ラベンダーの芳香剤も、母さんの「無理しないでね」も、父さんの「大きいほうがうまい」も、陸の「姉ちゃん」も。全部が温かい。少し退屈かもしれない。歌舞伎町のネオンの刺激はない。路上の緊張感もない。でも、退屈でいられることは贅沢だ。安全でいられることは贅沢だ。


 目を閉じた。


 来週は学校のことを考えよう。白石さんに相談する。横山先生という新しい担任に会う。別室登校。少しずつ。母さんが言った。白石さんが言った。ルカ姉が手紙に書いた。「怖いだろうけど、あんたならできる」。


 怖い。学校は怖い。教室は怖い。いじめの記憶がまだある。廊下を歩くだけで動悸がするかもしれない。


 でも、怖いことを何度もやった。鶴見から逃げた。灯台のドアを開けた。母さんに電話した。歌舞伎町にさよならを言った。全部怖かった。全部やった。


 怖さには慣れない。でも「怖くても動ける」ことを、わたしは知っている。


 眠りに落ちていく。布団が温かい。空気が穏やか。天井の罅は三本。明日の朝も三本。わたしは割れない。もう割れない。


 罅は増えなかった。わたしは帰ってきた。ここに。わたしの場所に。不完全で、ぎこちなくて、まだ少し痛い場所。でも、わたしの場所。


 春が来る。桜が咲く。来週、権現堂に行く。四人で。花見をする。お弁当を食べる。普通の日曜日を過ごす。


 普通の日曜日。


 それが、いちばん遠くて、いちばん近い場所だった。

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