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第38話 : さよなら歌舞伎町

第38話 : さよなら歌舞伎町


 改札を出た瞬間、匂いが来た。


 焼き鳥の煙。排水溝の湿った空気。すれ違う人の香水。タバコの残り香。全部が混ざった、一つの大きな匂い。去年の六月に初めてここに来たとき、最初に感じたのもこの匂いだった。九ヶ月経っても変わっていない。歌舞伎町は、いつもこの匂いで迎えてくれる。


 三月上旬。金曜日の夜。


 新宿駅東口。改札を抜けて地上に出ると、靖国通りの向こうにネオンが見える。赤、青、ピンク、金。ビルの壁面を覆う光の洪水。まるで海底から見上げた水面みたいに、光が揺れている。去年の六月は、あの光に吸い込まれるようにここに来た。今日は違う。今日は、さよならを言いに来た。


 わたしはパーカーにジーンズという格好で来ている。去年の六月と同じ服装。リュックを背負っている。中身は財布とスマホと充電器。それだけ。泊まる荷物は入れていない。今夜は始発を待たない。終電で帰る。


 これが「トー横の住人」としての最後の夜になることを、わたし自身がわかっている。



 靖国通りを渡る。信号が青に変わる。横断歩道。去年の六月、ここを渡ったとき、わたしは三週間ぶりに外に出た少女だった。めまいがした。人波の圧力に押し潰されそうだった。今は平気。新宿の人混みは、もう怖くない。怖くないということが、少し寂しい。怖かった頃の自分を置いていく気がする。


 一番街のアーチをくぐる。歌舞伎町の入口。「歌舞伎町一番街」と書かれたアーチ。何度くぐったか数えていない。最初は恐る恐るだった。三回目からは足が勝手に向かった。今日が最後。


 通りを歩く。居酒屋の客引き。ホストの呼び込み。外国人観光客がカメラを構えている。酔った会社員がふらふらしている。金曜の夜の歌舞伎町は、いつも通りだ。わたしがいなくても、この街は回っている。当たり前だ。この街はわたしのために存在していたわけじゃない。


 東宝ビルが見えた。ゴジラ像。見上げる。あの日も見上げた。SNSで見たのと同じ景色だと思った。九ヶ月前。ゴジラ像は何も変わっていない。ビルの壁面の広告は変わっている。映画のポスターが入れ替わっている。季節が変わっている。でもゴジラ像は同じ顔で、同じ方向を向いている。


 最初にここに来たとき、わたしは「逃げ場」を探していた。居場所がないことを確かめに来たのかもしれない、と思った。結果的に、居場所を見つけた。そして失った。そして、卒業しようとしている。



 シネシティ広場の前を通る。フェンスはまだある。警備員の姿もある。かつてここにたくさんの子たちがいた。トー横キッズと呼ばれた子たち。今はフェンスの内側に入れない。子たちは散った。見えないところに。別のビルの隙間に。別の路地裏に。別の街に。あるいは、帰った。


 わたしのように帰れた子は、どれくらいいるんだろう。


 帰れない子がいる。ルカ姉には帰る家がなかった。ミキはまだどこかにいる。名前を知らない子たちが、今夜もこの街のどこかにいる。ネカフェで眠る子。路上で座っている子。コンビニの前で缶コーヒーを握っている子。九ヶ月前のわたしと同じ格好で。


 わたしは帰る。帰れる。その差は何だろう。能力じゃない。努力でもない。運だ。たぶん、ほとんどが運だ。母さんがいたこと。陸がいたこと。ルカ姉に出会えたこと。レンに警告してもらえたこと。カケルが調べてくれたこと。白石さんの名刺を拾ったこと。全部が「たまたま」で、全部が繋がっている。


 運のよかったわたしが帰って、運の悪かった子がここに残る。それは公平じゃない。でも、公平じゃないことを嘆いても、誰も帰れない。わたしにできるのは、帰ること。そして、帰った先で、何かをすること。何を、はまだわからない。でも、何もしないよりはいい。



 歌舞伎町タワーの裏手に回った。


 ローソンの前。


 ここだ。ルカ姉が「もうちょっと奥。タワーの裏のローソンの前。あそこのほうが安全だから」と言った場所。わたしが初めて「なぎ」になった場所。


 ローソンの蛍光灯が白く光っている。自動ドアが開閉する。客が出入りする。コンビニの匂い。肉まんとコーヒーと、温められた弁当の匂い。あの夜、ルカ姉がここでわたしを待っていた。「あ、さっきの子。来たんだ」と手を上げた。レンが「新入りじゃーん」とテンション高く話しかけてきた。カケルがイヤホンを片耳外して「……どうも」と言った。


 今は誰もいない。わたしが知っている子は、誰もいない。ローソンの前に座っているのは、知らない若者が二人。スマホを見ている。目が合った。向こうは一瞬わたしを見て、すぐにスマホに視線を戻した。わたしは「知らない人」だ。この場所にとって、もう。


 通り過ぎた。ローソンの光が背中に当たる。振り返らない。振り返ったら、座りたくなるかもしれない。



 路地裏に入る。ビルとビルの間の細い道。非常階段。あの非常階段。三階の踊り場。カケルとわたしが二人で座った場所。カケルがスピーカーを置いて「聴いて」と言った場所。歌舞伎町の環境音をサンプリングした曲が流れた場所。


 階段を上った。金属の手すりが冷たい。三月だけど、夜はまだ冬の温度。二階。三階。踊り場。


 座った。


 コンクリートの段が固い。尻が冷たい。去年の夏はこの冷たさが気持ちよかった。今はただ冷たい。冬だから。


 スマホを出した。イヤホンをつけた。カケルの曲を再生する。SoundCloudにアップされた「透明の声」。カケルの電子音と、わたしの言葉。テキスト読み上げの合成音声が、わたしのメモ帳の言葉を歌っている。「透明人間には影がない」。「コンクリートの隙間から空が見えた」。「コンビニのおにぎりは100円の約束」。


 見上げた。ビルとビルの間に、細い夜空が見える。あの夜と同じ。星は見えない。ネオンと街灯が強すぎて。でも飛行機のライトが横切った。赤い点滅。ゆっくりと動いていく。あれに乗っている人は、わたしがここにいることを知らない。知らなくていい。


 カケルの曲が流れている。わたしの言葉が流れている。この場所で生まれた音と言葉が、今はインターネットの中にある。100回も再生されていないけれど、どこかの誰かが聴いてくれている。「救われました」と書いてくれた人がいる。


 わたしたちはここにいた。地べたに座って、空を見上げて、おにぎりを分け合って、音楽を聴いた。それは確かにあった。消えない。この階段がなくなっても、ビルが建て替わっても、歌舞伎町の地図が変わっても、あの夜は消えない。わたしのメモ帳の中に、カケルの曲の中に、記録されている。


 イヤホンを外した。曲を止めた。階段を降りる。



 区役所通りに出た。ネットカフェの看板が光っている。あのネットカフェ。レンとペアシートで向かい合って座った場所。レンが仕切りから顔を出して「何見てんの?」とメモ帳を覗いた場所。「なぎ、これすごいよ」と言ってくれた場所。


 台風の夜、四人で閉じ込められた場所。レンが「おれたち、いつまでここにいるんだろうね」と言って、カケルがイヤホンを外して、ルカ姉が黙って、わたしが「ずっと一緒にいよう」と言った場所。


 ネットカフェの自動ドアが開いた。中から男性が出てきた。知らない人。ネカフェの明かりと温かい空気が一瞬漏れてきて、すぐにドアが閉まった。


 わたしはもうネカフェに泊まらない。今夜は終電で帰る。埼玉の自宅に。母さんが待っている家に。陸がポテチを食べている家に。天井に罅が三本ある部屋に。


 通り過ぎた。



 ドン・キホーテの前。ベンチ。あのベンチ。


 九ヶ月前の六月。金曜の夜。二十二時過ぎ。わたしはここに座っていた。缶コーヒーを握りしめて。「帰ろうかな」と思いながら、帰る場所を思い浮かべると足が動かなかった。


 あのとき、酔った男に声をかけられた。「一人? お兄さんと飲みに行かない?」。固まった。声が出なかった。逃げようとしてリュックの紐がベンチに引っかかった。


 そのとき。


 「ちょっと、その子うちの連れなんですけど」


 ルカ姉の声。黒髪に赤いメッシュ。腕を組んで立っていた。「危ないよ、ここで一人でぼーっとしてたら」。わたしが「ありがとうございます」としか言えなかったとき、ルカ姉は笑って「敬語? いくつ?」と聞いた。


 全部の始まりだった。


 ベンチに座った。あのときと同じベンチ。九ヶ月前より冷たい。三月の夜。冬と春の境目。空気が少しだけ緩んでいる。風に湿り気がある。昨日まではなかった柔らかさ。


 缶コーヒーを買った。ドンキの隣の自動販売機。ブラック。九ヶ月前は微糖だった。味の好みが変わっている。変わったのは味だけじゃない。


 缶コーヒーを両手で包む。温かい。手が温まる。九ヶ月前、缶コーヒーの温度だけが救いだった。暗い中で、唯一の温かいもの。今は、温かいものが他にもある。母さんが作る肉じゃが。灯台の紅茶。陸のココア。カケルの音楽。レンの自撮り。ルカ姉の手紙。全部温かい。缶コーヒー一本に頼らなくてよくなった。


 一口飲んだ。苦い。コーヒーの苦さが喉を通る。温かくて苦い。いい味。


 歌舞伎町を見渡す。金曜の夜。ネオンが全開。人が多い。客引きの声。カラオケの低音。タクシーのクラクション。遠くでサイレンが鳴っている。全部の音が入ってくる。歌舞伎町の夜は、ノイズキャンセリングの逆だ。前にメモ帳に書いた言葉。


 でも今夜は、その音がうるさくない。うるさいはずなのに、懐かしい。耳が覚えている音。身体が覚えている振動。この街の音は、わたしの九ヶ月間のBGMだった。



 立ち上がった。缶コーヒーを飲み干して、ゴミ箱に捨てた。


 歌舞伎町を歩く。もう一周。最後の一周。初めて来た日と同じルート。東口から一番街、東宝ビル、シネシティ広場、タワー裏、ローソン、路地裏、非常階段、ネカフェ、ドンキ。全部の場所を通った。全部の場所に記憶がある。


 楽しかったこと。怖かったこと。温かかったこと。危なかったこと。全部が混ざっている。この街は一つの色では塗れない。「危ない街」でもない。「楽しい街」でもない。「救いの場所」でもない。全部であり、どれでもない。


 歌舞伎町は、わたしにとって「救い」であり「危険」であり「学校」であり「家」だった。一つの場所にこんなに多くの意味を詰め込めることを、わたしは知らなかった。


 ルカ姉に出会った。レンに笑い方を教わった。カケルに音楽を聴かせてもらった。白石さんの名刺を拾った。鶴見に怖い目に遭わされた。路地裏を走った。ルカ姉が倒れるのを見た。助けを求めることを覚えた。母さんに電話をかけた。全部、この街で起きた。この街がなければ、何も起きなかった。


 この街がなければ——わたしは自室の天井を見たまま、罅が四本になるのを待っていたかもしれない。


 歌舞伎町は、わたしを壊しかけた。歌舞伎町は、わたしを救った。両方が本当だ。どちらか一方じゃない。



 新宿駅に向かう。一番街のアーチをくぐって、靖国通りを渡る。横断歩道。信号が青。渡る。


 歩きながら、メモ帳に書いた言葉を思い出す。最初のメモは「この家の天井には罅が入っている。三本」。トー横で書いた最初のメモは「コンクリートの隙間から、空が見えた」。最後に書いたのは「帰る場所がある。大事な人がいる。それは、当たり前のことじゃなかった」。


 全部のメモが、ここから始まった。ネオンの下で書いた言葉たち。スマホの画面の光だけを頼りに、指で打った言葉たち。あの言葉がなかったら、カケルの曲は生まれなかった。「救われました」というコメントもなかった。レンが「すごい」と言ってくれることもなかった。ルカ姉が「作家になれよ」と言うこともなかった。


 書くことは、ネオンの下で始まった。息をすることも、ネオンの下で覚えた。


 駅が見えた。新宿駅東口。人が吸い込まれていく。わたしもその流れに入る。改札の前で立ち止まる。


 振り返った。


 歌舞伎町の灯りが見える。一番街のアーチ。その向こうに広がるネオンの海。赤、青、ピンク、金。九ヶ月前と同じ色。同じ光。でも見え方が違う。あの日は光が手招きしていた。わたしを呼んでいた。今は——光っているだけだ。呼んではいない。ただ、そこにある。


 ネオンが滲んで見えた。涙じゃない。三月の空気に含まれた水分。春が近い証拠。冬の乾いた空気が終わって、湿り気を帯びた風が吹いている。その湿度がネオンの輪郭をぼかしている。


 匂いがする。焼き鳥と排水溝と香水とタバコ。わたしの「ネオンの匂い」。九ヶ月間、金曜の夜に嗅いだ匂い。もう嗅がなくなるかもしれない。いや、また来ることはあるだろう。でもそのときはもう「住人」じゃない。「通った人」として来る。


 さよなら、歌舞伎町。


 声には出さなかった。心の中で言った。声に出したら、声が街に残ってしまう気がした。わたしの声は、もうこの街に置いていかない。持って帰る。


 さよなら、なぎ。


 「なぎ」はここで生まれた名前だ。ルカ姉がくれた名前。レンが呼んでくれた名前。カケルが曲につけてくれた名前。「なぎ」はわたしの一部だ。凪沙になくて、なぎにあったもの。喋れること。笑えること。透明じゃないこと。それは「なぎ」が教えてくれた。


 でも、もう「なぎ」だけじゃなくていい。「凪沙」でいい。瀬川凪沙。母さんがつけてくれた名前。「凪いだ砂浜」。穏やかな場所にいてほしいと願ってつけた名前。穏やかじゃない場所をたくさん歩いた。でもそのおかげで、穏やかな場所の意味がわかった。


 「なぎ」を忘れたわけじゃない。「なぎ」はわたしの中にいる。ネオンの下で息をすることを教えてくれた、もう一人のわたし。制服を着た凪沙と、地雷系メイクのなぎと、レンに教わったナチュラルメイクの凪沙。全部わたしだ。どれか一つじゃない。全部を持って、帰る。


 改札を通った。ICカードをタッチする。ピッ、という電子音。日常の音。改札を抜けて、ホームに向かう。


 電車が来た。終電の一本前。まだ余裕がある。乗り込む。座席に座る。窓際。ガラスに額を押しつける。冷たい。三月の夜のガラス。去年の冬、泣いた後の顔を冷やしたのと同じ冷たさ。


 電車が動き出す。ホームが流れていく。新宿駅が遠ざかる。地下に潜る。暗くなった車窓に、わたしの顔が映る。泣いていない。目が赤くない。表情は穏やかだ。九ヶ月前、この電車に乗ったとき、目の下にクマがあって、頬がこけていて、「どこに行くのかもわからない」という顔をしていた。


 今は、行き先がわかっている。


 電車が地上に出る。郊外の風景。住宅街の灯り。窓の向こうに家が並んでいる。どの家にも窓がある。窓から灯りが漏れている。誰かが夕飯を作っている。誰かがテレビを見ている。誰かが「おかえり」と言っている。


 わたしの家にも灯りがついているだろう。母さんがリビングで何かしている。陸が自分の部屋にいる。父さんは遅いかもしれない。遅くても、靴は玄関にある。あの家に、四人分の靴がある。わたしの靴も含めて。


 スマホを開いた。グループLINEに打った。


 「歌舞伎町に行ってきた。最後の夜。さよなら言ってきた」


 送信。既読はまだつかない。ルカ姉は門限後。カケルは制作中。レンは夜更かししているだろうけれど、返事は明日かもしれない。


 でもいい。届いている。わたしの言葉は、四人の画面に届いている。読んでくれる。いつか。


 スマホを閉じた。窓の外。住宅街の灯り。暗い空。星が、ほんの少しだけ見える。新宿の上空では見えなかった星。郊外に出ると見え始める。埼玉に近づくにつれて、増えていく。


 歌舞伎町のネオンは強い。強すぎて星を消す。でもネオンがない場所には、星がある。どちらかが正しいわけじゃない。ネオンの光も、星の光も、同じ光だ。照らすものが違うだけ。ネオンは街を照らす。星は空を照らす。わたしは両方の下にいた。


 電車が最寄り駅に着いた。降りる。改札を通る。駅から自宅まで歩く。


 三月の夜。空気がほんの少しだけ、昨日より柔らかい。鼻の奥に、かすかに土の匂いがする。春が地面の下で動き始めている。見えないけれど、もうすぐ出てくる。桜の蕾がどこかで膨らんでいる。


 家が見える。リビングの灯りがついている。母さんがいる。


 玄関のドアに手をかけた。冷たい金属。鍵は持っている。回す。ドアが開く。


 「ただいま」


 声が出た。小さい声。でも聞こえるくらいの声。


 リビングから母さんの声が返ってきた。


「おかえり」


 靴を脱いだ。ラベンダーの芳香剤。この家の匂い。歌舞伎町の匂いとは違う。母さんの料理の匂いでもない。ただの芳香剤。でもこれが「帰ってきた」の匂いだ。お守りのような匂い。嗅いだ瞬間、身体の力が抜ける。


 リビングに入る。母さんがソファに座っている。テレビがついている。わたしの顔を見て、「遅かったね」と言った。心配の「遅かったね」じゃない。いつもの「遅かったね」。普通の。日常の。


「ちょっと、新宿に寄ってた」


「そう。ご飯は?」


「食べてない」


「冷蔵庫に肉じゃがの残りあるよ」


「また肉じゃが?」


 母さんが笑った。「好きでしょ」。わたしも笑った。「好きだけど、さすがに三日連続は」。母さんが「じゃあ明日はカレーにしようか」。「うん。カレーがいい」。


 冷蔵庫から肉じゃがのタッパーを出して、レンジで温めた。二分。ブーンという機械の音。ピピピという完了音。温かい肉じゃがをテーブルに置いて、箸を取って、食べた。


 甘い。温かい。母さんの味。何回食べても同じ味。変わらない味。


 母さんがお茶を淹れてくれた。テーブルの向かいに座って、わたしが食べるのを見ている。何も言わない。ただ見ている。わたしが食べる姿を見ることが、母さんにとっての安心なのかもしれない。


 食べ終えた。


「ごちそうさま」


「おそまつさま」


 食器を洗おうとしたら、母さんが「いいよ、わたしがやるから」と言った。わたしは「わたしがやる」と答えた。母さんが一瞬止まって、「じゃあお願い」と座り直した。


 食器を洗った。水の音。スポンジのきゅっきゅ。母さんと同じ手つき。わたしの手は母さんの手に似ている。指が長い。爪の形が同じ。


 洗い終えて、自室に上がった。


「おやすみ、母さん」


「おやすみ。凪沙」


 名前を呼んでくれた。「凪沙」。母さんがつけた名前。凪いだ砂浜。穏やかな場所。


 部屋に入る。ドアを閉める。ベッドに座る。天井。罅。三本。


 スマホを開いた。グループLINEに通知。レンから。


 「えっ、マジで? さよならっていうかまた行くっしょ笑」


 その下にカケルから。


 「……おつかれ」


 ルカ姉からはまだない。明日の朝だろう。でも読んだら、きっとこう言う。「えらいじゃん」か「ばかだね、寒いのに」。どっちかだ。どっちでもいい。


 メモ帳を開いた。書いた。


 「さよなら、歌舞伎町。さよなら、なぎ。わたしは凪沙に戻る。でも "なぎ" を忘れたわけじゃない。なぎはわたしの一部だ。ネオンの下で息をすることを教えてくれた、もう一人のわたし。今は、この部屋で、静かに息をしている」


 書き終えて、スマホを閉じた。


 窓の外。埼玉の夜空。星が見える。歌舞伎町では見えなかった星。オリオン座。三つ並んだベルト。あの星座は冬の間ずっとそこにあった。わたしが歌舞伎町にいた間も、この空にあった。見えなかっただけで。


 布団に入った。母さんが干してくれた布団。太陽の匂いが残っている。温かい。


 目を閉じる。


 明日はどこにも行かない。この家にいる。日曜日。母さんが朝ごはんを作る。陸がゲームをする。父さんがリビングで新聞を読む。わたしは、何をしよう。わからない。でもいい。わからなくても。家にいることが、今のわたしにとっての「何か」だ。


 歌舞伎町にさよならを言った。第三幕が終わった——そんな言い方はしない。わたしの日々に幕はない。続いているだけだ。昨日の続きが今日で、今日の続きが明日で。ネオンの下の日々が、この部屋の日々に続いている。全部が繋がっている。切れ目はない。


 ただ、一つだけ確かなことがある。


 わたしは、明日の朝、この部屋で目を覚ます。天井の罅を数える。三本。降りていく。母さんが「おはよう」と言う。陸が「おはよう」と言う。わたしが「おはよう」と返す。


 帰ってきた。ここに。わたしの場所に。

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