第37話 : ルカ姉の手紙
第37話 : ルカ姉の手紙
郵便受けが、がたんと鳴った。
二月下旬。土曜日の午前十一時。わたしは玄関の靴箱の上に座って靴紐を結んでいた。灯台に行く日。玄関には母さんの靴と陸の靴と父さんの革靴が並んでいる。靴箱の横に芳香剤が置いてある。ラベンダーの匂い。母さんが好きな匂い。歌舞伎町の匂いとは正反対の、家の匂い。週に一回に減らしている。前は火曜と水曜の二回だったけれど、自宅にいる日が増えたから。白石さんは「いいよ、自分のペースで」と言ってくれた。
郵便受けを開けた。チラシが三枚。水道工事のお知らせ。ピザの割引クーポン。その下に、白い封筒が一通。
手に取った瞬間、空気が変わった。
封筒は市販のもの。白い。長形三号。宛先が手書きで書いてある。「瀬川凪沙さま」。丁寧な字。でも「さま」のところだけ少し崩れている。最後まで丁寧に書こうとして、力が抜けたような字。差出人の名前はない。裏を返しても、白紙。住所もない。
でもわかった。この字を、わたしは知っている。
ネカフェのペアシートで、ルカ姉がレシートの裏に落書きをしていた夜。「ルカ」と書いて見せてくれた。「ル」の払いが独特で、「カ」の一画目が長い。あのときの字だ。
ルカ姉からの手紙。
靴紐を結ぶ手が止まった。玄関に座ったまま、封筒を見つめている。白い封筒。手書きの字。差出人なし。ルカ姉はシェルターにいる。住所は教えられない。でも手紙は出せる。白石さんが「転送できるから」と言っていた。白石さん経由で届いた手紙。
指で封を開けた。丁寧に。破りたくなかった。中から便箋が二枚出てきた。大学ノートから破いたページ。罫線が入っている。青いボールペンの字。ルカ姉の字。
玄関で読むのはやめた。靴を脱いで、自室に戻った。ドアを閉めて、ベッドに座る。窓からの光が便箋を照らす。二月の光。白い。穏やかな光。
読んだ。ルカ姉の字が、声みたいに聞こえてきた。紙の上の文字なのに、耳元で囁かれているような気がした。
なぎへ
手紙なんて書くの何年ぶりかわかんない。小学校のとき友達に書いたのが最後かも。字が汚くてごめん。
元気にしてる? おれは元気。元気って書くと嘘っぽいけど、本当に元気。前よりは。
シェルターに入って一ヶ月ちょっと経った。白石さんの紹介で入ったとこ。ルールはある。門限は十時。スマホは夜十一時まで。共有スペースの掃除当番がある。前のシェルターでは規則が無理で逃げたけど、今回は逃げないって決めた。逃げたら、次はどこにも行く場所がないから。
ご飯は三食出る。朝はパンと卵とサラダ。昼はお弁当。夜はみんなで食べる。おかずは日替わり。この前はカレーだった。普通のカレー。でもちゃんとした食器で、テーブルに座って、温かいまま食べるカレーは、コンビニの冷たいカレーパンとは全然違った。
毎日シャワー浴びてる。当たり前のことだけど、当たり前じゃなかったから。髪がサラサラになった。ちゃんとシャンプーして、ちゃんと乾かすと、こんなに違うんだって思った。歌舞伎町にいた頃は、ネカフェのシャワーで三分で済ませてた。今は十分くらいかけてる。
カウンセラーの人と週に一回話してる。最初は何話せばいいかわかんなかったけど、三回目くらいから話せるようになった。父親のこととか。トー横のこととか。ODのこととか。話すと少し楽になる。なぎが灯台で白石さんに話したとき、こんな感じだったのかなって思った。
高卒認定の勉強始めた。数学がマジで無理。中学の範囲からやり直してる。因数分解ってなに。あと英語もやばい。でも国語と社会は意外といける。国語はなぎの影響かも。あんたのメモ帳読んでたら、文章って面白いなって思うようになった。
猫カフェで働きたいっていう夢、覚えてる? まだ諦めてない。でもまずは接客のバイトから始めようと思ってる。コンビニとか、ファミレスとか。履歴書に書けることがないから、シェルターの人に手伝ってもらって書き方を練習してる。「特技」の欄が困る。何もない。でもシェルターの人が「なんでもいいから書いてみて」って言うから、「人の話を聞くこと」って書いた。笑わないでよ。
ここからは、ちょっと真面目な話。
なぎがいなかったら、わたしは白石さんの名刺を受け取れなかった。
覚えてるでしょ。あの夜。白石さんが夜回りで来たとき、おれは「いらない」って断った。レンも無視した。カケルは気づいてなかった。でもなぎは受け取った。しかも二枚持ってた。拾ったやつと、受け取ったやつ。何それ、用心深いんだかお人好しなんだか。
で、おれが病院にいたとき、なぎがその名刺を見せてくれた。「白石さんに連絡してみない?」って。あのときのなぎの顔、覚えてる。怖がってた。おれに嫌がられるかもって。でも言った。言ってくれた。
あの名刺がなかったら、おれは退院した後、また歌舞伎町に戻ってた。また路上で寝て、また同じことを繰り返してた。もしかしたら、今度はもっとひどいことになってたかもしれない。
なぎは自分じゃ気づいてないかもしれないけど、あんたがおれを助けたんだよ。
名刺を渡すだけ。それだけのことかもしれない。でもそれが全部だった。おれにとっては。あの一枚の名刺が、おれの人生を変えた。大げさじゃなくて、本当に。
ルカ姉って呼んでくれて、ファミリーって言ってくれて、「謝らないで」って言ってくれて。おれが泣きそうなとき、黙って隣にいてくれて。おれの傷を見ても、何も言わないでくれて。
なぎは強い子だよ。おれより、ずっと。
最後に一つだけ。
なぎ、帰りな。家に。学校に。
怖いだろうけど、あんたならできる。だって、おれより、ずっと強いから。
おれは帰る場所がなかったから、新しく作るしかなかった。でもなぎには帰る場所がある。お母さんがいる。弟くんがいる。帰れる家がある。
帰る場所があるって、すごいことなんだよ。おれはそれがなかったから、わかる。
帰りな。怖くてもいいから。
また会おうね。今度は、歌舞伎町じゃないとこで。
ルカ
読み終わった。
便箋を膝の上に置いた。青いボールペンの字がにじんでいる。にじんでいるのは、ルカ姉が泣きながら書いたからか。わたしの涙が落ちたからか。たぶん両方。
泣いていた。いつから泣いていたのかわからない。「なぎがいなかったら」のあたりからか。「あんたがおれを助けた」のところからか。最初からかもしれない。「元気にしてる?」の一行で、もう目が熱くなっていた。
わたしが、ルカ姉を助けた。
名刺を渡しただけ。拾った名刺と、受け取った名刺。二枚の白い紙切れ。それをルカ姉の手に載せた。それだけ。それだけのことを、ルカ姉は「全部だった」と書いている。
わたしは何もしていないと思っていた。ルカ姉がODで倒れたとき、何もできなかった。路地裏で手を握ることしかできなかった。救急車を呼んだのはカケルだった。わたしはただ泣いていた。何もできなかった。そう思っていた。
でも名刺を渡した。それは「何か」だった。小さな「何か」。レンが言ったのと同じだ。「なぎが動かなかったら、白石さんにもカケルのデータは届かなかった」。小さなことの積み重ね。名刺を拾う。受け取る。渡す。ドアを開ける。話す。データを渡す。一つ一つは小さい。でも全部が繋がっている。
ルカ姉が今シェルターにいるのは、その連鎖の結果だ。カレーを温かいまま食べているのは。髪をサラサラにしているのは。高卒認定の勉強をしているのは。猫カフェの夢を諦めていないのは。全部が、あの名刺から始まっている。
わたしから始まっている。
その事実が、胸の奥で温かく広がった。灯台の紅茶を飲んだときみたいに、内側からじわりと温まる感覚。罪悪感の塊が溶けていく代わりに、別の何かが入ってくる。名前がつかない。誇りとは違う。達成感でもない。ただ、自分がここにいてよかったと思える感覚。自分の存在に、意味があったかもしれないと思える感覚。
透明じゃなかった。少なくとも、ルカ姉にとっては。わたしはそこにいた。名刺を持っていた。声をかけた。それだけで、誰かの人生が変わった。
便箋を何度も読み返した。三回。四回。最後の一行に目が止まる。
「なぎ、帰りな。家に。学校に。怖いだろうけど、あんたならできる。だって、おれより、ずっと強いから」
強い。わたしが強い。ルカ姉がそう言っている。病院のベッドで「なぎ、あんた変わったね」と言ってくれた人が。トー横で一番最初にわたしを守ってくれた人が。酔った男からわたしを助けてくれた人が。「あんたは強い」と書いている。
わたしは強くない。そう反射的に思った。中学でいじめられて透明になった。高校で排除されて逃げた。歌舞伎町に逃げた。家から逃げた。ずっと逃げていた。強い人は逃げない。
でも——ルカ姉も逃げた。シェルターから逃げた。家から逃げた。歌舞伎町に逃げた。ODをした。それでも今、ルカ姉は「逃げない」と決めた。シェルターのルールに従うと決めた。勉強を始めた。履歴書を書く練習をしている。
逃げた人が、逃げなくなること。それが「強さ」なのかもしれない。弱さを知っている人だけが持てる強さ。痛いのに立っている人の強さ。ルカ姉にメモ帳の言葉を見せたとき、わたしが書いた文。「強い人は、ぜんぶの痛みを知ってる人のことじゃない。痛いのに立ってる人のことだ」。あの言葉が、今、わたし自身に返ってきている。
ルカ姉は「おれよりずっと強い」と書いた。違う。ルカ姉のほうが強い。帰る場所がないところから、自分で場所を作っている。わたしには帰る場所がある。あるのに帰れなかった。帰る場所がある人間のほうが弱いのかもしれない。「ある」のに手を伸ばせないことのほうが、「ない」から作ることより、ずるいのかもしれない。
でも。
ルカ姉が「帰りな」と言っている。「あんたならできる」と言っている。ルカ姉の言葉は、いつも本当のことだった。「仮の話」さえ本当だった。「あんたならできる」も、本当なのかもしれない。
試してみてもいいのかもしれない。
帰ること。学校に行くこと。怖いまま、やること。カケルが「怖い。でもここにいるのも怖い」と言って帰ったように。怖さのなかで選ぶこと。
便箋を丁寧に折り直した。封筒に戻す。机の引き出しを開けた。
引き出しの中に、白石さんの名刺が入っている。二枚。最初に拾ったものと、受け取ったもの。もう一つ、カケルのUSBメモリ。そしてスマホの通話履歴に、母さんとの七分十二秒。お守りが増えている。名刺とUSBメモリと通話履歴と、今日から——手紙。
ルカ姉の手紙を、名刺の横に入れた。引き出しを閉める。大事なものが集まっている場所。白い名刺。黒いUSBメモリ。白い封筒。色は違うけれど、全部が同じことを言っている。「あなたはここにいていいよ」。
スマホを開いた。メモ帳。書いた。
「手紙は声だ。紙に残る声。電話は消えるけど、手紙は残る。ルカ姉の声が、紙の上で、ずっとわたしに話しかけてくれる。 "帰りな" って。 "あんたならできる" って。何度読んでも消えない声。それが手紙だ」
書き終えて、スマホを閉じた。
ドアをノックする音。
「姉ちゃん」
陸の声。ドアを開けると、陸が立っていた。制服じゃない。休日だから。パーカーにスウェットパンツ。手にはポテチの袋。
「なんか郵便来てたよね。おれ、チラシは捨てたけど、手紙あった?」
「あった」
「手紙? 珍しいね。誰から?」
「大事な人から」
陸が少し目を丸くした。それから笑った。いつもの穏やかな笑顔。13歳。中学一年。わたしが家を出ている間もこの家にいて、母さんの隣にいて、「姉ちゃんは大丈夫だよ」と言い続けてくれた子。
「へえ。彼氏?」
「違う。友達」
「ふーん」
陸がポテチの袋を開けながら、わたしの部屋を覗き込む。泣いた後の顔を見られたくなかったけれど、もう遅い。陸はわたしの目が赤いことに気づいている。でも何も言わない。踏み込まない。いつもの陸。
「姉ちゃん、泣いた?」
言った。踏み込んだ。いつもと違う。
「うん。ちょっとだけ」
「悲しいやつ?」
「ううん。嬉しいやつ」
陸が「そっか」と言った。ルカ姉の「そっか」と同じトーン。追及しない二文字。でも陸の「そっか」には、安堵が混じっている。姉が泣いた理由が悲しみじゃなくてよかった、という安堵。
「ポテチ食べる?」
「食べる」
陸がわたしの部屋に入ってきて、床に座った。ポテチの袋をわたしに差し出す。うすしお味。わたしはベッドの上から手を伸ばして、一枚取った。塩味。薄い。でもいい。
二人でポテチを食べた。土曜日の午前中。窓から差し込む光。ポテチのぱりぱりという音。陸がスマホでゲームをしている。わたしはベッドに座って天井を見ている。罅。三本。
こういう時間が、昔はあった。小学生の頃。日曜の午後に、二人でお菓子を食べながらテレビを見ていた。母さんが「ご飯前にお菓子食べないで」と怒る。父さんがリビングで新聞を読んでいる。普通の週末。普通の家族。それがいつの間にか壊れて、わたしは天井を見るようになって、家を出て、歌舞伎町に行って、九ヶ月が経って——今、また陸とポテチを食べている。
壊れる前と同じじゃない。同じには戻れない。でも、新しい形の「一緒にいる」がある。
「姉ちゃん」
「うん」
「灯台って、どんなとこ?」
驚いた。陸が灯台のことを聞いている。わたしが灯台に通っていることを、陸は知っている。母さん経由で聞いたのだろう。でも今まで直接聞いてこなかった。
「おにぎりがあるとこ」
「おにぎり?」
「白石さんって人が握ってくれるの。塩むすび。具なし」
「具なし? それ美味しいの?」
「美味しいよ。手の形がわかるおにぎり」
陸が不思議そうな顔をした。「手の形がわかるおにぎり」。コンビニのおにぎりしか知らない子には伝わらないかもしれない。でもいつか、陸にもわかる日が来るかもしれない。誰かが自分のために握ってくれた食べ物の味を。
「いい人? その白石さんって」
「うん。いい人。押さない人」
「押さない?」
「うん。 "こうしなさい" って言わない。 "こうしてみない?" って聞く人」
陸が「ふーん」と言ってポテチを口に入れた。「押さない人」。陸もそうだ。「大丈夫?」とは聞くけれど、「学校行きなよ」とは言わない。「ごめんね」には「姉ちゃんが謝ることじゃない」と返す。13歳で、押さないことを知っている。誰に教わったわけでもなく。
この子もまた、わたしの「大事な人」だ。
わたしには帰る場所がある。大事な人がいる。母さんがいる。陸がいる。ルカ姉が手紙をくれる。カケルが音楽を作ってくれる。レンが自撮りを送ってくれる。白石さんが紅茶を淹れてくれる。
それは、当たり前のことじゃなかった。ルカ姉は「帰る場所があるってすごいこと」と書いた。ルカ姉にはそれがなかった。だからわかる。持っていない人だけが、持っていることの重さを知っている。わたしは持っている。持っているのに、手を伸ばせなかった。
でも今は、手を伸ばしている。ポテチの袋に手を伸ばすように。陸に「ありがとね」と言えるように。母さんに「ただいま」と言えるように。少しずつ。少しずつ手を伸ばしている。
「姉ちゃん、今日出かけるん?」
「灯台に行ってくる。夕方には帰る」
「夕飯は?」
「一緒に食べる」
陸が「おっけ」と言った。軽い返事。でもその「おっけ」の中に、「帰ってくるんだね」という確認が入っている。帰ってくる。うん、帰ってくる。ここに。この家に。この部屋に。罅が三本ある天井の下に。
「じゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃい」
陸がポテチの袋を抱えたまま、手を振った。小さく。片手で。カケルがあの夜、階段の途中で振った手と重なった。別れの手じゃない。「また会う」の手。
靴を履いた。今度はちゃんと紐を結べた。さっきは手紙を見つけて手が止まったけれど、今は止まらない。
玄関のドアを開けた。二月の空気。冷たいけれど、先月よりほんの少し柔らかい。春が近い。地面の下で何かが動いている。
駅に向かって歩く。リュックの中に、スマホと財布と鍵。引き出しの中に、名刺とUSBメモリと手紙。全部がわたしを支えている。持ち歩くものと、しまっておくもの。どちらも同じくらい大事。
電車に乗る。新宿に向かう。灯台に向かう。白石さんに会いに行く。ルカ姉の手紙のことを話そう。鶴見のニュースの続きも聞こう。それから、学校のことも少し相談したい。別室登校の準備。横山先生との面談の日程。少しずつ。少しずつ進む。
窓の外。住宅街が流れていく。家の窓。車。街路樹。二月の枝にはまだ葉がないけれど、よく見ると、小さな芽が膨らみ始めている。肉眼ではほとんどわからない。でも確かに、そこにある。
春が来る。桜が咲く。わたしがこの街を出て歌舞伎町に向かった去年の春から、もうすぐ一年が経つ。一年前、わたしは「リセットボタン」を押したつもりだった。押しても出てきたのは同じ画面だった。
今度は違う。リセットじゃない。続きだ。壊れたところから、続ける。ルカ姉が書いた。「帰りな」。カケルが言った。「帰れ」。母さんが言った。「待つから」。白石さんが言った。「無理しない範囲で」。全部の声が、同じ方向を指している。
帰る場所がある。大事な人がいる。紙の上の声がある。
それは、当たり前のことじゃなかった。




