第36話 : 鶴見の末路
第36話 : 鶴見の末路
肉じゃがの匂いがする。
階段を降りると、リビングから湯気と一緒にだしの香りが漂ってきた。醤油。みりん。じゃがいもが煮えるときの、ほくほくした匂い。母さんの肉じゃが。わたしが小学生の頃から変わらない味。
二月中旬。水曜日の夕方。
自宅に帰ってきて三日目。まだ完全復帰ではない。灯台に通いながら、週に二、三日は埼玉の家に泊まる生活。母さんには「少しずつ帰る」と電話で伝えてある。あの七分十二秒の電話から十日が経っていた。
リビングに入ると、陸がテーブルで宿題をしていた。数学のノートを広げて、シャーペンを回している。わたしの足音に顔を上げた。
「姉ちゃん、おかえり」
「ただいま」
この「おかえり」と「ただいま」が、まだ少し慣れない。三日前にこの家のドアを開けたとき、母さんが泣いて、わたしも泣いて、陸が「おかえり」と言った。それ以来、帰るたびにこのやりとりを繰り返している。繰り返すたびに、少しだけ自然になっていく。筋肉のリハビリに似ている。使わなかった言葉を、もう一度動かす練習。
母さんはキッチンにいた。エプロン姿。パートから帰ってきて、そのまま夕飯の支度をしている。わたしが来ると振り返って「おかえり」と言った。目が少し赤い。泣いた後かもしれない。わたしが帰ってくるたびに泣いているのかもしれない。でもそのことには触れない。触れなくていい。
「肉じゃが?」
「うん。あと十分くらい」
「手伝おうか」
母さんが一瞬、驚いた顔をした。わたしが「手伝おうか」と言ったことが意外だったのだろう。この家にいた頃、料理を手伝ったことはほとんどなかった。自室にこもって天井を見ているか、スマホを見ているかのどちらかだった。
「じゃあ、お味噌汁のわかめ戻しといてくれる?」
「うん」
乾燥わかめを水に浸す。小さなボウル。水の中でわかめが広がっていく。乾燥した黒い塊が、水を吸って緑色に変わる。膨らむ。元の形に戻っていく。まるでわたしみたいだと思った。干からびていたものが、水を得て、少しずつ元に戻っていく。
父さんは今日も遅い。リビングのテーブルに父さんの分の食器は出ていない。母さんが「お父さんは九時くらい」と言った。つまり三人の夕食。わたしと母さんと陸。父さん抜きの食卓。昔からそうだった。父さんがいる食卓のほうが珍しい。
テーブルに肉じゃがと味噌汁と白米が並んだ。陸が宿題のノートを片づけて、箸を配る。三人分。向かい合って座る。
「いただきます」
三人の声が重なった。小さな声。でも三つ。合唱とは呼べないくらい小さいけれど、一人の声より確かに厚い。
肉じゃがを口に入れた。じゃがいもが崩れる。甘い。温かい。母さんの味。コンビニの弁当とも、灯台のおにぎりとも、ネカフェのカップ麺とも違う。誰かが「わたしのために」作った味。じゃがいもの切り方が不揃いなのは、母さんが急いで作ったからだ。急いだのは、わたしが帰ってくるから。わたしが食べるから。
「おいしい」
口から出た。自然に。
母さんが少し笑った。「よかった」。それだけ。追及しない。「もっと食べなさい」とも「痩せたんじゃない」とも言わない。先週の電話以来、母さんは余計なことを言わなくなった。待つ人になっている。白石さんと同じ。押さない人。
陸が肉じゃがを頬張りながら、スマホで何か見ている。
「陸、ご飯中にスマホはダメでしょ」
母さんが注意する。陸が「ごめん」と言ってスマホをポケットにしまう。普通の食卓の風景。テレビのニュースが小さな音で流れている。天気予報。明日は曇り。気温は七度。二月にしては暖かいらしい。
普通。この食卓は普通だ。完璧じゃないけれど、普通。父さんはいない。母さんとの間にはまだ距離がある。でも肉じゃがは温かいし、味噌汁からわかめの匂いがする。陸がスマホを怒られて「ごめん」と言う。テレビが明日の天気を告げている。この「普通」が、半年前のわたしには手の届かない場所にあった。
夕食の後、自室に上がった。
わたしの部屋。天井の罅は三本。変わっていない。布団は母さんが干してくれたままで、窓際に畳んである。机の上には去年の教科書がまだ積んである。ほこりは拭いてある。母さんが定期的に掃除してくれていたのだろう。
ベッドに座って、スマホを開いた。
グループLINEに通知はない。ルカはシェルターの門限でスマホを触れる時間が限られている。カケルは帰宅してから発言が減った。家にいるときは音楽制作に集中しているのだろう。レンは相変わらずメイク動画の自撮りを送ってくるけれど、今日はまだ来ていない。
SNSを開いた。
特に目的はなかった。タイムラインをスクロールする。ニュース。トレンド。誰かの投稿。何気なく眺めていた。指が止まった。
記事のタイトルが目に入った。
「歌舞伎町周辺で未成年への不適切接触か 30代男性に事情聴取」
心臓が一拍跳ねた。
タップした。記事を開く。短い記事。ネットニュースの三段落くらいの速報。「新宿区歌舞伎町周辺で活動していた30代の男性が、複数の未成年者に対する不適切な接触の疑いで警察から事情聴取を受けていることがわかった。男性は映像制作を名目に若者に接近していたとされ、関係する支援団体からの情報提供がきっかけとなった」。
名前は出ていない。写真もない。でもわかった。「映像制作を名目に」。「支援団体からの情報提供」。鶴見だ。鶴見恭平。いや、本名は亀田隆かもしれない。カケルが調べた名前。どちらの名前で事情聴取を受けているのかはわからない。でも、この記事が指しているのは、あの人だ。
記事を三回読んだ。短い記事なのに、三回読んだ。一回目は事実の確認。二回目は自分の感情の確認。三回目は、何が変わって何が変わっていないかの確認。
鶴見が捕まったわけじゃない。事情聴取。それだけ。逮捕ではない。書類送検ですらない。テレビドラマなら、ここで手錠がかかって、正義が勝って、音楽が流れる。でも現実はそうじゃない。事情聴取の後に何が起きるかは、まだわからない。何事もなく終わるかもしれない。証拠が足りないかもしれない。被害を訴える子がいないかもしれない。
でも、「関係する支援団体からの情報提供がきっかけ」。
白石さんだ。灯台だ。カケルが調べた「亀田隆」の情報。わたしが灯台に持っていったデータ。白石さんが他の団体に共有した情報。警察のユース支援担当に渡した情報。一つ一つは小さかった。名刺一枚。メモ一枚。LINEの一通。それが集まって、網になった。白石さんが言っていた「網」。鶴見が次に動いたときに引っかかる仕組み。その網に、鶴見が引っかかった。
あるいは、鶴見が歌舞伎町以外でやっていた別の件で引っかかったのかもしれない。池袋での報告。もう一か所、別のエリア。白石さんが言っていた「他の団体でも同じ名前が引っかかった」。複数の場所で、同じことをしていた人間。複数の団体が情報を出し合って、一つの像を作った。
わたしの手が震えていない。意外だった。鶴見の名前を見ても、あの夜の恐怖が蘇らない。路地裏を走ったこと。腕を掴まれたこと。「逃げても無駄だよ」というDM。全部覚えている。でも、今は震えない。
震えないのは、「終わった」からではない。終わっていない。事情聴取は始まりであって、終わりではない。鶴見がこの後どうなるかはわからない。でも、少なくとも鶴見の名前は、亀田隆の名前は——関係者の間に広まった。支援団体が知っている。警察が知っている。次に同じことをしようとしたとき、前より早く引っかかる。網の目が細かくなった。
スマホをベッドに置いた。天井を見る。罅。三本。
テレビドラマなら、悪い人は逮捕されて終わりだ。被害者は安堵して泣いて、友達と抱き合って、画面がフェードアウトする。でも現実はそうじゃない。鶴見がいなくなっても、次の鶴見が来る。名前を変えて、場所を変えて、カメラとドキュメンタリーという看板を掲げて。あるいは別の看板を掲げて。善意の仮面を被って。「話を聞きたい」と言って近づいてくる。
歌舞伎町にはまだ、夜の路上にいる子たちがいる。灯台のマリ。ミキ。名前を知らない子たち。その子たちの隣に、次の鶴見が立つ。わたしが逃げられたのは、レンが警告してくれたからだ。カケルが情報を調べてくれたからだ。ルカが最初から「信用するな」と言ってくれたからだ。白石さんが「安全でいること」を最優先にしてくれたからだ。仲間がいたから逃げられた。仲間がいない子は、逃げられないかもしれない。
大事なのは「悪い人を捕まえること」じゃなくて、「弱い自分を守る方法を持つこと」なのかもしれない。名刺を受け取ること。助けてと言うこと。信頼できる大人を見つけること。逃げること。逃げることは負けじゃない。逃げることは、生き延びること。
スマホを取り直した。レンにLINEを送った。
「ニュース見た? 鶴見のこと」
既読がすぐについた。レンは起きている。返信が来た。
「マジで? どれ?」
記事のリンクを送った。レンが読んでいる。「入力中」の表示が出たり消えたりしている。
「やっぱあいつヤバかったんじゃん。マジで」
カケルもグループLINEに入ってきた。
「おれが調べたの合ってた」
カケルの短い文。でもそこに静かな確信がある。カケルが「亀田隆」の名前をネットで調べて、池袋での報告を見つけたこと。あのデータをわたしに渡してくれたこと。わたしが白石さんに渡したこと。繋がっている。全部が繋がっている。
「白石さんたちのおかげだと思う」
わたしが打った。レンが返信する。
「なぎが白石さんに相談したからでしょ」
「わたしが?」
「だって、灯台に行ったの、なぎが最初じゃん。名刺受け取ったのも、ドア開けたのも。なぎが動かなかったら、白石さんにもカケルのデータは届かなかった」
レンの言葉が画面に並んでいる。長い文。レンにしては長い。いつもの軽い口調じゃない。本気の言葉。
わたしが動いたから。名刺を拾ったから。受け取ったから。灯台のドアを開けたから。白石さんに話したから。カケルのデータを渡したから。一つ一つは小さなことだった。大きなことは何もしていない。警察に通報したわけでもない。鶴見に立ち向かったわけでもない。逃げただけだ。助けを求めただけだ。
でも、逃げることが。助けを求めることが。小さなことを一つずつやることが。網の目を一つずつ編むことが。結果として、ここに繋がった。
カケルが追加で送ってきた。
「ミキのことも気になる」
ミキ。鶴見と話しているのを見た子。白石さんが夜回りで声をかけていると言っていた。まだ会えていないと。記事にはミキの名前は出ていない。ミキがどうしているかはわからない。
「白石さんに聞いてみる」
わたしが返した。レンが「頼む」。カケルが「うん」。
グループLINEが静かになった。ルカは入ってきていない。門限後のスマホ制限の時間かもしれない。明日の朝、ルカが読んで何か言うだろう。「やっぱりね」とか、「だから言ったじゃん」とか。ルカは最初から知っていた。鶴見が危ないことを。わたしたちの中で、いちばん早く気づいていた。
スマホを閉じた。
天井を見る。罅は三本。この罅は増えなかった。わたしも割れなかった。鶴見に潰されなかった。ルカは路地裏で倒れたけれど、今はシェルターにいる。レンは通信制で学んでいる。カケルは家に帰った。四人とも、まだここにいる。
ドアをノックする音が聞こえた。
「姉ちゃん」
陸の声。ドアを開けると、陸がマグカップを二つ持って立っていた。ココア。湯気が出ている。
「母さんが作った。姉ちゃんの分も」
「ありがとう」
マグカップを受け取った。温かい。手のひらに温度が伝わる。灯台の紅茶と同じ温度。でも、紅茶じゃなくてココア。母さんが作ったココア。ミルクの甘い匂い。
陸がわたしの部屋に入ってきて、床に座った。自分のココアをすすっている。
「姉ちゃん、なんか最近元気じゃん」
元気。そう見えるのか。自分ではわからない。元気かどうか。でも陸が「元気」と言うなら、前より良くなっているのだろう。陸はずっとわたしを見ていた。天井ばかり見ていたわたしを、スマホに閉じこもっていたわたしを、金曜の夜に消えていくわたしを。この子の目に映るわたしの変化は、たぶん正確だ。
「そう?」
「うん。前は天井ばっか見てたけど、最近はスマホで笑ってる」
スマホで笑ってる。グループLINEを見ているときだ。レンの自撮り。カケルの短い報告。ルカの「数学無理」という愚痴。それを読んで笑っている自分がいる。陸はその顔を見ていた。
「そっか」
「姉ちゃん、友達いるんだね」
友達。陸がそう呼んだ。ファミリー。仲間。居場所。色々な名前で呼んできたけれど、陸の口から出たのは「友達」だった。いちばん普通の言葉。
「うん。いるよ」
「よかった」
陸がココアを飲んでいる。13歳。中学一年。わたしが中学で透明になっていた頃、陸はまだ小学生だった。姉が学校に行かなくなっても、姉が家に帰らなくなっても、「大丈夫?」とLINEをくれた。「姉ちゃんが謝ることじゃない」と言ってくれた。母さんに「姉ちゃんは大丈夫だよ」と言い続けてくれた。
わたしはこの子に「ありがとう」を言っていない。LINEで「ごめんね」は何度も打った。でも「ありがとう」は言っていない。
「陸」
「うん?」
「ありがとね」
陸がココアのマグカップから顔を上げた。少し驚いた顔。それから、照れたように笑った。
「何が?」
「色々。ずっと、心配してくれたでしょ」
「別に。普通のことじゃん」
普通のこと。13歳の弟が姉にかける言葉としては、軽い。でもその「普通」がどれだけ大きかったか。普通に心配してくれること。普通にLINEをくれること。普通に「大丈夫?」と聞いてくれること。わたしの周りから「普通」が消えていた時期に、陸だけが普通でいてくれた。
「普通のことが、すごかったんだよ。わたしにとっては」
陸が黙った。ココアの湯気を見ている。何か言いたそうにして、やめて、マグカップに口をつけた。
「姉ちゃんが帰ってきてくれたから、母さんめっちゃ嬉しそう。毎日肉じゃが作りそうな勢い」
「毎日はやめてほしい」
「だよね。おれもそう思った」
二人で笑った。小さな笑い。でも声に出した笑い。この部屋で声を出して笑ったのは、いつぶりだろう。天井を見ながら泣いたことはある。布団の中でスマホを握って震えたことはある。でも笑ったのは——思い出せないくらい久しぶりだ。
陸が立ち上がった。空になったマグカップを持って。
「おれ、もう寝るわ。明日テストだし」
「勉強した?」
「微妙」
「がんばって」
「うん。おやすみ、姉ちゃん」
「おやすみ」
陸がドアを閉めて出ていった。足音が廊下を遠ざかる。隣の部屋のドアが開いて閉まる。陸の部屋。壁一枚隔てた向こう側。ずっとそこにいた。わたしが天井を見ていた頃も、歌舞伎町にいた頃も、壁一枚向こうに陸がいた。
ココアを飲み干した。甘い。底にココアの粉が少し溜まっている。母さんが作ったココア。不器用な甘さ。ちょっと粉っぽい。でもいい。
窓を開けた。
二月の夜。冷たい空気が部屋に入ってくる。カーテンが揺れる。住宅街の夜。静か。車の音はたまにしか聞こえない。歌舞伎町の夜とは正反対。客引きの声もカラオケの低音もサイレンもない。虫の声すらない。二月だから。静寂。
空を見上げた。
星が見えた。散りばめたような小さな光の粒。
歌舞伎町では見えなかった星。ネオンと街灯とビルの光に消されていた星。埼玉の住宅街は暗い。暗いから、星が見える。冬の空気は澄んでいて、星がくっきりしている。オリオン座が見える。中学の理科で習った。三つ並んだ星がベルト。その上と下に二つずつ。
オリオン座を見るのは久しぶりだった。最後に見たのはいつだろう。中学の頃か。不登校になる前。部活の帰りに見上げた空。あの頃は星の名前なんて気にしていなかった。今は、星が見えることが嬉しい。暗い場所にいるから見えるものがある。歌舞伎町の地べたから見上げた空には星がなかったけれど、飛行機のライトがあった。この空には飛行機はいないけれど、星がある。どちらの空にも、何かがある。
鶴見のことを考えた。
あの人はまだ、どこかにいる。事情聴取を受けたというだけで、消えたわけじゃない。明日にはまた歌舞伎町を歩いているかもしれない。あるいは別の街に移動しているかもしれない。名前を変えて、看板を変えて。でも網がある。白石さんが作った網。複数の団体が共有した情報。次に動いたとき、前より早く見つかる。
完全な安全なんてない。テレビドラマの最終回みたいに「もう大丈夫」という瞬間は来ない。でも「少しだけ安全になった」ということはある。網の目が一つ細かくなった。それは鶴見を捕まえたことよりも、わたしたちが「助けを求めた」ことの結果だ。名刺を受け取ったこと。ドアを開けたこと。データを渡したこと。逃げたこと。声を上げたこと。
小さなことの積み重ねが、大きなことを動かした。
わたしは何も大きなことをしていない。英雄的なことは一つもしていない。でも小さなことを一つずつやった。それが全部だった。
窓から身体を引いて、カーテンを閉めた。冷たい空気が遮断される。部屋が暖かさを取り戻す。
ベッドに座って、スマホを開いた。メモ帳。最近また書く量が増えている。灯台に通い始めてから、書く内容が変わった。歌舞伎町にいた頃は、夜の風景や仲間の言葉を記録していた。自宅に帰ってからは、自分自身のことを書いている。家族のこと。食卓のこと。陸のこと。母さんのこと。窓から見える星のこと。
書いた。
「歌舞伎町の空には星が見えなかった。ネオンが強すぎて。埼玉の空には星が見える。暗いから。どちらの空が好きかは、まだわからない。でも、どちらの空の下にも、わたしはいた」
書き終えて、スマホを閉じた。
階下から、母さんが食器を洗う音が聞こえる。水の音。スポンジのきゅっきゅという音。食洗機ではなく手洗い。母さんはずっと手洗い派だった。「手で洗ったほうが綺麗になるから」と言っていた。その音が、階段を通って、わたしの部屋まで届いている。
生活の音。家の音。灯台には灯台の音があったように、この家にはこの家の音がある。食器の音。テレビの音。陸の部屋から微かに聞こえる音楽。母さんの足音。全部が混ざって、この家の夜を作っている。
歌舞伎町の音ではない。灯台の音でもない。わたしの家の音。九ヶ月ぶりに聞く夜の音。
布団に入った。天井を見る。罅。三本。変わらない。でもこの罅を見るわたしの気持ちは変わっている。前は「四本目が入ったらわたしも割れる」と思っていた。今は——三本のまま。増えなかった。わたしも割れなかった。この罅は、変わらなかったものの印。
目を閉じた。
明日は木曜日。灯台に行く日。白石さんに鶴見のニュースのことを聞こう。ミキのことも。それから来週、学校に顔を出す日を横山先生と相談する予定。別室登校の準備。少しずつ。少しずつでいい。白石さんが言った。母さんが言った。「無理しない範囲で」。
星が見える空の下で、眠る。歌舞伎町ではない場所で。わたしの部屋で。わたしのベッドで。母さんが干してくれた布団の中で。
明日の朝、階下に降りたら、母さんが「おはよう」と言うだろう。陸が「おはよう」と言うだろう。カケルが欲しかった「おはよう」が、この家にはある。あったのに、わたしは気づいていなかった。
今は、気づいている。




