第35話 : 母との電話
第35話 : 母との電話
紅茶が冷めていた。
灯台の事務所。火曜日の午後。いつものパイプ椅子に座って、いつものマグカップを両手で包んでいる。でも今日は一口も飲んでいない。紅茶の表面に湯気がなくなっている。ぬるい。温度が消えた液体。わたしの手のほうが冷たいから、マグカップの温度が逆にわたしに奪われたのかもしれない。
二月上旬。外は曇り。窓から入る光が白い。冬の曇天の光は、晴れの日より均一で、影を作らない。事務所の中が全体的にぼんやりと明るい。
白石さんがキッチンで何かを片づけている。棚の整理。ティーバッグの箱を入れ替えたり、マグカップの位置を直したり。急ぎの仕事ではなさそうだ。手を動かしながら、わたしのことを気にしている。気にしているけれど、声をかけない。いつもの白石さん。待つ人。
わたしは先週からずっと、スマホの連絡先を開いては閉じている。「母」。タップしない。閉じる。また開く。また閉じる。カケルが帰った金曜の夜から一週間。電車の中で見つめた画面を、自室のベッドの中でも、灯台のソファの上でも、何十回と開いた。そのたびに閉じた。
母さんの声が聞きたい。聞きたいと思っている。それはもうわかっている。わかっているのに指が動かない。タップ一つの距離。画面の「母」の文字と、わたしの親指の間にある距離は、物理的には数ミリだ。でもその数ミリに、九ヶ月分の沈黙が詰まっている。
白石さんがキッチンの片づけを終えて、デスクの前に戻ってきた。わたしの向かいに座る。紅茶のマグカップに目をやって、「冷めちゃったね。淹れ直す?」と聞いた。
「大丈夫です」
「うん」
沈黙。白石さんの沈黙。待っている沈黙。
「なぎさちゃん」
「はい」
「電話、してみる?」
心臓が跳ねた。白石さんの声は穏やかだった。いつもと同じトーン。質問。命令じゃない。「してみる?」であって「しなさい」ではない。
白石さんは知っている。先週、わたしが「家族のこと」を考えていると話したこと。カケルが帰ったこと。スマホの連絡先を何度も開いていること。全部は話していないけれど、白石さんは察している。この人はいつも、言葉の手前にある感情を読む。
「電話って」
「お母さんに」
わかっていた。わかっていて聞き返した。言葉にしてもらうために。白石さんの口から「お母さんに」と言われることで、それが「してもいいこと」になる。許可が欲しかったわけじゃない。背中を押してほしかったわけでもない。ただ、声に出してもらいたかった。自分一人の中で回り続けていた考えを、誰かの声で聞きたかった。
長い間黙った。
壁の手書きポスターが見える。「ここにいていいよ」。下手な字。いつもの文字。三週間前に初めて来たときから変わっていない。この事務所は変わらない。紅茶がある。椅子がある。ポスターがある。白石さんがいる。変わらないものの中にいると、変わろうとしている自分に気づく。
「……する」
声が出た。小さかった。でも出た。
白石さんが頷いた。立ち上がった。
「わたし、向こうの部屋にいるね。終わったら声かけて」
白石さんが奥のドアを開けて、別室に入っていった。ドアが閉まる。カチッ。静かになった。事務所にわたし一人。エアコンの低い唸り。窓の外の車の音。遠くのクラクション。
一人にしてくれた。
白石さんは聞かない。電話の内容を横で聞いたりしない。「一人で話す時間」をくれた。灯台はそういう場所だ。必要なものを出して、あとは離れる。光を出すだけ。船は自分で進む。
スマホを取り出した。
連絡先。「母」。
画面を見る。何十回と見た画面。でも今日は違う。今日は、押す。カケルが「いつでも」を「今」に変えたように。わたしも、「いつか」を「今」にする。
親指が、画面に触れた。
発信。
コール音が鳴った。まるで自分の心臓の音が受話器の向こうに漏れているような気がした。
一回。
心臓の音が聞こえる。コール音より大きい。耳の奥で暴れている。スマホを持つ手が震えている。左手でスマホを持って、右手で左手首を押さえた。止まれ。震えるな。止まらない。
二回。
出ない。出ないかもしれない。火曜の午後。母さんはパートに出ている時間帯。仕事中。スマホに出られないかもしれない。出なければ、また「いつか」になる。「今」が逃げていく。
三回。
切ろうか。切ったら楽になる。九ヶ月分の沈黙が続くだけ。何も変わらない。何も壊れない。でも何も始まらない。
四回——途中で、繋がった。
「もしもし」
母さんの声。
スマホから聞こえる母さんの声。九ヶ月ぶり。正確には、声を聞いたのはもっと最近だ。自宅にいるとき、階下から聞こえていた。テレビの音と混ざって、食器の音と混ざって。でも「わたしに向けられた」母さんの声は、九ヶ月ぶりだ。年末年始に家にいたときも、直接の会話はほとんどなかった。
声が出ない。
口を開いた。空気が喉を通る。でも音にならない。唇が動いている。声帯が震えていない。透明になっている。また透明になっている。
五秒。
十秒。
電話の向こうが静かになった。母さんの呼吸が聞こえる。小さい呼吸。息を止めている。わたしが誰かを、確かめようとしている。
「……凪沙?」
母さんがわたしの名前を呼んだ。
凪沙。瀬川凪沙。わたしの名前。母さんがつけてくれた名前。「凪いだ砂浜」から取った名前だと、小さい頃に聞いた。穏やかな場所にいてほしいと思ってつけた名前だと。
名前を呼ばれると、指先から温度が戻ってくる。
「うん」
出た。声が。一音。「うん」。たった二文字。でも出た。九ヶ月の沈黙を破ったのは、たった二文字だった。
母さんの息を呑む音が聞こえた。小さな、鋭い吸気。驚きと安堵が混ざった音。
それから——母さんが泣き始めた。
声を抑えている。押し殺すような泣き方。周りに人がいるのかもしれない。パート先の休憩室か、トイレか。人前で泣けない場所。声を出せない場所で、母さんは泣いている。
わたしも泣いていた。いつからかわからない。「うん」と言った瞬間からかもしれない。母さんの名前を呼ばれた瞬間からかもしれない。涙が顎を伝って、マグカップの中に落ちた。冷めた紅茶に、涙の波紋が広がる。
「ずっと」
母さんの声。途切れている。泣きながら話している。
「ずっと電話待ってた。毎日」
毎日。九ヶ月間。母さんは毎日、わたしからの電話を待っていた。着信を待っていた。スマホの画面を見ていた。「凪沙」の名前が表示されるのを。
わたしが母さんの連絡先を何十回も開いては閉じていた間、母さんも同じことをしていたのかもしれない。「凪沙」の名前を見て、タップしようとして、やめて。追及したら閉じることを知っているから。自分からは電話しなかった。待っていた。九ヶ月。
「……ごめんね」
わたしの口から出た。
「わたしもごめんね」
母さんの口から出た。
どちらが先だったのか、わからなかった。もしかしたら同時だったのかもしれない。何ヶ月も言えなかった三文字が、同じ瞬間に溢れた。「ごめんね」。三文字。九ヶ月分の重さ。
電話越しの沈黙。でも空っぽの沈黙じゃなかった。涙と鼻をすする音と、呼吸の音が満ちている沈黙。お互いが泣いていることを知っている沈黙。そこにいることを確認し合っている沈黙。
「帰っておいで」
母さんが言った。声が震えている。泣き声。でもはっきり聞こえた。
「まだ、すぐには」
「いい。待つから。待てるから」
待てるから。九ヶ月待った人が言う「待てるから」は、ただの社交辞令じゃない。本当に待てる人の言葉。もう九ヶ月待ったのだから、もう少し待てる。その強さが、母さんの声にあった。
「母さん、一つだけ」
「うん」
「……わたし、悪い子じゃないよね?」
聞いてしまった。ずっと聞きたかったこと。中学のいじめの後、「あなたにも原因がある」と言われてから、ずっと胸の奥に刺さっていた棘。わたしが悪いのか。わたしに原因があるのか。わたしは悪い子なのか。誰にも聞けなかった。聞いても返ってくる答えが怖かった。
母さんの泣き声が大きくなった。抑えきれなくなっている。
「悪い子なわけないでしょ」
母さんの声が裏返った。涙声。鼻声。でも強い声。
「あの投稿見たの? ごめんね、勝手にあんなの書いて」
あの投稿。母さんのSNS。「なぎさの母」というアカウント名。「高校一年生の娘が不登校になり」。返信欄の心ない言葉に、一つ一つ返していた母さん。「娘のことを悪く言わないでください。あの子は悪い子ではありません」。九月にスクリーンショットを撮って、メモ帳に保存した言葉。
「ううん。あれ見て、母さんがわたしのこと悪い子って思ってないの、わかった」
母さんが泣いている。声を殺せなくなっている。周りに人がいるなら、もう見られている。それでも止められないくらい泣いている。
「当たり前じゃない。あなたはわたしの大事な」
言葉が途切れた。泣きすぎて声にならない。「大事な」の後に何が続くのか。娘。子ども。宝物。なんでもいい。「大事な」まで聞けただけで十分だった。
わたしも泣いていた。顔がぐしゃぐしゃ。涙と鼻水。マグカップの冷めた紅茶はもう見えない。視界が滲んでいる。
「母さん」
「うん」
「"あなたにも原因がある" って、あのとき」
「ごめんね。あれは、わたしが間違ってた。どうしていいかわからなくて。凪沙が学校行かなくなって、部屋から出てこなくなって。わたしも、怖かったの。怖くて、焦って、ひどいこと言った」
母さんも怖かった。わたしが怖かったのと同じように、母さんも怖かった。娘が壊れていく姿を見て、何もできない自分が怖かった。正しい言葉がわからなくて、間違った言葉を選んだ。わたしが「大丈夫」と言い続けたのと同じ。間違った言葉で自分を守ろうとした。母さんもわたしも、同じことをしていた。
「わたしも、ごめんね。何も言わなくて。出て行ったまま、全然連絡しなくて」
「いい。いい。謝らなくていい。帰ってきてくれるなら。帰ってきてくれるなら、それだけで」
「帰る。帰るよ。もう少しだけ、待って」
「待つ。何ヶ月でも待つから」
「うん」
「陸がね」
母さんの声が少し落ち着いてきた。まだ泣いている。でも話せるようになっている。
「陸が、ずっと言ってた。"姉ちゃんは大丈夫だよ。心配しないで" って。あの子、あなたのこと信じてた。わたしよりずっと」
陸。弟。13歳。「姉ちゃん、大丈夫?」とLINEをくれる子。「姉ちゃんが謝ることじゃない」と言ってくれる子。わたしが家を出ている間、母さんの隣にいて、「姉ちゃんは大丈夫だよ」と言い続けてくれていた。
陸。
ありがとう。
声にならなかった。口の中で「ありがとう」が溶けた。いつか直接言おう。LINEではなく、声で。面と向かって。
「母さん、お仕事中?」
「休憩。あと五分で戻らなきゃ」
「ごめんね、泣かせて」
「泣いてない」
泣いている。声でわかる。でも「泣いてない」と言う。母さんらしい。強がり。わたしの「大丈夫」と同じ。血は争えない。
「また電話する」
「うん。いつでも」
いつでも。カケルの母親と同じ言葉。「いつでも」。帰っていい場所がある人に向けられる言葉。わたしの母親も、その言葉を持っている。
「じゃあね、母さん」
「気をつけてね。凪沙」
名前。最後にもう一回、名前を呼んでくれた。確認するように。ここにいることを確かめるように。
電話が切れた。
ツー、ツー、ツー。
切断音が鳴っている。スマホを耳から離す。画面が暗くなる。通話時間が表示されている。七分十二秒。七分。たった七分。でもこの七分に、九ヶ月分の言葉が詰まっていた。
スマホを膝の上に置いた。
顔がぐしゃぐしゃ。涙が止まらない。鼻をすする音が事務所に響く。マグカップの紅茶に涙が落ちている。紅茶はもう完全に冷めている。わたしの涙で薄まっている。
泣いているのに、呼吸が楽だった。
肺に空気が入ってくる。深い空気。灯台の空気。紅茶の匂いと古い紙の匂い。吸って、吐いて、吸って、吐く。胸の奥にあった重たい塊が、少しだけ溶けた気がする。全部は溶けていない。学校のことも、父さんのことも、トー横のことも、何も解決していない。でも母さんとの間にあった壁に、小さな穴が開いた。
穴から光が見えた。小さな光。蛍光灯みたいな冷たい光じゃない。窓から差し込む冬の午後の光のような、穏やかな光。
母さんの声が穴を通って聞こえた。「悪い子なわけないでしょ」。「帰ってきてくれるなら、それだけで」。「待つ。何ヶ月でも待つから」。声が穴を通り抜けて、わたしの中に入ってきた。九ヶ月分の沈黙に穴が開いて、そこから声が通った。
何も解決していない。
でも、それだけで十分だった。
壁の手書きポスター。「ここにいていいよ」。下手な字。涙で滲んで見える。でも読める。ここにいていいよ。ここにいた。ここで電話をかけた。ここで泣いた。ここにいてよかった。
奥のドアをノックした。
「白石さん」
ドアが開いた。白石さんが出てきた。わたしの顔を見て、何も聞かなかった。泣いた顔を見れば、わかる。何があったか聞かなくても、泣いた理由が悲しみではないことくらい、白石さんにはわかる。
白石さんがキッチンに向かった。電気ケトル。カチッ。お湯を沸かす音。マグカップを棚から取る。ティーバッグ。お湯を注ぐ。湯気が立つ。紅茶の匂い。
新しい紅茶を持ってきてくれた。冷めた紅茶のマグカップをそっと下げて、温かい紅茶に替える。何も言わない。聞かない。紅茶を出す。それだけ。
両手で新しいマグカップを包んだ。温かい。指先に温度が戻る。電話の間、ずっと手が冷たかった。緊張で血の気が引いていた。今、紅茶の温度が指先から身体に広がっていく。
一口飲んだ。温かい。少し苦い。いい苦さ。いつもの味。
「白石さん」
「うん」
「わたし、帰ろうと思う。家に」
白石さんが微笑んだ。
「うん。いいと思う。無理しない範囲でね」
無理しない範囲で。すぐに完全復帰しなくていい。最初は一泊だけでもいい。週末だけでもいい。少しずつでいい。白石さんはそう言っている。言わなくても、わかる。
「まだ全部は解決してないんです。学校のことも、父さんのことも」
「全部を一度に解決しなくていいよ。前にも言ったけど」
「はい」
「お母さんと話せた。それが今日の全部。それだけで十分」
それだけで十分。白石さんがこの言葉を使うのは、これで何回目だろう。灯台に初めて来た日。「ここに来れただけで十分」。今日。「お母さんと話せた。それだけで十分」。十分。足りている。わたしは足りている。もっと何かしなければと焦る必要はない。
紅茶を飲み終えた。二杯目。温かかった。最初のマグカップは冷めていた。二杯目は最後まで温かかった。同じ紅茶。同じマグカップ。でも温度が違う。電話の前と後で、わたしの手の温度が変わったから。
「白石さん」
「うん」
「ありがとうございます。いつも」
「いつも、って言ってもらえると嬉しいな。また来てね」
「はい。でも、これからは、回数減るかもしれません。家に帰る日が増えるから」
「いいよ。ここは "来たい人が来る場所" だからね。来なくなったら、それは卒業ってことだから」
卒業。灯台からの卒業。いつか来る日。まだ今日じゃないけれど、近づいている。
事務所を出た。階段を降りる。二階の踊り場。蛍光灯は相変わらず一本切れている。もう三週間。誰も替えない。でもいい。暗いところを知っていれば、暗さは怖くない。
一階。外に出た。新宿の午後。二月の空気。冷たいけれど、先月より柔らかい。日差しがほんの少しだけ温かみを持っている。まだ冬だ。でも春の気配がある。地面の下で、何かが動き始めている。
駅に向かって歩く。スマホをポケットから出した。メモ帳を開く。
書いた。
「"ごめんね" は、壁を溶かす言葉じゃない。壁に穴を開ける言葉だ。穴が開いたら、そこから声が通る。声が通れば——いつか、手も届くかもしれない」
書き終えて、スマホを閉じた。
駅の改札を通る。電車に乗る。窓際の席。ガラスに映る自分の顔。泣いた後の顔。目が赤い。鼻の頭も赤い。でも表情は、先週の金曜より柔らかい。カケルの帰った夜より。母の連絡先を見つめていた夜より。
ポケットの中。名刺とUSBメモリ。二つのお守り。そして今日、もう一つ増えた。スマホの中の通話履歴。七分十二秒。母さんとの七分。
三つのお守り。名刺は白石さん。USBはカケル。通話履歴は母さん。全部がわたしを「帰る場所」に繋げている。白石さんは「いつでもおいで」と言った。カケルは「帰れ」と言った。母さんは「待つから」と言った。三つの声が、三つの方向から、わたしの背中に手を置いている。
窓の外。郊外の住宅街が流れていく。家の窓に灯りが灯り始めている。夕方。誰かが夕飯を作っている時間。誰かが「おかえり」と言う時間。
わたしの家にも灯りがついているだろう。母さんはパートから帰って、冷蔵庫の作り置きを並べているかもしれない。陸は自分の部屋で宿題をしているかもしれない。父さんは遅く帰ってくるだろう。いつもの夜。いつもの家。
でも今夜は少しだけ違う。母さんのスマホの通話履歴に、「凪沙」の名前がある。七分十二秒。九ヶ月ぶりの。その七分が、あの家の空気をほんの少し変えているかもしれない。
まだ帰らない。今日は灯台から自宅に寄らず、自室に帰る。いつもの帰り道。でも近いうちに、あの家のドアを開ける。「ただいま」と言う。母さんが「おかえり」と言う。陸が「姉ちゃん」と言う。そんな日が来る。
来る。「かもしれない」じゃなくて、「来る」。
電車が揺れる。窓ガラスが冷たい。額を押しつけると、ひんやりする。泣いた後の熱い顔に気持ちいい。目を閉じる。母さんの声が耳に残っている。「凪沙?」。「悪い子なわけないでしょ」。「待つから」。
声は消えない。電話は切れたけれど、声は消えない。
壁に穴が開いた。穴から声が通った。声が通れば、いつか手も届く。わたしの手は、もうすぐ届くところまで来ている。




