第34話 : カケルの選択
第34話 : カケルの選択
非常階段の三階踊り場。コンクリートの壁に背中を預けると、冷たさが上着を通して肌に届く。
一月最後の金曜日。二十時。
カケルはまだ来ていない。わたしは一人で踊り場に座っている。三週間前、三人で鶴見から隠れた場所。あの夜はレンもいて、息を殺して柵の隙間から下の通りを見ていた。今夜はわたしだけ。鉄柵に手を置くと、金属の冷たさが指先に伝わる。一月の金属は、一月の空気より冷たい。
下の通りを人が歩いている。歌舞伎町の金曜夜。ネオンが路面を赤や青に染めている。遠くからカラオケの低音が聞こえる。客引きの声。タクシーのクラクション。歌舞伎町の音。何度聞いたかわからない音。でも今夜は遠い。三階の高さが、街の音を薄くしている。
スマホを見た。カケルからのLINEは水曜の「うん」が最後。それ以降、既読はつくけれど返信はない。カケルらしい。言うべきことは金曜に直接言う。LINEは「場所と時間の確認」にしか使わない。
足音が聞こえた。軽い足音。階段を上ってくる。二階。三階。踊り場に影が差す。
カケルだった。
ダウンジャケット。フードを被っていない。イヤホンは首にかけている。片耳ではなく、両耳とも外れている。両耳外し。カケルの「本気モード」。音楽を聴いていないカケルは、世界の音を全部受け入れているカケルだ。
手袋をしていなかった。カケルの手がかじかんでいる。指先が赤い。
「来た」
カケルが言った。短い。でも「ごめん、遅れた」という意味が含まれている。カケルの一語は、他の人の三語分。
「寒いね」
「うん」
カケルがわたしの隣に座った。コンクリートの床。冷たい。でもカケルはそのまま座る。ジーンズ越しの冷たさに慣れている。この半年、こういう場所で何度も夜を過ごしてきた子だ。
沈黙があった。カケルの沈黙は、いつも長い。急かしてはいけない。この子の言葉は、奥のほうからゆっくり上がってくる。井戸の水みたいに。
わたしは黙って待った。柵の隙間から見える通りを眺めていた。行き交う人々。金曜の夜を楽しむ人たち。居酒屋に入っていくスーツの集団。腕を組んで歩くカップル。わたしたちは三階の暗い踊り場にいて、その光景を見下ろしている。
「なぎ」
カケルが口を開いた。
「うん」
「家に帰る」
短い。五文字。カケルの言い方。でも五文字の中に、覚悟が詰まっていた。
「帰るって、あの家に?」
「うん」
あの家。カケルの家。カケルがどんな家に住んでいたのか、わたしはほとんど知らなかった。歌舞伎町で過ごした半年間、四人の中でカケルの過去がいちばん見えなかった。レンは軽口の合間に断片を漏らす。ルカは弱った夜に話してくれる。わたしは聞かれたら答える。でもカケルは何も言わない。「家に誰もいない」。ファミレスで言った一言だけ。それ以外、カケルの家の話を聞いたことがなかった。
「親に連絡した。LINEで」
カケルが自分のスマホを見ている。画面の光が顔を照らす。青白い光。表情は読めない。
「何て言ったの」
「 "帰りたい" って」
帰りたい。カケルが「帰りたい」と言った。自分の口で。自分の指で。LINEの画面に文字を打って、送信ボタンを押した。たった四文字。でもその四文字を打つまでに、カケルがどれだけ考えたか。どれだけ迷ったか。想像できる。わたしもまだ、その四文字を打てていないから。
「返事は?」
「母さんからは来た。 "わかった。いつでも帰ってきて"」
カケルの声が、ほんの少し揺れた。「いつでも帰ってきて」。その言葉を読んだとき、カケルは何を思っただろう。嬉しかったのか。安心したのか。それとも、今まで帰れなかった時間への怒りが湧いたのか。
「父さんからは」
カケルが言葉を切った。三秒。
「既読だけ」
既読だけ。返信なし。カケルの父親の輪郭が、その二文字で見えた。「既読だけ」の父親。読んだ。読んだけれど、返す言葉がない。あるいは、返す気がない。
「予想通り」
カケルが少し笑った。笑いと呼ぶには乾いている。でも怒りでもない。諦めとも違う。「知ってた」という顔。この人はこういう人だと知っている顔。
「母さんのは嬉しかった。父さんのは、まあ。昔からそう」
カケルが柵に手をかけた。かじかんだ手。赤い指先。手袋を持ってこなかったのは、忘れたのか、意図的なのか。寒さを感じていたいのかもしれない。身体の感覚を鈍らせたくないのかもしれない。
「カケルの家って、どんなとこ?」
聞いた。今まで聞かなかったことを。カケルが「帰る」と決めた今なら、聞いていいと思った。
カケルが空を見上げた。ビルの隙間の空。星は見えない。飛行機のライトが横切る。あの夜と同じ空。みんなで地べたに寝転がって見上げた空。
カケルは話し始めた。
短い文を連ねる、いつもの話し方。でも今夜は文と文の間に、いつもより長い間がある。言葉を選んでいるのではなく、記憶を一つずつ取り出している感じがした。
世田谷区。閑静な住宅街。三階建ての一軒家。
父親は商社マン。海外出張が多くて、月の半分は日本にいない。いるときもリビングで仕事の電話をしていて、カケルが話しかけると「後で」と言われる。「後で」は永遠に来ない。
母親はインテリアデザイナー。事務所を持っていて、朝早く出て夜遅く帰る。家のインテリアは完璧に整っている。北欧デザインの家具。観葉植物。壁の絵。全部がカタログの写真みたいに揃っている。でも人の気配がない。「モデルルームに住んでる感じ」とカケルが言った。
物質的には何も困っていなかった。広い部屋。最新のパソコン。スマホ。ゲーム機。十分な小遣い。誕生日にはAmazonのギフトカードが母親のメモと一緒にテーブルに置いてある。「好きなもの買ってね」。手書きのメモ。字は綺麗。でもメモだけ。ケーキはない。歌もない。
「お金はあった。でも、 "おはよう" がなかった」
カケルの声が低い。感情を乗せない。事実だけを並べる。でも、事実の並べ方が、それ自体、感情だった。
「朝起きても誰もいない。学校から帰っても誰もいない。冷蔵庫にはコンビニ弁当が入ってて、テーブルに "レンジで温めてね" のメモがある。母さんの字は綺麗だよ。ペン習字やってたらしい。字は綺麗なのに、声は聞こえない」
メモの字は綺麗。声は聞こえない。カケルの家は「文字だけの家」だった。会話のない家。声のない家。
「いつから一人だったの」
「小学校の高学年くらいから。それまでは母さんがいた。でも事務所が大きくなってから、忙しくなった。父さんはもっと前からいなかった。単身赴任が二年あって、帰ってきたと思ったら出張ばっかり」
カケルが膝を抱えた。ダウンジャケットの中に身体を縮める。小さくなったカケルは、15歳よりもっと幼く見える。
「音楽始めたのは、中一のとき」
「うん」
「誰もいない家で、音だけが友達だった」
カケルの声が、少し柔らかくなった。音楽の話をするとき、カケルの声は変わる。硬さが消えて、内側から光が差すような声になる。
「最初はイヤホンで聴いてるだけだった。そのうち、自分でも作りたくなった。パソコンにDAWソフト入れて、触り始めた。最初はメチャクチャだったけど。でも自分で音を作ると、家の中に "誰かがいる" みたいな気持ちになれた」
音で家を埋めた。声がない家に、音を置いた。カケルにとって音楽は、趣味じゃなかった。生存手段だった。わたしがメモ帳に言葉を書くのと同じ。「書かないと息ができない」のと同じように、カケルは「音を作らないと息ができない」のだ。
「中二の秋くらいから、学校に行かなくなった。行っても意味がない気がして。友達もいなかったし。家にいて音楽作ってるほうがいいと思った」
「親は何て言った?」
「母さんは "カウンセリング行ってみない?" って。行った。三回。合わなかった。カウンセラーの人が "お父さんとお母さんはどう?" って聞くから、 "忙しいです" って答えたら、"寂しいの?" って。寂しいかどうか聞かれても、寂しいって感覚がよくわからなかった。ずっと一人だったから、比較対象がない」
寂しさの比較対象がない。カケルは「一人でいること」がデフォルトだった。寂しいと感じるには、「一人じゃない」状態を知っている必要がある。カケルはそれを知らなかった。歌舞伎町に来るまで。
「父さんは "学校のことはお前に任せてる" って、母さんに言ってた。おれの目の前で。おれに直接は何も言わなかった」
凪沙の父親と同じ台詞。「学校のことはお前に任せてる」。別の家庭、別の父親、同じ言葉。どこの家でも、逃げる父親は同じ言い方をする。
「で、ネットで歌舞伎町のことを知った。夜に出歩いてる子たちがいるって。家にいても誰もいないし、外に出てみようと思った。最初は一人で歩き回ってた。ネカフェで寝て、コンビニでご飯買って。そしたらルカ姉に声かけられた」
「ルカ姉に」
「 "あんた、何歳?" って。 "15" って答えたら、"若いね。危ないから、うちのグループにいな" って」
ルカらしい。年下の子を見つけたら、自分のそばに置く。守るために。ルカがわたしにしてくれたのと同じことを、カケルにもしていた。
「ルカ姉のグループにいて、レンに会って、なぎに会った。四人になって——」
カケルが言葉を止めた。三秒。五秒。
「初めて "おはよう" があった」
グループLINEの朝のメッセージ。レンが「おはよー」と送る。ルカが「何時だと思ってんの」と返す。カケルが「……おはよう」と打つ。わたしも「おはよう」と返す。たわいないやりとり。毎日のやりとり。でもカケルにとって、それは「初めて」だった。
「おはようって言ってくれる人がいるの、すごいことだった。おれにとっては」
カケルがダウンジャケットのポケットから何かを取り出した。
小さな黒い直方体。USBメモリ。
「これ。なぎの言葉に曲つけたやつ。まだ途中だけど」
わたしの手にUSBメモリが置かれた。軽い。親指の先くらいの大きさ。でもここにカケルの音と、わたしの言葉が入っている。
「え、いつの間に」
「メモ帳のスクショ、レンがグループに送ってたでしょ。あの中の何個かに曲つけた」
レンがグループLINEに送ったメモのスクリーンショット。「なぎの名言集」とレンが名付けて、勝手にシェアしたやつ。わたしは恥ずかしくて「やめてよ」と言ったけれど、ルカが「いいじゃん、すごい」と言って止まらなかった。あのスクリーンショットを、カケルは保存していた。そして曲をつけていた。わたしに言わずに。
「何曲?」
「三曲。 "透明人間には影がない" と、 "コンビニのおにぎりは100円の約束" と、 "名前のない場所に名前のない子たちがいる"。テキスト読み上げで歌詞にしてる。おれの声は入ってない」
三曲。わたしの言葉が三つ、カケルの音楽に乗っている。聴いていない。まだ聴いていない。USBメモリを握る手に力が入る。名刺を握っていた手と同じ力の入り方。大事なものを持っているときの指の感覚。
「カケル」
「うん」
「ありがとう」
言えた。ありがとう。白石さんに言えたのが先週の水曜日。カケルに言えたのが今日。「ありがとう」を言える相手が増えている。言えなかった頃は、この三文字が口から出るのに全身の力が必要だった。今は、自然に出る。必要だから出るのではなく、出したいから出る。
「聴いて。感想言って」
カケルが少し目を逸らした。照れている。カケルが照れるのを見たのは、屋上で初めて曲を聴かせてくれた夜以来だ。あのときも「聴いて」と言って、再生ボタンを押した。あの夜からずっと、カケルはわたしのために作っていた。
「なぎに聴いてもらうために作ってた。あの日から」
「あの日って」
「屋上で聴かせた日。おれの音楽を、初めて必要としてくれた人だから」
泣きそうになった。泣いた。少しだけ。目尻に涙が滲んで、冬の空気に触れて冷たくなった。カケルはこちらを見ていない。ビルの隙間の空を見上げている。星のない空。飛行機のライト。
「おれたち、ここで初めて曲聴いたね」
屋上の記憶。八月の夜。カケルのスピーカーから流れた電子音楽。歌舞伎町の環境音をサンプリングした曲。あの夜、わたしは「カケルは音で喋っている」と思った。今もそうだ。このUSBメモリの中に、カケルの声がある。言葉ではなく音で話すカケルの声。
「うん。夏だった。暑かった」
「今は寒い」
「うん。寒い」
二人で笑った。小さな笑い。声に出さない笑い。口元だけの笑い。それでも笑った。
カケルがイヤホンを両耳ともつけていない。首にかけたまま。音楽を流していない。カケルが世界の音を全部受け入れているとき。心を開いているとき。今夜のカケルは、最初から最後まで両耳が開いている。
「なぎ」
「うん」
「なぎも帰ったほうがいいよ」
帰る。また、その言葉。ルカが病院で言った。白石さんが灯台で言った。カケルが今、言った。三人が同じことを言う。「帰ったほうがいい」。
「帰れるかな、わたしに」
「帰れないかもしれない。でも、帰るかどうか決めるのはなぎだし」
カケルの言い方は断定しない。「帰れ」ではなく「帰ったほうがいい」。「帰れる」とも「帰れない」とも言わない。「決めるのはなぎ」。カケル自身が「正解がわからない」まま行動している。帰ると決めたけれど、帰った先が正解かどうかはわからない。既読だけの父親がいる家が正解かどうか。でも、決めた。決めることが、カケルの選択だ。
「カケルは怖くないの。帰るの」
「怖い。でも、ここにいるのも怖い」
ここにいるのも怖い。歌舞伎町にいること。ネカフェで寝ること。路地裏を走ること。鶴見みたいな人間がいること。全部が怖い。家も怖い。歌舞伎町も怖い。どこにいても怖いなら、「おはよう」がある場所を選ぶ。カケルはそう決めた。
「母さんが "いつでも帰ってきて" って言ってくれた。あの四文字で、おれは決めた。 "いつでも" って言ってくれるなら、今がいい。 "いつでも" を "いつか" にしたら、たぶん永遠に帰れない」
いつでも、を、いつかにしない。今にする。カケルの決断。15歳の決断。大人よりずっと明確で、大人よりずっと勇気がいる。
「父さんのことは、まだわかんない。既読だけの人と、どう話せばいいかわかんない。でも母さんとは、ご飯くらいは一緒に食べたい。 "おはよう" くらいは言いたい。Amazonのギフトカードじゃなくて」
カケルが立ち上がった。コンクリートの床の冷たさから離れる。わたしも立った。二人で柵に手をかけて、新宿の夜景を見る。ビルの間から見える都庁のライト。高層ビルの窓灯り。道路を流れるヘッドライトの列。
屋上で見た景色と似ている。でも三階の踊り場と屋上では高さが違う。見える範囲が違う。でも空は同じだ。
「SoundCloudに曲を上げようと思ってる」
カケルがぽつりと言った。
「USBのやつ?」
「うん。なぎの言葉使ってるから、許可欲しくて」
「もちろんいいよ」
「タイトル、 "透明の声" にしようと思ってる」
透明の声。わたしの言葉。カケルの音。二人で作ったもの。歌舞伎町の地べたで出会った二人が、それぞれの表現を重ねて、一つのものを作った。
「いいタイトルだね」
「なぎが考えた言葉だけど」
「カケルの音がなかったら、ただの言葉だよ」
カケルが少しだけ笑った。照れの笑い。両耳のイヤホンをまだつけない。世界の音を聞いているカケル。わたしの言葉を聞いているカケル。
「帰ったら、自分の部屋で作業できる。パソコンもあるし、スピーカーもある。ネカフェのブースより、ずっと音がいい環境で作れる」
「そうだね」
「でも歌舞伎町の音はもう録れなくなる。毎晩歩き回って、サイレンの音とかクラクションとか集めてたのが、なくなる」
カケルの声に、小さな寂しさが混じっていた。歌舞伎町の音。カケルの作品の素材。夜ごとに録音していた街の声。帰ったら録れなくなる。素材が変わる。世田谷の住宅街の音は、歌舞伎町の音とは違う。
「でもいいや。持ってるやつで足りるし。それに、世田谷の音も録れるかもしれないし」
世田谷の音。静かな住宅街の音。鳥の声。自転車のベル。庭の風。カケルの新しい素材。歌舞伎町の夜の音から、住宅街の朝の音へ。音が変われば、曲が変わる。曲が変われば、カケルも変わる。
「じゃあ、おれ、行くわ」
カケルが柵から手を離した。
「今日帰るの?」
「うん。荷物はネカフェのロッカーに入れてあるから、取りに行って、そのまま電車乗る」
今日。今夜。カケルは今夜帰る。わたしに会って、USBメモリを渡して、話をして、帰る。お別れではない。LINEは繋がっている。グループLINEもある。でも、ここで会うのは最後かもしれない。非常階段の踊り場で、歌舞伎町のネオンを見下ろしながら座る夜は、もうないかもしれない。
「カケル」
「うん」
「おれたち、ここで初めて曲聴いたね」
さっきカケルが言った言葉を、わたしが繰り返した。カケルが少し目を見開いた。そして頷いた。
「うん」
「また聴かせてね。新しい曲」
「……うん」
カケルが階段を降り始めた。一段。二段。踊り場から一階分降りたところで、立ち止まった。振り返った。
「なぎ」
「うん」
「おれは、帰る場所に帰る。なぎも——自分の場所に帰れ」
帰れ。カケルが初めて命令形を使った。「帰ったほうがいい」ではなく、「帰れ」。でもそれは命令じゃなかった。祈りに近い声だった。仲間が仲間に向ける声。「元気でいろ」に似た声。
「考えてる。ちゃんと」
「……うん。なぎなら大丈夫」
カケルが片手を上げた。小さく振った。それから階段を降りていった。足音が遠ざかる。軽い足音。一階のドアが開く音。閉まる音。
いなくなった。
踊り場に一人。コンクリートの壁。鉄柵。冷たい空気。下の通りのネオン。カケルがいた場所に、カケルの温度が残っている気がする。気のせいだ。コンクリートに温度は残らない。
USBメモリを手の中で転がした。小さくて、軽くて、でもここにカケルの半年分が入っている。わたしの半年分も。二人分の半年。
カケルが帰った。
レンはスクーリングに本気になっている。シェアハウスに住んで、通信制高校で単位を取って、メイクの勉強をしている。
ルカは灯台の一時避難所にいる。シェルターの手続きを進めている。高卒認定の勉強を始めた。猫カフェで働くために。
カケルは世田谷の家に帰った。母親の「いつでも帰ってきて」に「今」を選んだ。既読だけの父親の横で、音楽を作る。
三人が、それぞれの場所に帰っていく。
残っているのは、わたしだけだ。
ファミリーは解散していない。LINEは繋がっている。でも、歌舞伎町の路上で四人が顔を合わせる夜は、もう来ない。あの非常階段の踊り場で缶コーヒーを飲む夜も。ネカフェのペアシートで向かい合う夜も。コンビニのおにぎりを分け合う夜も。全部が終わった。終わったのではなく、形が変わった。集まる場所が消えて、代わりにスマホの画面が残った。
でも寂しくはなかった。寂しいのとは違った。
カケルが「おはよう」のために帰った。レンが「自分のため」に学んでいる。ルカが「明日のため」に動いている。三人が前に進んでいる。わたしだけが、まだ踊り場にいる。三階の踊り場。歌舞伎町を見下ろす場所。上にも下にも行けていない。
でも、ここにいることを選んでいるわけじゃない。考えている。考えているから、止まっていない。白石さんの言葉。レンの言葉。カケルの「帰れ」。
わたしの「帰る場所」は埼玉にある。天井の罅が三本ある部屋。母の溜息。父の不在。陸の「大丈夫?」。全部がある家。完璧じゃない家。でもわたしの家。
白石さんが言った。「家族のこと、考えてみない?」
考えている。ずっと考えている。
母さんの声が聞きたいかもしれない。「あの子は悪い子ではありません」とネットに書いた母さんの声。あの言葉を、画面越しではなく、電話越しに、直接聞きたいかもしれない。
わたしはスマホを取り出した。連絡先を開いた。「母」の表示。タップはしない。まだ。でも、画面を見ている。母の名前を見ている。
立ち上がった。踊り場を離れる。階段を降りる。一階。外に出る。歌舞伎町の夜の空気。冷たい。焼き鳥の匂い。客引きの声。ネオンの赤。全部がまだここにある。わたしが変わっても、街は変わらない。
駅に向かって歩く。USBメモリをポケットに入れた。名刺とUSBメモリ。二つのお守り。名刺の先には白石さんがいる。USBメモリの中にはカケルの音とわたしの言葉がある。どちらも、わたしを「透明じゃない人間」にしてくれたもの。
改札を通った。電車に乗る。窓際の席。ガラスに映る自分の顔。考えている顔。
スマホの画面。「母」の連絡先。まだタップしていない。でも画面は開いたままだ。
カケルが帰った。次は、わたしの番かもしれない。
でもまだ、「かもしれない」だ。「かもしれない」が「帰る」に変わる日は、きっと近い。カケルが「いつでも」を「今」に変えたように。わたしも、どこかで——。
電車が揺れる。窓の外。街灯が等間隔に流れていく。スマホの画面の「母」の文字が、街灯の光と重なって滲んだ。




