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第33話 : 灯台という場所

第33話 : 灯台という場所


 電気ケトルの音で目が覚めた。


 正確には、目が覚めたのではない。うたた寝していただけ。灯台の事務所の奥にある休憩スペース。古い二人掛けのソファに横になっていた。ソファは茶色の合皮で、ところどころ表面が剥がれている。座面は沈むし、背もたれは低い。でも歌舞伎町のネカフェの椅子よりはずっとましだった。


 一月下旬。水曜日の午後。


 灯台に通い始めて一週間が経った。週に二回。火曜と水曜の午後。学校に行く代わりに、ここに来ている。母には「相談に行ってる」とだけ伝えた。嘘じゃない。相談に行っている。どこに、とは聞かれなかった。最近の母は、聞かなくなった。追及すると凪沙が閉じるから。その代わり、帰宅すると「おかえり」と言ってくれるようになった。溜息なしの「おかえり」。それだけで十分だった。


 キッチンスペースで白石さんがお湯を沸かしている。電気ケトルの青いランプ。カチッとスイッチが切れる音。マグカップに紅茶のティーバッグを入れて、お湯を注ぐ。湯気が立つ。紅茶の匂いが事務所に広がる。


 この匂いが、灯台の匂い。歌舞伎町の匂いが焼き鳥と排水溝と香水の混合物だったように、灯台の匂いは紅茶と古い紙とほんの少しの消毒液でできている。消毒液は奥のシャワー室から漂ってくる。紅茶はキッチンから。古い紙は壁一面の本棚から。三つの匂いが混ざって、ここだけの空気を作っている。


「なぎさちゃん、紅茶いる?」


 白石さんが声をかけてきた。ソファから身体を起こす。


「はい」


「起きてたんだ。ごめんね、ケトルの音うるさかった?」


「大丈夫です。寝てたわけじゃないので」


 嘘。五分くらい寝ていた。でも白石さんは追及しない。マグカップを二つ持って、デスクの前に座った。わたしもソファから移動して、いつものパイプ椅子に座る。紅茶を受け取る。温かい。先週初めて来たときと同じ白い陶器のマグカップ。同じ紅茶。同じ温度。


 灯台の日常は、繰り返しでできている。



 初めて来たのは先週の水曜日。あのドアを開けるのに十分かかった日。二度目は翌日の木曜日。二度目は三分で開けられた。三度目の火曜日は一分。今日は十秒。ドアの前で立ち止まる時間が、回を重ねるごとに短くなっている。来ることに慣れたのか。それとも、ここが「来ていい場所」だと信じ始めたのか。


 灯台の事務所は六畳ほどの空間に、必要なものが全部詰まっている。デスクが二つ。パソコンが二台。壁一面の本棚。奥にキッチンスペースと、その隣にシャワー室。シャワー室の向かいに、わたしがさっきまで寝ていた休憩スペース。トイレは廊下に出て共用。


 白石さん以外にもスタッフがいる。火曜日に来るボランティアの大学生、高橋さん。二十歳くらい。社会福祉学科の学生で、レポートの題材を探しに来たのがきっかけで、そのまま居着いたらしい。眼鏡をかけていて、声が小さい。わたしと似ている。話しかけると少し驚いた顔をする。


 水曜日は白石さんが一人のことが多い。今日もそうだった。パソコンに向かって書類を作っている時間と、電話をしている時間が半々くらい。電話の内容は聞こえないように別室に移動するか、声を落として話す。鶴見の件だろうと思う。他の団体や警察との連絡。わたしの前では詳しく話さないけれど、「動いてるよ」と一度だけ言ってくれた。


 灯台で提供されるもの。紅茶。シャワー。スマホの充電。本棚の本。おにぎりとカップスープ。相談。


 おにぎりは白石さんが自分で握っているらしい。塩むすび。具なし。ラップに包んであって、キッチンの棚に常備されている。「おなか空いたら食べてね」と初日に言われた。最初は遠慮していた。二日目に一個食べた。三日目に二個食べた。塩むすびの味。コンビニのおにぎりとは違う。コンビニのおにぎりは均一な味がする。白石さんのおにぎりは、握った人の手の形がわかる。少しいびつで、塩加減がその日によって微妙に違う。


 カップスープはわかめスープ。箱買いしてあって、棚に積まれている。電気ケトルのお湯で作る。寒い日は紅茶よりスープが欲しくなる。一月の午後はまだ寒い。事務所の暖房はエアコン一台で、足元が冷える。わかめスープを飲むと、胃の底から温まる。


 本棚には小説やエッセイのほかに、漫画もある。少女漫画が多い。白石さんの趣味なのか、利用者が置いていったのか聞いていない。わたしは本棚の端にある文庫本を一冊借りた。タイトルは覚えていない。読んでいるうちに眠くなって、ソファで寝落ちした。それが今日の五分間だ。



 灯台に来る人は、わたしだけじゃない。


 火曜の午後、わたしが来たとき、先客がいた。わたしと同い年くらいの女の子。パーカーにジーンズ。髪は茶色のショートボブ。爪を噛む癖がある。キッチンの横の充電コーナーでスマホを繋いでいた。目が合ったとき、彼女は少し身構えた。わたしも身構えた。知らない人がいる、という反応。歌舞伎町では慣れていたはずの感覚が、ここでは新鮮に感じる。


 白石さんが「なぎさちゃん、こちらはマリちゃん。マリちゃん、こちらはなぎさちゃん」と紹介してくれた。マリは「どうも」と小さく言った。わたしも「どうも」と返した。それ以上の会話はなかった。


 マリは灯台の一時避難所を使っているらしい。事務所の上の階に小さな部屋がある。六畳一間でシャワーは共同。ルカが退院後に入る予定の部屋と同じ場所か、隣の部屋か。マリは家出中で、家には帰れないと白石さんに話していたらしい。詳しい事情は聞いていない。聞かない。ここでは「聞かない」がルール。歌舞伎町と同じだ。理由を追及しない。「いる」ことだけを認める場所。


 今日、マリが話しかけてきた。


 わたしがシャワーから出て、髪をタオルで拭いているときだった。マリが充電コーナーの椅子に座ったまま、こちらを見て聞いた。


「あんたもトー横?」


 声が低い。ぶっきらぼうな聞き方。でも敵意はない。確認。自分と同じ種類の人間かどうかを確かめている。


「うん」


 わたしは答えた。タオルで髪を拭く手を止めないまま。


「今も行ってんの?」


「ううん。もう離れる」


 口から出た言葉に、自分で驚いた。「離れる」。今までこの言葉を使ったことがなかった。トー横のことを「離れる」と表現したことがなかった。ルカが病院で「ここから離れな」と言ったとき、わたしは反発した。レンが「一人で行くな」と言ったときも、鶴見から距離を取るという意味で理解した。でも「トー横から離れる」と自分の口で言ったのは、今が初めてだった。


 口にした瞬間、それが決意になった。言葉は、考えの後に来ると思っていた。先に考えて、まとめて、それから言葉にする。でも今日は逆だった。言葉が先に出て、考えが後からついてきた。「離れる」。うん、離れる。もう離れている。歌舞伎町に行ったのは先々週が最後。三人で路地裏を走った夜。あれが最後。


 マリが「そっか」と言った。ルカの「そっか」と同じトーン。追及しない二文字。でもマリの「そっか」には、少しだけ羨望が混じっていた気がする。離れられる側の人間を見る目。マリにはまだ、離れる場所がないのかもしれない。


「わたしは、まだ」


 マリが小さく付け加えた。視線がスマホの画面に戻る。会話が終わった。


 わたしは何も言えなかった。「大丈夫だよ」とは言えなかった。大丈夫かどうかなんてわからない。「ここにいれば安全だよ」とも言えなかった。安全かどうかは、マリが自分で確かめることだ。わたしにできることは何もない。


 何もない、と思った瞬間に、白石さんの顔が浮かんだ。白石さんも「何もしていない」ように見える。おにぎりを握って、紅茶を淹れて、シャワーの準備をして、「来たい人が来る場所」を維持しているだけ。でもそれが、全部なのだ。「場所がある」ということが、すでに支援なのだ。


 わたしがマリにできることは、多分、隣にいること。同じ事務所にいること。話しかけられたら答えること。それだけ。それだけでいいのかもしれない。



 シャワーの話をしよう。


 灯台のシャワー室は事務所の奥にある。ドア一枚で仕切られた狭い空間。タイル張り。排水口。シャワーヘッドが一つ。シャンプーとボディソープは共用のものが棚に置いてある。タオルは白石さんが洗濯してくれたものが畳んで積んである。白いタオル。清潔。


 初日にシャワーを借りていいか聞いたら、白石さんは「もちろん。いつでも使って」と言った。「タオルはそこにあるから。シャンプーも自由に。長くてもいいけど、お湯は電気温水器だから、十五分くらいで一回切れるかも」。


 シャワーを浴びた。温かいお湯が頭から流れる。髪を濡らす。シャンプーの泡。石鹸の匂い。排水口に流れていく水。身体が温まる。


 ネカフェのシャワーとは違った。


 ネカフェのシャワーは「生き延びるための水」だった。三分で済ませる。次の人が待っている。髪を乾かす場所もない。着替えはロッカーの中。金属製のドアの向こう。全部が「最低限」で、「効率」で、「処理」だった。生きるために必要な作業。風呂ではなくメンテナンス。


 灯台のシャワーは違う。急かされない。「十五分で切れるかも」とは言われたけれど、「急いで」とは言われない。お湯が切れたら少し待てばまた出る。タオルは清潔で、枚数を気にしなくていい。シャンプーのボトルは大きくて、残量を心配しなくていい。


 お湯に打たれながら、わたしは泣いた。


 なぜ泣いたのかわからなかった。悲しいわけじゃない。嬉しいのか。それも違う気がする。安心、に近い何か。温かいお湯が身体を包んでいて、まるで誰かに抱きしめられているみたいだった。急がなくていい場所にいて、外で白石さんが紅茶を淹れてくれている。それだけのことが、わたしの目から涙を押し出した。


 ネカフェのシャワーは「生き延びるための水」だった。灯台のシャワーは「人間に戻るための水」だった。同じ水。同じ温度。でも意味が違う。場所が変われば、水の意味も変わる。



 午後四時。白石さんが電話を終えて戻ってきた。


 別室で話していた内容を、少しだけ教えてくれた。


「鶴見さんの件、動いてるよ。カケルくんが調べてくれた "亀田隆" の情報、かなり役に立ってる。他の団体でも同じ名前が引っかかった。池袋だけじゃなくて、もう一か所、別のエリアでも似た報告がある」


 別のエリア。池袋と歌舞伎町以外にも。鶴見は三か所以上で同じことを繰り返していた。名前を変え、場所を変え、カメラとドキュメンタリーという看板を掲げて。


「警察のユース支援担当にも共有した。すぐに動けるかはわからないけど、あの人の情報は関係者の間に広まってる。ミキちゃんのことも、夜回りのときに声かけてみてる」


「ミキは」


「まだ会えてない。来なくなってるみたい。でも、諦めてないよ」


 白石さんの声は穏やかだった。焦っていない。でも諦めてもいない。「時間がかかるけど確実に狭まる」。先週言っていた言葉。網。見えない網。鶴見が次に動いたときに引っかかる仕組み。テレビドラマの逮捕劇ではなく、現実の支援はこうやって進む。地味で、遅くて、でも止まらない。


「白石さん、ありがとうございます」


「仕事だよ」


 白石さんが笑った。「仕事だから」。でもこの人の仕事は、おにぎりを握ることと紅茶を淹れることと電話をかけることと、若者の話を聞くことと、シャワーの温水器を確認することと、タオルを洗濯することと、鶴見みたいな人間の情報を共有することで構成されている。その全部が「仕事」。全部が支援。一つ一つは小さい。でも全部が繋がっている。


 わたしはメモ帳を開いた。スマホのメモ帳。最近また書く量が増えている。灯台に来るようになってから、書く内容が変わった。歌舞伎町にいた頃は、夜の風景や仲間の言葉を記録していた。今は、自分自身のことを書いている。考えたこと。気づいたこと。変わったこと。変わっていないこと。


 書いた。


 「"灯台" は、光を出す場所だ。暗い海にいる船に "ここにいるよ" と知らせるための場所。灯台は船を引っ張らない。錨を降ろしてくれるわけでもない。光を出すだけ。あとは船が自分で進む。白石さんはそういう人だ。光を出すだけの人。でも、光がなかったら、船はどこに行けばいいかわからない」


 書き終えて、スマホを閉じた。白石さんがキッチンでマグカップを洗っている。水の音。スポンジのきゅっきゅという音。日常の音。歌舞伎町の夜の喧騒とも、自室の沈黙とも違う音。「場所の音」。灯台には灯台の音がある。


 窓の外を見た。午後四時半。まだ明るい。冬の日は短いけれど、一月の終わりはほんの少しだけ日が伸びている。先月より五分か十分。その差が窓の光でわかる。季節が動いている。わたしが灯台のソファでうたた寝している間にも、地球は回っている。



 帰り支度をしていると、白石さんが声をかけてきた。


「なぎさちゃん、ちょっといい?」


 デスクの前に座り直した。白石さんも向かいに座る。紅茶はもう飲み終わっている。マグカップは洗ってあって、棚に戻されている。白石さんの手は空。ノートもペンも持っていない。仕事モードではなく、人間モード。


「最近、ここに来てくれてるよね。嬉しいよ」


「はい」


「学校のことも、少しずつ考えてるって言ってたよね」


「はい。でも、まだ無理です」


「うん。無理しなくていい。でもね、一つだけ聞いてもいい?」


 白石さんの声が少し低くなった。穏やかさは変わらない。でも質問の重さを、声が先に教えてくれている。


「家族のこと、考えてみない?」


 心臓が一拍、跳ねた。


 家族。母。父。弟。瀬川家。埼玉の建売住宅。天井の罅が三本ある部屋。母の溜息。父の不在。陸の「姉ちゃん、大丈夫?」。


「今すぐじゃなくていいから」


 白石さんが付け加えた。押さない。いつも押さない。「考えてみない?」であって「考えなさい」ではない。


「お母さんとのこと、前に話してくれたよね。 "あなたにも原因がある" って言われたこと。SNSの投稿のこと。 "悪い子ではありません" って書いてたこと」


「はい」


「お母さんも、苦しんでたんだと思う。正しいやり方がわからなかったんだろうね。なぎさちゃんと同じように」


 わたしと同じように。母もわからなかった。わたしが「助けて」の言い方を知らなかったように、母も「心配してる」の伝え方を知らなかった。「あなたにも原因がある」は、母なりのSOSだったのかもしれない。どうしていいかわからなくて、疲れて、焦って、間違った言葉を選んだ。わたしが「大丈夫」という間違った言葉を選んだように。


「帰る場所がある、ってすごいことなんだよ」


 白石さんが言った。ルカのことを思い出した。ルカには帰る場所がない。19歳で、住所がない。実家は暴力。シェルターのルールに馴染めなくて脱走した過去。今は灯台の一時避難所にいる。六畳一間。マリもいる。帰る場所がない子たちが、灯台の上の階で暮らしている。


 わたしには家がある。部屋がある。天井の罅が三本ある部屋。母が作り置きを冷蔵庫に入れてくれる家。弟がLINEで「大丈夫?」と聞いてくれる家。帰る場所がある。ルカが持っていないものを、わたしは全部持っている。


 でも「帰る場所がある」と「帰りたい場所がある」は違う。白石さんが病院の面談室で言っていた言葉。十二月に。あの日から二ヶ月近く経った。まだ答えが出ていない。


「帰りたいかどうかは、まだわかりません」


 正直に言った。「大丈夫です」ではなく、「わかりません」。これが今のわたしにできる正直さだった。


 白石さんが頷いた。


「わからないでいいよ。でも、考えることは止めないでね。考えてるうちは、動いてるってことだから」


 レンの言葉と同じだ。「考えてる人は止まってない」。十二月に、電車の中でレンが送ってくれたLINE。白石さんとレンが同じことを言っている。大人と十七歳が同じ言葉にたどり着いている。


「はい。考えます」


「うん。いいペースだよ、なぎさちゃん。焦らなくていい」


 白石さんが立ち上がった。わたしも立った。コートを着る。マフラーを巻く。リュックを背負う。


 ドアの前で振り返った。事務所の中。デスク。本棚。キッチン。壁の手書きポスター。「ここにいていいよ」。下手な字。


「また来ます」


「うん。紅茶あるから」


 ドアを閉めた。階段を降りる。二階の踊り場。蛍光灯はまだ一本切れている。先週から変わっていない。でも、もう暗いとは思わなかった。暗いことを知っていれば、暗さは怖くない。



 一階。外に出た。新宿の夕方。一月の空気。冷たいけれど、先月よりほんの少し温い。日が伸びている。季節が動いている。


 駅に向かって歩きながら、考える。


 家族のこと。母のこと。帰ること。


 帰る場所がある。それはたしかだ。ルカが持っていないものを、わたしは持っている。ルカは「あんたには帰る場所がある」と言った。病院のベッドで。白石さんも「帰る場所があるってすごいこと」と言った。二人が同じことを言っている。わたしだけが、その意味をまだ掴めていない。


 帰る場所が「ある」のに帰れない。帰りたくないのか。怖いのか。母の顔を見るのが怖いのか。「あなたにも原因がある」の声が頭に残っているから。でも母は「あの子は悪い子ではありません」とも書いた。どっちが本当の母なのか。たぶん両方が本当なのだ。人間は矛盾する。わたしも矛盾している。トー横が好きだったのに離れた。家が嫌だったのに帰りたいかもしれない。


 スマホが振動した。LINEの通知。グループLINEではなく、個別メッセージ。


 カケルからだった。


 「なぎ。話がある。金曜、会える?」


 短い文。カケルにしては長い。「話がある」。カケルが「話がある」と先に予告するのは珍しい。いつもは黙って会って、黙って隣にいて、必要なことだけ短く言う。「話がある」と前置きするのは、その話に覚悟がいるということだ。


 返信した。「会える。いつもの場所?」


 カケルから。「うん」


 いつもの場所。非常階段の踊り場。カケルと曲を聴いた場所。三人で鶴見から隠れた場所。あの場所で、カケルは何を話すんだろう。


 電車に乗った。窓際の席。ガラスに映る自分の顔。先月の顔とは違う。怯えが減っている。代わりに、考えている顔になっている。白石さんが言った。「考えてるうちは動いてる」。わたしの顔は、動いている人間の顔をしていた。


 家族のことを考える。帰ること。帰る場所。帰りたい場所。その二つが重なる日は来るのだろうか。


 わたしはあの家に「帰れる」。帰る場所が「ある」。でもそれは「帰りたい」とは違う。ずっと逃げていることもできない。白石さんの声。レンの声。ルカの手紙。カケルの「話がある」。みんなが、少しずつ、わたしの背中に手を置いている。押してはいない。でも手がある。その温度を感じている。


 窓の外。郊外の住宅街が流れていく。街灯が点き始めている。家の窓に灯りが灯っている。誰かの夕飯の匂い。誰かの「おかえり」の声。


 わたしにも、それがある。あるのに、まだ手を伸ばせていない。


 でも、考えている。考えているから、止まっていない。

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