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第32話 : 名刺を握って

第32話 : 名刺を握って


 雑居ビルの階段は、狭くて暗かった。


 壁はクリーム色のペンキで塗られているが、ところどころ剥がれている。蛍光灯が一本切れていて、二階と三階の踊り場だけが薄暗い。足元の階段には灰色のリノリウムが敷かれていて、踏むたびにきゅっきゅと鳴る。エレベーターはない。ビル全体が古い。築何年だろう。わたしの年齢より長く、ここに建っている気がする。


 一月中旬。水曜日の午後三時。


 平日の昼間に新宿にいる。学校には行っていない。母には「図書館に行く」と言った。嘘。図書館ではなく、新宿の雑居ビルの階段を上っている。嘘をつく罪悪感は、もう鈍くなっていた。半年以上、金曜のたびに嘘をついてきた。「友達のところに泊まる」。あの嘘に比べたら、「図書館に行く」はまだ近い。本がある場所には行かないけれど、言葉がある場所には行く。


 三階。ドアの前に立った。


 古いスチールのドアに、A4サイズのプレートが貼ってある。「NPO法人 灯台」。その下に、小さな文字で「相談・支援・居場所」。ドアの取っ手は金属製で、握ると冷たそうだ。


 わたしはドアの前で止まった。


 一分。二分。右手をポケットに入れる。名刺に触れる。白石遥。角が折れた白い紙。何十回も触ったせいで、紙の表面が少しざらざらしている。お守り。レンが「絶対行きなよ」と言った。カケルが「白石さんに全部話したほうがいい」と言った。ルカが名刺を受け取って電話をした。わたしだけが、まだここに来ていなかった。


 三分。四分。ドアの取っ手に手を伸ばす。指先が金属に触れる。冷たい。引っ込める。


 何を話せばいいんだろう。「助けてください」? 何を助けてもらうの。わたしには家がある。学校がある。ルカのように住所がないわけじゃない。レンのように地元にいられないわけでもない。わたしは「帰る場所がある子」だ。帰る場所がある子が、NPOの事務所のドアをノックする資格はあるのか。


 白石さんの声が頭の中で鳴った。「灯台はルカちゃんだけのものじゃないからね」。病院の面談室で言われた言葉。「なぎさちゃんが来てくれてもいいんだよ」。


 五分。六分。階段の踊り場に座りそうになった。座ったら立てなくなる気がして、踏みとどまった。


 スマホを出した。LINEを開く。カケルから送られてきた画像。鶴見の調査データ。SNSのスクリーンショット。掲示板の書き込み。「亀田隆」の名前。三年前の池袋。これを白石さんに渡す。それが、わたしがここに来た理由の一つ。


 でも、本当の理由は、それだけじゃない。


 鶴見のことだけなら、データをLINEで送ればいい。わざわざ来なくてもいい。来たのは、鶴見のことだけじゃなくて、わたし自身のことを話したいからだ。話さなきゃいけないからじゃない。話したいから。その違いが、自分でもわかっている。


 「助けて」と言う練習を、わたしはしたことがなかった。学校でも家でも、言っても変わらなかったから。担任に言った。「双方から話を聞いて対応する」と言われた。何も変わらなかった。母に言葉にできなかった。「あなたにも原因がある」と返ってきた。「助けて」は、壁に投げたボールみたいに跳ね返ってくるものだと思っていた。


 七分。八分。


 でも、言ってみなければわからない。白石さんが同じように跳ね返すかどうかは、試してみなければわからない。ルカは試した。電話をかけた。名刺の番号に。そして白石さんは来てくれた。病院に。面談室に。紅茶のティーバッグを持って。


 九分。


 わたしは名刺をポケットから出した。角が折れた白い紙。「NPO法人 灯台 白石遥」。電話番号。メールアドレス。住所はこのビルの三階。今わたしが立っている場所。名刺の先に、本物の人がいる。ドアの向こうに。


 十分。


 ドアの取っ手を握った。冷たい。回した。押した。ドアが開いた。



 紅茶の匂いがした。


 事務所の中。思ったより狭い。六畳くらいのスペースに、デスクが二つ。パソコンが二台。壁一面の本棚。ファイルや資料がぎっしり詰まっている。窓は一つ。カーテンは開いていて、午後の光が入っている。壁には手書きのポスター。「ここにいていいよ」と書いてある。マジックペンの字。下手な字。でもその下手さが、いい。


 奥に小さなキッチンスペース。電気ケトル。マグカップが四つ。棚にティーバッグの箱が並んでいる。病院の面談室で白石さんが淹れてくれたのと同じ銘柄。紅茶の匂いは、ここから漂っている。


 デスクの奥に白石さんがいた。パソコンに向かっていたらしい。ドアが開いた音で顔を上げた。わたしを見た。一瞬、目を丸くした。それからすぐに笑った。


「あ、なぎさちゃん。来てくれたんだ」


 白石さんが立ち上がった。ニットのセーターにジーンズ。病院のときと同じカジュアルな格好。帆布のトートバッグが椅子の背にかかっている。


「……はい」


 それしか言えなかった。声が小さい。ドアを開けるのに十分使った喉が、もう疲れていた。


「よく来たね」


 白石さんが笑った。


 三文字。よく来たね。


 歩いてきただけだ。電車に乗って、新宿で降りて、雑居ビルの階段を上って、ドアの前で十分立って、取っ手を回しただけ。それだけのことに「よく来たね」と言われた。


 でもその三文字が、わたしの全部を受け止めた気がした。いじめも不登校もトー横も母の涙もルカ姉のODも鶴見の手も路地裏の足音も、全部を。「よく来たね」の三文字が、ドアの前で十分間立っていたわたしの足を、ここまで運んでくれた理由になった。


 泣きそうになった。泣かなかった。まだ何も話していない。泣くのは早い。


「座って。紅茶、淹れるね」


 白石さんがキッチンに向かった。電気ケトルのスイッチを入れる音。カチッ。水が温まり始める低い唸り。


 わたしはデスクの前の椅子に座った。パイプ椅子。硬い。病院の面談室の椅子と同じ種類。でもここには消毒液の匂いがない。紅茶の匂いと、古い紙の匂いと、午後の光がある。


 白石さんが紅茶を持ってきた。マグカップ。紙コップじゃない。ここは事務所だから。白い陶器のマグカップ。取っ手がついている。両手で持つと、温かい。指先から温度が伝わってくる。一月の冷えた身体に、紅茶の温度が染みる。


「LINEもらってたね。鶴見さんのこと、話しに来てくれたの?」


 白石さんがデスクの向かいに座った。ノートは出さない。ペンも持たない。病院のときはメモを取っていたけれど、今日はそうしない。わたしを見ている。穏やかな目。待っている目。


「それもあるんですけど」


 声が出た。思ったより小さい。でも出た。


「わたし自身のことも、話したくて」


 白石さんが頷いた。何も言わない。待っている。急かさない。沈黙を怖がらない。この沈黙は、わたしに時間をくれている沈黙だ。母の沈黙とは違う。母の沈黙は「早く何か言って」という圧力だった。白石さんの沈黙は「好きなだけ考えていいよ」という空間だ。


 紅茶を一口飲んだ。温かい。少し苦い。でもいい苦さ。


 話し始めた。



 最初は、学校のこと。


 中学三年のとき。文化祭。美月。動画。加工画像。グループLINEの87件。担任の「双方から話を聞いて対応する」。何も変わらなかったこと。透明になったこと。


 高校に入ったこと。リセットしたかったこと。楓。少しだけ友達になれたこと。SNSで繋がった中学の同級生から情報が漏れたこと。距離を置かれたこと。玄関で足が止まったこと。不登校。


 家のこと。


 母。「あなたにも原因がある」。溜息。心配しているのに表現が下手なこと。SNSに投稿したこと。「あの子は悪い子ではありません」。それを見て泣いたこと。父。何もしないこと。陸。唯一の味方。「大丈夫?」とLINEをくれること。


 歌舞伎町のこと。


 初めて行った夜。ルカに助けられたこと。「なぎ」という名前をもらったこと。レンの軽さとカケルの静けさ。四人で「ファミリー」と呼び合ったこと。コンビニのおにぎりを分けたこと。非常階段の踊り場で夜景を見たこと。メモ帳に言葉を書き始めたこと。


 ルカのこと。


 OD。路地裏。冷たい手。救急車。病院の廊下。名刺を渡したこと。ルカが電話してくれたこと。白石さんが来てくれたこと。


 鶴見のこと。


 カメラの男。ファミレス。ココア。LINEのIDを教えてしまったこと。レンの警告。ブロック。先々週の金曜、コンビニの前。腕を掴まれたこと。「全部知ってるから」。新しいアカウントからのDM。先週、三人で歌舞伎町に行ったこと。ミキが鶴見と一緒にいたこと。路地裏を走ったこと。非常階段に隠れたこと。


 話しながら、スマホを見せた。カケルが送ってくれたスクリーンショット。鶴見のSNSアカウント。「亀田隆」の掲示板の書き込み。三年前の池袋の情報。


 全部。途切れ途切れに、順番もめちゃくちゃに、でも確実に。喉が乾いて紅茶を飲んで、また話して。言葉が詰まって黙って、白石さんが待ってくれて、また話して。三十分か、四十分か。わからない。時間の感覚がなかった。


 白石さんは、ずっと聞いていた。


 頷きながら。時々「うん」「それで?」と相槌を打ちながら。眉をひそめない。驚いた顔をしない。「大変だったね」とも「辛かったね」とも言わない。ただ聞いている。わたしの言葉を、一つも落とさないように。


 話し終えた。


 紅茶のマグカップが空になっていた。いつ飲み干したのか覚えていない。白石さんがすぐにおかわりを淹れてくれた。二杯目。湯気が立つ。


「なぎさちゃん、よく話してくれたね」


 白石さんが言った。「大変だったね」ではなく「よく話してくれたね」。大変だったかどうかを判断するのはわたし自身で、白石さんの仕事じゃない。白石さんがしてくれたのは「話す場所を作ること」だ。その違いが、わたしにはわかった。


「まず、鶴見さんのことね」


 白石さんがデスクの引き出しからノートを出した。今度はメモを取る姿勢。仕事モード。


「カケルくんが調べてくれた情報、すごく助かる。 "亀田隆" の名前は、うちのネットワークでも聞いたことがある。やっぱり同一人物かもしれない。これは、他の団体と警察のユース支援担当にも共有する。今日中に」


 白石さんの声が変わった。穏やかさは残っているけれど、その中に硬い芯が通っている。面談室でルカに支援制度の説明をしていたときと同じトーン。プロの顔。


「鶴見さんがなぎさちゃんの腕を掴んだこと、DMで脅してきたこと、これは証拠として残しておいて。スクリーンショットは消さないでね。ブロックしたアカウントも、記録だけは残しておいたほうがいい」


「はい」


「なぎさちゃんに直接危険が及ぶことは避けたい。一人で歌舞伎町に行かないこと。鶴見さんに会っても逃げること。逃げたら、すぐにわたしに連絡して。夜中でもいいから」


「先週、レンにも同じことを言われました。一人で行くなって」


「いい友達だね」


 白石さんが微笑んだ。


「ミキちゃんのことも気にかけてる。夜回りで声かけてみる。ただ、ミキちゃん本人が "大丈夫" だと思っている間は、こちらから無理に引き離すことはできない。それが支援の難しいところなんだけどね」


 ミキ。鶴見の隣にいたミキ。肩に手を置かれていたミキ。16歳。わたしと同い年。でもわたしには仲間がいて白石さんに繋がれた。ミキにはまだ、それがない。


「鶴見さんについては、すぐに逮捕とかにはならないかもしれない。証拠が足りないし、法律的にグレーな部分もある。でもね——」


 白石さんがペンを置いて、わたしを見た。


「あの人の名前と顔と手口を、関係者全員で共有する。支援団体のネットワーク、夜回りの相談員、警察のユース部門。次にあの人が誰かに近づいたとき、引っかかる網を作る。目に見えない網。時間はかかるけど、確実に狭まる」


 網。先月、病院の面談室でも白石さんは同じことを言った。見えない網。テレビドラマみたいに犯人が捕まって終わりじゃない。地味で、時間がかかる方法。でも現実はそうやって動く。


「次に、なぎさちゃん自身のこと」


 白石さんの声が少し柔らかくなった。プロの顔から、紅茶を淹れてくれる人の顔に戻る。


「全部を一度に解決する必要はないんだよ。学校のことも、お母さんのことも、全部一気には無理。まず "安全でいること" が最初。鶴見さんから離れること。それは、もうできてるよね」


「ブロックしたし、先週は三人で逃げました」


「うん。それが大事。逃げることは弱さじゃないからね。逃げられるのは、状況を判断できてるってことだから」


 逃げることは弱さじゃない。その言葉が、胸の奥に落ちた。先週の金曜、路地裏を走ったとき、「逃げている」ことが情けなかった。鶴見に何も言い返せずに走った自分が、弱いと思った。でも白石さんは「逃げられることが強さ」だと言っている。


「なぎさちゃん、今日はここに来れただけで十分だよ」


 白石さんが紅茶のマグカップを両手で包んだ。窓からの午後の光が、白石さんの手を照らしている。細い指。爪は短く切ってある。


「また来たくなったら来て。来たくなかったら来なくていい。でも来たら、紅茶はあるから」


「白石さん」


「うん?」


「なんでそんなに優しいんですか」


 聞いてしまった。聞くつもりはなかった。でも口が動いた。全部話した後の、空っぽになった喉から、最後の質問が出た。


 白石さんが少し笑った。困ったような笑い。初めて見る表情。これまでの白石さんは、常に穏やかで、余裕があって、プロの顔を崩さなかった。今の笑いは、その鎧の隙間から見えた素顔みたいだった。


「優しいかどうかは、わからないけど」


 白石さんが窓の外を見た。午後の新宿。ビルの隙間の空。灰色の冬空。


「仕事だから、っていうのが建前。本音は——」


 少し間があった。白石さんが言葉を選んでいる。慎重に。何をどこまで話すかを測っている。


「わたしも昔、同じだったから」


 白石さんの声が、ほんの少し変わった。低くなったのか、柔らかくなったのか。声のトーンが変わったのではなく、声の奥にある何かが見えた気がした。


 同じだった。白石さんも。何が「同じ」なのか、白石さんは言わなかった。どこにいたのか、何があったのか。言わなかった。でもわたしは察した。「灯台はルカちゃんだけのものじゃない」と言ったとき。「大丈夫って言葉は、いちばん大丈夫じゃない人が使う」と言ったとき。あの言葉は、知識から出たものじゃない。経験から出たものだ。


 白石さんにも「暗い部屋」がある。天井の罅みたいなもの。あるいは、ネオンの記憶。


 でも今日はそこまで。白石さんはそれ以上話さなかった。ドアを少しだけ開けて、すぐに閉じた。今日はわたしの話を聞く日。白石さんの話を聞く日じゃない。順番がある。その順番を白石さんは守る。プロだから。でも「同じだったから」の一言で、白石さんは「プロ」から「人間」になった。同じ傷を知っている人間に。


「もう一杯、紅茶いる?」


 白石さんがいつもの声に戻った。穏やかで、軽くて、何も押しつけない声。


「いいです。もう帰ります」


「うん。気をつけてね」


 立ち上がった。パイプ椅子がきしむ音。マグカップをキッチンのシンクに持っていこうとしたら、白石さんが「置いといて。洗うから」と言った。


 ドアの前に立った。さっきは十分かかったドアが、今は簡単に開く。同じドアなのに。


「白石さん」


 振り返った。


「ありがとうございます」


 ありがとう。言えた。ルカに名刺を渡したときも、レンにブロックを手伝ってもらったときも、カケルに調査データをもらったときも、わたしは「ありがとう」を言えていたかどうか覚えていない。今日は言えた。言いたかったから言った。


 白石さんが笑った。


「こちらこそ。来てくれて、ありがとう」



 階段を降りた。


 二階の踊り場。蛍光灯がまだ切れている。薄暗い。でもさっきより暗くない気がする。気のせいかもしれない。蛍光灯は変わっていない。変わったのはわたしだ。


 一階。スチールのドアを押して外に出る。ビルの前の通り。新宿の喧騒。車の音。人の声。歩道を歩く人の波。一月の冷たい空気。でも紅茶の温度がまだ身体の中に残っている。指先が温かい。


 歩き出した。新宿駅に向かう。午後四時過ぎ。まだ明るい。冬の日差しが斜めに街を照らしている。ビルの窓に光が反射して、目を細める。


 わたしは今日、初めて自分から「助けて」と言った。


 言葉にはしていない。「助けてください」とは言っていない。でも、ドアを開けたこと。椅子に座ったこと。紅茶を受け取ったこと。話し始めたこと。全部が「助けて」だった。声にしない「助けて」。行動で示す「助けて」。


 世界は変わっていなかった。新宿の街は同じ音で鳴っている。人混みは同じ密度で流れている。空は同じ灰色。わたしが白石さんの事務所で紅茶を飲んでいる間、世界は一ミリも動いていなかった。


 でも、わたしの中の何かが変わった。


 名刺を出した。ポケットから。角が折れた白い紙。何十回触ったかわからない紙。お守りだったもの。


 お守りじゃなくなった。名刺は名刺に戻った。連絡先が書いてある紙。その先に、本物の人がいることを確認した紙。紅茶を淹れてくれて、話を聞いてくれて、「よく来たね」と言ってくれる人がいる。その人は「わたしも昔、同じだったから」と言った。その一言が、名刺を「お守り」から「地図」に変えた。行き先がわかる紙。


 名刺を握りしめていた手を、やっと開けた気がした。

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