第31話 : 逃げる夜
第31話 : 逃げる夜
三日後の月曜、レンに電話した。
金曜の夜のことを全部話した。鶴見がコンビニの前にいたこと。腕を掴まれたこと。「全部知ってるから」と言われたこと。新しいアカウントからのDM。メモ帳の存在を知られていたこと。白石さんの名前まで出てきたこと。
レンの声が電話越しに変わった。いつもの軽さが消えて、声が低くなった。
「なぎ、それマジでヤバいよ。直接来たってことは、ブロックとか関係ないってことじゃん。おれたちの情報全部持ってるって——おれの名前も出したんでしょ」
「うん。 "レンくんから聞いた" って。メモ帳のこと」
「おれは絶対あいつに話してない。ミキだ。ミキから漏れてる」
レンの声が尖っていた。怒り。レン自身に向けたものじゃない。鶴見に向けた、はっきりとした怒り。
「カケルにも言った?」
「まだ。連絡つかなくて」
「おれから言う。あいつ充電切れてるだけだから、ネカフェのWi-Fiに繋がったら見る」
その日の夜、グループLINEにカケルから一言だけ入った。「読んだ」。
火曜の朝。カケルから個別にLINEが来た。「金曜の夜、三人で行く。ミキに会いたい」。
短い文章。カケルにしては長い。「ミキに会いたい」。ミキが鶴見の近くにいること。それが意味するものを、カケルも理解している。
金曜。一月中旬。二十一時。
新宿駅の東口改札で、三人が合流した。
レンはニットの帽子にロングコート。通信制のスクーリング帰りの格好。カケルはダウンジャケットにイヤホン。片耳だけ外している。わたしはコートのポケットに両手を突っ込んで立っていた。息が白い。先週と同じ冷気。先週より緊張している。
「なぎ、顔色悪いよ」
レンが言った。
「……緊張してる」
「当たり前でしょ。おれだって緊張してる。でも三人だから大丈夫」
レンが軽い声で言った。軽い声の中に、硬い芯がある。この一週間でレンも覚悟を決めたのだと思った。
カケルは何も言わない。イヤホンの片耳を外したまま、改札の向こうの歌舞伎町方面を見ている。
「行こう」
カケルが歩き出した。わたしとレンがついていく。三人で靖国通りを渡る。一番街のアーチ。焼き鳥の匂い。先週と同じ匂い。先週はこの匂いが懐かしかった。今日は、警戒の匂い。鼻が鶴見の気配を嗅ぎ分けようとしている。
歌舞伎町に入る。金曜の夜。人が多い。ネオンが光っている。赤。青。ピンク。金。いつもの色。いつもの街。
三人で歩く。先頭がカケル。真ん中がわたし。後ろがレン。隊列みたいだった。カケルが道を選び、わたしが周囲を見て、レンが背後を確認する。言葉で決めたわけじゃない。自然にそうなった。
目的はミキ。ミキがまだ鶴見の近くにいるなら、声をかけたい。ルカが入院してからミキとは疎遠になっていた。グループLINEでの会話も減っている。ミキは以前のたまり場にまだ来ているのか。鶴見と一緒にいるのか。
区役所通り沿い。かつてルカたちが集まっていた場所。コンビニの前。ローソン。先週、鶴見に声をかけられた場所のすぐ近く。
ミキはいなかった。
知らない若者が数人、地面に座っている。わたしたちのグループとは別の人たち。顔を知っている子が一人いた。レンが近づいて聞く。
「ミキ、最近来てる?」
「ミキ? ああ、たまに。でもここじゃなくて、タワーのほうに行ってるっぽい。あの人と一緒に」
「あの人って」
「カメラ持ってる人。名前知らないけど。ミキと仲良さそうだった」
レンがわたしのほうを見た。目が険しい。「カメラ持ってる人」。鶴見だ。ミキは鶴見と一緒にいる。タワーの方面。
「行こう」
レンが言った。
「待って」
カケルが止めた。イヤホンを完全に外して首にかけている。両耳外し。カケルの「本気モード」のサイン。
「タワーの方面って、通りが狭い。人も少ない。三人で行ったら目立つ」
「じゃあどうすんの」
「おれが先に偵察する。なぎとレンはここで待ってて」
カケルの声は低くて静かだった。感情がない声。事実だけを処理する声。カケルはこの半年間、歌舞伎町を夜中に一人で歩き回っていた。路地の構造を知っている。ビルの配置を覚えている。夜の散歩で身につけた土地勘。それが今、偵察能力に変わっている。
「五分で戻る」
カケルが路地に消えた。わたしとレンはコンビニの光の下に立って待つ。
「カケル、ああいうとき頼りになるよね」
レンが言った。声は軽いが、手が少し震えている。わたしも震えている。一月の寒さのせいか、緊張のせいか。
三分。四分。五分。カケルが戻ってきた。早足で。表情が硬い。
「いた。ミキと鶴見。タワー裏の自販機の前。二人で話してる。ミキの肩に鶴見が手を置いてた」
胃が締まった。ミキ。まだ16歳。鶴見の手がミキの肩にある。
「ミキに声かけたい」
わたしが言った。レンが頷く。
「でも鶴見がいるんでしょ。三人で行ったら目立つ」
「おれが案内する。裏から回れる」
カケルが地図を引くように指で空中を描いた。
「タワー裏に出る路地が二本ある。表からと、ビルの非常階段を抜ける裏道。裏道なら鶴見の死角から入れる」
カケルの土地勘。歌舞伎町を歩き回った夜の記憶が、今、三人の安全を守っている。
カケルの先導で路地に入った。
ビルとビルの間。幅一メートルほどの隙間。排水管が壁に沿って走っている。足元にはゴミ袋と段ボール。空気がこもっている。冬なのに湿った匂い。排水と錆びた金属の匂い。
三人で一列になって歩く。カケルが先頭。スマホのライトは使わない。目が慣れるのを待つ。ビルの窓から漏れる光がわずかに路地を照らしている。
非常階段の下を通り抜ける。カケルが立ち止まった。角の向こうを覗く。
「見える。自販機の前。二十メートルくらい先」
わたしも覗いた。自販機の白い光。その前に二つの影。一つはミキ。もう一つは鶴見。鶴見がスマホをミキに見せている。ミキが笑っている。先月のユナと同じ構図。個別接触。善意の仮面。
「ミキ」
わたしが小さく呼んだ。声が路地に吸い込まれた。聞こえなかったかもしれない。もう一回。
「ミキ」
ミキが顔を上げた。こちらを見た。暗い路地の中にいるわたしを見つけた。目が合った。ミキの表情が変わった。驚き。それから——なぜか、怯え。
鶴見がミキの視線を追った。路地の方向を見た。
目が合った。
鶴見とわたしの目が合った。二十メートルの距離。自販機の白い光が鶴見の顔を照らしている。先週と同じ顔。穏やかな表情。微笑み。その微笑みがわたしに向いている。
鶴見が一歩、こちらに向かって歩き出した。
「走れ」
カケルの声。低く、鋭く。
三人が同時に動いた。来た道を戻る。走る。路地の中を。暗い。足元が見えない。ゴミ袋を蹴った。つまずきそうになった。レンの手がわたしの腕を掴んだ。引っ張った。走る。
背後から足音。鶴見の足音かどうかわからない。自分たちの足音かもしれない。路地は音が反響する。壁に跳ね返って、何人分にも聞こえる。
「こっち」
カケルが角を曲がった。非常階段。鉄製の外付け階段。カケルが柵を乗り越える。レンが続く。わたしも。コートの裾が柵に引っかかった。引きちぎるように外す。階段を上る。二階。三階。踊り場。
「止まれ」
カケルが壁に背を押しつけた。レンとわたしも。三人で踊り場に身を寄せる。壁はコンクリート。冷たい。呼吸が荒い。息が白い。心臓の音が耳の中で暴れている。
息を殺した。
下の通りを見る。踊り場の柵の隙間から。狭い路地。自販機の光はもう見えない。角を曲がったから。暗い通り。人影。
鶴見が歩いてきた。
路地の入口に立っている。左右を見ている。わたしたちがどこに行ったかを探している。スマホの画面が鶴見の顔を下から照らしている。青白い光。穏やかな表情はもうない。口が閉じている。目が細い。苛立っている。
三人で息を止めた。わたしの右手がレンの袖を掴んでいる。左手はカケルのダウンジャケットの裾を握っている。三人が物理的に繋がっている。離れたら見つかる気がした。繋がっていれば大丈夫な気がした。
鶴見が数歩歩いた。非常階段の下を通り過ぎる。上を見ない。踊り場は暗い。三階の高さ。路地の奥から見上げなければ見えない角度。カケルがこの場所を知っていた。
鶴見が通り過ぎた。足音が遠ざかる。角を曲がる音。消えた。
十秒。二十秒。三十秒。
レンが「行った?」と囁いた。
「……たぶん」
カケルが柵の隙間から下を確認した。
「いない。戻ったかも」
三人の呼吸が同時に緩んだ。肺に空気が入ってくる。冷たい空気。冬の夜の空気。歌舞伎町の空気。でも今は安全の空気。
わたしは踊り場の床に座り込んだ。膝が笑っている。手が震えている。レンも座った。カケルだけが立ったまま、下の通りを見張っている。
沈黙が長く続いた後、わたしが話し始めた。先週のこと。金曜の夜。鶴見との会話。「全部知ってるから」。腕を掴まれたこと。新しいアカウントからのDM。全部。
レンが黙って聞いていた。拳がコンクリートの床に押しつけられている。
「やっぱりな。あの人は完全にアウトだ」
レンの声が低い。いつもの軽さがない。
「おれが前に話したでしょ。亀田って名前で同じことしてた人。あれと鶴見が同一人物だとしたら——もう何年もこれやってるってことだよ。名前変えて、場所変えて」
カケルが振り返った。イヤホンを首にかけたまま。わたしとレンを見下ろしている。
「おれ、鶴見の名前でネットを調べた」
カケルが口を開いた。短い文を連ねるいつもの話し方。でも今夜は、文と文の間に力がある。
「 "鶴見恭平" でヒットするのはSNSのアカウントだけ。映像クリエイターって肩書き。でも作品がほとんどない。短い動画が数本。再生数は少ない。ドキュメンタリーって言ってるけど、まともに活動してる形跡がない」
「つまり "映像クリエイター" 自体が嘘ってこと?」
レンが聞いた。
「嘘っていうか、看板。近づくための看板。で、"亀田隆" で調べたら、掲示板に書き込みがあった。三年前。 "亀田という男にカメラで撮影すると言われてついて行った" "別の場所に連れて行かれそうになった" って」
三年前。別の場所。カケルの声は淡々としている。感情を乗せない。事実だけを並べる。でもその事実が重い。
「場所は池袋。歌舞伎町じゃない。名前も違う。でもやり方が同じ。カメラ。ドキュメンタリー。 "話を聞きたい"。最初は全体に声をかけて、そのうち個別に接触する。年下の子を狙う」
点と点が繋がっていく。鶴見恭平と亀田隆。池袋と歌舞伎町。三年前と今。名前を変え、場所を変え、同じ手口を繰り返している。レンが断った「あの人」。別の子がついて行った「あの人」。ルカが「ヤバい」と直感した「あの人」。全部、同じ人間。
「名前変えてる可能性がある。今の鶴見恭平も本名じゃないかもしれない」
カケルの声がかすかに震えた。感情が漏れた瞬間。カケルはデータを調べただけじゃない。調べながら、怒っていた。
レンが壁に頭を預けて、天井を見た。ビルの隙間の空。星は見えない。飛行機のライトが横切った。あの夜と同じ空。みんなで地べたに寝転がって見上げた空。
「なぎ。もう一人で歌舞伎町に来ないで」
レンの声が静かだった。
「来るならおれかカケルと一緒。絶対。先週みたいに一人で来たらダメ」
「……うん」
「ミキのことも心配だけど、おれたちだけじゃ守れない。白石さんに任せたほうがいい。白石さんが "夜回りで声かける" って言ってたんでしょ」
「言ってた」
「じゃあ白石さんに託そう。おれたちは、おれたちを守る」
カケルが頷いた。「うん」。短い。でも確か。
三人で非常階段に座っている。冬の夜。コンクリートが冷たい。でも三人でいると、先週一人だったときより、ずっと温かい。先週の金曜は一人で逃げた。今夜は三人で逃げた。一人の逃走と三人の逃走は、同じ「逃げる」でも意味が違う。
「なぎ」
カケルが言った。珍しく先に口を開いた。
「白石さんに全部話したほうがいい。鶴見のこと。腕掴まれたこと。DMのこと。おれが調べたことも。亀田のことも。全部」
「来週、白石さんの事務所に行く約束してる」
「行きな」
カケルの声は短いけれど、命令ではない。背中を押す声。レンが歌舞伎町で「離れて」と言ってくれたときと同じ種類の力。仲間が仲間を守るための言葉。
「おれたちだけじゃ鶴見は止められない」
カケルが続けた。
「あいつは大人で、情報を持ってて、何年もこれをやってる。おれたちは16歳と17歳と15歳で、名前も住所も知られてる。おれたちの武器はブロックと裏道だけ。それじゃ足りない」
カケルが言葉を選んでいる。いつもの短文じゃない。長い。カケルにとっての「長い言葉」は、感情が動いているサイン。音楽の話をするとき以外で、カケルがこんなに喋るのを聞いたのは初めてかもしれない。
「大人を使え。白石さんを。あの人は "押さない大人" でしょ。なぎが言ってたじゃん。押さない代わりに、こっちから押せる。こっちから情報を渡せば、あの人は動いてくれる」
カケルが黙った。言いたいことを全部言い終えたらしい。イヤホンを片耳につけ直した。でも音楽は流していない。耳に蓋をしただけ。カケルなりの「通常モードに戻る」合図。
レンが笑った。小さな笑い。
「カケル、おれっちよりいいこと言うじゃん」
「……別に」
「いや、マジで。 "大人を使え" って。かっこいい」
「かっこよくない。現実的なだけ」
レンとカケルの会話を聞きながら、わたしは少しだけ笑えた。鶴見に追われて、暗い踊り場に隠れて、膝が震えているのに。二人がいるだけで、恐怖の密度が薄まる。
「帰ろう」
レンが立ち上がった。
「鶴見がまだ近くにいるかもしれないから、裏道で駅まで出よう。カケル、案内して」
「うん」
カケルが先に階段を降りた。三人で非常階段を降りる。路地に出る。暗い。カケルが先導して、ビルの裏手を縫うように歩く。表通りには出ない。裏道だけを使って、新宿駅の方向に向かう。
歩きながら、わたしは三人の足音を聞いていた。カケルの足音は軽い。レンの足音は少し大きい。わたしの足音はその間。三つの足音が、路地の中で一つのリズムを作っている。
ルカがいない。ルカは灯台の一時避難所にいる。四人のファミリーが三人になった。でも三人は三人なりの「守り方」を見つけた。カケルが道を知っている。レンが声を上げてくれる。わたしは白石さんに繋がっている。三人のピースが、それぞれの形でかみ合っている。
表通りに出た。靖国通り。信号が青に変わる。人混みに紛れる。振り返る。歌舞伎町のネオンが背後にある。先週はこの光が怖かった。今夜も怖い。でも、一人の恐怖と三人の恐怖は違う。三人でいれば、怖くても動ける。
改札を通った。レンとカケルとは別の路線。ここで分かれる。
「なぎ、来週の白石さんのやつ、絶対行きなよ」
レンが言った。
「行く」
「おれが調べた分のスクショ、LINEで送る。白石さんに見せて」
カケルが言った。
「ありがとう」
三人で目が合った。コンビニで買った缶コーヒーもない。非常階段の踊り場みたいな「秘密の場所」でもない。新宿駅の改札前。大勢の人がすれ違う場所。でもこの三人の間には、あの路地裏で息を潜めた時間が流れている。同じ恐怖を共有した三人。
「じゃーね」
レンが手を振った。軽い声。いつものレンの声。でも目は笑っていない。笑わなくていい。今夜は、笑わなくてもいい夜だ。
「……じゃ」
カケルが片手を上げて、反対方向のホームに消えた。
わたしは一人で電車に乗った。窓際の席。ガラスに映る自分の顔。先週の金曜の顔より、少しだけ目が据わっている。怯えているのは同じだ。でも先週はただ怯えていた。今夜は、怯えながら考えている。
来週、白石さんの事務所に行く。「灯台」に。鶴見のことを全部話す。カケルが調べた情報も渡す。白石さんが「網を作ってる」と言っていた。その網に、今夜の出来事も織り込んでもらう。
鶴見から逃げることはできた。今夜も。でも逃げるだけでは終わらない。この街にいる限り、鶴見みたいな人はいなくならない。名前を変えて、場所を変えて、同じことを繰り返す人間がいる。追い出しても、別の誰かが来る。わたしたちが「弱い」限り、「利用する人」は消えない。
だったら、弱くなくなるしかない。
弱くなくなるって、何だろう。強くなること? 違う気がする。腕力の話じゃない。情報の話でもない。たぶん、「助けて」と言える場所を持つことだ。一人で戦わないこと。逃げるときに一緒に走ってくれる人がいること。隠れる場所を知っている人がいること。そして、「網を作ってくれる大人」に繋がっていること。
白石さんの名刺がポケットの中にある。角が折れた白い紙。もう何回触ったかわからない。お守りみたいに持ち歩いている。来週、このお守りの先にいる人に会いに行く。
電車が埼玉に向かっている。窓の外、街灯が等間隔に流れていく。先週と同じ風景。先週と違うのは、ポケットの中に名刺があること。スマホの中にカケルの調査データがあること。頭の中にレンの「絶対行きなよ」があること。
一人じゃない。
名刺を握る手に、力が入った。




