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第3話 : リセットボタン

第3話 : リセットボタン


 四月の空気は、嘘みたいに軽かった。


 真新しい制服は糊が効いていて、首元が少しだけ擦れる。ブレザーの袖口から覗く手首が白い。三月まで引きこもりかけていた人間の手首だ。日に当たっていない。でも今日は外にいる。空の下にいる。桜が咲いている。

 通学路の並木道は、花びらが降ってくるたびにアスファルトがピンクに染まっていった。踏むのが申し訳なくて、避けながら歩く。風が吹くと花びらが舞い上がって、制服の肩に止まる。払いのけようとして、やめた。このまま歩こう。桜をくっつけたまま入学式に行くのも悪くない。


 高校は、中学の同級生が一人もいない場所を選んだ。

 電車で三十分。乗り換えが一回。少し遠い。でもそれが目的だった。偏差値でもなく、部活でもなく、通学時間でもなく、「知っている人間がゼロであること」。それがわたしの志望理由だった。願書にはもちろんそんなことは書かなかったけど。


 校門をくぐる。入学式の立て看板が出ていて、写真を撮っている親子がいる。母さんも来たがっていたけど、わたしが断った。「一人で大丈夫」と言ったら、母さんは少し寂しそうな顔をして「そう」と引き下がった。

 体育館に入る。パイプ椅子が整然と並んでいる。知っている顔は一つもない。

 安堵した。

 心の底から、安堵した。ここにはわたしの「名場面集」を知っている人がいない。グループLINEで笑った人がいない。机の上にプリントを置いた人がいない。わたしはここでは「瀬川凪沙」でしかない。過去のない、まっさらな瀬川凪沙。


 リセットボタンを、わたしは押した。



 最初の一週間は、息を止めているみたいだった。


 自己紹介。一人ずつ立って、名前と出身中学と趣味を言う。わたしの番が来た。立ち上がる。足がほんの少し震えている。でも誰にも見えないはず。


「瀬川凪沙です。読書が好きです。よろしくお願いします」


 それだけ言って、座った。拍手がぱらぱらと起きた。形式的な拍手。誰に対しても同じ温度の拍手。それがちょうどよかった。特別に注目されず、特別に無視されず。中間。わたしの得意な場所。


 クラスメイトたちはすぐにグループを作り始めた。同じ中学から来た子同士が固まる。部活の話で盛り上がる子たちがいる。隣の席の子に話しかける子がいる。わたしはそのどれにも属さず、でも嫌われてもいない「中間」の位置を確保しようとした。中学と同じだ。同じ戦略。安全に、目立たず、誰の敵にもならず。


 隣の席の女の子が、二日目に話しかけてきた。


「ね、お昼一緒に食べない?」


 小林楓。ショートカットで、声が明るくて、笑うと目が三日月みたいに細くなる子。わたしの方を向いて、お弁当箱を持ち上げている。


「……うん」


 嬉しかった。嬉しいと思った瞬間、警戒心が背中を撫でた。この子も、いつか変わるかもしれない。優しい顔をして近づいてきて、ある日急に冷たくなるかもしれない。美月だってそうだった。最初は「凪沙ちゃんも舞台出なよ」と笑っていた。

 でも、断る理由がなかった。断ったら不自然だ。不自然は目立つ。目立つのは危険。だから「うん」と言った。


 楓のグループは三人だった。楓と、楓の隣の席の女の子と、わたし。三人でお弁当を食べて、放課後にコンビニに寄って、LINEで夜に雑談する。普通の高校生活。テレビドラマで見るような、なんでもない日常。

 わたしは少しずつ、笑えるようになっていた。楓が面白い動画を見せてくれると声を出して笑った。コンビニでアイスを選ぶのに十分かけて、楓に「遅い」と言われて笑った。LINEのグループに「今日の英語の先生の髪型やばかったね」と送って、楓から「わかるww」と返ってきて笑った。


 笑えている。わたし、笑えている。


 五月の連休前。放課後にファミレスに行った。楓と、もう一人の子、鈴木佳奈と三人で。ドリンクバーを何杯もおかわりして、くだらない話をした。好きなアイドルの話。来週の体育でやるらしいマラソンの話。数学の先生が板書が汚すぎる話。

 帰り道、駅前の商店街を三人で歩いた。レジ袋をぶら下げて、夕焼けの中を歩いた。楓が何か言って、佳奈が笑って、わたしも笑った。何を笑ったのか覚えていない。でも、笑っていた。


 あの夕焼けの帰り道を、わたしは忘れない。

 あの瞬間が「普通の高校生活」だったのだと、後から気づいた。あの数週間だけ。あの数週間だけが、わたしに与えられた「普通」だった。



 連休に入る前の金曜日だった。


 五限目が終わって、スマホを見た。SNSの通知。楓ではない、クラスの別の子——佳奈の友達の友達くらいの距離感の子——がストーリーを更新していた。何気なくタップした。

 スクリーンショットが貼られていた。誰かのアカウントの投稿。その「誰か」のアイコンに、見覚えがあった。


 水谷美月。


 美月のアカウントと、このクラスの子が繋がっている。それ自体は珍しくない。SNSは中学を超えて繋がる。友達の友達の友達で、世界は思ったより狭い。


 美月の投稿を、そのクラスの子が引用していた。内容は他愛のないもので、わたしとは関係なかった。でも、繋がっているという事実が、わたしの胸を冷たくした。

 佳奈の友達が美月と繋がっている。佳奈は楓の友達で、楓はわたしの友達。間に二人しかいない。情報が流れるのに、そんなにたくさんの人は必要ない。


 考えすぎだと思った。

 美月がわたしの話をするはずがない。わたしのことなんか覚えていないかもしれない。あの動画は「ちょっと面白かった」程度のもので、もう忘れているかもしれない。


 でも、忘れていなかったら。


 連休が始まった。四月の終わり。世間はゴールデンウィークで浮かれている。わたしは自室にいた。母さんが「友達と遊びに行かないの?」と聞いた。


「疲れてるから」


 嘘ではなかった。疲れていた。何に疲れているのか自分でもわからないけど、身体が重かった。ベッドから出る気力がない日が混ざり始めていた。

 母さんは不満そうな顔をして「せっかくの休みなのに」と言い残して去った。母さんにとって連休は「外に出て友達と遊ぶもの」で、それ以外の過ごし方は怠惰に見えるらしい。わたしがベッドでスマホを見ていると、母さんの溜息が階段の下から聞こえる。あの溜息は、家の中でいちばん大きな音だった。


 連休中にSNSを見た。楓と佳奈が一緒にカラオケに行っている写真が上がっていた。わたしは誘われていない。

 誘われなかった。

 それだけのことだ。二人でカラオケに行くことに、わたしが含まれる義務はない。楓と佳奈は元々仲がよくて、わたしは後から加わった三人目で、三人目がいなくても二人は成立する。

 わかっている。頭では。

 でも胸の奥で、小さな棘が刺さった音がした。



 連休が明けた。

 月曜日。教室に入ると、空気が少しだけ違った。


 何が違うのか、最初はわからなかった。楓は「おはよう」と言ってくれた。佳奈も「おはよう」と言った。みんな普通にしている。普通に見える。

 でも、お昼の時間になっても楓が「一緒に食べよう」と言わなかった。

 わたしから言えばよかったのかもしれない。でも、言えなかった。言って断られるのが怖かった。だから待った。待って、待って、結局楓は佳奈と二人で教室の隅に座った。わたしの方を見て「あ」という顔をしたけど、それだけだった。

 わたしは一人でお弁当を食べた。自分の席で。誰にも声をかけず、誰にもかけられず。


 次の日も同じだった。

 その次の日も。


 LINEの返信が遅くなった。既読がついてから返事が来るまで、三時間、五時間、翌日。以前は数分で返ってきたのに。グループLINEの会話も減った。楓と佳奈が別のグループを作ったのかもしれない。わたしが入っていないグループを。


 直接的ないじめではなかった。

 誰も悪口を言わない。誰も無視すると宣言しない。ただ、空気が変わった。わたしの周りの温度が、ほんの少しだけ下がった。触れてはいけないものに触れないように、みんなが自然に距離を取っている。


 「静かな排除」。

 わたしはそれに名前をつけた。中学のいじめとは違う。あれは派手だった。動画があった。加工画像があった。机の上にプリントがあった。目に見える暴力だった。

 今回は違う。目に見えない。証拠がない。誰かに訴えても「気のせいじゃない?」と言われるだろう。先生に言っても「もう少し自分から話しかけてみたら?」と返されるだろう。

 派手に殴られたほうが、まだ痛みの形がわかる。じわじわ消されるのは、自分が間違っているのか、相手が冷たいのか、判断がつかない。


 何が起きたのか、わたしにはわかっていた。たぶん。

 美月の知り合いから、わたしの中学時代の話が伝わった。「あの子、前の学校でハブられてた子だよ」。それだけで十分だった。「ハブられてた子」というレッテルは、理由を問わない。理由なんか誰も聞かない。結果だけが伝わる。「いじめられた側にも何かあったんでしょ」。そういう空気が、何も言わずに広がっていく。


 楓が悪い人だとは思わなかった。

 楓はたぶん、困っていたのだと思う。わたしと付き合い続けることのリスクを計算して、静かに距離を取った。それは「いじめ」ではなく「自己防衛」だ。楓を責めることはできない。楓だって、自分の居場所を守らなきゃいけない。


 でも、そう理解できることと、傷つかないことは別だった。


 五月の半ば。わたしは教室で一人になっていた。一ヶ月前には三人でファミレスに行っていたのに。レジ袋をぶら下げて夕焼けの中を歩いていたのに。あの夕焼けは、もう来ない。

 二度目の「透明」だった。

 一度目は自分で選んだ。今度は選ばされた。



 連休明けの二週目。水曜日。


 朝、目覚ましが鳴った。いつもと同じ時間。カーテンの隙間から差す光が、天井の罅を照らしている。三本。変わっていない。

 制服に着替えた。ブラウスのボタンを留める。スカートを履く。靴下を引き上げる。全部、いつもの動作。

 階段を降りる。朝食のトーストが焼ける匂いがする。母さんがキッチンに立っている。弟の陸がリビングでテレビを見ている。


「おはよう」


 母さんが言った。わたしは「おはよう」と返した。トーストをかじった。マーガリンが溶けて、指先が少しぬるぬるする。


「今日も学校でしょ? 忘れ物ない?」


「ない」


 家を出た。通学路を歩いた。駅に着いた。改札を通った。電車に乗った。

 乗り換えの駅で降りた。

 次の電車を待った。


 ホームに立って、電車を待っている。朝の通勤ラッシュ。スーツの人、制服の学生、イヤホンをした人。みんな同じ方向を向いて、同じように電車を待っている。

 わたしも同じように立っている。同じ制服を着て、同じ方向を向いて。でも、足が重い。ホームのコンクリートがわたしの靴底を吸いつけているみたいだ。


 電車が来た。ドアが開いた。人が降りて、人が乗る。

 わたしは乗らなかった。


 ドアが閉まる。電車が動き出す。風圧がスカートの裾を揺らした。

 次の電車が来る。また乗らなかった。

 その次も。


 三本見送った。

 四本目が来たとき、わたしはホームのベンチに座っていた。リュックを膝の上に抱えて、ぼんやりと反対側のホームを見ていた。

 行かなきゃ、と思う。行かなきゃ。学校に行かなきゃ。席に着いて、教科書を開いて、ノートを取って、一人でお弁当を食べて、誰にも話しかけられない六時間を過ごして、帰ってくる。それを毎日。毎日。


 手が震えていた。

 リュックの紐を握る指が白くなっている。息が浅い。胸の奥が締まるような感覚がある。泣いているわけじゃない。泣けない。泣くこともできないまま、ただ身体が動かない。


 スマホが鳴った。母さんからのLINE。

 「お弁当冷蔵庫に入れたから持ってってね」

 既読をつけて、返信しなかった。


 結局、わたしはその日、学校に行かなかった。

 乗り換え駅の改札を出て、反対方向の電車に乗った。自宅の最寄り駅まで戻って、母さんが出勤した頃を見計らって家に帰った。玄関のドアを開ける。誰もいない家。静かだ。冷蔵庫のモーターの低い音だけが、キッチンから聞こえている。


 制服を脱いだ。パジャマに着替えた。ベッドに入った。布団を頭までかぶった。

 暗い。静かだ。安全だ。

 ここにいれば、誰にも消されない。最初から消えていればいい。


 天井の罅を数えた。一本、二本、三本。

 まだ三本。増えていない。


 でも、わたしの中の何かは確実に増えていた。罅が。見えない場所で、音もなく広がっていく罅が。


 これがリセットの結果だった。ボタンを押しても、出てくるのは同じ画面だった。

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