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第29話 : 届かない手

第29話 : 届かない手


 紅茶の匂いがした。


 病院の面談室。狭い部屋。長机が一つ。パイプ椅子が三脚。窓は小さくて、カーテンが半分閉まっている。十二月の曇り空が、その隙間から覗いている。壁には「面談中」の札がかかっていた。


 白石さんが紙コップの紅茶を三つ、テーブルに置いた。自分で持ってきたティーバッグ。病院の給湯室でお湯をもらったらしい。紅茶の湯気が、消毒液の匂いを少しだけ押し返している。


「ごめんね、病院の自販機のやつより美味しいと思うんだけど」


 白石さんが笑った。穏やかな声。カジュアルな服装。ニットのカーディガンに、帆布のトートバッグ。行政の人でも記者でもなさそうな空気は、歌舞伎町の夜回りのときと変わらない。


 ルカがパイプ椅子に座っている。病室のガウンではなく、自分の服に着替えていた。黒いパーカーにジーンズ。退院が近いのかもしれない。髪を後ろで結んでいる。メイクはしていない。素の顔。わたしの隣に座っている。


 白石遥。NPO法人灯台。名刺の人。ルカが電話して、今日の面談が実現した。ルカが自分で電話したのだ。わたしが名刺を渡して、一週間後。「電話、してみる」と言ったルカが、本当にした。


 わたしは三人目の椅子に座っている。ルカと白石さんの間。同席してほしいとルカが言った。「一人じゃ緊張するから。なぎ、いて」と。あのルカが。誰かに「いて」と頼む姿を、わたしは初めて見た。



 白石さんがノートを開いた。ペンを手に持つ。でもすぐには書かない。ルカを見て、微笑む。


「ルカちゃん、電話くれてありがとう。来てくれて嬉しい。まず、今の状態から教えてもらっていい? 無理に全部じゃなくていいから」


 ルカが紅茶の紙コップを両手で持っている。指先が白い。緊張している。大人と向き合うことに、ルカの身体が硬くなっている。歌舞伎町では誰よりも堂々としていたルカが、面談室の椅子で小さく見える。


「……19歳です。住所ないです。実家には帰れない。仕事したことない。高校行ってない。中二で家出して、そっからずっと」


 ルカの声は低くて、早かった。全部を一気に吐き出すみたいに。履歴書に書くみたいに。事実だけ。感情を乗せない話し方。大人に対するルカの防御。情報だけ渡して、心は渡さない。


 白石さんはメモを取りながら、頷いている。表情を変えない。驚かない。眉をひそめない。「大変だったね」とも言わない。ただ聞いている。


「お父さん、お母さんとの関係は」


「父親が暴力。母親は知らんぷり。もう連絡取ってない」


「一時保護所やシェルターに入ったことは」


「ある。両方。保護所は嘘ついて出た。シェルターは逃げた。規則が無理で」


 白石さんがペンを止めた。ルカを見る。


「どんな規則が辛かった?」


 ルカが少し黙った。この質問は想定外だったみたいだ。「なんで逃げたの」ではなく「何が辛かった」と聞かれることに、ルカの目が一瞬揺れた。


「……門限。スマホ制限。外出は許可制。面会も予約。全部管理されてる感じが——父親の家と同じだった」


 ルカの声がかすれた。最後の一文で、声のトーンが変わった。「父親の家と同じ」。その言葉が、ルカ自身に刺さっている。


 白石さんが頷いた。深く。


「そうだよね。管理されること自体が辛い場合があるよね。ルカちゃんにとっては、"守られている" と "閉じ込められている" が同じに感じられたんだと思う」


 ルカが白石さんを見た。驚いた顔。白石さんの言葉が、ルカの経験を言い当てている。「守られている」と「閉じ込められている」。わたしもその区別がつかなかった。家にいることが安全なのか、檻なのか。同じ壁が、見る角度で意味を変える。


「退院した後のこと、一緒に考えてもいい?」


 白石さんが聞いた。「考えよう」ではなく「考えてもいい?」。許可を求める形。ルカに選択権を渡している。


 ルカが小さく頷いた。



 白石さんが選択肢を並べ始めた。ノートに書きながら、ルカに一つずつ説明する。


「まず、自立援助ホーム。15歳から22歳まで入れる施設で、一人部屋がある。就労支援もセットになってるところが多い。ただ——」


「ただ?」


「今、満床なの。空きが出るまで待機になる。二ヶ月から三ヶ月くらい」


 ルカの表情が曇った。二ヶ月。三ヶ月。退院が近いのに。退院したら、どこに行くのか。


「生活保護は?」


 ルカが聞いた。自分で調べたのか、誰かに聞いたのか。生活保護という言葉を、19歳が口にしている。


「申請はできるよ。住所がなくても、法律上は申請できる。ただ」


 また「ただ」。白石さんの声に苦さが混じった。


「窓口で追い返されるケースがあるの。 "若いんだから働けるでしょ" って。法律と現場が違う。わたしが同行して一緒に申請すれば通りやすくなるけど、それでも時間がかかる」


 ルカの拳がテーブルの上で握られた。


「全部 "待て" "まだ" "順番" ばっかり。わたしは今どこにいればいいの」


 ルカの声が震えた。怒りと不安が混ざっている。19歳。住所なし。仕事なし。学歴なし。保護者なし。この社会で「一人で生きろ」と言われたとき、スタートラインに立つことすら許されない。スタートラインに立つための書類が、スタートラインの向こう側にある。


 白石さんがペンを置いた。ルカをまっすぐ見た。


「当面は、うちの一時避難所を使える。 "灯台" の事務所の上の階に、小さい部屋がある。完璧じゃない。六畳一間で、シャワーは共同。でも、寝る場所と食事は確保できる。退院してすぐ路上に戻るよりは——」


「路上には戻りたくない」


 ルカが即答した。声に力があった。入院して一ヶ月以上、白い天井を見ながら考え続けた答え。「戻りたくない」。それだけは、はっきりしている。


「うん。戻らなくていい。一時避難所にいる間に、自立援助ホームの空きを待つ。並行して生活保護の申請を進める。就労支援は、ルカちゃんの体調が安定してからでいい。すぐに全部やる必要はないから」


 白石さんの声は穏やかだった。急かさない。でも具体的。「いつでもいい」の曖昧さではなく、「一時避難所→待機→申請→就労」という順番を、目に見える形で示している。道筋があるということ。その道が長くても、存在しているということ。


 ルカが紅茶を一口飲んだ。紙コップを置いて、白石さんを見た。


「白石さん。なんでこんなことしてくれるの」


 白石さんが少し笑った。


「仕事だから、っていうのが建前。本音は……また今度ね。今日はルカちゃんの話だから」


 本音は、また今度。白石さんは自分のことを後回しにする。ルカの前で自分の過去を語らない。今日はルカの日だから。白石さんの「押さない」姿勢は、ここでも一貫している。


「あと、鶴見さんのこと」


 白石さんの声のトーンが変わった。穏やかさの中に、硬い芯が通った。


「なぎさちゃんから聞いてる。ルカちゃんも知ってるよね」


 ルカが頷いた。わたしが先週、ルカに全部話した。鶴見がわたしに接触したこと。ミキとユナに近づいていること。名前を変えて活動している可能性。


「鶴見さんについては、うちの団体と、他の支援団体、それから警察のユース支援の担当者と情報を共有してる。すぐに逮捕とかにはならないかもしれないけど、あの人の名前と顔は関係者の間で知られてる。次に何かしようとしたとき、引っかかる網を作ってる」


 網。見えない網。鶴見を直接捕まえるのではなく、鶴見が動いたときに引っかかる仕組みを作る。テレビドラマみたいな劇的な解決じゃない。地味で、時間がかかって、確実じゃない方法。でもそれが現実の支援の形なのだろう。


「ミキとユナのことも、気にかけてる。夜回りで声かけてみるね」


 白石さんがそう言った。ルカの拳が、少しだけ緩んだ。全部を一人で守らなくていい。大人がいる。動いてくれる大人がいる。奪う大人でも、見て見ぬふりをする大人でもない、三種類目の大人が。


 面談は一時間ほど続いた。書類の話。退院の時期の話。一時避難所の場所とルール。白石さんは紙に書きながら、ルカに一つずつ確認を取った。「これでいい?」「無理なところある?」「変えたいところがあったら言って」。


 ルカは最初こそ硬い顔をしていたが、途中から少しずつ肩の力が抜けていった。白石さんが怒らないから。押しつけないから。「ここに入りなさい」「これをしなさい」と命令しないから。「どうしたい?」と聞いてくれるから。


 面談が終わる頃、ルカが小さな声で言った。


「白石さん、ありがとうございます」


 敬語。ルカが敬語を使っている。弱っているときだけ出る口調。でも今日の敬語は、弱さからじゃない。感謝の形をした敬語。ルカなりの礼儀。


 白石さんが「こちらこそ。電話してくれて、ありがとう」と返した。



 ルカが病室に戻った後、面談室にわたしと白石さんが残った。


 白石さんが紅茶のおかわりを淹れてくれた。ティーバッグの最後の一つ。紙コップの中で、薄い琥珀色の液体が揺れている。窓の外は曇ったまま。でも面談室の中は、紅茶の匂いで少しだけ温かい。


「なぎさちゃん」


 白石さんがわたしを見た。


「ルカちゃんのこと、ありがとう。名刺を渡してくれたのも、今日一緒に来てくれたのも」


「わたしは何もしてないです。名刺を渡しただけで」


「名刺を渡すことは、"何もしてない" じゃないよ。ルカちゃんが電話できたのは、なぎさちゃんが橋を架けたから」


 橋。わたしが架けた橋。名刺という紙の橋。ルカと白石さんを繋いだ。そう言われると、少しだけ実感が湧く。でも同時に、居心地が悪い。褒められることに慣れていない。


「なぎさちゃん自身のことも、聞かせてくれる?」


 白石さんの声が、少し低くなった。穏やかさは変わらない。でも、「聞きたい」という意志が、声に乗っている。


「わたしは大丈夫です」


 反射的に出た。口が勝手に動いた。「大丈夫」。いつもの言葉。母にも、陸にも、ルカにも、レンにも使ってきた言葉。四文字のバリケード。


 白石さんは追及しなかった。「そう?」とも「本当に?」とも言わなかった。ただ、紅茶を一口飲んで、窓の外を見た。


「なぎさちゃんには家があるよね。学校もある。帰る場所がある」


「はい」


「でも、帰る場所があることと、帰りたい場所があることは、違うよね」


 心臓が跳ねた。白石さんの言葉が、わたしの内側のいちばん柔らかい場所に触れた。


「わたしは大丈夫です」


 もう一回言った。声が小さくなった。


「うん。大丈夫。それならいいの」


 白石さんが微笑んだ。押さない。いつも押さない。でも今日の微笑みには、何かが含まれていた。わかっている、という目。わたしの「大丈夫」が嘘だと知っている目。知っていて、待っている目。


「灯台はルカちゃんだけのものじゃないからね。なぎさちゃんが来てくれてもいいんだよ。鶴見さんのこと以外でも。学校のこととか、家のこととか。何でも」


「わたしはルカ姉とは違います。家もあるし、親もいるし。ルカ姉みたいに本当に困ってる人を優先してください」


 言ってから、自分の言葉に驚いた。「本当に困ってる人」。わたしは自分を「本当に困ってる人」に含めていない。不登校で、母との関係が壊れていて、半年以上歌舞伎町に通って、鶴見に接触されたのに。それでも「わたしは大丈夫」「もっと困ってる人がいる」と思っている。


 白石さんがテーブルに両手を置いた。わたしを見た。真剣な目。今日の面談で初めて、白石さんの表情が変わった。


「なぎさちゃん、一つだけ言っていい?」


「はい」


「 "大丈夫" って言葉は、いちばん大丈夫じゃない人が使うんだよ」


 白石さんの声が、静かだった。面談室の空気が止まった。エアコンの音すら遠くなった。


「わたしも昔、"大丈夫" って言い続けてた。本当は全然大丈夫じゃなかったのに。大丈夫って言えば、自分が大丈夫なんだって信じられるから。大丈夫って言えば、誰にも心配されないから。心配されたら、壊れちゃうから」


 白石さんの声が、ほんの少し震えた。すぐに戻った。プロの顔に。でもわたしは聞いた。その震えを。


「わたしも昔」。白石さんが自分の過去に触れた。ほんの一瞬。ドアを少しだけ開けて、すぐに閉じた。でもわたしは見た。ドアの向こうにある暗い部屋を。白石さんにも暗い部屋がある。わたしの天井の罅と同じように。


「無理にとは言わないよ。でも、もし "大丈夫じゃない" って言いたくなったら、いつでもおいで」


 白石さんが立ち上がった。紙コップを片付け始めた。面談は終わり。押さない。最後まで押さない。「来なさい」じゃなく「おいで」。「話しなさい」じゃなく「言いたくなったら」。選択権はいつもわたしの側にある。


 わたしは何も答えられなかった。「ありがとうございます」も「行きます」も言えなかった。ただ、紙コップの紅茶を最後まで飲んだ。薄い紅茶。でも温かかった。消毒液の匂いの中で、紅茶の温度だけが本物だった。



 病院の正面玄関を出た。白石さんは先に帰った。「気をつけてね」と手を振って、駅の方向に歩いていった。小さな背中。帆布のトートバッグ。あの中に、ルカの情報が入ったノートと、ティーバッグの空箱と、名刺の束が入っているのだろう。あの小さなバッグの中に、何人分の「助けて」が詰まっているんだろう。


 十二月の夕方。空はまだ灰色。日が短い。午後四時なのにもう暗くなりかけている。息が白い。コートのジッパーを上げる。首元が冷たい。マフラーを忘れた。


 歩きながら、面談を思い返す。白石さんが並べた選択肢。自立援助ホーム、満床。生活保護、窓口の壁。就労支援、体調次第。全部に「ただ」がついていた。全部に条件があった。全部に時間がかかった。


 大人たちは「支援がある」と言う。テレビで、ニュースで、SNSで。「困ったら相談してください」「窓口があります」「一人で悩まないで」。けれど相談した先にあるのは「待て」「まだ」「順番」。支援にたどり着くまでの道が、いちばん険しい。


 申請書には住所を書く欄がある。住所がない人は、住所を書けない。住所がないと申請できない。住所を手に入れるには支援が必要。支援を受けるには申請が必要。申請には住所が必要。円環する。出口がない。


 全部、「普通の生活」をしている人を前提に作られている。学校に通っていて、家に帰れて、保護者がいて、住所があって。その「普通」の枠組みの外にいる人が、枠組みの中の書類を使って助けを求めなければならない。


 ルカは19歳で何も持っていない。持っていないことが罪みたいに扱われる。「若いんだから働けるでしょ」。働くためには住所がいる。住所を手に入れるためにはお金がいる。お金を得るためには働かなければいけない。


 わたしには家がある。学校がある。母がいる。弟がいる。ルカが持っていないものを、わたしは全部持っている。でもそれは「恵まれている」ということであって、「大丈夫」ということではない。


 白石さんが言った。「帰る場所があることと、帰りたい場所があることは、違う」。


 わたしには帰る場所がある。帰りたいかどうかは、まだわからない。でも帰る場所がある。その事実だけで、わたしはルカよりずっと「恵まれている」ことになる。だから「大丈夫」だと言い続ける。ルカのほうが大変だから。ルカを先に助けてあげてほしいから。わたしは後でいい。わたしは「大丈夫」だから。


 本当に?


 白石さんの声が頭の中で鳴る。「"大丈夫" って言葉は、いちばん大丈夫じゃない人が使うんだよ」。


 わたしは大丈夫じゃない。


 わかっている。不登校で、母との間に溝があって、半年以上歌舞伎町に通って、鶴見にLINEを教えて、ブロックして、今日も病院の面談室にいた。大丈夫な16歳は、こんなところにいない。


 でも「大丈夫じゃない」と認めたら、次に何が起きるのかわからない。「助けて」と言ったら、何が変わるのか。ルカのために名刺を渡すことはできた。レンのためにブロックすることはできた。でも自分のために「助けて」と言うことは、別の筋肉を使う。他人を助けるのと、自分を助けるのは、違う行為だ。


 電車に乗った。窓際の席。ガラスに映る自分の顔。疲れている。でも先週よりは、少しだけ表情がある。先週の顔は平面だった。今日の顔は、何かを考えている顔。考えることは生きている証拠だ。


 スマホを見た。レンからLINEが来ている。「面談どうだった?」。レンには今日のことを事前に伝えていた。


 返信する。「白石さん、いい人だった。ルカ姉も受け入れてた。一時避難所に入れるかも」。


 レンから即返信。「マジ? よかったじゃん。で、なぎは?」


 「なぎは?」。レンもわたしのことを聞いてくる。ルカだけじゃなく、わたし自身のことを。


 「わたしは大丈夫」と打ちかけて、指を止めた。


 大丈夫。また言おうとしている。白石さんの声が頭の中で鳴っている。いちばん大丈夫じゃない人が使う言葉。


 打ち直した。


 「まだわかんない。でも、考えてる」


 送信した。五文字多いだけ。「大丈夫」の四文字の代わりに「まだわかんない」の六文字。たったそれだけの違い。でも「大丈夫」よりは正直だった。


 レンから返信。「考えてるなら、いいじゃん。おれっちも考えてるよ。考えてる人は、止まってないってことだから」


 レンの言葉が、電車の振動と一緒に身体に沁みた。考えている人は止まっていない。そうかもしれない。わたしはまだ止まっていない。


 年が明ける。一月が来る。白石さんの事務所に行く約束がある。鶴見のことを話す約束。でもそれだけじゃない。「大丈夫じゃない」と言う練習を、あの事務所でしてもいいのかもしれない。紅茶を飲みながら。消毒液じゃなくて、紅茶の匂いのする場所で。


 窓の外。郊外の住宅街が流れていく。街灯のオレンジ色の光。家の窓から漏れる明かり。誰かの「普通の夜」が、等間隔に並んでいる。


 わたしにも「普通の夜」は来るのだろうか。天井の罅を数えずに眠れる夜。母の溜息を聞かずに朝を迎えられる日。


 まだわからない。でも考えている。考えているから、止まっていない。

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