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第28話 : 病室のルカ

第28話 : 病室のルカ


 消毒液の匂いにも慣れた。


 エレベーターのボタンを押す。四階。ドアが開く。左に曲がる。突き当たりを右。四〇八号室。もう地図がなくても歩ける。足が覚えている。病院の廊下は歌舞伎町の路地裏と同じくらい、わたしの身体に染みついた。


 十二月中旬。ルカの入院から一ヶ月と少し。


 窓の外は灰色の空。今日は曇り。リノリウムの床を歩くスリッパの音が、やけに響く。暖房が効きすぎていて、コートを脱いでも暑い。ナースステーションを通り過ぎるとき、顔なじみの看護師が「今日も来てくれたの」と手を上げた。週に三回来ている。顔を覚えられた。名前も覚えられた。「瀬川さん」ではなく「なぎさちゃん」と呼ばれている。白石さんと同じ呼び方。病院の人に名前で呼ばれると、自分がまだここに存在しているような気がする。


 四〇八号室のドアを開ける。四人部屋。ルカのベッドはいちばん奥。カーテンが半分引かれている。窓際。


 ルカはベッドの上で本を読んでいた。


 本。ルカが本を読んでいるのを、わたしは初めて見た。文庫本。表紙が見える。小説だった。ルカが小説を読む人だったなんて知らなかった。歌舞伎町では本を読む暇がなかったのかもしれない。病院のベッドにはある。暇が。時間が。考える余裕が。


 ルカがわたしに気づいて、本を閉じた。指でページの角を折っている。しおりを持っていないのだ。


「あ、なぎ」


「来たよ」


「毎回言うけど、来すぎ」


「毎回言うけど、来たいから来てるの」


 いつものやりとり。型が決まっている。わたしが「来たよ」と言い、ルカが「来すぎ」と返す。このやりとりがあるだけで、空気が柔らかくなる。儀式みたいなもの。


 パイプ椅子を引いて、ルカの隣に座った。テーブルの上に、前回持ってきたミルクティーのペットボトルが空になっている。新しいのをリュックから出して置いた。


「あんた、いつもこれ持ってくるよね」


「ルカ姉が好きだって言ったから」


「言ったっけ」


「言った。ネカフェの前で」


 ルカが少し笑った。口元だけの笑い。目はまだ疲れている。でも先月よりはましだ。点滴のスタンドがベッドの横にある。チューブが左腕に繋がっている。ガウンの袖口から腕が見えている。傷痕。いつもと同じ。でも新しい傷はない。病院にいる間は、増えていない。


 ルカの顔色を見る。蛍光灯の下で見るルカの顔は、歌舞伎町のネオンの下とは別人みたいだ。メイクをしていない。髪も染め直していないから、根元が黒い。頬がすこし丸くなった。三食食べているからだ。19歳の顔に、ようやく年相応の柔らかさが戻りかけている。


「ルカ姉、今日は調子どう」


「うん。身体は平気。ご飯も食べてるし。看護師さんにも "食欲出てきたね" って褒められた。褒められたっていうか、普通のことなんだけどね。食べるって」


 普通のこと。ルカにとって三食食べるのは「普通」じゃなかった。歌舞伎町では、食事は不定期で、コンビニのおにぎりか、誰かの奢りか、ドンキで買った菓子パンだった。病院に来て初めて、「毎日決まった時間に温かいご飯が出てくる」生活をしている。


「本読んでたの、珍しいね」


「あー、これ。看護師さんが貸してくれたの。 "暇でしょ" って。小説なんか読んだの、中二以来かも」


「面白い?」


「わかんない。でも、読んでる間は考えなくて済むから。ベッドで天井見てると、余計なことばっか考える」


 余計なこと。ルカが「余計なこと」と呼ぶものが何か、わたしにはわかる。過去のこと。父親のこと。路地裏で倒れた夜のこと。これからどうするのかということ。


 沈黙が数秒落ちた。エアコンの送風音が聞こえる。隣のベッドの患者がテレビを見ている。低い音量のニュース番組。遠い世界の出来事みたいに聞こえる。


 わたしは、今日ここに来た理由を切り出さなければいけない。レンとの約束。全部話すこと。鶴見のこと。LINEのこと。ブロックしたこと。全部。


「ルカ姉、話したいことがある」


 ルカがわたしを見た。ミルクティーのキャップを回しながら。


「うん」


「鶴見のこと」


 キャップを回す手が止まった。ルカの目が変わった。姉御肌の目。警戒の目。あの名前を出しただけで、ルカの身体に電気が走るのがわかる。


「あいつ、何かした」


「先週の金曜、わたしが一人で歌舞伎町にいたとき、声かけてきた。コンビニの前で。ファミレスに誘われて——行っちゃった」


 ルカの目が大きくなった。


「なぎ、あんた」


「行った。ココアを飲んで、話を聞いて、LINEのIDを教えた」


 言った。全部。一気に。レンが「ルカ姉にも言いな。全部」と言ったから。ファミリーのルール。ヤバいときだけは嘘つかない。


 ルカの奥歯が噛み合う音が聞こえた。爪が白くなるほど、ペットボトルを握り込んでいる。怒っている。想像通りだった。レンが「心配して怒るタイプ」と言った通りの怒り方。


「なんでっ」


 ルカの声が跳ねた。短い叫びが、病室の空気を裂いた。


「わたしが入院してる間に、あいつ、なぎに近づいたの? 一人でいるときに? あんた、おれが何回 "ああいうの信用するな" って」


「わかってた。わかってたのに行った」


 わたしの声は低かった。言い訳しない。できない。わかっていて間違えた。それがいちばん苦しいと、あのファミレスの夜に学んだ。


 ルカの怒りが、数秒で別の感情に変わった。怒りの下にあるもの。自責。


「わたしのせいだ」


「違う」


「わたしがいたら——わたしが入院なんかしてなかったら、なぎは一人で歌舞伎町にいなかった。鶴見に声かけられなかった。わたしが」


「ルカ姉、違うよ」


「違わない。わたしが壊れたから、ファミリーが崩れたんでしょ。レンも来なくなった。カケルも消えた。なぎが一人になった。わたしのせいだ」


 ルカの声が震えていた。怒りと自責が混ざって、声が揺れている。ベッドの上で身体を起こして、わたしをまっすぐ見ている。点滴のチューブが腕から揺れている。


「ルカ姉。聞いて」


 わたしの声が出た。震えていたけど、止まらなかった。


「わたしが鶴見について行ったのは、わたしの判断。ルカ姉のせいじゃない。寒くて、お腹空いてて、一人だったから。それだけ。でも、一人だったのはルカ姉がいないからじゃなくて、わたしが助けを求めなかったから。白石さんに電話した翌日だったのに、 "来週まで待つ" って思って、その間に金曜が来て、足が歌舞伎町に向いた」


 ルカが黙って聞いている。ペットボトルを握る手の力が少し緩んだ。


「でもブロックした。レンが教えてくれた。鶴見が前に別の名前で活動してたこと。亀田って名前。カケルが調べてたのと一致する。レンの知り合いの子が被害に遭ったかもしれないこと。全部聞いて、その場でブロックした」


「レンが?」


「レンがわたしに言ってくれた。 "鶴見はヤバい。離れて" って。それで、わたしもルカ姉に全部話そうと決めた」


 ルカの目が潤んだ。泣かない。ルカは簡単に泣かない人だ。でも目の縁が赤くなっている。


「レン、あいつ……変わったね」


「変わった。すごく」


「おれっちが "おれに言え" って? あのレンが?」


「そう。厳しかった。怒ってた。でも、怒ってくれてた」


 ルカが視線を窓に向けた。灰色の空。十二月の雲が低い。


「ミキは」


「鶴見の近くにいる。まだ」


「ユナは」


「わかんない。最近見てない」


 ルカの拳が布団の上で握られた。


「わたしがいないから、壁が崩れたんだ。ミキとユナを守ってた壁。わたしが作った壁」


「ルカ姉」


「わかってる。わたしが全部守れるわけじゃないって。わかってるけど」


 ルカの声がかすれた。入院して一ヶ月以上。身体は回復している。でも心は、まだ歌舞伎町に残っている。ルカが守ろうとした子たちが、ルカのいない街で、鶴見に接触されている。その事実が、ルカを病室のベッドに縛りつけている。


 沈黙が長く続いた。面会時間のチャイムが遠くで鳴っている。二時半。まだ時間はある。


 わたしは話題を変えた。変えなければいけなかった。鶴見の話だけで終わらせたくなかった。



「ルカ姉。病院にいて、何か考えた?」


 ルカが窓から視線を戻した。わたしを見る。少し考えてから、口を開いた。


「考えた。いっぱい」


「どんなこと」


「……ここに来て、初めてまともに寝たんだよ。朝まで。途中で起きないで。歌舞伎町にいたときは、ネカフェでも路上でも、ちゃんと眠れたことがなかった。いつ誰が来るかわからないし、警察に起こされるかもしれないし」


 ルカが言葉を選びながら話している。いつもの滑らかな口調じゃない。一語ずつ、自分の中から取り出すように。


「三食食べた。テレビ見た。シャワーじゃなくてお風呂入った。看護師さんが毎朝 "おはようございます" って声かけてくれるの。 "体調どうですか" って聞いてくれるの」


 ルカの声が揺れた。


「 "普通" ってこんな感じなのかって思った。これが "普通の生活" なのかって。わたし、"普通" を知らなかった。知らないまま19歳になってた」


 わたしは黙って聞いていた。ルカの言葉が、静かに、病室の空気を満たしていく。エアコンの音。点滴の雫が落ちる微かな音。ルカの声。全部が混ざって、病室だけの音になっている。


「でも退院したら、この "普通" はなくなる」


 ルカの声のトーンが変わった。柔らかさが消えて、現実の硬さが混じった。


「もうトー横には戻りたくない。戻ったら死ぬ。それはわかってる。でも、じゃあどこに行くの。シェルターは前に逃げ出した。実家は論外。仕事もないし住所もない。19歳で、何も持ってない」


 何も持ってない。ルカの声が、その四文字で薄くなった。自分で言って、自分で確認してしまったみたいに。


「ルカ姉」


「うん」


 わたしはリュックからポケットに手を入れた。名刺を取り出した。白い名刺。角が少し折れている。白石遥の名前。電話番号。NPO法人灯台。


「この人、覚えてる?」


 ルカが名刺を見た。


「……あのNPOの。夜回りの」


「うん」


「わたし、名刺受け取らなかったやつ」


「そう。わたしは受け取った」


 名刺をルカに差し出した。白い紙が、蛍光灯の光を反射している。


「二枚持ってるの。一枚目は広場で拾った。二枚目は白石さん本人からもらった。で、先週、電話した。白石さんに」


「電話した? なぎが?」


「留守電だった。翌日かけ直したら出てくれて。来週、事務所に行く約束してる」


 ルカがわたしを見ている。驚いた顔。わたしが白石に電話したことに驚いている。あの名刺を「いらない」と突き返したルカが。


「なぎ、あんた変わったね」


 ルカが呟いた。小さな声。


「前はおれが守る側だったのに。いつの間に、こっち側に来たの」


「ルカ姉が教えてくれたんだよ。 "困ったら言う" って。ルカ姉が作ったルールでしょ」


 ルカが一瞬、何かを言いかけて、飲み込んだ。唇が動いて止まった。


「白石さんに連絡してみない?」


 わたしは名刺を、ルカの手の届く場所に置いた。テーブルの上。ミルクティーの横。白い名刺と茶色いペットボトル。


「退院した後のこと、相談できるかもしれない。シェルターのこととか、仕事のこととか。わたしにはわからないことも、白石さんなら知ってると思う」


 ルカは名刺を見ていた。手を伸ばさなかった。見ているだけ。白い紙の上の黒い文字を、読んでいる。


「大人を信じるの、怖い」


 ルカが言った。低い声。姉御肌の声じゃなかった。ルカが弱っているときだけ出る、素の声。


「父親は殴った。母親は見て見ぬふりした。保護所の職員は "家に帰りなさい" って言った。シェルターのスタッフは規則ばっかり。大人はいつも、わたしの話を聞かないで、大人の答えを押しつけてきた」


 ルカの言葉が、一つずつ重い。19年間の重さ。わたしの16年間とは比べものにならない、もっと長くて、もっと冷たい経験の重さ。


「白石さんは違った」


 わたしが言った。


「わたしが名刺を受け取ったとき、ルカ姉は "ああいうの信用するな" って言ったよね。わたしもそう思ってた。でも、白石さんは断られても怒らなかった。追いかけてこなかった。 "いつでもいい" って言って帰った。鶴見とは逆だった」


 鶴見と白石。二人の大人。二人とも「話を聞く」と言った。二人とも「力になる」と言った。でも中身が違う。鶴見は断ると怒る。白石は断っても怒らない。鶴見は追いかけてくる。白石は待つ。鶴見は「わかるよ」と言う。白石は「よく話してくれたね」と言う。


 同じ言葉を使う大人が、正反対の方向を向いている。その違いを見分けることが、わたしたちの生存スキルだ。


「わたしも怖い。大人を信じるの」


 正直に言った。


「でも、怖いまま何もしなかったら、ルカ姉はまたあの路地裏に」


 言葉が途切れた。あの夜のことを口にしようとすると、喉が締まる。路地裏。市販薬の空シート。冷たい手。泡。焦点の合わない目。


 ルカも黙った。二人とも、あの夜のことを直視できない。でも、直視しないと前に進めない。


「ルカ姉がODした夜」


 言った。声が硬くて小さかった。


「わたし、ルカ姉の手を握って、初めて "助けて" って思った。でもあのとき "助けて" を言う先がなかった。名刺を持ってたのに、電話してなかった。もっと早く電話してたら——」


「なぎ、それは」


「自分を責めてるんじゃない。事実を言ってる。あのとき電話してなかったから、今、電話した。遅かったかもしれない。でも、遅くても、しないよりましだって思った」


 ルカがわたしを見ている。まっすぐ。わたしの目の中の本気を確かめるように。


「ルカ姉にも、してほしい。遅くてもいい。怖くてもいい。名刺を受け取って、電話してみて。一回だけでいい。合わなかったら切ればいい。でも、試してみてほしい」


 名刺はテーブルの上にある。白い紙。ルカの手は布団の上にある。その距離は三十センチくらい。たった三十センチ。でもルカにとっては、19年分の不信を越える距離。


 長い沈黙。


 ルカの手が動いた。布団からゆっくり離れて、テーブルの上に伸びて、名刺に触れた。指先が白い紙の端に触れて、持ち上げて、両手で挟んだ。


 受け取った。


「……電話、してみる。白石さんに」


 ルカの声は小さかった。でも確かだった。


「一緒にいようか」


「一人で大丈夫。これはわたしがやらなきゃ」


 ルカが名刺を胸の前で持っている。白い名刺が、ルカの白いガウンの上で、ほとんど同化している。白の中の白。でもルカの指先だけが、名刺の角をしっかり押さえている。


「なぎ」


「うん」


「あんた、用心深いんだか、お人好しなんだか」


 ルカが笑った。泣きそうな笑い。でも笑っている。口元が上がっている。


「両方かも」


「だろうね。ファミリーのルール作ったの、わたしだけど。守ってるのはあんたのほうだ」


 面会時間の終了チャイムが鳴った。四時。蛍光灯がわずかに明滅する。どこかでドアが閉まる音。廊下を歩く看護師のスリッパの音。


「また来るよ」


「来すぎ」


 いつもの型。いつもの儀式。でも今日はその型の中に、いつもとは違う温度がある。名刺を受け取ったルカの指先の温度。わたしの声の温度。全部話した後の、少しだけ軽くなった空気の温度。


 ドアを閉める前に振り返った。ルカはまだ名刺を持っていた。窓の外を見ながら、名刺を両手で挟んで、何かを考えている。白石遥。電話番号。NPO法人灯台。ルカの手の中で、名刺が小さく光っている。



 病院の正面玄関を出た。十二月の冷気が頬を叩く。暖房の効いた病室から出ると、気温差で目が覚める。息が白い。空は曇りのまま。夕方が近い。


 歩きながら、今日の面会を反芻する。全部話した。鶴見のこと。ファミレスのこと。LINEのこと。ブロックのこと。レンのこと。ルカは怒った。自分を責めた。でも最後に名刺を受け取った。


 小さなことの積み重ね。レンがわたしにブロックを押させてくれた。わたしがルカに名刺を渡した。ルカが受け取った。次は、ルカが白石さんに電話する。そのまた次は、白石さんがルカに会いに来る。一つずつ。点と点が繋がっていく。


 駅に向かう。住宅街の道。病院の周りは静かな場所だ。歌舞伎町とも自宅の埼玉とも違う、名前のない場所。それでもここにルカがいる。ここから何かが始まるかもしれない。


 スマホを見た。来週、白石さんの事務所に行く。鶴見のこと、ルカのこと、ミキのこと。全部話す。白石さんが何をしてくれるかはわからない。でも、話すことが最初の一歩だと、わたしはもう知っている。


 ルカ姉が名刺を受け取った。


 それは小さな変化だった。白い紙が一枚、テーブルからルカの手に移っただけ。でもその三十センチの距離に、19年分の不信と、一ヶ月分の入院生活と、わたしたちの六ヶ月間が詰まっていた。


 わたしは思った。ルカ姉は名刺を受け取った。わたし自身は、いつあの番号に電話するんだろう。白石さんには来週会う。でもそれは鶴見の相談であって、わたし自身のことじゃない。わたしの不登校のこと。母との関係のこと。わたし自身の「助けて」を、わたしはまだ言えていない。


 ルカ姉に「変わったね」と言われた。レンにも言われた。でもわたしが変わったのは、他人のためだけかもしれない。ルカのために名刺を渡す。レンのためにブロックする。鶴見からミキを守るために白石に相談する。全部、誰かのため。


 わたし自身のために「助けて」と言う日は、まだ来ていない。

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