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第27話 : レンの告白

第27話 : レンの告白


 十二月の歌舞伎町は、嘘みたいにきれいだった。


 街路樹のイルミネーションが白く光っている。ビルの壁面に巨大なクリスマスツリーの映像が投影されている。ショーウインドウには雪の結晶とサンタクロース。焼き鳥の煙が冬の空気に混じって、甘いような塩辛いような匂いがする。歌舞伎町がいちばん華やかに見える季節。でもそれは表通りだけの話で、路地に一歩入れば何も変わらない。ゴミ袋と排水溝と、冬の乾いた風。


 金曜の二十一時半。区役所通り沿いのコンビニの前。


 レンが来る。今夜はレンと二人で会う約束をしていた。LINEで「話がある。金曜空いてる?」とレンから来たのは三日前。「話がある」の四文字が、レンの口調に似合わなかった。レンは普段「ねーねー聞いて」で始まる。「話がある」は、レンが本気のときの言い方。


 手がかじかんでいる。手袋を持ってこなかった。コンビニでホットのカフェオレを買って、缶を握りしめている。アルミの温度が指先に沁みる。ルカの冷たい手を思い出す。あれから一ヶ月。


 スマホの画面を見る。鶴見からのメッセージ。先週のファミレスの夜以来、三通来ている。「元気?」「寒いから気をつけてね」「今週の金曜、空いてる?」。全部、優しい言葉。全部、画面の中で光っている。


 全部、既読をつけていない。返信もしていない。ブロックもしていない。この中途半端さが、わたしを苛んでいる。ブロックすればいいのに。指が動かない。ブロックしたら、鶴見が怒るかもしれない。病院の前で待ち伏せされたように、別の場所で待ち伏せされるかもしれない。ブロックは安全じゃない。かといって放置も安全じゃない。どっちに転んでも不安が残る。


「なぎー」


 声。レンの声。軽い声。いつもの声。でも今夜は少し違う。語尾が上がっていない。


 レンが歩いてきた。黒いロングコートにニットの帽子。メイクは控えめ。通信制のスクーリングの帰りだと言っていた。教科書が入っているらしいトートバッグが肩にかかっている。


「寒くない? おれっちもう手が死んでる」


 レンがコンビニに入って、ホットコーヒーを買ってきた。二人で缶を握って、コンビニの軒先に立つ。白い息が二つ、夜の空気に溶けていく。


「スクーリングどうだった?」


「うん、まあ。数学がクソむずい。でも英語はいけそう。おれっち、洋楽聴くからリスニングだけは強い」


 レンが笑う。いつもの笑い方。でも目が笑っていない。口元だけで笑って、目は何かを探している。わたしの顔を見ている。何かを確認するように。


「レン、話って何」


 待てなかった。レンが本題を切り出す前に、わたしから聞いた。この一週間、鶴見のメッセージを見るたびに胃が痛んでいた。誰かに話したかった。でも話す相手がいなかった。ルカは入院中。カケルは消えた。母には言えない。白石さんとの約束は来週。レンだけが、今夜ここにいる。


 レンの表情が変わった。笑顔が消えた。レンの笑顔が消えるのを見るのは、病院の廊下以来だ。あの夜、声を殺して泣いていたレンの顔。今夜の顔はあれとは違う。泣いていない。怒っている。静かに。


「場所移そう。ここだと人多い」


 レンが先に歩き出した。わたしはついていく。コンビニの光を離れて、人通りの少ないビルの裏手に入る。非常階段の下。コンクリートの壁に囲まれた、風が当たらない場所。四人で何度も来た場所。今は二人。


 レンが壁にもたれて、コーヒーの缶を一口飲んだ。息を吐いた。白い。


「なぎ、鶴見と連絡取ってんでしょ」


 心臓が止まった。比喩じゃない。本当に一拍飛んだ気がした。


「なんで」


 言いかけた言葉を、レンが遮った。


「おれ、金曜の夜にたまたまローソンの前通ったんだよ。先週。スクーリングの帰り。そしたらミキがいて、ちょっと話した。ミキが言ってた。"なぎが鶴見さんとファミレス行ってた" って」


 ミキ。ミキが見ていた。ファミレスに入るところを。鶴見と一緒に歩いているところを。ミキはまだ鶴見の近くにいる。ミキの目を通して、わたしの行動が鶴見側に筒抜けになっている。


「ミキに見られてたんだ」


「そう。で、おれはマジで焦った。なぎが鶴見と二人でいるって聞いて」


 レンの声が低い。いつもの軽快さがない。SNS用語もない。敬語でもない。ただの、真剣な声。


「レン、わたし」


「待って。先に言わせて」


 レンがコーヒーの缶をコンクリートの地面に置いた。両手をコートのポケットに突っ込んで、わたしをまっすぐ見た。


「あの人、前にもいたんだよ」


「前にも?」


「おれがトー横来たばっかの頃。一年半くらい前。別のグループにいた "カメラの人"。名前は違った。亀田とか、そんな名前だった。でもやり方が同じ。カメラ持って、"ドキュメンタリー撮ってる" って言って近づいてきて。最初は全体に声かけて、そのうち個別に話し始めて。年下の子に」


 亀田。カケルが調べた名前。カケルが「名前変えてる可能性ある」と言っていた。点と点が繋がる。鶴見恭平と亀田隆は同一人物。名前を変えて、場所を変えて、同じことを繰り返している。


「おれにも声かけてきた。"レンくん、話聞かせてよ。ご飯おごるよ" って。おれは断った。なんか嫌だったから。理由はなかった。勘っていうか」


 レンが視線を落とした。地面を見ている。缶コーヒーの底を見ている。


「断ったら、態度が変わったんだよ。急に冷たくなって、"じゃあいいよ。君には期待してたのに" って。恩着せ。断ったおれが悪いみたいな言い方。それで終わったと思った」


 レンの声が震えている。寒さのせいじゃない。


「でも、終わらなかった。別の子が——おれの知り合いの子が、あの人について行った。ご飯おごるからって。それで」


 レンが言葉を止めた。五秒。十秒。長い沈黙。


 レンが言わなかった「それで」の先。その子に何が起きたのか。わたしは聞かなかった。聞けなかった。レンの沈黙が、言葉以上に多くを語っていた。


「その子、今どうしてるの」


「わかんない。トー横からいなくなった。連絡もつかない。SNSも消えた。おれは、何もしなかった。あのとき、あの子が鶴見について行くのを見てたのに。止めなかった。おれが声を上げてたら」


 レンの目が赤くなった。泣いていない。泣かないように歯を食いしばっている。唇が震えている。17歳の口元が、力を入れすぎて白くなっている。


「だから今度は言う」


 レンがわたしを見た。目がまっすぐだった。いつものふざけた目じゃない。レンが「マジで」と言うとき、語尾が上がるのがレンの口癖。今夜の「マジで」は、語尾が落ちている。


「なぎ、鶴見はヤバい。あの人は、おれたちの "弱さ" を使う人だよ。寂しいとき、一人のとき、お腹が空いてるとき。そこに入り込んでくる。おごってくれる。話を聞いてくれる。"わかるよ" って言ってくれる。全部、罠だよ」


 罠。先週、わたしがメモ帳に書いた言葉。「優しさには二種類ある」。あのとき、わたしはもう気づいていた。気づいていたのに、ファミレスに行った。ココアを飲んだ。LINEを教えた。


「レン、わたし、LINEのID教えちゃった」


 言った。声が震えた。でも言えた。一週間、誰にも言えなかったことを。


 レンの目が大きくなった。一瞬。すぐに戻った。怒っているかと思った。でもレンは怒らなかった。


「いつ」


「先週の金曜。ファミレスで」


「返信した?」


「してない。既読もつけてない」


「ブロックは?」


「……してない」


 レンが深く息を吐いた。白い息が長く尾を引いた。


「なんでブロックしないの」


「怖くて」


「ブロックするのが怖い?」


「ブロックしたら怒ると思って。また病院の前で待ち伏せするかもしれないし」


 レンが少し考えた。缶コーヒーを拾い上げて、一口飲んで、また地面に置いた。


「なぎ。ブロックしなかったら、もっとヤバいよ」


「わかってる」


「わかってるなら、今すぐブロックしな」


 レンの声が厳しかった。普段のレンにはない硬さ。レンはムードメーカーで、場を和ませる人で、深刻な空気を冗談で溶かす人。その人が、冗談なしで、わたしに命令している。


「おれたちさ、もうガキじゃないんだよ」


 レンが言った。声が低い。


「ルカ姉がいなくても、自分で判断しなきゃ。おれもそうだし、なぎもそう。ルカ姉は病院にいる。カケルは連絡つかない。でも、おれたちはここにいる。ここにいるおれたちが、自分で決めなきゃ」


 わたしは黙って聞いていた。レンの言葉が、冷たい空気の中でまっすぐ飛んでくる。矢みたいに。痛い。でも、嘘じゃない。


「レン」


「何」


「どうすればいいかわからない」


 正直に言った。格好悪い言葉。でもこれが本当のことだった。


「鶴見さんが悪い人だってわかる。でも——ルカ姉が倒れて、カケルが消えて、レンもスクーリングで忙しくて。わたし、一人で」


 声が詰まった。喉の奥が熱くなった。涙が出そうになった。出た。頬を伝った。寒くて、すぐに冷たくなった。冬の涙は冷たい。


 レンがわたしの肩を叩いた。ぽん、と。軽く。でも確実に。


「だから言ってんじゃん。一人で抱えんな。おれに言え」


 レンの手が肩にある。コートの上からでも、レンの手の温度がわかった。温かい。ルカの手の冷たさとは反対の温度。生きている人の温度。


「おれは、前に見て見ぬふりしたことがある」


 レンの声が少し震えた。


「あの子が鶴見に、亀田に、ついて行くのを見てた。止めなかった。 "おれには関係ない" って思った。 "おれが断ったんだから、あとは自分で判断するでしょ" って。でもあの子は判断できなかったんだよ。おれと同じ16歳で、お腹空いてて、寂しくて、"わかるよ" って言ってくれる大人がいたら、判断なんかできるわけない」


 レンの声がかすれた。


「あのとき声を上げなかったことを、おれはずっと後悔してる。ずっと。毎日じゃないけど、ふとした瞬間に思い出す。あの子の顔を。あの子が鶴見と歩いていく後ろ姿を。おれが何も言わなかった、あの瞬間を」


 わたしはレンの顔を見ていた。レンの目から涙は出ていない。でも声は泣いていた。声だけが泣いている。レンの泣き方。病院の廊下では声を殺していた。今夜は逆だ。声を出して、涙を止めている。


「だから今度は言う。鶴見はヤバい。なぎ、離れて」


 「離れて」。ルカが病室で言った言葉と同じ。「離れな」。ルカは「トー横から離れな」と言った。レンは「鶴見から離れて」と言っている。わたしの周りにいる人たちが、わたしを危険から引き離そうとしている。わたし自身は、引き離される力がなかった。一人では。


「レン」


「ん」


「ありがとう」


 レンが少し目を見開いた。それから、鼻で笑った。


「おれっちに礼言うの、なぎ初めてじゃない?」


「そうかも」


「そうだよ。なぎっていっつも "ごめん" は言うけど "ありがとう" は言わないじゃん」


 そうだった。わたしは「ごめんね」は言える。でも「ありがとう」は苦手だった。感謝を言葉にすると、その人との距離が縮まる。距離が縮まると、失うのが怖くなる。だから「ありがとう」を避けていた。「ごめんね」のほうが安全だった。自分を小さくする言葉のほうが。


 でも今夜は、「ありがとう」が正しいと思った。レンがわたしのために怒ってくれている。過去の後悔を打ち明けてくれている。それに対して「ごめんね」は違う。「ありがとう」が正しい。


「ブロック、する」


 スマホを出した。LINEを開いた。鶴見恭平のトーク画面。未読のメッセージが三つ。「元気?」「寒いから気をつけてね」「今週の金曜、空いてる?」。全部、優しい言葉。全部、罠の形をした言葉。


 指が震えている。鶴見のアイコンをタップする。プロフィール画面。「ブロック」のボタン。赤い文字。


 レンがわたしの横に立って、画面を見ている。何も言わない。見守っている。


 押した。


 「鶴見恭平をブロックしますか?」


 「はい」を押した。


 画面が切り替わった。トークリストから鶴見の名前が消えた。


 消えた。


 たったそれだけのことだ。スマホの画面を二回タップしただけ。指が二回動いただけ。それだけのことが、一週間できなかった。一人では。


「できたじゃん」


 レンが言った。声が柔らかくなっていた。さっきの厳しさが溶けて、いつものレンに戻りかけている。


「ブロックひとつで安全になれるわけじゃないけどさ」


「うん。わかってる」


「でも、最初の一歩でしょ。ルカ姉がいなくても、なぎは自分で動けた」


「レンが背中押してくれなかったら、動けなかったよ」


「それでいいじゃん。一人で全部やる必要ないっしょ。困ったら言えってルカ姉が言ってたじゃん。おれに言え。なんならカケルにも言え。あいつ返信遅いけど」


 レンが笑った。今度は目も笑っている。さっきまでの張り詰めた空気が、少しだけ緩んだ。


「カケル、連絡つかないんだけど」


「あー、あいつ充電切れてるだけかもよ。ネカフェのコンセント壊れてて、って前に言ってた」


「そういう理由?」


「たぶん。深い理由がないのがカケルっぽくない?」


 笑った。わたしも笑った。久しぶりに、誰かと一緒に笑った。寒い路地裏で、缶コーヒーを握りしめて、笑った。十二月の夜に。イルミネーションの光が、ビルの隙間から漏れてきている。白い光。きれいだけど冷たい光。でも今は、レンの隣にいるから、少しだけ温かい。


「なぎ」


「ん?」


「鶴見のこと、白石さんにも話しな」


 白石さん。来週、事務所に行く約束をしている。


「話すつもり。来週行く」


「マジ? いいじゃん。おれも白石さんには一回会ったことあるよ。夜回りで。あの人は、まともだった。押してこないっていうか。"NO" って言っても怒らない人」


 レンの「まとも」という評価。トー横を何年も経験してきたレンが「まとも」と呼ぶ大人。それは、「おごらない」「追いかけてこない」「断っても怒らない」人のこと。普通の世界では当たり前の条件が、この街では貴重品になる。


「ルカ姉にも話す?」


 レンが聞いた。わたしは少し考えた。


「鶴見のことは話す。ミキのことも。でも……LINEを教えちゃったことは、言えないかもしれない」


「なんで」


「ルカ姉に心配かけたくない。今、やっと身体が回復してるところだし」


 レンが首を傾げた。


「なぎさ、それ、おれに言えてなかったのと同じじゃない?」


 刺さった。レンの言葉が、胸の真ん中に刺さった。


「一人で抱えて、一人で判断して、一人で間違える。そのループ、もうやめなよ。ルカ姉に心配かけたくないのはわかるけど、心配させないことと、嘘つくことは違うでしょ」


 レンの声は穏やかだった。さっきの厳しさとは違う。諭すような、でも押しつけない口調。白石さんの話し方に少し似ている。レンがいつの間にか、こういう話し方ができるようになっている。


「ファミリーのルール、覚えてる? ルカ姉が作ったやつ」


「困ったら言う。見捨てない。ヤバいときだけは嘘つかない」


「そう。今がそのヤバいときでしょ。ルカ姉にも言いな。全部。怒るかもしれないけど、ルカ姉はそういう怒り方する人じゃん。心配して怒るタイプ。それは愛情っしょ」


 愛情。レンがその言葉を使ったのを、初めて聞いた。


「レン、なんかいいこと言うじゃん」


「おれっちだっていいこと言うときあるっしょ。なめんな」


 レンが缶コーヒーを飲み干して、空き缶を潰した。ぐしゃ、と金属が折れる音。レンの手の力。


「あとさ、なぎ」


「何」


「おれたち、もうここに長くいないほうがいいよ。二人とも」


 レンの声が静かだった。路地裏の暗がりの中で、レンの顔がイルミネーションの反射光に照らされている。片側だけが白く光って、片側が影になっている。光と影が半分ずつ。


「この街は好きだった。今でも嫌いじゃない。でも、ずっといる場所じゃない。おれは通信制を卒業する。なぎは白石さんに相談する。ルカ姉は病院で回復してる。カケルは充電切れてるだけ。おれたちは、ちょっとずつ、ここから出ていくんだと思う」


 レンの言葉が、十一月の路地裏に消えていく。いや、十二月だ。もう十二月。あと少しでクリスマスが来て、年が明ける。季節は進む。わたしたちも進まなきゃいけない。進むのが怖くても。


「おれ、行くわ。終電やばい」


 レンが壁から身体を離した。トートバッグを肩にかけ直す。


「なぎ、帰りの電車で鶴見のこと考えなくていいからね。もうブロックした。終わり。次のこと考えな」


「次のこと?」


「白石さんに会うこと。ルカ姉に話すこと。学校のこと。全部、次。鶴見は終わった話。終わった話に脳みそ使うの、もったいないっしょ」


 レンが手を振った。「じゃーね」。軽い声。いつものレンの声。でも中身が違う。一時間前のレンと、今のレンと、同じ声なのに重さが変わっている。レンが背負っているものの重さが、声に混じっている。


 レンが角を曲がって見えなくなった。わたしは一人で路地裏に立っている。缶コーヒーの空き缶が二つ、地面に並んでいる。


 スマホを見た。LINEのトークリスト。鶴見の名前がない。消えている。ブロックしたから。画面の上にはルカ、レン、カケルのグループトーク。その下に母。その下に弟の陸。


 鶴見がいなくなったトークリストは、すっきりしている。一つ名前が減っただけなのに、スマホが軽くなった気がする。気のせいだ。スマホの重さは変わらない。でも、持つ手の力が少しだけ緩んでいる。


 駅に向かう。歌舞伎町の表通りに出る。イルミネーションが光っている。クリスマスの飾り。幸せの相場がいちばん高い季節。わたしには買えない幸せ。でも今夜、レンがくれたものがある。言葉と、怒りと、「おれに言え」という約束。それは買えないし、売っていない。この街のどこにも。


 電車に乗った。窓際の席。ガラスに映る自分の顔。泣いた後の顔。目が腫れている。でも、先週の金曜の顔より、少しだけましに見える。先週は鶴見の「ありがとう」が胃の中で石になっていた。今夜は、レンの「離れて」が胸の中で灯っている。同じ言葉を受け取っても、誰から受け取るかで重さが変わる。


 メモ帳は開かなかった。今夜は書くことがない。書く代わりに、考えている。来週のこと。白石さんの事務所に行く。全部話す。鶴見のこと。ファミレスのこと。LINEのこと。ブロックしたこと。ルカのこと。自分のこと。


 ルカにも話す。レンが言ったように。全部。心配をかけたくないから黙っている、は嘘と同じだ。ルカが作ったルール。「ヤバいときだけは嘘つかない」。今がそのヤバいとき。


 家に着いた。玄関を開ける。リビングから母の声。「遅かったね」。いつもの声。いつもの溜息。でも今夜は「ごめん」と言う前に、別の言葉が出た。


「ただいま」


 母が少し驚いた顔をした。わたしが「ただいま」を言うのは珍しい。いつもは「ごめん」か「うん」で済ませていた。「ただいま」は、ここが帰る場所だと認めている言葉。まだ完全にはそう思えない。でも、言ってみた。


 自室に入る。天井の罅。三本。ベッドに座る。


 スマホを見る。鶴見のメッセージはもう来ない。ブロックした。レンが背中を押してくれた。


 レンが背中を押してくれなかったら、わたしはもう少しだけ深い場所に落ちていた。鶴見の「わかるよ」がもう少しだけ心地よくなって、ファミレスがもう一回増えて、そのうち「動画の撮影に協力してくれない?」と言われて……その先を想像すると、指先が冷たくなる。


 ブロックひとつで安全になれるわけじゃない。鶴見は新しいアカウントを作れる。直接会いに来ることもできる。でも、ブロックは「わたしはあなたを拒否する」という意思表示だ。先週は「いりません」と言えた。今夜は「ブロック」を押せた。小さなことの積み重ね。ルカが名刺を受け取ったように。白石さんに電話をかけたように。


 来週、白石さんに会う。


 そしてルカに会いに行く。病室に。名刺を持って。


 ベッドに横になった。目を閉じた。瞼の裏に、レンの顔が浮かぶ。厳しい顔。泣きそうな声。「だから今度は言う」。レンが過去の後悔を、わたしのために使ってくれた。あの後悔があったからこそ、今夜のレンはわたしに「離れて」と言えた。


 傷は、使い道がある。痛みの記憶は、誰かを守るための材料になる。レンがそれを見せてくれた。


 ルカ姉に会いたい。名刺を渡したい。「白石さんに連絡してみない?」と言いたい。来週、必ず。

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