第26話 : 優しい罠
第26話 : 優しい罠
十一月の終わりの歌舞伎町は、イルミネーションが増えた分だけ寒く見える。
靖国通り沿いの街路樹に白い電飾が巻きつけてある。クリスマスまであと一ヶ月。駅前の広告はケーキとプレゼントと恋人たちの笑顔で埋まっている。どこを見ても「幸せ」が売られている。幸せの相場がいちばん高くなる季節。わたしには買えないけど。
金曜の二十一時。ローソンの前。わたし一人。
息が白い。先週より寒い。ダウンジャケットのジッパーを首元まで上げても、風が隙間から入ってくる。指先がかじかむ。コンビニで買った肉まんを両手で持って、指を温めている。肉まんの湯気が顔にかかる。白菜と豚肉の匂い。懐かしい匂い。母さんが冬になると作る、あの餃子の匂いに似ている。
一人で歩く歌舞伎町が、こんなに広いと思ったことはなかった。
四人でいたときは、この街は「わたしたちの場所」だった。路地の一本一本に記憶があって、どこにいても誰かの声が聞こえていた。ルカの「こっちおいで」。レンの「マジで?」。カケルの「……別に」。声が街を埋めていた。
今は、声がない。ネオンの音だけが残っている。客引きの声、カラオケの重低音、タクシーのクラクション。全部、わたしに向けられていない音。わたしはこの街の風景の一部ですらなくなっている。透明に戻りかけている。
白石さんには、電話した。先週の金曜の夜。帰りの電車を降りてから、自室で名刺を握りしめて。
留守電だった。
営業時間外のアナウンスが流れた。対応できない旨の録音メッセージ。わたしは留守電に何も残せなかった。声が出なかった。電話をかけるだけで精一杯だった。その先の「話す」ができなかった。
翌日の昼間にもう一度かけた。今度は白石さん本人が出た。「あ、なぎさちゃん? 電話くれたんだ」。穏やかな声。わたしは「あの……相談したいことがあって」としか言えなかった。白石さんは「うん。来週、事務所に来れる? ゆっくり話そう」と言った。来週。月曜から金曜の午前十時から午後五時。わたしは「はい」と答えて、電話を切った。
来週。
助けは、すぐには来ない。電話一本で世界が変わるわけじゃない。「灯台」の事務所に行くのは来週。それまでの間に、金曜の夜が来る。わたしは歌舞伎町に来る。一人で。
来なければいいのに、と思う。来る理由は、もうほとんどない。ルカは入院中。レンは今日もスクーリング。カケルはLINEの既読がつかないまま十日が過ぎた。ローソンの前にいるのはわたしだけ。
それでも来てしまう。金曜の夜になると、足が新宿行きの電車に向かう。自室にいると、罅のある天井と母の溜息に押し潰されそうになる。ここに来れば、少なくとも空気が動いている。人がいる。ネオンが光っている。それだけのために、電車に乗る。
肉まんを食べ終わった。紙を丸めて、ゴミ箱に捨てる。指先が油で光っている。ウェットティッシュを持っていない。ジーンズの膝で拭く。行儀が悪い。母さんが見たら溜息をつく。
どうしよう。
このまま始発まで一人でいるのか。ネカフェに入るお金はある。でも一人のネカフェは、一人の自室と変わらない。四人でいたネカフェと、一人のネカフェは、同じ場所なのに別の場所だ。
コンビニの自動ドアが開いて、温かい空気が漏れてきた。その空気に混じって、声が聞こえた。
「あれ、なぎさん?」
振り向く前に、声の主がわかった。身体が反応した。背筋が伸びる。肩が上がる。拳が無意識に握られる。
鶴見恭平が、コンビニの袋を下げて立っていた。
先週、病院の前で缶コーヒーを差し出してきた男。わたしが「いりません」と断った男。穏やかな笑顔。ジャケットにマフラー。カメラは持っていない。コンビニの袋からおにぎりのパッケージが覗いている。
「一人? 寒いでしょ」
同じ台詞だ。病院の前と同じ。「一人?」「寒いでしょ」。パターンがある。最初に「一人?」と確認する。一人だとわかると近づく。
「大丈夫です」
声が硬い。自分でもわかる。先週よりは言えている。「いりません」から「大丈夫です」。拒否の言葉を口にすることに、少しだけ慣れた。
鶴見は気にしていないように笑った。先週のことがなかったみたいに。病院の前で缶コーヒーを断られたことが、なかったみたいに。リセットされている。この人の笑顔には、前回のデータが残っていない。
「この前はごめんね。急に声かけちゃって。びっくりしたよね」
謝っている。穏やかに。自然に。「悪いのは僕だ。君を怖がらせてしまった」という態度。加害者が被害者の感情を代弁する話し方。白石さんだったら、こういう言い方はしない。白石さんは「怖かった?」と聞く。鶴見は「怖かったよね」と決めつける。
「ご飯食べた? 食べてないでしょ。コンビニで買ったけど、多すぎちゃって。よかったら一緒に」
「大丈夫です」
「そっか。じゃあ、一人で食べるの寂しいから、せめて一緒にいてくれない? 近くのファミレスで。おごるとかじゃなくて、ただ一緒に座ってるだけでいいから」
おごるとかじゃなくて。
この一言が巧みだった。「おごる」と言えば警戒される。レンが教えてくれた。「おごってくれるって言う大人は基本アウト」。鶴見はその警戒線を知っている。だから「おごるとかじゃなくて」と先に否定する。善意を小さく見せる。押しつけがましさを消す。「ただ一緒に座ってるだけ」。それなら安全に見える。
断るべきだった。
わかっている。ルカの声が頭の中で鳴っている。「ああいうの信用しちゃダメ」。レンの声も。「おごってくれるって言う大人は基本アウト」。カケルの無言も。鶴見を調べたカケルの沈黙も。
でも。
寒かった。空腹だった。一人だった。
この三つが重なると、判断力は鈍る。正しいことを考える余裕が減る。先週の決意——「かもしれない」は終わりにする、次は「する」にする——が、空腹と寒さの前で薄れていく。決意は腹を満たさない。名刺は身体を温めない。
「……少しだけなら」
言った瞬間、胃の底が冷たくなった。間違った、と思った。でも言葉は空気に溶けて、取り消せなかった。
ファミレスの窓際の席。二十二時過ぎ。店内は空いている。蛍光灯の白い光。暖房の温かい空気。テーブルの上にメニューが開いている。
鶴見が向かいに座っている。コンビニの袋はテーブルの下に置かれた。結局、自分のおにぎりは食べていない。最初から、一人で食べるつもりなんかなかったのだ。ファミレスに誘うための口実だった。
「何でも頼んでいいよ。僕が払うから」
「おごるとかじゃないって、さっき」
「あ、ごめん。そうだよね。じゃあ、割り勘にしよう」
割り勘。また巧みだ。最初に「おごる」と言って、わたしが反応したら「割り勘」に下げる。わたしは「割り勘なら対等だ」と感じる。対等なら安全だと思える。でもそれは鶴見が設計した安心だ。最初のハードルを高く見せておいて、次のハードルを低くする。二段階の構造。
ドリンクバーだけ頼んだ。温かいココアを取ってきた。カップを両手で包む。陶器の温度が指先に沁みる。ルカの冷たい手を握ったときの記憶が一瞬よぎって、振り払う。
鶴見はカフェオレを飲みながら、話し始めた。
「ルカちゃん、大丈夫? 退院のめどとか、聞いてる?」
「まだ聞いてません」
「そっか。心配だよね」
心配。この人がルカを心配している。ルカが「あいつヤバい」と言った相手が。ルカの不在の隙間に滑り込んできた相手が。「心配」の仮面をかぶって。
「なぎさんは? 学校は?」
「行ってません」
「そっか。辛いよね」
「辛くは……」
「いや、辛いと思うよ。学校に行けないって、それだけで世界が狭くなる感じがするでしょ。僕にもわかる。僕も高校のとき、ほとんど学校行ってなかったから」
共感。鶴見の武器。「僕にもわかる」「僕も同じだった」。共通点を示して距離を縮める。白石さんの共感とは違う。白石さんは「大変だったね」とは言わない。「よく話してくれたね」と言う。白石さんの言葉は、わたしの経験をわたしのものとして受け止める。鶴見の言葉は、わたしの経験を自分のものに重ねてくる。似ているのに、方向が逆だ。
でもその違いに気づけるのは、白石さんを知っているから。知らなかったら、鶴見の「僕にもわかる」は、わたしの渇いた場所にまっすぐ届いていただろう。
「家のことも大変?」
「あんまり……」
「うん。わかるよ」
また「わかるよ」。この人は何でも「わかる」と言う。わたしの家のことなんか何も知らないのに。母の溜息も、父の無関心も、陸の心配そうな目も、何も知らないのに「わかる」と言う。
鶴見が自分の話を始めた。
「僕もね、若い頃は大変だったんだ。家にいられなくて、ネカフェで暮らしてた時期がある。学校も中退して。だから歌舞伎町の子たちの気持ちが、他の大人よりはわかるつもりでいるんだ」
話し方が上手い。声のトーンが安定している。間の取り方が計算されている。目を合わせるタイミング、視線を外すタイミング。「僕も辛かった」と言うときだけ少し目を伏せる。演技なのか本当なのか、わたしにはわからない。わからないということは、嘘だとも断定できないということで、断定できないということは、わたしの中の疑念が揺らぐということだ。
ルカの声が遠くなっていく。「ああいうの信用しちゃダメ」。遠い。ルカは病院にいる。ここにはいない。ここにいるのは、温かいファミレスで、ココアを出してくれて、「わかるよ」と言ってくれる大人だ。
わたしは喉が渇いていた。「わかるよ」に。誰かに「わかる」と言ってほしかった。母は「あなたにも原因がある」と言った。担任は「双方から話を聞く」と言った。誰も「わかる」とは言ってくれなかった。白石さんは来週会える。でも今夜は、ここにいるこの人しかいない。
「なぎさんって、文章書くの好きなんだよね」
心臓が跳ねた。
「レンくんから聞いたよ。メモ帳にすごいこと書いてるって」
レンの名前。レンがいつ鶴見と話した? わたしが知らないところで? それとも、鶴見がレンに近づいたのか。レンは断ったと聞いている。でも、断る前に何を話した?
「レンから聞いたんですか」
「うん。前にちょっと話したとき。なぎさんの言葉がすごいって、レンくんが嬉しそうに言ってた」
レンの言葉を、鶴見が使っている。レンの善意を、鶴見が道具にしている。レンが「なぎの言葉すごいよ」と言ったのは、わたしを褒めたかったから。それを鶴見は「接近の材料」に変換している。人の善意を燃料にする人。
「僕もね、なぎさんの言葉に興味があるんだ。もしよかったら、いつか見せてもらえないかな。無理にとは言わないけど」
「無理にとは言わない」。白石さんと同じフレーズ。でも意味が全然違う。白石さんの「無理にとは」は本当に無理じゃなくていい。鶴見の「無理にとは」は、次の機会を作るための布石。断っても、「じゃあまた今度」と繋がる。断れない構造を少しずつ編んでいく。
わたしは黙っていた。ココアが冷めていく。陶器の温度が下がっていく。
鶴見がスマホを取り出した。
「ねえ、LINE交換しない? 何かあったとき、連絡取れたほうがいいでしょ。ルカちゃんのこととか、共有できるし」
ルカの名前をまた使った。ルカの入院を、連絡先交換の理由にしている。「ルカちゃんのことが心配だから」。善意の枠組みで、個人情報を要求している。
断るべきだった。
「いりません」と言うべきだった。先週、病院の前で言えたじゃないか。あのとき言えたなら、今も言えるはずだ。
でも先週の「いりません」は、背中にルカの言葉があった。病室で「白石さんに電話しな」と言ってくれたルカの声があった。今夜は何もない。ファミレスの席で、温かいココアを飲みながら、「わかるよ」と言ってくれる人の前で、「いりません」は——出てこなかった。
断ることが、優しさを拒否することに感じられた。この人は、わたしにご飯をおごろうとしてくれた。寒い夜に温かい場所に誘ってくれた。「わかるよ」と言ってくれた。それを断るのは、自分が冷たい人間みたいで。恩知らずみたいで。
そう思わせること自体が、罠だった。善意を装った接近は、拒否することへの罪悪感を生む。受け取ったら借りができる。借りができたら断れなくなる。一歩ずつ、距離が縮まっていく。
わたしはスマホを出した。LINEを開いた。IDを見せた。
鶴見が微笑んで、登録した。「ありがとう。何かあったら、いつでも連絡してね」。
その「ありがとう」が、胃の中で石になった。
ファミレスを出た。十一月の冷気が顔に当たる。酔い覚ましみたいに、頭がクリアになっていく。
何をした?
歩きながら、自分の行動を巻き戻す。鶴見に声をかけられた。ファミレスに行った。ココアを飲んだ。話を聞いた。LINEのIDを教えた。
全部、間違っている。
ルカが止めてくれたら、こうはならなかった。ルカがいたら、「なぎ、行くな」と言ってくれた。レンがいたら、「あの人ヤバいよ」と引っ張ってくれた。カケルがいたら、無言でわたしの腕を掴んでくれた。
誰もいなかった。一人だった。一人の判断は、いつも少しずつ間違っている。
駅に向かう。歌舞伎町の出口。一番街のアーチをくぐる。振り返ると、ネオンが光っている。この光の中で、わたしは今夜、鶴見にLINEを教えた。名前と連絡先を渡した。ルカが「離れろ」と言った相手に。
電車に乗った。窓際の席。窓の外は暗い。自分の顔がガラスに映っている。目の下にクマがある。頬が痩せた。この顔は、五ヶ月前に初めて歌舞伎町に来たときの顔とは違う。あの夜の顔は、怖いけど少しだけ期待に光っていた。今の顔は、疲れている。
スマホが震えた。LINEの通知。
鶴見恭平。「今日はありがとう。寒かったね。また話そうね」
絵文字。笑顔の絵文字。この絵文字の裏に何があるか、わたしにはわかる。わかっているのに、ブロックする指が動かない。先週は病院の前で「いりません」と言えた。今夜はLINEを教えてしまった。前に進んだつもりが、別の方向に落ちている。
白石さんとの約束は来週。来週まで、わたしは一人で判断しなければならない。そしてわたしの一人の判断は、今夜証明されたように、信用できない。
メモ帳を開いた。久しぶりに。ルカが倒れてから、何も書けなくなっていた。言葉が出てこなかった。でも今夜は、書きたい言葉が一つだけあった。
指が動いた。
「優しさには二種類ある。一つは、何も求めない優しさ。もう一つは、借りを作るための優しさ。問題は、その違いが、受け取る側にはわからないこと」
書いた。保存した。メモ帳を閉じた。
わかっている。わかっているのに間違える。それがいちばん苦しい。知らないから騙されるのと、知っていて巻き込まれるのは、重さが違う。後者のほうが、ずっと重い。
窓の外。郊外の住宅街が流れていく。街灯のオレンジ色の光。等間隔に並んでいる。規則正しい。安全な光。でもわたしのスマホの中には、鶴見の笑顔の絵文字が点灯している。それは安全じゃない光。ネオンよりも近くで、画面の中で光っている。
家に着いた。玄関を開ける。リビングは暗い。母は寝ている。テーブルの上にラップのおにぎり。昆布。わたしの好みを覚えている人がいる。それなのに、その人にわたしは「友達のところに泊まる」と嘘をつき続けている。
自室に入る。ベッドに座る。天井を見る。罅は三本。
名刺を出した。白石遥。来週、この人の事務所に行く。行って、全部話す。鶴見のことも。今夜LINEを教えてしまったことも。ルカのことも。自分のことも。
白石さんに話したら、何か変わるだろうか。変わらないかもしれない。でも、一人で判断するよりはましだ。今夜がその証拠だ。
スマホの画面を見た。鶴見のメッセージ。笑顔の絵文字。既読をつけていない。返信もしていない。ブロックもしていない。
この中途半端さが、わたしだ。断りきれない。でも受け入れてもいない。どっちつかずの場所で、揺れている。
レンに連絡しようと思った。「鶴見にLINE教えちゃった」と。でも指が止まった。レンに心配をかけたくない。レンも限界なのだ。「今は考えたくない」と言ったレンに、これ以上を背負わせたくない。
結局、誰にも言えない。一人で抱えている。一人で抱えると、間違える。間違えるとわかっていて、一人で抱える。この循環を止める方法を、わたしはまだ知らない。
来週。白石さんに会う。そこから何かが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。でも、もう「かもしれない」は終わりにするんだった。
ベッドに横になった。目を閉じた。瞼の裏に、鶴見の笑顔が浮かぶ。穏やかな笑顔。温かいココア。「わかるよ」という声。全部が心地よくて、全部が嘘かもしれない。
嘘じゃないかもしれない。でも、本当でもない。
そのどちらでもない場所に、罠はある。白と黒の間のグレーの中に、落とし穴が口を開けている。落ちてから気づく。落ちる前にはただの地面に見える。
眠れない夜。天井の罅は三本。いつもと同じ。でもわたしのスマホの中に、一週間前にはなかった名前が一つ増えている。
それは小さな変化に見えて、取り返しのつかない一歩かもしれなかった。




