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第25話 : ひび割れ

 第25話 : ひび割れ


 消毒液の匂いがする廊下を、わたしは一週間で覚えた。


 エレベーターを降りて左。突き当たりを右。四〇八号室。ルカのベッドは窓際。カーテンは白。床はリノリウムで、スリッパの底がぺたぺた鳴る。蛍光灯が均一に光っていて、影がない。歌舞伎町の正反対。あの街は影と光が入り乱れていた。ここには影がない代わりに、温度もない。


 面会時間は午後二時から四時。平日だから、わたし以外の面会客はほとんどいない。不登校の16歳には、平日の午後に病院へ通う時間がある。学校に行けないのに、病院にはまっすぐ来られる。おかしな話だと思った。


 受付で名前を書く。ナースステーションの前を通る。看護師が「あ、今日も来てくれたの」と微笑む。一週間、毎日来ている。顔を覚えられた。


 四〇八号室。ドアを開ける。四人部屋。ルカのベッドはいちばん奥。カーテンが半分引かれている。隙間から、十一月の空が見える。薄い青。雲が流れている。


 ルカはベッドに座って、スマホを見ていた。点滴のスタンドが横に立っている。透明な液体がチューブを通って左腕に繋がっている。病院の白いガウン。メイクをしていないルカの顔は、三歳くらい幼く見える。


 顔色は、あの夜よりましだった。唇に血の色が戻っている。目に焦点が合っている。路地裏で見た「どこも見ていない目」じゃない。今日のルカの目は、わたしを見ている。わたしだとわかって、見ている。


「あ、なぎ。また来たの」


 ルカの声はいつもより低い。姉御肌の張りがない。疲れた声。でも声が出ている。言葉になっている。あの夜は、声すら出なかった。ルカも。わたしも。


「来たよ」


「毎日来なくていいって言ったじゃん」


「来たいから来てるの」


 パイプ椅子を引いて、ベッドの横に座った。椅子の金属が冷たい。リノリウムの床にキッと音を立てる。


 テーブルの上に、昨日わたしが持ってきたペットボトルのミルクティーが置いてある。ルカの好きなブランド。半分くらい減っている。飲んでくれた。


「ミルクティー飲んだ?」


「うん。病院の飲み物、味しないから助かる」


 ルカが少し笑った。笑えている。あの夜から一週間。泡を吹いて路地裏に倒れていた人が、笑っている。それだけで、胸の中で何かが緩む。


 同時に、ルカの腕が気になった。点滴のチューブの近く。ガウンの袖がめくれている。手首の内側。傷痕が並んでいる。古いものは白く、新しいものはまだ赤みが残っている。病院の蛍光灯は嘘をつかない。歌舞伎町の暗がりでは見えなかった傷の細部が、白い光の下ではくっきり浮かぶ。


 ルカが視線に気づいた。袖をそっと引き下ろす。何も言わない。わたしも言わない。今はまだ、この傷について話すときじゃない。



 ルカの入院から一週間。


 「ファミリー」は、ひび割れていた。


 レンは面会に来なかった。LINEで「行きたいけどスクーリングが」と送ってきた。嘘じゃない。通信制のスクーリングは週に何回かある。でも、それだけが理由じゃないことは、メッセージの行間でわかった。


 レンは病院が苦手なのだ。あの夜、廊下で声を殺して泣いていた。メイクが崩れた17歳の顔。病院の白い壁と消毒液の匂いが、あの夜を呼び戻す。だから来られない。来たくないんじゃなくて、来ると壊れる。わたしはそれを責められない。


 カケルは一度だけ来た。面会時間の最後の十五分。カーテンの隙間から顔を出して、「……来た」とだけ言った。ルカが「おう」と返した。カケルはベッドの脇に立ったまま、五分間何も喋らなかった。イヤホンは両耳外していた。両耳外しているのに、何も聞いていなかった。ただ立っていた。五分後、「また来る」と言って帰った。それきり来ていない。連絡もつかない。LINEに既読がつかなくなった。


 わたしだけが毎日来ている。


 帰りの電車で泣いて、自室の天井を見て、翌日また病院に行く。その繰り返し。罅は三本。増えていない。でも罅は見えるところだけにできるわけじゃない。壁の内側で、音もなく、少しずつ広がっていく。



 金曜の夜。面会の帰りに、歌舞伎町に寄った。一人で。


 ローソンの前。わたしたちの場所。ルカがいない。レンもいない。カケルもいない。ミキとユナが座っていた。わたしを見て「あ、なぎだ」と手を振る。わたしも手を振り返す。それだけ。それ以上の会話にならない。ルカがいないと、空気が違う。会話の起点がない。ルカはいつも最初に声をかける人だった。「おいで」「座りな」「何食べる?」。その声がないと、わたしたちはどこに座ればいいかもわからない。


 ルカは太陽みたいなものだった。太陽が消えると、惑星は軌道を失う。散らばっていく。


 ミキの隣に、見たくない人影があった。


 鶴見恭平。


 ミキの横に立っている。自然な距離。スマホの画面を見せながら何か話している。ミキが笑っている。ユナも近くにいる。鶴見の声は聞こえない。穏やかな笑顔だけが、ネオンの光の中で浮いている。


 ルカが倒れたことで、壁が崩れた。ルカが「離れろ」と言った壁。鶴見を遠ざけていた力。それがなくなった。鶴見はそれを正確に知っている。空白を狙っている。監視する目がなくなった瞬間に、戻ってきた。


 声をかけるべきだと思った。鶴見に。「ミキに近づくな」と。ルカが言ったように。


 足が動かなかった。ルカの迫力がわたしにはない。鶴見は笑顔でかわす。「心配しすぎだよ、なぎさん」。そう言って、わたしが去った後も同じことを続ける。一人では止められない。


 レンに連絡した。「鶴見がミキに接触してる。ルカ姉がいないから」。返信は二時間後だった。五文字。「今は考えたくない。ごめん」。


 レンも限界なのだ。ルカが倒れて、レンの中でも何かが折れている。普段は軽いレンが「考えたくない」と書いている。あの五文字に、レンの疲弊が全部入っている。


 カケルには「ネカフェにいる?」と送った。既読がつかない。一日経ってもつかない。


 ファミリーが、バラバラになりかけている。糸がほどけていく。ルカという結び目がなくなった途端に。わたしは糸を掴もうとしている。LINEを送る。返信を待つ。でも糸は指の間をすり抜けていく。



 入院九日目の午後。


 ルカの様子が、昨日と違った。


 ベッドに座って窓の外を見ていた。わたしが入っても、すぐに振り向かなかった。五秒くらいして、「あ、なぎ」と言った。声が遠い。ここにいるのに、どこか別の場所にいるような声。


「ルカ姉、調子どう」


「うん。身体は平気。ご飯も食べてる」


 テーブルのトレイを見ると、昼食はほぼ完食していた。味噌汁の椀が空。ご飯も減っている。身体は回復している。でもルカの目が違う。何かを長く考えた後の目。結論を出した後の目。覚悟を決めた人の目。


「ルカ姉、何か言いたいことある?」


 回りくどいのは嫌だ。ルカも嫌いだろう。わたしたちの間には「そっか」で済む空気があるけど、今日はそれじゃ足りない。


 ルカが窓から視線を外して、わたしをまっすぐ見た。


「なぎ、あんたはここから離れな」


 一瞬、意味が取れなかった。


「何言ってんの」


「トー横から。離れな」


「ルカ姉、何——」


「聞いて。ちゃんと聞いて」


 ルカの声が強くなった。姉御肌のトーンが戻っている。でも中身が違う。命令じゃない。懇願だ。強い声で懇願している。


「あんたにはまだ家がある。学校がある。帰る場所がある。使ってないだけで、持ってるでしょ。親がいて、弟がいて、部屋がある。不登校だとしても、籍は消えてない。あんたが戻るって言えば戻れる場所がある」


「ルカ姉だって——」


「わたしにはないの」


 声が振動した。強い声が、一音で崩れた。


「帰る場所が、ないの。ないから、ここにいたの。歌舞伎町しかなかったの」


 ルカが自分の腕を見た。点滴のチューブが繋がっている腕。傷痕がある腕。


「ここも、もう無理。ここにいたら、わたしは死ぬ」


 ルカの目から涙が一粒落ちた。右目から。頬を伝って、顎から落ちて、ガウンの胸元に小さな染みを作った。


 ルカが泣くのを、わたしは数えるくらいしか見たことがない。ネカフェで過去を話した夜。ファミレスで「ファミリー」と言った夜。雨のネカフェで「嬉しかった」と言った夜。そして今。


「わたし、ここに入って初めてまともに寝たんだよ。三食食べた。シャワーじゃなくてお風呂入った。看護師さんが毎朝 "おはようございます" って声かけてくれるの。"普通" ってこんな感じなのかって思った」


 ルカの言葉が途切れ途切れに出てくる。いつもの滑らかな口調じゃない。一語ずつ、自分の中から掘り出すように話している。


「歌舞伎町にいたとき、わたしは三日に一回くらい死にたくなってた。三日に一回で済んでたのは、あんたたちがいたから。なぎがいたから。ルカ姉って呼んでくれるから。でもそれだけじゃ、足りなかった。足りなかったから、あの夜——」


 言葉が止まった。あの夜。路地裏。市販薬の空シート。泡。冷たい手。


 わたしは何も言えなかった。ルカの涙が、蛍光灯の光を受けて透明に光っている。水滴みたいに。雨粒みたいに。あの台風の夜の雨と同じように、ルカの頬を流れている。


 ルカが涙を手の甲で拭った。乱暴に。ルカらしい拭い方。


「だからさ、なぎ。あんたは帰りな。家に。学校に。あんたはまだ間に合う。わたしみたいに、全部なくしてからじゃ遅いんだよ」


 言い返したかった。「ルカ姉だって間に合う」と。「一緒に何とかしよう」と。でもルカの目が真剣すぎて、安易な言葉が喉に引っかかった。ルカはこの九日間、白い天井を見ながら考え続けたのだ。出した結論が「ここを離れろ」だった。自分のことじゃなく、わたしのことを先に言う。ベッドの上の、痩せた、19歳の姉。


「ルカ姉は、どうするの」


「わかんない。まだ」


 ルカが窓の外を見た。十一月の空。


「でも、ここにいる間に、考える」


「一人で?」


「一人で考えなきゃいけないこともあるでしょ」


 沈黙が落ちた。病室の空気は乾いている。エアコンの送風音がかすかに聞こえる。隣のベッドの患者が寝返りを打つ音。遠くでナースコールが鳴っている。病院の音。歌舞伎町の音とは全然違う。静かで、清潔で、管理されている音。


 わたしは立ち上がった。言うべきことがあった。


「ルカ姉。わたし、白石さんに電話する」


 ルカの目が動いた。白石。NPO法人灯台。名刺の人。ルカが受け取らなかった名刺。


「あの人、信用できるかわかんない」


「わかんない。でも、わたしたちだけじゃもう無理だよ」


 わたしの声が震えていた。震えていたけど、止まらなかった。


「ルカ姉が倒れて、レンも来られなくて、カケルは連絡つかない。鶴見はミキに接触してる。ルカ姉がいなくなったから、あの壁が崩れた。わたし一人じゃ止められない」


 ルカの拳が布団の上で握られた。鶴見の名前を出した瞬間、顔が変わった。爪が白くなるほど握り込んでいる。


「あいつ、まだいるの」


「いる。金曜の夜、ミキとユナの横にいた」


 ルカの奥歯が噛み合う音が聞こえた。怒りだ。自分が倒れている間に、鶴見が動いていること。守れなかったこと。


「なぎ」


「うん」


「白石さんに電話しな。わたしのことも、鶴見のことも、全部話しな」


 ルカの声が変わった。弱い声から、決断の声に。身体は弱っている。でも声に芯が通っている。「動く」と決めたときのルカの声。


「ルカ姉も、白石さんと話す?」


「……考える。でも、なぎが先に話して。わたしはまだ……大人を信じるのが怖いから」


 怖い。ルカがその言葉を使った。「ムカつく」「うざい」は言うけど「怖い」は言わない人。怖いと認めることが怖い人。その人が今、わたしの前で「怖い」と言った。


「怖いのはわかる。わたしも怖い」


「でも?」


「怖いまま電話する。 "かもしれない" は終わりにするって、決めたから」


 ルカがわたしを見た。長い間。わたしの目をまっすぐ見て、何かを確かめていた。わたしが本気かどうか。逃げないかどうか。


「あんた、ほんと変わったね」


「ルカ姉が教えてくれたんだよ。 "困ったら言う" って」


 ルカが一瞬、何かを言いかけて、飲み込んだ。唇が動いて、音にならなかった。ありがとう、だったのかもしれない。わかんない、だったのかもしれない。聞こえなかった。聞かなくていい。


 面会時間の終了を告げるチャイムが鳴った。四時。


「また来る」


「来すぎ」


 ルカが笑った。泣いた後の笑い方。目が赤くて、鼻が赤くて、でも口元は笑っている。「来すぎ」はルカなりの受け取り方。「謝らないでよ」と同じ場所にある言葉。



 病院の正面玄関を出た。


 十一月の午後四時。空はもう薄暗い。日が短くなっている。夕方の空気が頬を刺す。息が白い。コートのポケットに手を突っ込んで、駅に向かおうとした。


 足が止まった。


 正面玄関の横。自動販売機の前。一人の男が立っていた。


 鶴見恭平。


 缶コーヒーを手に持って、わたしを見ていた。穏やかな笑顔。ジャケットの襟を立てている。カメラは持っていない。寒空の下で温かい缶を手にした、普通の大人。お見舞いに来た知人。そう見える。知らない人が見たら。


「なぎさん。ルカちゃんの具合どう? 心配してるんだ」


 声が穏やかだった。丁寧で、優しくて、温かい声。あの路地裏のことを知らない人が聞いたら、「いい人だな」と思うだろう。善意の大人。若者を応援するクリエイター。鶴見の表の顔。


 でもわたしは知っている。笑顔が消えた瞬間を。冷たい計算の目を。ルカが「父親と同じ目」と言ったあの目を。カケルが調べた「別名のアカウント」を。名前を変えて活動する人の、本当の顔を。


 身体が強張った。足が地面に縫いつけられた。逃げたい。でも逃げたら、この人はまた別の誰かに近づく。ミキに。ユナに。ルカがいない今、止める人間がいない。


「困ってることがあったら、なんでも言ってね。僕は、君たちの味方だから」


 鶴見が一歩近づいた。缶コーヒーを差し出す。「これ、飲む? 寒いでしょ」。温かそうな缶。善意の形をした接近。優しさを装った距離の侵食。


 わたしの手はポケットの中にあった。指先が紙に触れていた。白い名刺。角が少し折れた名刺。白石遥の名前。電話番号。


 その感触が、足を動かした。


「いりません」


 声が出た。震えていたかもしれない。でも出た。短い拒絶。三文字。


 踵を返した。歩いた。走らなかった。走ったら負けだと思った。背筋を伸ばして、駅に向かった。鶴見の視線が背中に刺さっている。穴が開きそうなくらい。でも振り返らなかった。


 角を曲がった瞬間、膝から力が抜けた。壁にもたれた。息を吐いた。長い、長い息。肺の底から全部出すような息。心臓がまだ暴れている。指先が冷たい。ルカの手の冷たさとは違う、自分自身の恐怖の冷たさ。


 鶴見はわたしの行動を把握している。病院に通っていることを知っている。面会の時間帯を知っている。待ち伏せた。善意の顔で。温かい缶コーヒーで。


 この人は、あきらめない。ルカに追い払われても。わたしに拒否されても。名前を変えて活動するような人は、一度の拒絶で引き下がらない。次は別の角度から来る。次は別の子を狙う。わたしたちが弱いかぎり、この人は消えない。


 スマホを取り出した。名刺を取り出した。並べて見た。スマホの画面と、白い紙。電話番号。


 今夜、電話する。


 白石さんに。ルカのことを話す。鶴見のことを話す。ミキのことを話す。カケルの調べた「亀田隆」のことも。わたし自身のことも。全部。途切れ途切れになるかもしれない。うまく話せないかもしれない。泣くかもしれない。でも話す。


 名刺をポケットに戻した。スマホもポケットに入れた。歩き出した。駅に向かって。


 埼玉行きの電車に乗る。窓際の席。窓の外は暮れていく。新宿の街が灯り始めている。歌舞伎町のネオンが、遠くでちらちら光っている。あの光の中に、ミキがいる。ユナがいる。鶴見がいる。ルカは病院のベッドにいる。レンはどこかで一人でいる。カケルは連絡がつかない。


 ファミリーは散っている。糸はほどけかけている。でもまだ切れていない。まだ。


 電車が動き出した。新宿が遠ざかる。郊外の住宅街が流れていく。街灯が等間隔に並んでいる。ネオンじゃない光。オレンジ色の、穏やかな光。


 家に帰る。自室に入る。天井を見る。罅は三本。ベッドに座って、スマホを手に取る。名刺を手に取る。電話番号を見る。


 指が震えている。でも、あの夜ルカの冷たい手を握ったときも、震えていた。病院の廊下で膝が折れたときも、震えていた。今夜、鶴見の前で「いりません」と言ったときも、震えていた。


 震えることには慣れた。震えたまま動くことにも。


 最大の危機が、優しい顔をして近づいてきた。病院の前で。コンビニの横で。ミキとユナの隣で。この街のあらゆる隙間に。


 でもわたしの手には名刺がある。電話番号がある。声を届ける先がある。


 夜が深くなっていく。十一月の夜が、いちばん深いところに沈んでいく。


 その底で、わたしは電話をかける。震える指で。かすれる声で。それが、わたしにできるいちばん大きな一歩だった。

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