第24話 : ルカ姉が倒れた日
第24話 : ルカ姉が倒れた日
十一月の夜は、骨まで届く。
風が変わった。先月までの秋の風じゃない。冬の先端みたいな風。パーカーの上にダウンジャケットを着てきた。それでも首元が寒い。マフラーを持ってくればよかった。吐く息が白い。歌舞伎町のネオンに照らされて、白い息がピンク色に染まる。
ローソンの前。金曜の二十二時。レンとカケルがいた。レンが缶のコーンスープを手で包んでいる。カケルはイヤホンをして壁にもたれている。片耳外し。
ルカがいない。
「ルカ姉、遅くない?」
レンがスマホを見ながら言った。
「LINE送ったけど既読つかない」
ルカは、いつも最初にいる人だった。わたしたちより先に来て、ローソンの前に座って、缶のミルクティーを飲みながら待っている。金曜の夜にルカがいないのは、五ヶ月間で初めてだ。
「電話してみる?」
「かけた。出ない」
レンの声に焦りはない。まだ。遅刻しているだけかもしれない。ネカフェで寝過ごしたのかもしれない。何か用事があるのかもしれない。普通の理由はいくらでもある。
でもわたしの胸の奥で、小さな警報が鳴っていた。先週のネカフェの夜。ルカの「疲れてる」という小さな声。痩せた頬。食欲がない。腕の傷痕。「どこに行けばいいんだろうね」。全部が、頭の中で点滅していた。
二十二時半。まだ来ない。既読もつかない。
わたしはもう一度電話をかけた。コール音が鳴る。一回。二回。三回。四回。五回。留守電に切り替わる。ルカの声。「はい、ルカです。後でかけ直します」。録音された声は元気だ。いつもの姉御肌の声。でも今、この声の主はどこにいるんだろう。
二十三時。
レンが立ち上がった。
「おかしいよ。一時間経った」
カケルがイヤホンを外した。両耳とも。カケルが両耳を外すのは、本気のときだけだ。三人の間に、言葉にしない不安が漂っている。
スマホが震えた。
LINEの通知。ルカから。心臓が跳ねた。開く。
メッセージはなかった。
位置情報だけが送られていた。
赤いピンが刺さっている。歌舞伎町の路地裏。ここから五分くらいの場所。メッセージはない。スタンプもない。位置情報だけ。ルカがスマホを操作して、わたしに位置情報を送った。それだけの力が残っていた、ということだ。
それだけしか残っていなかった、ということだ。
「行こう」
走った。三人で。レンが先頭。カケルが並走。わたしが少し遅れる。スニーカーがアスファルトを叩く音。心臓がうるさい。息が白い。歌舞伎町の路地を曲がる。ネオンが遠ざかる。街灯が減る。暗くなる。
位置情報が示す場所。雑居ビルの裏手。ゴミ収集用のコンテナが並んでいる路地。街灯が一本だけ。オレンジ色の光が、地面を細く照らしている。排水溝の匂い。冷たい空気。十一月の路地裏は、夏とは違う匂いがする。乾いて、冷たくて、何もない匂い。
レンが足を止めた。
「ルカ姉」
レンの声が変わった。軽さが消えた。全部消えた。
わたしはレンの横に並んだ。
見た。
ルカが倒れている。
コンテナと壁の間。地面に横向きに倒れている。長袖のパーカー。黒いスカート。足がまっすぐ伸びている。片方の靴が脱げている。
目が開いている。
でも、見えていない。
瞳が動いていない。天井を見ているわけでもない。わたしを見ているわけでもない。どこも見ていない。焦点の合わない目が、街灯の光を反射してぼんやり光っている。
口元に、泡。白い泡。唇の端から顎に垂れている。
手。右手。握りしめている。ジップロックの袋。中に、銀色のシート。薬のシート。空になっている。何錠あったのかわからない。全部、空だ。
冷たい。
手が冷たい。
触った瞬間にわかった。ルカの手が、氷みたいに冷たい。体温がない。十一月の路地裏のコンクリートと同じ温度。人間の手じゃない温度。
声が出ない。
出そうとしている。口は開いている。喉が動いている。でも音にならない。空気だけが喉を通り抜けていく。声帯が震えない。透明になったときと同じだ。中学で声を失くしたときと同じだ。いちばん叫びたいときに、声が出ない。
ルカ姉。
ルカ姉。
起きて。
頭の中で叫んでいる。口からは何も出ていない。膝をついた。ルカの横に。コンクリートが冷たい。膝が痛い。痛くていい。痛いほうがいい。ルカの手を握った。冷たい。冷たい。冷たい。
「やばいやばいやばい」
レンの声が聞こえる。遠い。すぐ横にいるのに遠い。レンが叫んでいる。「やばいやばいやばい」。同じ言葉を繰り返している。レンの顔が見えない。涙で見えない。わたし、泣いているんだ。いつから。
「119」
カケルの声。短い。一語。カケルがスマホを取り出している。指が動いている。画面をタップしている。カケルの手は震えていない。カケルだけが動いている。わたしは動けない。レンは叫んでいる。カケルだけが、冷静に、必要なことをしている。
「はい、119番です」
「人が倒れてます。歌舞伎町の——」
カケルの声を聞きながら、わたしはルカの手を握り続けていた。握っていれば温かくなる。そう思いたかった。でもルカの手は温まらない。わたしの体温がルカの手に吸い取られていく感覚。わたしの指先も冷たくなっていく。
ルカの呼吸が浅い。胸が動いている。かろうじて。上下する幅が小さい。普通の呼吸の半分もない。でも動いている。生きている。まだ、生きている。
「ルカ姉、起きて。お願い」
声が出た。かすれた、小さな声。自分の声だと思えないくらい頼りない声。ルカの耳に届いているかわからない。ルカの目はまだ開いている。わたしのほうを向いていない。どこも見ていない目。
「ルカ姉」
名前を呼んだ。名前を呼べば、指先から温度が戻ってくる。わたしはそう書いた。メモ帳に。名前を呼ばれると、温度が戻る。だから呼ぶ。何度でも。
「ルカ姉。ルカ姉。ルカ」
呼んでも、ルカの目は動かなかった。
サイレンが聞こえたのは、十分後だったのか、一時間後だったのか、わからない。体感では永遠だった。時間が砂時計の砂みたいに落ちていく。一粒一粒が重い。時計を見る余裕はなかった。ルカの手を握って、名前を呼んで、泣いていた。それだけが、わたしにできることだった。
赤い光が路地に差し込んできた。救急車のランプ。回転灯の赤い光が、コンクリートの壁を舐めるように動く。ストレッチャーの車輪が路面を転がる音。救急隊員の足音。声。
「どいてください」
引き離された。ルカの手から、わたしの手が離れた。冷たい感触が、指に残っている。救急隊員がルカの横にしゃがむ。バイタルを確認している。瞳孔を見ている。ペンライトの光がルカの目に当たる。ルカの瞳孔が反応しているのかどうか、わたしの位置からは見えない。
「薬物の過剰摂取の可能性があります。空のシートがあります」
救急隊員がもう一人に報告している。ルカの手からジップロックの袋を取り上げる。銀色の空シート。市販薬。パッケージの名前は読めなかった。読みたくなかった。
「身内の方ですか」
わたしに向けられた声。
「友達です」
「ご家族に連絡取れますか」
家族。ルカの家族。父親は暴力を振るう人。母親は見て見ぬふりをする人。連絡先は知らない。ルカが教えてくれたことはない。
「います、でも……連絡先がわかりません」
救急隊員が頷いた。何か書類に記入している。ストレッチャーにルカが乗せられる。ルカの身体が持ち上がるとき、腕が横に垂れた。長袖の裾がめくれた。手首。傷痕が見えた。古い傷。白くなった傷。そしてその横に、もう少し新しい傷。先週ネカフェで見た傷と同じものか、もっと新しいものか。
救急車のドアが開く。ルカが中に運ばれていく。わたしは同乗しようとした。
「身内の方以外は——」
「お願いします。この子のこと、わたしたちしか知らない人がいないんです」
声が震えた。でも言えた。言わなきゃ。ルカを一人にしたくない。救急車の中で一人にしたくない。
救急隊員が一瞬迷って、「では一人だけ」と言った。わたしが乗り込んだ。レンが外から「おれたちも行く。病院どこ」と聞いている。カケルがスマホで何か調べている。
ドアが閉まった。サイレンが鳴った。救急車が動き出した。
狭い車内。機械の音。モニターの波形。ルカの横に座っている。点滴が刺される。マスクが顔に当てられる。ルカの目はまだ開いている。でも見えていない。
わたしはルカの手を握った。許可は取っていない。でも握った。さっきより少しだけ温かい。気のせいかもしれない。車内の暖房のせいかもしれない。でも少しだけ、温かい。
ルカ姉。
死なないで。
頭の中で、その言葉が何度も回った。死なないで。死なないで。お願いだから。わたしたちは先週、約束したじゃん。「ずっと一緒にいよう」って。「離れても、繋がってる」って。あれ、嘘にしないで。
神様なんか信じてなかった。お守りも持っていない。初詣にも行かない。なのに今、この瞬間だけ、誰かに祈りたかった。誰に祈ればいいかわからないけど。この人を助けて。
病院の廊下。白い壁。蛍光灯の光。消毒液の匂いが鼻の奥を刺す。
硬い椅子に座っている。プラスチックの椅子。背もたれが冷たい。三人並んでいる。わたし、レン、カケル。レンとカケルは別のルートで病院に来た。タクシーを使ったらしい。レンが「おれっちの全財産千五百円」と言って財布を振った。冗談じゃない。本当に千五百円しか持っていなかったということだ。
誰も喋らない。
レンが泣いている。声を殺して。肩が震えている。レンは人前で泣かない子だ。泣く代わりに笑う子だ。その子が、今、声を殺して泣いている。ブランケットもない。メイクが崩れている。目の下が黒い。17歳の男の子の、むき出しの顔。
カケルは壁を見ている。イヤホンをつけていない。両耳とも。何も聞いていない。何も見ていない。ただ壁を見ている。15歳の少年が、白い壁を見つめている。手が膝の上で握られている。爪が食い込んでいる。カケルなりの耐え方だ。
わたしは自分の手を見ていた。ルカの手を握っていた手。指先が赤い。ルカの手の冷たさに触れた後、自分の指が痛い。血が戻ってきている。ルカの手から奪い返した体温が、わたしの指で鳴っている。
知っていた。
ルカがこうなることを。気づいていた。腕の傷痕。時々ぼんやりする目。「わたしがいなくなったら」という仮の話。「どこに行けばいいんだろうね」。食欲がない。痩せた。疲れてる。先週の台風の夜、「鶴見の目が父親と同じ目」と言った声の小ささ。全部、サインだった。
わたしは見ていた。全部見ていた。観察する人間だから。メモ帳に書く人間だから。人のことを見て、言葉にする人間だから。ルカの変化を、わたしは誰よりも正確に見ていた。
見ていたのに、何もしなかった。
いや、「何もしなかった」は嘘だ。名刺をポケットから出してテーブルに置いた。ルカに「白石さんに相談するのは」と聞いた。「ずっと一緒にいよう」と言った。小さなことはやった。でも、それで足りるわけがなかった。ルカが必要としていたのは、もっと具体的な助けだった。専門家の助け。大人の助け。わたしたち子どもだけでは守りきれないものを、ルカは抱えていた。
白石さんの名刺。テーブルの上に置いたまま。電話していない。もっと早く電話していたら。もっと早く、助けを求めていたら。ルカは、あの路地裏で冷たいコンクリートの上に倒れなくて済んだかもしれない。
罪悪感が胃の底に沈む。重くて、冷たくて、溶けない。
廊下の時計が動いている。針が音もなく進む。三時。三時半。四時。時間が流れている。でも体感では止まっている。待つことしかできない時間。待つことが、こんなに苦しいと知らなかった。
四時過ぎ。
ドアが開いた。看護師が出てきた。三人が同時に立ち上がった。椅子が後ろにずれる音。
「お連れの方ですか」
「はい」
「命に別状はありません。胃洗浄を行いました。意識も戻っています」
命に別状はありません。
七文字。
その七文字が耳に届いた瞬間、膝が折れた。立っていられなかった。そのまましゃがみこんだ。床が冷たい。蛍光灯の光が近い。視界が滲む。涙が落ちる。声が出る。今度は出る。喉から、腹の底から、抑えられない音が出る。
泣いた。声を上げて。病院の廊下で。午前四時に。
レンも泣いた。立ったまま。顔を両手で覆って。「よかった」と何度も言っている。「よかった、よかった、よかった」。声がかすれている。鼻がつまっている。レンの「よかった」は、レンが今夜聞いたいちばん嬉しい言葉だ。
カケルは泣かなかった。でも壁に額をつけていた。額を壁に押しつけて、目を閉じていた。手が震えていた。カケルの泣き方だ。音を出さない。涙も見せない。でも身体が震える。15歳の少年の震え方。
しばらく三人で泣いた。病院の白い廊下で。蛍光灯の下で。夜明け前の静かな時間に。
安堵の後に、別の感情が来た。
怒りだった。
ルカに対してじゃない。わたし自身に対して。そして、トー横という場所に対して。歌舞伎町という街に対して。ルカを追い詰めたすべてに対して。
ここにいたら、ルカは死んでしまう。
ここは安全じゃない。四ヶ月半、「居場所」だと思っていた場所。コンビニのおにぎりとネカフェのシャワーで成り立っている夜の王国。あの場所は温かくて、楽しくて、息ができた。でも同時に、ルカを路地裏のコンクリートの上に倒れさせた場所でもある。
温かさと危うさは、いつもセットだった。片方だけを見ることはできない。わたしはずっとそれを知っていた。知っていて、見ないふりをしていた。幸せの真ん中にいるとき、壊れる予感から目を逸らす。あの非常階段の夜に、自分で書いた言葉。予感は当たった。壊れた。
でも、ルカは生きている。
命に別状はない。意識も戻っている。壊れたけど、終わっていない。まだ間に合う。間に合わせなきゃいけない。
立ち上がった。膝がまだ震えている。レンが顔を上げた。カケルが壁から額を離した。三人で顔を見合わせた。ひどい顔だ。三人とも。泣いた後の、赤い目と腫れた頬。でも、目は生きている。
「面会は明日以降になります。今夜はお帰りください」
看護師が穏やかに言った。帰る。帰らなきゃいけない。ルカは病院にいる。わたしたちは病院の外に出る。
病院を出た。
十一月の朝。空が白み始めている。夜明け。東の空が紫色から薄いオレンジに変わっていく。歌舞伎町で見る朝と同じ色の変化。でも今はビルの隙間じゃない。病院の駐車場から見える、広い空。
空気が冷たい。手を吐く息で温める。ルカの手の冷たさが、まだ指先に残っている。
レンが「おれ、帰るわ」と言った。声がかすれている。一晩中泣いた声。カケルが「おれも」と短く言った。三人は散っていく。それぞれの方向に。レンは別の駅へ。カケルはネカフェへ。わたしは埼玉行きの電車へ。
ポケットに手を入れた。
指が触れた。紙の感触。白い名刺。持ってきていた。テーブルの上に出しただけじゃなく、今夜ポケットに戻して持ってきていた。無意識だったのか。それとも、どこかで「今夜使うかもしれない」と思っていたのか。
NPO法人 灯台 白石遥。
もっと早く。
この番号に電話していたら。もっと早く、助けを求めていたら。ルカを「灯台」に繋いでいたら。白石さんに鶴見のことだけじゃなく、ルカの状態を伝えていたら。
「かもしれない」が頭の中を回る。もっと早く。もっと早く。もっと早く。巻き戻せない時間の中で、「もっと早く」だけが反響している。
電車のホームに立った。始発を待つ。空がだんだん明るくなっていく。埼玉行きの電車が来る。乗り込む。窓際の席。窓の外は朝。新宿の街が動き始めている。ゴミ収集車のエンジン音。出勤する人の足取り。
世界は動いている。ルカが倒れた夜の後でも、世界は普通に朝を迎える。コンビニは開いている。電車は走っている。信号は変わっている。ルカが路地裏で冷たくなっていた間も、世界は一秒も止まらなかった。
メモ帳を開いた。何か書こうとした。指が動かなかった。言葉が出てこない。頭の中は空っぽだった。いつもはルカのこと、歌舞伎町のこと、自分のことを言葉にできたのに。今夜だけは、何も書けない。言葉が追いつかない。ルカが倒れている映像が、メモ帳の白い画面の上に重なって、文字が打てない。
メモ帳を閉じた。スマホを膝の上に置いた。窓の外を見た。
郊外の住宅街が流れていく。朝日が差し込んできた。黄色い光。温かい光。でも今のわたしには届かない。身体の中が冷えている。ルカの手の冷たさが、わたしの中にまで染み込んでいる。
家に着いた。玄関を開ける。リビングの灯りは消えている。母はまだ寝ている。テーブルの上にラップのおにぎり。いつもどおり。何も変わらない朝の家。わたしだけが変わっている。
自室に入る。ベッドに座る。天井を見る。罅は三本。
ポケットから名刺を出した。白い紙。黒い文字。白石遥。電話番号。
今度こそ。
今度こそ、この番号に電話する。ルカが退院する前に。ルカがまたあの路地裏に戻る前に。わたしたちだけでは守れないことが、今夜わかった。子どもだけのファミリーでは、壊れることを止められなかった。
大人が必要だ。三種類目の大人が。押さないで、引かないで、「ここにいるよ」と言ってくれる大人が。
名刺を握った。強く。角が掌に食い込む。痛い。でもこの痛みは、ルカの冷たい手の感触より、ずっとましだ。
わたしは、まだこの名刺の番号に電話していなかった。もっと早く、電話していたら。もっと早く、助けを求めていたら——ルカは、あの路地裏に倒れなくて済んだかもしれない。
「かもしれない」は、もう終わりにする。
次は「する」にする。




