第23話 : 雨の日の約束
第23話 : 雨の日の約束
傘が役に立たない夜だった。
風が横から吹いている。雨粒が斜めに飛んでくる。傘を差しても肩から下はずぶ濡れ。ビニール傘の骨が一本折れた。コンビニで五百円出して買ったばかりなのに。十月の終わり。台風が関東に近づいていて、歌舞伎町の路上には人が少ない。
靖国通りを渡るとき、風で傘が裏返った。直そうとして諦めた。折れた傘を持って走る。水たまりを踏む。スニーカーの中に水が入る。靴下がぐしゃっとなる感触。冷たい。十月の雨は、六月の雨と温度が違う。六月は生ぬるかった。十月は刺すように冷たい。
ローソンの前に誰もいない。当たり前だ。こんな嵐の夜に、地面に座っている人間はいない。スマホを見る。ルカからのLINE。「ネカフェにいる。区役所通りのとこ」。時刻は二十一時過ぎ。
走った。区役所通りまで五分。途中で傘を完全に諦めて、ゴミ箱に突っ込んだ。もう全身濡れている。傘の有無は関係ない。
ネカフェの自動ドアをくぐると、温かい空気が身体を包んだ。暖房が効いている。受付の蛍光灯が眩しい。髪から水が滴っている。パーカーが身体に貼りついている。靴の中で水がじゅくじゅく鳴っている。
受付で部屋番号を聞いて、奥に進んだ。ペアシートのブース。カーテンを開けると、ルカとレンが向かい合って座っていた。隣のブースにカケルがいるらしい。壁の向こうから、小さな音楽が漏れ聞こえている。
「なぎ、びしょ濡れじゃん」
ルカが顔をしかめた。
「傘折れた」
「しょうがないな。ほら」
ルカがリュックからタオルを出した。薄いフェイスタオル。何度も洗って柔らかくなっている。ルカの持ち物の中で、いちばん清潔なもの。わたしは髪を拭いた。タオルからルカの匂いがした。ネカフェのシャンプーと、かすかに甘い匂い。
「着替えは?」
「持ってない」
「マジで? 風邪ひくよ」
レンがブースの棚から何かを引っ張り出した。ネカフェの備え付けのブランケット。グレーの薄い毛布。「これ被っとけ」と渡してくれた。わたしはパーカーを脱いでブランケットに包まった。Tシャツも湿っているけど、毛布の中はましだ。
カケルが壁を叩いた。コンコン。「入っていい?」という意味。ルカが「おいで」と返すと、カケルがカーテンの隙間から顔を出して、わたしたちのブースに入ってきた。イヤホンは片耳。もう片方の耳から、さっき壁越しに聞こえていた曲が漏れている。
四人で、ペアシート二つ分のスペースに収まった。狭い。膝と膝がぶつかる。ルカとわたしが向かい合って、レンとカケルが横に並んでいる。テーブルの上にルカのミルクティーとレンのコーラと、コンビニのおにぎりの袋。
「今夜ここから出らんないね」
レンが窓のないブースの壁を見ながら言った。外の音はほとんど聞こえない。たまに、遠くで風がビルの角を叩く低い音が響く。
「台風、何時に抜けるんだっけ」
「明日の朝には弱まるって。でも電車止まってるから、どのみち朝まで無理」
ルカがスマホで運行情報を確認している。画面に赤い文字が並んでいる。運転見合わせ。JRも私鉄もメトロも。歌舞伎町に閉じ込められた金曜の夜。
普段なら、わたしたちは歌舞伎町を歩き回っている。コンビニからコンビニへ。路地裏からビルの間へ。移動しながら夜を過ごす。でも今夜は動けない。外は嵐。ネカフェの狭いブースに四人が押し込められている。
不思議なことに、窮屈じゃなかった。むしろ安心する。壁があって、天井があって、暖房がある。雨に濡れない。風に吹かれない。歌舞伎町で夜を過ごすとき、こんなに守られた空間にいることは少ない。
おにぎりを開けた。昆布。冷たいけど、昆布の甘じょっぱさはいつもどおり。隣でレンがツナマヨを食べている。カケルは鮭。ルカはおにぎりを食べずに、ミルクティーだけ飲んでいる。
「ルカ姉、食べないの」
「食欲ない」
ルカの声が平たかった。最近、ルカの食欲が落ちている。先週の鶴見との対決の後から。あの夜、ルカは帰り際にわたしの手を強く握った。「あいつ、絶対また来るよ」と呟いた。その声には、怒りよりも疲労が滲んでいた。
鶴見のことは今夜は話さない。あの話題が出ると、空気が硬くなる。今夜は嵐の夜で、四人で狭い場所にいて、外には出られない。だったらせめて、この箱の中だけは穏やかでいたい。
レンがスマホでTikTokを開いて、面白い動画を流し始めた。犬が段ボールに突っ込んで抜けなくなっている動画。レンが笑う。カケルが口の端を持ち上げる。ルカが「犬は段ボール好きだよね」と言う。猫の話じゃないのか、とわたしが思ったら、ルカが「でも猫のほうが似合う」と付け足した。
しばらく動画を回した。猫の動画、料理の動画、メイクの動画。レンが「おれっちこのアイシャドウ持ってる」とか「この塗り方マジで盛れる」とか、いちいちコメントを挟む。平和な時間。雨の音も風の音も聞こえない。ネカフェの人工的な静けさの中で、四人のスマホの画面だけが光っている。
動画が途切れたとき、レンが急に言った。
「おれたち、いつまでここにいるんだろうね」
声のトーンが変わっていた。動画を見ていたときの軽さが消えて、レンの声に芯が通っている。「マジで」が語尾で上がるときのレンじゃない。下がるときのレン。本気のレン。
「ここって、ネカフェ? 歌舞伎町?」
ルカが聞いた。
「両方。というか……こういう生活」
沈黙が落ちた。カケルがイヤホンを外した。両耳とも。カケルが両耳を外すのは、本気で聞いているときだけだ。
こういう生活。金曜の夜に歌舞伎町に来て、コンビニのおにぎりを食べて、ネカフェで寝て、始発で帰る。四ヶ月間、毎週繰り返してきた。楽しかった。ここにいるときだけ息ができた。でもレンは今、「いつまで」と聞いている。終わりがあることを、レンは知っている。
「おれ、通信制の単位、まじめに取ろうかなって最近思ってる」
レンがコーラの缶を指で弾いた。カンカンと軽い音がした。
「レン、学校行ってるの?」
「行ってるっていうか……一応登録はしてるんだよ。通信制の。でもレポート全然出してなくて。スクーリングもサボりがちで。このままだと除籍される」
知らなかった。レンが通信制に在籍していることは知っていたけど、具体的な状況は聞いていなかった。聞かなかった。ここでは「そっか」で済むから。でも「そっか」で済ませ続けた結果、レンの学校のことを何も知らないまま四ヶ月が過ぎた。
「行かなきゃいけないのは知ってる。でもここが楽しくて、つい」
「楽しいのはいい。でも楽しいだけじゃ、ずっとは無理」
ルカの声だった。ルカが壁にもたれて、天井を見ながら言った。天井は低い。手を伸ばせば届きそう。自室の天井の罅を数えるわたしと似た構図だけど、ルカの目は罅を探していない。何か別のものを見ている。
「ルカ姉は?」
カケルが聞いた。カケルが自分から質問するのは珍しい。レンの話の流れで、カケルの中でも何かが動いたのかもしれない。
ルカが黙った。五秒。十秒。ミルクティーの缶を傾けて、最後の一口を飲み干した。空の缶をテーブルに置く。コトン、という小さな音。
「わたしはもう19だから。キッズじゃない。大人の端っこ」
ルカの声が低い。いつもの姉御肌のトーンじゃない。もっと静かで、もっと脆い声。
「でも大人のやり方がわからない。履歴書に書けることがない。住所もない。住民票は実家に置いてあるけど、取りに行ったら父親に会う。それは無理。仕事探すにも、住所がないと応募できない。電話番号はあるけど、身分証がない。保険証は期限切れ。マイナンバーカードなんか作ってない」
ルカが指折り数えるように、自分に「ないもの」を並べていく。住所。身分証。学歴。職歴。保証人。全部ない。19歳で、手の中に何も持っていない。
「わたしは——」
言葉が途切れた。ルカの唇が動いたけど、音にならなかった。もう一度。
「わたしは、どこに行けばいいんだろうね」
ルカが笑った。笑い方が下手だった。目が笑っていない。口元だけが形を作っている。この笑い方を、わたしは知っている。自分がやってきたから。泣けないとき、笑顔で塞ぐ。中学で透明になったときの、あの笑い方と同じだ。
レンが何か言おうとして、口を開けて、閉じた。言葉が見つからないのだと思う。わたしもだ。ルカの「どこに行けばいいんだろうね」に、答えを持っている人間がこの部屋にいない。
カケルが膝を抱えた。イヤホンのコードが床に垂れている。カケルの家は裕福だ。帰ろうと思えば帰れる。でもカケルはここにいる。「おはよう」がない家に帰るより、ここにいることを選んでいる。カケルの「ないもの」は、ルカの「ないもの」とは種類が違う。でも「ない」ということは同じだ。
沈黙が広がった。ネカフェのブースの中の、人工的な静けさ。空調の音だけが低く響いている。
わたしは口を開いた。自分でも何を言うかわからないまま、言葉が先に出た。
「ずっと一緒にいよう」
三人がわたしを見た。ルカが。レンが。カケルが。
自分で自分に驚いていた。こんな台詞が出てくる。歌舞伎町のネカフェで、嵐の夜に、おにぎりの袋に囲まれて。でも言葉は取り消せない。取り消す気もない。
「場所は変わっても、バラバラになっても、わたしたちは "ファミリー" でしょ。ルカ姉が言ったじゃん」
ルカが目を見開いた。七月のファミレスの夜。ルカが「うちら、もう "ファミリー" でしょ」と言った夜。ルールを作った夜。「困ったら言う。見捨てない。ヤバいときだけは嘘つかない」。あの夜から三ヶ月。わたしたちはルールを守れたり、破ったりしながら、ここまで来た。
「なぎ……」
ルカの声がかすれた。泣きそうな顔で笑っている。さっきの下手な笑い方とは違う。ぐしゃっと崩れた、本物の笑い方。
「おー、なぎがいいこと言った」
レンが軽く言った。でも声がかすれていた。鼻の奥が赤い。泣くのを我慢している顔。レンは人前で泣かない。泣く代わりに笑う。それはルカと同じで、わたしと同じで、たぶんカケルも同じだ。
カケルは何も言わなかった。でもイヤホンを両耳ともつけなかった。それがカケルの「うん」だった。
「ずっと」なんて約束、守れるかわからなかった。来月には何が起きるかわからない。ルカの「どこに行けばいい」に答えは出ていない。レンの通信制の単位も、カケルの家の沈黙も、わたしの不登校も、何ひとつ解決していない。
でも、嵐の夜に、この四人でいることが、わたしにとってのすべてだった。
コンビニのおにぎりとネカフェのブランケットで成り立っている時間。住所もない、名前もない、何もない場所で交わした約束。「ずっと一緒にいよう」。子どもみたいな台詞。でも、子どもだから言えた台詞かもしれない。大人になったら、こんなこと言えなくなる。
ルカがわたしの手を握った。冷たい指。骨が浮いている。爪が短い。噛む癖。わたしはルカの手を握り返した。ルカの手は、先月の非常階段の夜と同じ温度だった。冷たくて、小さくて、震えていない。震えないようにしている。
「ファミリーのルール、追加ね」
ルカが言った。
「何?」
「"離れても、繋がってる"。これ、追加」
レンが「採用」と言った。カケルが小さく頷いた。わたしは「採用」と返した。
ルールが四つになった。困ったら言う。見捨てない。ヤバいときだけは嘘つかない。離れても、繋がってる。
四つ目のルールが必要になる日が来ることを、このときのわたしは知らなかった。知っていたのかもしれない。ルカの冷たい手の中に、その予感があったのかもしれない。でも今夜は、知らないふりをした。
深夜二時を過ぎた。
レンが先に寝た。ブランケットを被って、壁にもたれて、口を半開きにして寝息を立てている。レンの寝顔はメイクが少し崩れていて、17歳の男の子の顔に戻っている。起きているときの「おれっち」の軽さが消えて、眠っているレンは、ただの疲れた子どもだった。
カケルは隣のブースに戻って、イヤホンをして作業を始めた。曲を作っているのだろう。カーテンの隙間から、スマホの画面の青い光が漏れている。カケルは眠らないのかもしれない。音楽を作っている時間が、カケルにとっての睡眠みたいなものだ。
ルカとわたしが、向かい合って座っていた。テーブルの上に空き缶と、おにぎりの包みと、わたしの濡れたパーカー。ルカはミルクティーの二本目を開けている。甘い匂い。
「なぎ」
「うん」
「さっきの、ありがと」
「何が」
「"ずっと一緒にいよう" って。あれ、嬉しかった」
ルカの声が小さかった。ルカが「嬉しかった」と言うのを、わたしは初めて聞いた。ルカは感謝を口にする人だけど、自分の感情を形容詞で言うことは少ない。嬉しい、悲しい、寂しい。そういう言葉を使わない人。使えない人。使うと壊れると思っている人。
「嬉しかったけど、守れるかわかんない。"ずっと" って」
「うん。わかんない」
「わかんないのに言ったの?」
「わかんないから言った。わかってたら、約束しなくていいじゃん」
自分で言って、少し驚いた。いつからこんなことが言えるようになったんだろう。三ヶ月前のわたしなら「わかんない」で止まっていた。今は「わかんないから」の先に進める。断定じゃないけど、方向がある。
ルカが笑った。今度は本物の笑い方。目が細くなって、八重歯が見える。19歳の女の子の顔。姉御肌の仮面が外れた、ルカの素顔。
「あんた、変わったね」
「そう?」
「うん。最初に来たときは、おにぎり食べるのも遠慮してたじゃん。"いいんですか" って。敬語で」
「覚えてるの、それ」
「覚えてるよ。全部」
ルカはわたしのことを「全部覚えている」と言った。わたしの好きなおにぎりが昆布だということも。笑うとき少し遅れて笑うことも。メモ帳に何かを書いていることも。先月の非常階段の夜に、ルカはわたしの好みを全部把握していた。逆もそうだ。わたしはルカの好きなミルクティーのブランドを知っている。ルカが爪を噛む癖があることを知っている。ルカが猫を見ると歩みを止めることを知っている。
知っている、ということの重さ。誰かの細部を記憶しているということは、その人の人生に自分の時間を使ったということだ。わたしとルカは、四ヶ月分の時間を互いに使った。その時間は、天井の罅みたいに消えない。
「ね、なぎ」
「うん」
「わたし、最近ちょっと疲れてる」
ルカの声が、さらに小さくなった。囁くような声。レンを起こさないように。カケルに聞かれないように。わたしにだけ向けた声。
「鶴見のこともあるし、ミキのこともユナのこともあるし。みんなのこと守らなきゃって思うのに、自分のことがどんどんわかんなくなる」
「ルカ姉」
「先週さ、鶴見に "離れろ" って言ったじゃん。あのとき、手が震えてたの気づいた?」
「気づいてた」
「怖かったんだよ。怒ってたんじゃなくて、怖かった。あいつの目が冷たかったから。あの目、昔見たことある。父親と同じ目」
ルカの声が消えかけた。最後の一語が、息と一緒に出ていった。父親。ルカの過去。七月に断片的に聞いた話。暴力を振るう父親。見て見ぬふりの母親。家出。保護所。シェルター。逃走。そしてここ。
鶴見の目が、ルカの父親の目と同じだった。支配する人間の目。優しさの仮面の下にある、冷たい計算の目。ルカはそれを見抜いた。見抜けたのは、知っていたから。身体で覚えていたから。
「疲れたなら休んでいいよ」
わたしが言った。
「休む場所がない」
「今夜はここがある」
ルカがわたしを見た。目が潤んでいた。泣かない。ルカは泣かない。でも目の表面に薄い膜が張っていて、ネカフェの蛍光灯の光が反射して、きらきら光っていた。
「……うん」
ルカが目を閉じた。壁にもたれて、腕を組んで、首を少し傾けた。三十秒くらいで、呼吸が深くなった。眠りに落ちた。早い。どれだけ疲れていたんだろう。
ルカの寝顔を見ていた。メイクが薄い夜だった。ファンデーションの下に、クマが見える。頬がこけている。先月より痩せた。ルカは「食欲ない」と言っていた。食べていないのだろう。三食がネカフェのカップ麺とコンビニのパンでは、栄養が足りない。19歳の身体は、まだ成長しているはずなのに。
この人を失いたくない。
強く、はっきり、そう思った。
ルカが倒れたらどうなる。ルカがいなくなったらどうなる。考えたくないけど、頭の隅で警報が鳴っている。ルカの食欲不振。疲労。腕の傷痕。「わたしがいなくなったら」という仮の話。「どこに行けばいいんだろうね」という問い。全部がサインに見える。見えるのに、何をすればいいかわからない。
名刺のことを思い出した。テーブルの上に出した二枚の白い名刺。白石遥。ルカに「相談するのは……どう思う?」と聞いたとき、ルカは「かもね」と答えた。否定じゃなかった。でもまだ電話していない。わたしも、ルカも。
電話するべきなのかもしれない。今すぐじゃなくても、近いうちに。ルカが壊れる前に。ミキがもっと深いところに落ちる前に。ユナが鶴見に取り込まれる前に。わたしたちだけでは、もう回らなくなっている。四人の「ファミリー」で守れる範囲を、問題が超え始めている。
でも今夜は、ここにいる。四人で。嵐の中の小さな箱の中に。
外では雨がビルの壁を叩いている。かすかに聞こえる。ごうごうという風の音。ネカフェの壁越しに届く、遠い嵐の気配。
雨が小降りになったのは、午前四時過ぎだった。
窓のないブースでは外の天候がわからない。受付の横のガラスドア越しに、通りの様子が見えた。路面が光っている。歌舞伎町のネオンが、濡れた路面に反射して、赤と青とピンクの水溜まりが街じゅうに広がっていた。
雨上がりの歌舞伎町。空気が洗われている。いつもの焼き鳥と排水溝の匂いが薄くなって、代わりに湿ったアスファルトの匂いが立ち上っている。冷たい空気。十月の夜明け前。
ルカはまだ眠っている。レンも。カケルは隣のブースで、おそらく起きている。青い光がまだ漏れている。わたしだけが起きて、ネカフェのガラスドア越しに、雨上がりの歌舞伎町を見ていた。
ネオンが路面に溶けている。赤い水溜まりの中に青い光が混ざって、紫になっている。街全体が光の水の中に沈んでいるように見える。きれいだと思った。歌舞伎町を「きれい」と思ったのは、初めてかもしれない。いつもは匂いが先に来る街が、今夜は光から始まっている。
わたしたちの約束は、雨の夜に交わされた。ネカフェの狭いブースで、おにぎりの袋に囲まれて、ブランケットに包まれて。「ずっと一緒にいよう」「離れても、繋がってる」。子どもの約束。
雨はいつか止む。台風は通り過ぎる。明日の朝には電車が動く。わたしたちはまた散っていく。カケルはネカフェへ。レンは別の駅へ。ルカは歌舞伎町のどこかへ。わたしは埼玉へ。
約束も、いつか——。
その先を考えたくなかった。考えてしまう自分がいた。ルカの冷たい手。痩せた頬。「疲れてる」という小さな声。「どこに行けばいいんだろうね」。全部が、何かの予兆に聞こえる。聞こえてしまう。
ルカが寝返りを打った。ブランケットが肩からずれる。わたしはそっと直した。ルカの肩は細い。骨が浮いている。腕を見る。長袖の裾から、手首が見えている。傷痕。古い傷と、もう少し新しい傷。ルカは隠しているつもりだろう。でもわたしは知っている。
この人を失いたくない。
同じ言葉が、二度目、胸の中で鳴った。一度目より強く。一度目より切実に。
ルカの寝顔を見ながら、わたしはメモ帳を開こうとして、やめた。今夜は書かない。書くと距離ができる。観察者になってしまう。今夜は観察者じゃなくて、ここにいる人でいたい。ルカの隣で、同じ空気を吸っている人でいたい。
メモ帳を閉じた。スマホを裏返しにして、目を閉じた。
ルカの呼吸の音が聞こえる。レンの寝息が聞こえる。カケルのブースから、かすかな電子音が聞こえる。三つの音が重なって、小さな音楽になっている。歌舞伎町のネカフェの中の、わたしたちだけの音楽。
嵐は過ぎた。でも、次の嵐が来ることを、わたしの身体はもう知っていた。




