第22話 : 鶴見の正体
第22話 : 鶴見の正体
鶴見恭平のSNSを、わたしは電車の中で見ていた。
金曜の夕方。埼玉から新宿に向かう車内。いつもの窓際の席。スマホの画面に鶴見のアカウントが開いている。先週、路地裏でミキと一緒にいるのを見てから、ずっと気になっていた。
プロフィール。映像クリエイター。フォロワー一万二千。先月より増えている。アイコンはモノクロの歌舞伎町の写真。自分の顔は出していない。投稿は週に三、四回。夜の歌舞伎町の風景写真、路上生活の若者に関する短い文章、支援団体への寄付の呼びかけ。コメント欄には「応援しています」「この人のおかげで現実を知りました」「もっと広まってほしい」。善意の海。
表面上は何もおかしくない。善意の大人が若者のために活動している。それだけに見える。
でもわたしは知っている。先週の路地裏を。ミキの肩に置かれた手を。「ミキちゃんなら絶対いけるよ」という声を。あの距離感は、「取材者」と「取材対象」のものじゃない。もっと近い。もっと個人的な距離。
投稿を遡る。七月。鶴見が初めてわたしたちの前に現れた頃の投稿。「今夜も歌舞伎町。たくさんの若者に出会った。彼らの声を、一人でも多くの人に届けたい」。八月。「とある少女と話した。学校にも家にも居場所がないと言っていた。彼女の言葉は、誰にも聞かれないまま消えていく。それを拾い上げるのが、僕の仕事だ」
「とある少女」。誰のことだろう。ミキか。ユナか。それとも、わたしか。鶴見はわたしたちの言葉を「拾い上げる」と書いている。まるで捨てられたものを拾うように。まるで善意の行為のように。
応援するって何だろう。この人は、何を撮っているんだろう。
電車が新宿に着いた。スマホを閉じて、改札を出る。歌舞伎町に向かう。十月の夜。先週より少し寒い。パーカーのジッパーを上まで上げた。首元が冷える季節になった。焼き鳥の匂いが、夏より薄い。空気が乾いて、匂いの密度が変わっている。
ローソンの前。今夜はルカ、レン、カケルの三人に加えて、ユナがいた。
ユナ。14歳。中学二年生。ミキよりさらに年下で、グループの中でいちばん小さい。髪を二つに分けて結んでいる。目が大きくて、笑うと八重歯が見える。地雷系メイクだけど、どこか幼さが残っている。声が高い。よく笑う。ルカに懐いていて、「ルカ姉ー」と甘えた声で呼ぶ。
ルカはユナに対して、わたしたちに向けるのとは少し違う態度を取る。もっと柔らかくて、もっと注意深い。ユナが遅い時間に一人でいると「帰りな」と送り出す。知らない大人に話しかけられていると、すぐに間に入る。ルカにとってユナは「守る対象」だ。14歳。まだ中学生。ルカの基準では、この街にいるべき年齢じゃない。
でもユナには帰る場所がない。ミキと同じだ。家庭の事情がある。詳しくは知らない。聞かない。「そっか」で済む場所に、ユナもいる。
「なぎー、おそーい」
ユナが手を振った。わたしは「ごめんね」と答えて、ルカの隣に座った。コンクリートが冷たい。もう十月だ。
レンがわたしの横に来た。小声で聞く。
「先週のLINE、その後どうした?」
鶴見のこと。レンに「たぶん鶴見」と送ったあの夜のこと。
「何もしてない。ルカ姉にもまだ言ってない」
「なぎ」
レンの声が少し厳しくなった。
「"もう少し見る" って先週言ったでしょ。もう一週間経ったよ」
わかっている。先送りにしている自覚はある。言わなきゃいけない。ルカに。鶴見がミキに接触していることを。でも言ったらどうなるか。ルカが暴走する。鶴見と正面衝突する。ミキが巻き込まれる。そのシミュレーションが頭の中で回って、指が止まる。
「今夜中に言う。約束する」
レンが「絶対だよ」と念を押した。
二十三時半。ユナが「トイレ行ってくる」と立ち上がった。コンビニに向かう。一人で。
五分後、ユナが戻ってこなかった。
先週のミキと同じだ。胸がざわつく。立ち上がろうとしたとき、レンがわたしの腕を掴んだ。
「おれが見てくる」
「一人で?」
「なぎは残って。ルカ姉にバレたら大事になるから」
レンが走っていった。ルカはカケルと話していて気づいていない。わたしはルカの横に座ったまま、レンの背中を見送った。
三分後、レンが戻ってきた。顔色が変わっている。わたしの横に座って、耳元で言った。
「鶴見がいた。ユナと一緒に。コンビニの裏。スマホ見せながら何か話してた」
やっぱり。
先週はミキ。今週はユナ。パターンが見える。鶴見は金曜の夜に、グループの子が一人になるタイミングを狙っている。トイレに立つ。コンビニに行く。ちょっとした隙間。その隙間に入り込む。偶然を装って。「あ、ユナちゃん。こんばんは」。自然に。穏やかに。
「なぎ、もう限界だよ。ルカ姉に言おう」
レンの声に迷いがなかった。先週の「もう少し見る」を、レンはもう許さない。わたしも許せない。一週間、先送りにした。その間に鶴見はユナに近づいた。14歳の女の子に。わたしが先週言っていたら、今夜は防げたかもしれない。
「言う」
立ち上がった。ルカのところに行く。
「ルカ姉、話がある」
ルカがわたしを見上げた。缶ジュースを持つ手が止まる。わたしの声のトーンで、何か重いことだとわかったのだろう。ルカの目が細くなった。
「何」
「場所変えたい」
二人でローソンの角に移動した。カケルとレンとユナが残る。ユナはいつの間にか戻ってきていて、何事もなかったようにレンの横でスマホを見ている。
角を曲がったところで、わたしは話し始めた。全部。先週の金曜にミキと鶴見が路地裏にいたこと。鶴見がミキの肩に手を置いていたこと。スマホを覗き込んで笑っていたこと。そして今夜、レンがユナと鶴見を目撃したこと。
ルカの顔が変わっていくのが見えた。最初は疑い。次に理解。そして怒り。
「先週見てたのに、なんで言わなかったの」
ルカの声は低かった。怒っている。わたしに対してじゃない。いや、わたしに対しても。
「言ったらルカ姉が鶴見に突っかかると思って。鶴見は口がうまいから、ルカ姉のほうが悪者にされるって」
「だからって黙ってたの?」
「ごめん」
ルカが息を吐いた。長い息。怒りを飲み込むための呼吸。
「なぎ、あんたの判断はわかる。わかるけど、ミキのことは先週言ってほしかった。一週間あったら、鶴見はユナにまで手を伸ばす。わかるでしょ」
わかる。わかっていた。わたしの「先送り」が、ユナを危険にさらした。母さんがわたしの不登校を先送りにしたのと同じだ。問題を直視するのが怖くて、時間を稼いで、その間に状況が悪化する。わたしは母さんを責めていた。同じことをしていたのに。
「今から行く」
ルカが踵を返した。
「どこに?」
「鶴見のところ」
「待って、ルカ姉——」
「待たない。ユナは14だよ。14」
ルカの声が震えていた。怒りだけじゃない。恐怖もある。14歳の女の子に大人の男が近づいている。ルカはその意味を、わたしよりずっとよく知っている。「わたしも昔、似たようなこと」と途切れた先週の言葉が、今夜、ルカの背中から聞こえた。
ルカが歩き出した。わたしもついていく。止められない。止めるべきじゃないのかもしれない。
歌舞伎町のメインストリートに出た。ネオンが眩しい。客引きの声。酔っぱらいの群れ。その中を、ルカが真っ直ぐ歩いていく。わたしは半歩後ろ。心臓がうるさい。
鶴見を探す。いるはずだ。金曜の夜の歌舞伎町。ユナとの接触を終えた後、まだこの辺にいる可能性が高い。ルカの目がネオンの光の中を走査している。獲物を探す目。ルカの目にあんな鋭さがあることを、わたしは初めて知った。
見つけた。
歌舞伎町タワーの手前。街灯の下。鶴見が一人でスマホを見ていた。カメラは持っていない。ジャケット姿。穏やかな立ち姿。通りすがりの人には、ただのサラリーマンに見えるだろう。
ルカが鶴見の前に立った。
「ユナに近づくな」
前置きなし。挨拶なし。ルカの第一声がそれだった。
鶴見が顔を上げた。一瞬、表情が固まった。予想していなかったのだろう。すぐに笑顔が戻る。いつもの、穏やかな笑顔。
「やあ、ルカちゃん。久しぶり。元気にしてた?」
「質問に答えて。ユナに何してた」
「何って。さっきコンビニの前で会ったから、ちょっと話してただけだよ。ユナちゃんがインスタのフォロワー増やしたいって言うから、コツを教えてあげてた」
インスタのコツ。先週のミキも同じだった。スマホの画面を見せて、何かを教えている。同じ手口。同じ入り口。「教えてあげる」。「力になれる」。相手が求めているものを差し出して、距離を縮める。
「14歳の子に夜中に一人で話しかけるの、おかしいと思わないの」
ルカの声は冷静だった。怒鳴っていない。でも刃物みたいに鋭い。一語一語が、鶴見の笑顔の表面を削っている。
鶴見が両手を上げた。降参のポーズ。演技だ。
「誤解だよ。僕は彼女たちのためを思って——」
「ためを思うなら、まず離れて」
ルカが一歩前に出た。鶴見との距離が縮まる。鶴見が半歩引いた。ルカのほうが背が低い。でも圧は逆だ。ルカの全身から出ている「これ以上は許さない」という空気が、鶴見の穏やかさを押し返している。
笑顔が消えた。
一瞬だった。瞬きするくらいの時間。鶴見の口角が落ちて、目から温度が消えた。穏やかな眼差しが、冷たい観察に変わった。わたしを、ルカを、値踏みするような目。街灯の光の下で、その目がネオンの色を映して光った。
そしてすぐに笑顔が戻った。何事もなかったかのように。
「わかった。ごめんね。不安にさせちゃったなら申し訳ない」
丁寧な声。謝罪の言葉。でもわたしは見た。あの一瞬を。笑顔が消えた瞬間の、鶴見の本当の顔を。あの目は「ためを思っている」人の目じゃない。計算している人の目だ。状況を測っている目。「この子たちにはもう通じない」と判断した目。
鶴見が会釈して、背を向けた。歩いていく。歌舞伎町の人混みに溶けていく。ジャケットの背中が、ネオンの光に染まって、赤くなって、青くなって、消えた。
ルカが長い息を吐いた。肩から力が抜ける。
「ルカ姉」
「大丈夫。手、出してないし」
ルカの手が震えていた。拳を握りしめて、爪が掌に食い込んでいる。怒りで震えているのか、恐怖で震えているのか。たぶん両方。
「あいつ、やっぱりヤバいよ」
「うん」
「笑顔が消えた瞬間、見た? あの目。冷たかった。ほんの一瞬だけど」
「見た」
わたしとルカは同じものを見ていた。鶴見の仮面が外れた瞬間を。あの一瞬がすべてだった。どんなに丁寧な言葉を並べても、あの目は隠せない。鶴見の正体は、善意の下に隠した冷たい計算だ。
ローソンの前に戻った。レンとカケルとユナが待っている。レンが立ち上がった。
「どうだった?」
「言った。離れろって」
「で?」
「"わかった、ごめんね" だって。嘘だけどね」
ルカが吐き捨てるように言った。レンが唇を噛んだ。
カケルがイヤホンを両耳とも外した。珍しい。カケルがイヤホンを完全に外すのは、本気で聞いているときだけだ。
「……おれ、鶴見の名前、ネットで調べた」
四人がカケルを見た。ユナも。カケルは壁にもたれたまま、スマホの画面をこちらに向けた。
「SNSのアカウントは "鶴見恭平"。でも同じ顔写真で、別の名前のアカウントがあった。"亀田隆" ってやつ。二年前のアカウントで、今は消えてる。キャッシュに残ってた」
「別名?」
「たぶん。前に別の場所でも同じことしてた可能性ある。名前変えてる」
カケルの声は淡々としていた。感情を乗せない。事実だけを並べる。でもその事実が重い。鶴見は名前を変えている。名前を変える理由は一つだ。前の名前では活動できなくなったから。問題を起こしたから。
ルカが「やっぱりか」と呟いた。レンが「カケル、それいつ調べたの」。カケルが「先週。なぎとレンのLINE見て」。グループLINEでわたしとレンのやりとりを見て、カケルが独自に動いていた。黙って。カケルらしい。
「警察に言う?」
わたしがルカに聞いた。ルカは少し黙った。
「何を言うの。"カメラ持った男が夜中にうちらに話しかけてくる" って? 写真撮ったわけでもない。手を出されたわけでもない。法律に触れてるかもわからない」
「でも、ユナに個別で接触してる。14歳だよ」
「わかってる。わかってるけど——ここの子が警察に行けると思う? 補導されるよ。ユナだって、わたしだって。あんたは帰れるかもしれないけど、ここにいる子の大半は、警察に見つかったら終わりなの」
ルカの声が揺れた。制度の壁。わたしたちを守るはずの仕組みが、わたしたちの味方じゃないという現実。警察に行けば鶴見を止められるかもしれない。でも同時に、わたしたちも「保護」される。保護とは、家に帰されること。学校に通わされること。シェルターに入れられること。それが正しいのはわかっている。でも、「正しいこと」に耐えられない子たちが、ここにいる。
「じゃあどうすんの。このまま見てるだけ?」
レンの声が苛立っていた。
「見てるだけじゃない。さっき言った。離れろって」
「それで離れるような人じゃないでしょ。名前変えて活動してるような人だよ?」
沈黙が落ちた。四人とも黙った。ユナだけがわたしたちの会話の意味をわかっていなくて、スマホで猫の動画を見ていた。
正しいことをしたいのに、正しいやり方がわからない。大人に言えば解決するはずなのに、「言える大人」がいない。この街には大人が二種類しかいない。奪う大人と、見ないふりをする大人。
ポケットの中に、手を入れた。
指先に触れたのは、紙の感触だった。薄くて、柔らかくて、角が少し折れている。白い名刺。NPO法人 灯台 白石遥。
白石さんは、どっちだろう。奪う大人か、見ないふりをする大人か。わたしは九月に名刺を受け取った。二枚。拾った一枚と、手から受け取った一枚。あのとき白石さんは押さなかった。断られて、引いた。怒らなかった。「無理にとは言いません」と言って去った。
あの人は、三種類目の大人かもしれない。奪わない。見ないふりもしない。ただ「ここにいるよ」と伝えて、選択をこちらに委ねる大人。
でもまだ電話していない。名刺を二枚持ったまま、わたしは何もしていない。ミキのことも。ユナのことも。鶴見のことも。全部、自分たちだけで抱えている。
「ルカ姉」
「何」
「白石さんに相談するのは……どう思う?」
ルカの目が動いた。わたしを見て、名刺を見て、また目を逸らした。
「あの人、信用できるかわかんない」
「わかんないけど、鶴見よりはましだと思う」
「……かもね」
ルカの「かもね」は、否定じゃなかった。即答の「いらない」でもなかった。揺れている。先週までのルカなら「信用しちゃダメ」で終わっていた。今夜、鶴見の冷たい目を見た後では、「大人を信じない」というルールが少し揺らいでいる。
敵を知ったから。味方を探す必要が出てきたから。
今夜はそれ以上話さなかった。ルカは考える時間が必要だ。わたしも。
始発の時間が近づいた。四人が散る。いつもの別れ。カケルが「じゃ」。レンが「またねー」。ルカが「気をつけて帰りな」。ユナが「ばいばーい」。ユナの声だけが無邪気だった。
帰りの電車。窓際の席。十月の夜明け。空はまだ暗い。車内の蛍光灯がぼんやり光っている。
メモ帳を開いた。
書く。
鶴見のことは書かない。ミキのことも書かない。代わりに、別のことを書いた。
「この街には大人が二種類いると思っていた。奪う大人と、見ないふりをする大人。でもたぶん、三種類目がいる。押さないで、引かないで、ただ "ここにいるよ" と言ってくれる大人。その人の名刺が、わたしのポケットの中にある。使うかどうかは、わたしが決める」
書いて、保存した。
電車が埼玉に入る。空が少しだけ明るくなっている。東の空に、薄い光の線が見える。夜明けの気配。
家に着いた。玄関を開ける。リビングは暗い。テーブルにおにぎり。ラップ。今夜も何も書かれていない。でもおにぎりはある。
自室。ベッド。天井。罅は三本。
ポケットから名刺を出した。二枚の白い名刺をテーブルに置いた。スマホの画面の光が名刺を照らしている。白い紙に、黒い文字。NPO法人 灯台 白石遥。電話番号。メールアドレス。
正しいことをしたいのに、正しいやり方がわからない。大人に言えば解決するはずなのに、「言える大人」がいるかどうかわからない。でも名刺はある。電話番号はある。使うかどうかは、わたしが決める。
名刺に手を伸ばした。持ち上げた。指で角を撫でた。一枚目は角が折れている。八月に拾ったもの。二枚目は角が立っている。九月に受け取ったもの。どちらも同じ名前。同じ番号。
まだ電話はしない。でも、名刺をテーブルの上に出した。引き出しにしまうのではなく、見えるところに置いた。
それが今夜の、わたしの一歩だった。小さくて、誰にも見えない一歩。でも、ポケットの中から外に出したことに、意味があると思いたい。
目を閉じた。鶴見の笑顔が消えた瞬間が、まぶたの裏にこびりついている。あの冷たい目。あの一瞬の本性。わたしは見た。忘れない。忘れてはいけない。
十月の夜が、少しずつ深く、冷たくなっていく。




