第20話 : 夜の王国
第20話 : 夜の王国
金木犀の匂いがした。
歌舞伎町で金木犀。似合わない。焼き鳥と排水溝とタバコと香水の街で、金木犀。でも確かに匂った。ビルとビルの隙間から、どこかの植え込みから、甘くて小さな匂いが漂ってきた。九月の終わり。季節が変わっている。
空気が違う。先月まで肌にまとわりついていた湿気が消えて、夜風に芯がある。腕が少し冷たい。半袖のTシャツでは心もとない。来週からは上着がいるかもしれない。歌舞伎町に通い始めて四ヶ月。二つ目の季節に入ろうとしている。
ローソンの前。ルカがわたしを見て、にやっと笑った。
「なぎ、今夜は特別な夜にするよ」
「特別って何」
「まあ、ついてきな」
ルカの「ついてきな」には逆らえない。レンが「え、何なに、なんかあんの?」と食いつく。カケルはイヤホンを片耳外して、無言でルカのほうを見ている。
母さんのSNSを見てから一週間が経っていた。あの投稿はまだ消えていない。「あの子は悪い子ではありません」という母さんの返信は、わたしのメモ帳にスクリーンショットとして保存されたまま。未読のLINEは四十三件に増えた。電話には出ていない。
でも今夜は、それを考えない。今夜はここにいる。四人でいる。母さんのことは、電車で一時間先に置いてきた。
ルカが歩き出した。三人がついていく。歌舞伎町の夜を、四人で歩く。
最初に行ったのはネカフェだった。シャワーを浴びる。四人それぞれのブースに入って、十五分。出てきたときには全員さっぱりしている。レンが髪を乾かしながら「おれっち、シャワー後の自分がいちばん好き」と言う。カケルが「おれは風呂より飯」と珍しく意思表示をした。
次にドン・キホーテ。夜のドンキは相変わらず明るくて騒がしい。蛍光灯の白い光が目に刺さる。四人でカゴを一つ持って、食料品コーナーを回った。
「カップ麺は絶対いるでしょ」
レンがカゴにカップヌードルを三つ投げ入れる。
「菓子パンも。チョコの」
ルカがメロンパンとチョコチップスナックを入れる。カケルが無言でポテトチップスを入れる。わたしはペットボトルのお茶と、昆布のおにぎりを四つ。
「なぎ、おにぎり四つって多くない?」
「一人一個。みんなの分」
「あんたいつも昆布でしょ。全員昆布って誰が決めた」
「昆布がいちばんおいしいよ」
ルカが笑った。レンが「なぎの昆布信仰マジでやばい」と言って、鮭のおにぎりを二つ追加した。カケルがツナマヨを一つ。結局、おにぎりが七つになった。カゴが重い。
会計をレンがやった。千二百円ちょっと。四人で割ると三百円。ネカフェのシャワー代のほうが高い。わたしたちの宴は、三百円で成り立つ。
ドンキを出て、歌舞伎町タワーの裏手に向かう。ルカが先導する。路地を抜けて、雑居ビルの間を通って。カケルと曲を聴いた屋上のビルとは違う場所。ルカが「こっち」と手招きして、非常階段の下に回り込んだ。
鉄の階段を上がる。二階の踊り場。コンクリートの壁に囲まれた、二畳ほどのスペース。手すりの向こうに歌舞伎町の路地が見える。上を見上げると、ビルの間に夜空が細く切り取られている。星は見えない。飛行機のライトが横切る。
「ここ」
ルカが買い物袋を床に置いた。
「いつ見つけたのこんな場所」
「三ヶ月くらい前。一人で散歩してるとき。ここ、誰も来ないんだよね。監視カメラもないし」
四人で踊り場に座った。コンクリートは冷たかった。九月の夜。夏の名残の熱は、もうこの階段には残っていない。ルカがドンキの袋からカップ麺を出す。
「お湯は?」
「コンビニで入れてきた」
ルカがリュックからステンレスの水筒を取り出した。いつの間に。計画的だ。カップ麺にお湯を注ぐ。湯気が立ち上る。狭い踊り場に、カップ麺の匂いが充満する。しょうゆ味。
三分待つ間に、菓子パンとポテチを開けた。レンがメロンパンを半分にちぎって、カケルに渡す。カケルが受け取って、無言で食べ始める。わたしは昆布のおにぎりを開けた。海苔のパリパリした音。昆布の甘じょっぱい匂い。
四人で、非常階段の踊り場で、カップ麺とおにぎりとメロンパンを食べている。レストランでもファミレスでもない。鉄の階段とコンクリートの壁に囲まれた、二畳の空間。風が吹くと壁の隙間からネオンの光が差し込んでくる。赤、青、ピンク。歌舞伎町の色。
「最高じゃん」
レンがカップ麺をすすりながら言った。
「何が」
「これ。この感じ。おれたちの秘密基地って感じ」
「秘密基地て。小学生か」
ルカがツッコむけど、笑っている。カケルがイヤホンを外して、スマホをスピーカーモードにした。自分の曲を流し始める。ピアノのサンプルと歌舞伎町の環境音が混ざった電子音楽。Track 07。あの屋上で聴いた曲。音量は小さい。近所迷惑にならないように。でも踊り場の反響で、音が壁に跳ね返って、不思議な広がりが出ている。
「カケル、それいい曲だよね。何回聴いても」
レンが言うと、カケルが少し照れた顔をした。照れると耳が赤くなる。暗くてもわかる。
「……まだ途中」
「途中でこれなら完成したらやばくない?」
「知らない」
カケルの「知らない」は「ありがとう」の変形だ。四ヶ月一緒にいて、それがわかるようになった。
カップ麺を食べ終えて、お茶を回し飲みした。ルカが「将来の話しよう」と言い出した。
「将来って、ルカ姉そんな柄じゃなくない?」
「うるさい。たまにはいいでしょ」
ルカが壁にもたれて、空を見上げた。ビルの間の細い空。雲はない。月が見えている。満月に近い形。
「もし何でもなれるとしたら、何になる?」
レンが即答した。
「メイクアップアーティスト」
「早い」
「だって決まってるもん。おれ、人の顔をきれいにする仕事がしたい。自分の顔もだけど、他の人のも。メイクってさ、変身じゃん。別の自分になれる。おれはそれを手伝いたい」
レンの目が輝いている。メイクの話をするときのレンは、カケルが音楽の話をするときと同じだ。別人になる。声のトーンが上がって、早口になって、目が開く。
「カケルは?」
「音楽。プロデューサーとか」
「プロデューサー。かっこいいじゃん」
「別にかっこよくない。曲作って、音をまとめる人。裏方」
「裏方が好きなの?」
「おれは表に出なくていい。音だけ出す」
カケルらしい答えだった。イヤホンの向こう側で音を紡いで、それを世界に送り出す。自分は出ない。音だけが出る。カケルの理想の存在の仕方。
「なぎは?」
ルカがわたしを見た。
「……わかんない。でも、書く人。書くことに関わる人」
自分で言って、驚いた。「わかんない」の後に、ちゃんと言葉が続いた。三ヶ月前のわたしなら「わかんない」で止まっていた。その先に進めなかった。今は「でも」がつく。「でも、書く人」。否定の後の肯定。断定じゃないけど、方向は見えている。
「いいじゃん。なぎは書く人だよ。メモ帳のやつ、マジですごいもん」
レンが親指を立てた。カケルが「……うん」と頷いた。二人がわたしの「書く」を肯定してくれている。レンは「すごい」と言い、カケルは「曲に合う」と言った。わたしのメモ帳の中にある言葉が、この二人の中にも入っている。
「ルカ姉は?」
「わたしね、猫カフェやりたい」
三人が同時にルカを見た。
「猫カフェ?」
「そ。猫がいっぱいいて、お客さんがお茶飲みながら猫撫でるやつ。わたし猫好きなの知ってるでしょ」
知ってる。ルカは歌舞伎町の野良猫を見つけるたびに立ち止まって、しゃがんで手を伸ばす。逃げられることが多いけど、たまに寄ってくる猫がいる。そのときのルカの顔は、姉御肌のルカとは全然違う。柔らかくて、幼い。
「猫は裏切らないからね。人間より信用できる」
ルカが笑った。冗談半分、本気半分の笑い方。ルカにとって猫カフェは「夢」であると同時に「逃避」でもある。人間に傷つけられた人が、人間じゃないものに救いを求めるのは、自然なことだ。
「じゃあおれがルカ姉の猫カフェのメイクする」
「猫にメイクすんの?」
「違うよ、スタッフのメイク。あとインスタ映えする内装のプロデュース」
「カケルが店のBGM作って」
「……考える」
「なぎはメニューの文章書いて」
「メニューの文章?」
「うちの猫カフェ、おにぎり出すから。昆布メインで」
四人で笑った。声を上げて。非常階段の壁に笑い声が反響して、上の階まで届いたかもしれない。誰もいないビルの非常階段で、四人が笑っている。カップ麺の空き容器とおにぎりの包み紙に囲まれて。
笑いが収まった後、おにぎりを分けた。
ルカがレジ袋の中から一つずつ取り出して、配る。
「はい、ツナマヨ担当のカケル」
カケルが受け取る。
「鮭はレン」
レンが「おっ、ありがと」と受け取る。
「なぎは昆布でしょ」
わたしの手に、昆布のおにぎりが乗った。ルカの手は冷たかった。九月の夜風のせいだ。
わたしの好きなものを知っている人がいる。昆布のおにぎりが好きだということ。甘い飲み物が好きだということ。メモ帳に何かを書いているということ。笑うとき、少し遅れて笑うこと。
こんなに細かいことを覚えてくれている人が、四ヶ月前のわたしにはいなかった。学校にも家にも。わたしの「好き」を把握している人が、地球上にいなかった。
今は三人いる。
それだけで、世界はぜんぶ変わる。
おにぎりの海苔を剥がして、口に入れた。昆布の甘じょっぱさ。コンビニの昆布おにぎり。100円の約束。明日もここにある。レンに見せたメモの言葉が、口の中で味になっている。
カケルの曲が小さく流れ続けている。ピアノのメロディがビルの隙間を漂っている。歌舞伎町の夜のBGM。遠くでサイレンが鳴る。タクシーのクラクション。酔っぱらいの笑い声。全部が曲の一部に聞こえる。カケルの音楽を知った後では、歌舞伎町のすべての音が、音楽の素材に聞こえてしまう。
レンが「おれたちの王国みたい」と言った。
「王国って大げさ」
ルカが鼻で笑う。
「でも、ここにいるとき、わたしたちは何者でもなくて、何にでもなれる。それって王国みたいじゃない?」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。こんな台詞が出てくる。歌舞伎町の非常階段で、おにぎりを食べながら。
カケルが「……うん」と頷いた。カケルの「うん」は、全身で同意している「うん」だ。体温が乗っている。イヤホンを外したカケルの「うん」は、両耳を開放した「うん」だ。
レンが「なぎ、今のいいよ。メモしな」と言う。
「うるさい」
「いやマジで。"何者でもなくて、何にでもなれる"。それ、おれたちのキャッチコピーじゃん」
メモはしなかった。でも覚えている。覚えていることが、書くことと同じくらい大事なことがある。
深夜三時。
四人で非常階段の踊り場に座って、空を見上げていた。ビルの間の空。細長い空。月が少し移動していた。
食べ物は全部なくなった。カップ麺の容器もおにぎりの包みも、レジ袋にまとめてある。ゴミは持ち帰る。ルカのルール。「自分たちの場所を汚すな」。
カケルの曲が終わって、しばらく経つ。スピーカーからは何も流れていない。代わりに、歌舞伎町の夜の音が聞こえている。遠いカラオケの低音。エアコンの室外機のうなり。どこかでドアが閉まる音。
静かな時間。四人とも喋らない。でも、沈黙が苦しくない。レンすら黙っている。レンが沈黙に耐えられるのは、この四人でいるときだけだ。ここでは、空白を埋めなくていい。空白のまま、一緒にいることができる。
ルカが、わたしの手を握った。
急に。何の前触れもなく。冷たい指が、わたしの指に絡んだ。ルカの手は骨が浮いている。細い。爪が短い。噛む癖があるから。
「なぎ、ここにいてくれて、ありがとね」
ルカの声は低かった。ルカが本気のことを言うとき、声が低くなる。レンの「マジで」が語尾で下がるのと似ている。本気の声は、下に沈む。
わたしはルカの顔を見た。月明かりが斜めに当たっている。ルカの目は笑っていない。真剣だ。いつもの姉御肌の表情が消えて、ルカの中にいる19歳の女の子が見えている。
「あんたがいると、わたしは人間でいられる気がする」
人間でいられる。その言葉の重さが、握られた手から伝わってきた。ルカにとって「人間でいること」は、当たり前じゃない。歌舞伎町で三年間、人間扱いされないことに慣れてきた人が言う「人間でいられる」は、わたしが思うそれとは密度が違う。
「わたしもだよ」
答えた。握り返した。ルカの冷たい手を、自分の手で温める。温まるかわからないけど、握っているだけで少しは伝わると思いたい。
レンが横から「おれっちは?」と口を挟んだ。
「レンも。カケルも。四人でしょ」
ルカが「当たり前じゃん」と笑った。レンが「おー、泣ける」と軽く言って、でも声がかすれていた。カケルは何も言わなかったけど、イヤホンを両耳とも外していた。それがカケルの「ありがとう」だった。
この瞬間が永遠に続けばいい。
心の底から、そう思った。四人で非常階段の踊り場にいる、この瞬間。カップ麺の匂いと金木犀の匂いが混ざった空気。ビルの間の細い月。カケルの音楽の余韻。ルカの冷たい手。レンのかすれた声。
永遠に続けばいい。
でも、永遠に続くものなんかないことを、わたしは知っている。家族は壊れた。学校は壊れた。中学で築いた「普通」は壊れた。高校で見つけた「新しい普通」も壊れた。壊れないものなんかない。
ここも、いつか。
考えたくなかった。今この瞬間に、「いつか壊れる」なんて考えたくなかった。でも頭の隅で鳴っている。警報みたいに。小さくて、しつこくて、消せない音。母さんのSNSの投稿。鶴見の笑顔。ルカの腕の傷痕。レンの「地元が無理」。カケルの「家に誰もいない」。全部が、この幸福の土台に亀裂を入れている。
コンビニのおにぎりとネカフェのシャワーで成り立っている幸せ。非常階段の踊り場が「王国」だという幸せ。それがどれだけ脆いか、わたしは気づいていた。気づいていたのに、見ないふりをした。
幸せの真ん中にいるとき、人は壊れる予感から目を逸らす。
ルカが手を離した。「帰ろっか」と立ち上がる。四人で階段を降りる。ゴミ袋を持って、路地に出る。歌舞伎町の深夜。人通りは減っているけど、ゼロにはならない。この街は眠らない。
四人で駅に向かう途中、ローソンの前を通った。わたしたちがいつも座っている場所。今夜はそこに、別のグループがいた。わたしたちより若い子たち。ミキの姿が見えた。新しいバッグを持っている。先月は持っていなかったブランドの。隣に知らない男の子がいて、笑いながらスマホを見せている。
ルカがちらっとミキを見て、何も言わずに歩き続けた。わたしも何も言わなかった。今夜は、見ないふりをする夜だ。
新宿駅の改札前で四人は散った。カケルが「じゃ」。レンが「またねー」。ルカが「気をつけて帰りな」。わたしが「おやすみ」。
それぞれの方向に歩いていく。カケルはネカフェへ。レンは別の駅へ。ルカは歌舞伎町に戻る。わたしは埼玉行きのホームへ。
始発まで少し時間がある。ホームのベンチに座って、スマホを見た。母さんからの着信が二件。今夜も。出なかった。画面を閉じて、天井を見上げた。駅の天井は高い。歌舞伎町の空より広い。でも、さっきの非常階段から見た細い空のほうが、ずっときれいだった。
メモ帳を開いた。書く。
「夜の王国は、朝が来れば消える。わたしたちの幸せは、コンビニのおにぎりとネカフェのシャワーで成り立っている。その土台がどれだけ脆いか、わたしは気づいていた。気づいていたのに、見ないふりをした」
保存した。
電車が来る。乗り込む。窓際の席。窓の外は暗い。自分の顔が映っている。泣いていない。笑ってもいない。ただ、少し温かい顔をしている。ルカの手の温度が、まだ指先に残っている。
幸せの真ん中にいるとき、人は壊れる予感から目を逸らす。わたしもそうだ。今夜、四人で過ごした時間は本物だった。ルカの「ありがとね」も本物。レンの涙声も本物。カケルの両耳外しは本物だった。
でもミキの新しいバッグも、見えていた。ルカが何も言わなかったことも。歌舞伎町の夜は、温かさと危うさがいつもセットで存在している。片方だけを見ることはできない。
わたしたちの王国は、借り物の階段の上にある。明日になれば、ビルの管理人が鍵をかけるかもしれない。来週には、もうあそこに座れないかもしれない。わたしたちの幸せには、住所がない。だから誰にも守ってもらえない。
守るのは、わたしたちだ。わたしたち自身が。
でも、十六歳と十九歳と十七歳と十五歳で、何を守れるだろう。
電車が埼玉に入る。空が白み始めている。九月の夜明けは、六月より早い。夏が終わる。秋が来る。季節は変わっていく。わたしたちも変わっていくのだろうか。変わらないでいられるのだろうか。
答えは出なかった。
でも、今夜の温かさだけは本物だった。ルカの冷たい手の温度。レンの笑い声。カケルの音楽。昆布のおにぎりの味。非常階段の踊り場から見た、細い空の月。
それだけは、メモ帳に書かなくても忘れない。
家に着いた。玄関を開ける。リビングの灯りは消えている。テーブルの上に、ラップのおにぎり。今夜はマジックで何も書かれていない。ラップだけ。
でもおにぎりは、ある。毎週、ある。
母さんのおにぎりと、コンビニのおにぎり。100円の約束と、値段のつかない約束。両方がわたしの手の中にある。
自室に入る。ベッドに座る。天井を見る。罅は三本。
来週の金曜が、また来る。わたしはまた行く。あの王国に。壊れるかもしれない場所に。壊れるとわかっていても、行く。
だって、あの場所にしかない温かさがある。あの四人でしか生まれない空気がある。それを手放すには、わたしはまだ、ここから出る覚悟ができていない。
目を閉じた。ルカの「ありがとね」が、耳の奥で小さく鳴り続けていた。




