第2話 : 透明人間の作り方
第2話 : 透明人間の作り方
あの頃のわたしには、名前があった。
瀬川凪沙という名前が、ちゃんと教室の中に存在していた。出席番号は十四番で、窓際から三列目の席で、休み時間に誰かが「凪沙ちゃん」と呼べば振り向くことができた。それだけのことが、どれだけ贅沢だったのか。失ってから気づくのは、いつも遅い。
中学三年の秋。九月の教室は、夏の名残みたいに蒸していた。窓から差す西日がわたしの席を照らしていて、ノートの上に四角い光が落ちている。埃がきらきら舞っている。きれいだと思った。教室の中でいちばんきれいなものが埃だなんて、ちょっとおかしいけど。
わたしは目立たない子だった。
嫌われてもいないし、好かれてもいない。クラスの「中間層」。グループに入っていないわけじゃないけど、いなくても回る程度の存在。それがわたしの居場所だった。安全で、退屈で、透明の一歩手前。
文化祭の準備が始まったのは、九月の第二週だった。
わたしたちのクラスは演劇をやることになった。多数決で決まった。わたしは挙手しなかった。演劇でも合唱でも模擬店でもよかった。どれでも同じだけの薄い関心しかなかったから。
役割分担の日、わたしは小道具係を希望した。裏方ならステージに出なくていい。人前に立たなくていい。それだけが理由だった。プリントに名前を書いて、担任に提出する。それで終わり。
終わるはずだった。
「凪沙ちゃん、小道具なの? もったいなくない? 舞台出なよ」
声をかけてきたのは水谷美月だった。美月はクラスの中心グループのリーダー格で、声が大きくて、笑顔が上手い子だった。わたしとは直接の接点はほとんどなかったけど、美月はそういう子だ。全員に声をかけることで、自分の「中心」を維持する。
「わたしは裏方がいいから」
「えー、そう? じゃあ小道具持ってるとこ撮るね。クラスのストーリーにあげるから」
美月はスマホを構えて、わたしが段ボール箱を運んでいるところを撮った。わたしは笑顔を作った。作れたと思う。美月は「ありがと」と言って、グループのところに戻っていった。
それだけのことだった。
写真一枚。数秒の動画。ストーリーに上がって、二十四時間で消える。そういう仕組みのはずだった。
文化祭は普通に終わった。演劇はそこそこ盛り上がって、わたしは舞台袖で小道具の出し入れをしていた。拍手が聞こえた。カーテンコールで出演者が手をつないで並ぶのを、暗い袖からぼんやり見ていた。
打ち上げにも行った。ファミレスで、クラスメイトたちが写真を撮り合っていた。わたしも何枚か写り込んだ。端っこに、ぼんやりと。
変わったのは、十月に入ってからだった。
深夜。布団の中でスマホを開いた。いつもの習慣。寝る前にSNSをチェックして、誰かの投稿にいいねを押して、それで一日が終わる。
グループLINEの通知が溜まっていた。クラスの、全員が入っているグループ。未読が八十七件。
多すぎる。
嫌な予感がした。指先が少し冷たくなるのを感じながら、スクロールした。
動画が投稿されていた。
文化祭の準備期間に撮られたもの。わたしが小道具の段ボール箱を運んでいる場面。でも何かが違う。編集されている。わたしがつまずく瞬間がスローモーションになっていて、上にテロップがついている。
読みたくなかった。でも目が文字を拾った。
「瀬川さんの名場面集www」
スクロールする。もう一本の動画。これはわたしが知らないうちに撮られていたもの。お弁当を食べているところ。口元をアップにして、何かテロップが入っている。
その下に加工画像が並んでいた。わたしの顔写真を切り抜いて、別の画像に貼り付けたもの。雑なコラージュ。でも、雑だからこそ余計に悪意が見えた。笑いのために作られている。わたしの顔が、笑いの材料になっている。
コメント欄をスクロールする。絵文字が並んでいる。「草」「やばw」「センスある」。誰が投稿したのかは、わからなかった。匿名ではないけど、投稿者のアイコンには見覚えがなかった。サブアカウントだと思う。
最初に思ったのは、何かの間違いだ、ということだった。
わたしじゃない。わたしに似た別の子だ。そう思いたかった。でも動画の中で段ボール箱を運んでいる女の子は、わたしの持っていたのと同じリュックを背負っていて、わたしと同じ靴を履いていた。
次に思ったのは、なんでこんなことするの、ということだった。
わたしは誰にも何もしていない。美月にも、他の誰にも。小道具係を真面目にやっただけだ。段ボールを運んだだけだ。
そして最後に、恐怖が来た。
みんなが見ている。クラスの三十八人が全員入っているグループに、わたしの顔が晒されている。今この瞬間にも、誰かがこの動画を見て笑っている。布団の中で、暗い部屋で、画面の光だけを頼りに。わたしと同じように。
でもわたしは笑っていない。
泣けなかった。泣きたいのに、涙が出ない。喉の奥が詰まっている。声を出そうとしたけど、何も出てこなかった。
スマホを裏返しにした。画面を下にして、枕の横に置いた。布団を頭までかぶった。
暗い。
暗いのに、目を閉じるとスマホの画面が瞼の裏に焼きついていた。テロップの文字が見える。わたしの顔が見える。笑いものにされているわたしの顔が。
あの夜のことは、あまり覚えていない。眠れたのか、眠れなかったのか。たぶん、どこかで意識が途切れて、気づいたら朝だった。
翌朝の登校は、修行みたいだった。
玄関で靴を履く。いつもと同じ動作。でも足が重い。スマホをポケットに入れて、家を出る。通学路を歩く。同じ制服を着た生徒たちとすれ違う。誰かがこっちを見ている気がする。スマホを見ながらくすくす笑っている気がする。
気のせいかもしれない。
でも、気のせいじゃないかもしれない。
その区別がつかないことが、いちばん怖かった。
校門をくぐる。昇降口で上履きに履き替える。階段を上る。三年二組の教室の前。ドアを開ける。
わたしの机の上に、紙が置いてあった。
A4のプリント用紙。グループLINEに投稿されていた加工画像が、カラーでプリントアウトされている。丁寧に。きれいに。わざわざ印刷して、わたしの机に置いた人がいる。
教室を見回した。美月のグループは窓際に固まって、何か別の話をしている。こっちを見ていない。完璧に、見ていない。それが演技なのか本当に無関心なのか、わからなかった。
他のクラスメイトも、普通にしている。普通に見える。でも「普通」の中に、視線の刺がある。チラッとこちらを見て、すぐに目をそらす。友達と目を合わせて、小さく笑う。その一瞬一瞬が、針みたいにわたしの皮膚に刺さっていく。
わたしはプリントを取り上げた。
四つに折って、ポケットに入れた。何も言わなかった。席に着いて、教科書を開いて、黒板を見た。先生が入ってきて、授業が始まった。
このとき、わたしは初めて「透明」になることを選んだ。
反応しないこと。感情を見せないこと。泣かないこと。怒らないこと。何も感じていないふりをすること。それが唯一の防御だった。殴られたら痛いと叫ぶのが普通だ。でもわたしは叫ばなかった。叫んだら、もっと殴られる。だったら最初から痛くないふりをすればいい。
透明人間には、殴る場所がないから。
放課後、担任の田中先生に呼ばれた。四十代の男の先生で、体育の授業のときだけ声が大きくなる人。職員室の隅の面談スペースで、パイプ椅子に座ったわたしに向かって言った。
「瀬川、LINEの件だけど。何人かの生徒から報告があってね」
報告があった。つまり、見た人が先生に言ったということ。わたしが言ったわけじゃない。
「双方から話を聞いて対応するから。まずは瀬川の話を聞かせてくれ」
わたしは話した。短く。動画のこと。加工画像のこと。机の上のプリントのこと。田中先生はメモを取りながら頷いていた。
「わかった。相手にも話を聞くよ。たぶん、ふざけてやったことだと思うんだけどな」
ふざけて。
先生はもう答えを持っていた。聞く前から。「ふざけてやったこと」。悪意はない。ちょっとしたいたずら。深刻に捉えすぎだ。そういう結論が、先生の中にすでにある。
数日後、先生がわたしを呼んだ。
「水谷たちと話したんだけどね。悪気はなかったって。文化祭の打ち上げのノリで、面白いと思ってやったらしい。本人たちも反省してるよ」
反省している。
わたしの顔を加工して笑いものにした人たちが、反省している。先生の前では。先生がいなくなったら、どうだかわからないけど。
「瀬川も、あんまり気にしないようにな。友達同士のじゃれ合いみたいなもんだから」
友達同士の。
わたしは美月の友達じゃなかった。美月のグループの誰とも友達じゃなかった。でもそれを説明する言葉が出てこなかった。
「……わかりました」
わたしはそう言って、職員室を出た。
廊下を歩きながら、自分の靴音を聞いていた。カツ、カツ、カツ。規則正しい音。わたしはちゃんと歩いている。ちゃんと呼吸している。ちゃんと生きている。でも中身はもう、空洞になりかけていた。
このときからだと思う。わたしの言葉が少なくなったのは。
授業中に当てられても、最小限の言葉しか出てこなくなった。「はい」「いいえ」「わかりません」。それ以外の言葉は、口の中で溶けて消えた。声を出すことが怖くなった。声を出すと、そこに「わたし」が存在してしまう。存在すると、的になる。だったら存在しないほうがいい。
グループLINEの動画は、数日で話題から消えた。次の話題が来て、上書きされた。誰かの恋バナ、テストの範囲、修学旅行の班決め。わたしの名場面集は、タイムラインの底に沈んでいった。
でも消えたわけじゃない。
沈んだだけだ。掘り返せば、いつでも出てくる。わたしの顔は、クラスメイト三十八人のスマホの中に保存されている。削除したかどうかは、わからない。たぶん、していない。わざわざ削除するほど気にしていないから。
わたしにとっては全部だったものが、みんなにとっては「ちょっと面白かった動画」でしかなかった。その温度差が、何よりもわたしを透明にした。
十月、十一月、十二月。
季節が進んでも、教室の空気は変わらなかった。動画のことを直接言ってくる人はいなかった。でも、わたしの周りには薄い膜ができていた。触れてはいけないもの。近づくと面倒なもの。
休み時間は図書室で過ごすようになった。
本を読んでいるふりをして、活字を目で追うけど頭に入ってこない。ページをめくる動作だけが、わたしが生きている証拠だった。
誰とも話さない日が増えた。弁当は図書室の隅で一人で食べた。教室に戻るのは、授業が始まる一分前。席に着いて、教科書を開いて、ノートを取る。それだけ。
透明でいることに、わたしは上手くなった。
存在感を消す方法を覚えた。足音を立てない。目を合わせない。声を小さくする。廊下の端を歩く。人が集まっているところを避ける。
最初は意識してやっていたことが、そのうち無意識になった。身体が勝手に「消える」モードに入る。まるで生存本能みたいに。危険を感じたら逃げる動物と同じだ。ただ、わたしの場合は逃げるんじゃなくて、消える。
でも、透明すぎると、自分でも自分が見えなくなる。
鏡を見ても、そこにいるのがわたしだという実感が薄い。名前を呼ばれても、自分のことだと気づくのに一拍かかる。瀬川凪沙。その名前がわたしのものだということが、だんだんぼやけていく。
受験勉強だけは続けていた。
机に向かって問題集を解いている時間は、唯一「何も考えなくていい時間」だった。数学の問題には答えがある。英語の文法にはルールがある。答えのある世界は安全だった。
志望校は、中学の同級生が誰も行かない高校を選んだ。少し遠いけど、知り合いがいない。それが最優先だった。偏差値でも、部活でも、通学時間でもなく、「知っている人間がゼロであること」。
願書を書きながら、わたしは自分に言い聞かせていた。
高校に行けば変われる。
新しい場所で、新しい自分になれる。
リセットボタンを押せば、全部やり直せる。
十二月の寒い夜、布団の中でそう思った。窓の外では風が吹いていて、カーテンの隙間から街灯の光が細い線になって天井に届いていた。天井には罅が三本。入居したときからあったらしい。母さんは気にしていない。わたしは毎晩数えていた。一本、二本、三本。
三本のまま、増えていない。
大丈夫。まだ大丈夫。
リセットボタンは、きっとある。そう信じないと、あと三ヶ月が持たなかった。




