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第18話 : 白い名刺

第18話 : 白い名刺



 九月になっても、セミは鳴いていた。


 埼玉の自室。カーテンの向こうから、ジリジリと焼けるような声が聞こえる。窓を閉めていてもだ。夏は終わったはずなのに、残暑がしがみついて離れない。エアコンのリモコンを握って、設定温度を一度下げる。冷たい風が天井から降りてくる。額の汗が冷える。


 母さんの声が、階段の下から聞こえた。


「凪沙、ちょっと」


 ドアを開けて廊下に出る。階段を降りるのが面倒で、上から見下ろす。母さんがエプロンをしたままリビングの入口に立っている。夕飯の支度の途中だ。味噌汁の匂いがする。


「二学期、行けそう?」


 その質問が来ることは、わかっていた。九月一日が過ぎた。始業式が終わった。クラスメイトたちは教室に戻った。わたしだけが、ここにいる。


「……わからない」


 母さんの眉が少しだけ寄った。怒っているのか、悲しいのか、疲れているのか。たぶん全部。母さんの表情には、いつも複数の感情が重なっている。怒りの下に心配があって、心配の下に諦めがある。わたしはそれを読み取れるようになっていた。以前は「怒ってる」としか思えなかったけど。


「そう。……わかった」


 母さんはそれ以上言わなかった。追及しない。夏の間に、追及しても凪沙が殻に閉じこもることを学んだから。代わりに、「ご飯できたら呼ぶね」とだけ言って、台所に戻っていった。


 自室に戻る。ベッドに座って天井を見る。罅は三本。変わっていない。


 夏休みが終わっても、わたしにとっての「休み」は続いている。いつまで? わからない。学校からは担任の電話が何度か来たけど、母さんが対応している。わたしは出ていない。「体調がまだ」と母さんが説明しているのが、壁越しに聞こえた。嘘ではない。体調は悪い。ただし身体じゃなくて、心の体調が。


 スマホを見る。グループLINEにレンが動画を送っている。猫がドアを開ける動画。「天才ねこ」というキャプション。ルカがスタンプで反応している。カケルは既読だけ。わたしも笑って、「かわいい」と返す。


 こっちの世界では、わたしは喋れる。画面の中では透明じゃない。金曜の夜が来れば、歌舞伎町で息ができる。平日の自室と、週末の歌舞伎町。二つの世界を行き来する生活は、もう五ヶ月目に入っている。



 金曜の夜。九月最初の金曜。


 電車の中で窓の外を見ていた。郊外の住宅街が流れていく。夕焼けがビルの向こうに沈みかけている。空の色がオレンジから紫に変わっていく。六月に初めてこの電車に乗ったときは、もっと明るかった。日が短くなっている。夏が終わろうとしている。


 車内の冷房が首筋に当たる。半袖のTシャツ。ルカにもらったスカート。リュック。いつもと同じ格好。三ヶ月前と同じ格好で、同じ電車に乗っている。変わったのは、メモ帳の中身が百を超えたことと、カケルに曲の言葉を頼まれていることと、レンに「ネットに上げなよ」と言われたことだ。


 先週のネカフェでの夜を思い出す。レンの「百の悪口より、一個の "きれい"」。あの言葉は、まだ胸の中に残っている。温かいけど重い。重いけど、嫌じゃない。


 新宿駅に着いた。改札を出る。歌舞伎町方面へ歩く。九月の新宿は、八月とは空気が違う。まだ暑いけど、どこかに秋の予感がある。風の中に、金木犀にはまだ早いけど、夏とは違う匂いが混ざっている。乾いた匂い。湿度が少しだけ下がった匂い。


 歌舞伎町に入る。一番街のアーチをくぐる。ネオンが光っている。客引きが声をかけてくる。「お兄さんどう?」。わたしにはかけてこない。もう「通い」の顔になっている。歌舞伎町の常連。三ヶ月で変わるものだ。


 ローソンの前。ルカが缶ジュースを飲んでいる。レンがスマホで自撮りしている。カケルはイヤホンをして電柱にもたれている。片耳外し。いつもの配置。


「あ、なぎ来た」


 ルカが手を上げた。わたしは「来た」と短く返して、ルカの隣に座った。コンクリートの地面。まだ昼間の熱が残っている。


「今日暑くなかった? 九月なのに」


「暑かった。セミまだ鳴いてる」


「まじで。もう死んでくれよセミ」


 レンが自撮りの角度を変えながら会話に参加する。カケルは黙っている。いつもどおり。


 四人でローソンの前にいる。コンビニのおにぎりを買って分け合う。ルカがツナマヨ、レンが鮭、カケルはツナマヨ、わたしは昆布。いつもの組み合わせ。ルカが「はい、昆布担当」とわたしに渡してくれる。名前を呼ばなくても、おにぎりの味で誰のものかわかる。


 二十二時を過ぎた頃だった。


 見慣れない人が、こちらに歩いてきた。


 女の人。二十代後半くらい。ジーンズにカーディガン。カジュアルな格好。行政の人みたいなスーツでもないし、記者みたいにメモ帳やカメラを持ってもいない。髪をひとつにまとめて、肩にトートバッグをかけている。歩き方が落ち着いている。急いでいない。でも目的がある歩き方。


 彼女がわたしたちの前で立ち止まった。


「こんばんは。ちょっとだけ、お話しませんか」


 穏やかな声。押しつけていない。でも逃げてもいない。真っ直ぐこっちを見ている。目が笑っている。口角が少し上がっている。でも大げさな笑顔じゃない。自然な表情。


 ルカの空気が変わった。


「あんた誰?」


 ルカの声には警戒が混じっていた。ルカは知らない大人に対して、まず壁を作る。鶴見のときもそうだった。ルカにとって「声をかけてくる大人」は、基本的に信用の対象外だ。


 女の人がトートバッグのポケットから何かを取り出した。名刺だった。四人の前に差し出す。


「NPO法人 灯台。白石遥と言います。夜回りの相談員をしています」


 灯台。白石遥。


 その名前を、わたしは知っていた。ポケットの中に——先月拾った名刺と同じ名前だ。あの朝、歌舞伎町のベンチの下に落ちていた白い紙。「NPO法人 灯台 白石遥」。誰かが受け取って、捨てた名刺。わたしが拾った名刺。


 同じ人が、今、目の前にいる。


「何か困っていることがあれば、いつでも相談してください。食事の提供や、シャワーの利用、宿泊の紹介もできます」


 白石さんの説明は手短だった。余計なことを言わない。「大変だね」とも「心配してるよ」とも言わない。情報を渡している。何ができるかを、淡々と伝えている。


 ルカが腕を組んだ。


「間に合ってます」


 冷たい声。ルカの「間に合ってます」は「帰れ」と同義だ。鶴見に対する「ちゃんとした人が夜中にガキに声かけるわけないでしょ」と同じ種類の拒絶。ルカにとって、支援者も記者も警察も、カテゴリーは同じ。「こっちの世界に踏み込んでくる大人」。


 レンも距離を取っていた。さっきまで自撮りしていたスマホをポケットにしまって、半歩後ろに下がっている。レンは対立しないけど、近づきもしない。空気を読んでいる。


 カケルはイヤホンをしたまま、視線を合わせていなかった。気づいているのかいないのかわからない。たぶん気づいている。でも、カケルにとって知らない大人は存在しないのと同じだ。


 白石さんはルカの返事を聞いて、一瞬だけ頷いた。怒らなかった。傷ついた顔もしなかった。「間に合ってます」と言われて、「そうですか」と返す人は少ない。大抵の大人は食い下がるか、顔を曇らせるか、「でも」と言う。白石さんは何もしなかった。


「無理にとは言いません。もし何かあったら、この番号に電話してね」


 そう言って、名刺を人数分、四枚、手に広げて差し出した。扇のように。


 ルカが「いらない」と首を横に振った。レンは視線を逸らした。カケルはイヤホンの向こう側にいる。


 わたしは、名刺を受け取った。


 白石さんの手から、一枚。白い紙。柔らかい紙。ポケットの中にある、先月拾った名刺と同じ質感。同じサイズ。同じ文字。


 白石さんがわたしを見た。目が合った。穏やかな目。押しつけない目。「ありがとう」とも「よかった」とも言わなかった。ただ、少しだけ微笑んだ。口の端が、ほんの数ミリ上がっただけ。それだけ。


 白石さんが立ち去った。残りの三枚の名刺をトートバッグに戻して、歌舞伎町の通りのほうに歩いていく。後ろ姿を見ていた。カーディガンの裾が歩くたびに揺れている。他のグループにも声をかけるのかもしれない。同じように断られるのかもしれない。それでも歩いている。


 ルカが鼻で息を吐いた。


「ああいうの、信用しちゃダメだよ」


 鶴見のときと同じ台詞。ルカにとって「声をかけてくる大人」は全部同じカテゴリー。でも——本当にそうだろうか。


 鶴見は「話を聞きたい」と言った。白石さんは「困っていることがあれば」と言った。鶴見は名刺を押しつけた。白石さんは差し出して、断られたら引いた。鶴見はルカに食い下がった。白石さんは「無理にとは言いません」と言って去った。


 同じ「声をかける大人」なのに、触感が違う。鶴見の名刺には引力があった。引き寄せられる力。SNSのフォロワー数や、「トー横の子たちのリアルな声」という言葉が、魅力的に聞こえた。白石さんの名刺にはそれがない。引力がない。ただ静かに差し出されて、受け取るかどうかはこっちが決める。


 引力がないことが、信頼できる理由になるなんて、変な話だ。


「なぎ、それ受け取ったの?」


 ルカがわたしの手元を見ている。名刺を持っているわたしの手を。


「うん」


「なんで?」


 なんで。ルカの「なんで」に、わたしは正直に答えられなかった。ポケットの中にもう一枚あるとは言えなかった。先月の朝、ベンチの下で拾った名刺。あれをルカに見せなかったのは、ルカが「いらない」と言う人だと知っていたからだ。


「……なんとなく」


「なんとなく、で大人の名刺もらうなよ。鶴見のときだってそうだったでしょ」


 ルカの声が少し厳しくなった。ルカはわたしを守ろうとしている。鶴見のときに学んだことを、ここでも適用している。「知らない大人の名刺は受け取るな」。ルカの経験則だ。保護所にいたとき、シェルターにいたとき、歌舞伎町で三年過ごしたとき。その全部がルカに「大人を信じるな」と教えた。


 わたしはルカの警戒心を否定できない。ルカの人生がそれを正当化しているから。


「気をつける」


 それだけ言った。名刺はポケットにしまった。ルカはそれ以上言わなかった。レンが「おにぎりもう一個食べない?」と空気を変えてくれた。カケルがイヤホンの片方を外して「何の話?」と聞いた。遅い。もう終わった話だ。


 十分後には、四人はいつもの夜に戻っていた。レンがSNSで見つけた面白い動画をみんなに見せて、ルカが「それ先週も見た」とツッコんで、カケルが無言でイヤホンを戻して。わたしはその輪の中にいて、時々笑って、時々メモ帳に何かを書いて。


 普通の金曜の夜。歌舞伎町の夜。わたしたちの夜。



 帰りの始発。


 電車の中はほとんど空だった。わたしは窓際の席に座って、ポケットから名刺を取り出した。二枚。


 一枚目。先月の朝、歌舞伎町のベンチの下で拾ったもの。角が折れている。少し汚れている。踏まれた跡がある。


 二枚目。今夜、白石さんの手から受け取ったもの。新しい。角が立っている。白い。


 同じ「NPO法人 灯台 白石遥」。同じ電話番号。同じメールアドレス。同じ住所。


 二枚を並べて見る。一枚目は誰かが捨てた名刺。二枚目はわたしが受け取った名刺。一枚目はゴミ。二枚目は手渡し。同じものなのに、来た経路が違うだけで意味が変わる。


 白石さんの顔を思い出す。断られても怒らなかった顔。「無理にとは言いません」の声。押さない態度。去り際の、数ミリの微笑み。


 これまでの大人を並べてみる。


 母さん。「あなたにも原因がある」と言った人。心配しているけど、表現を間違える人。


 父さん。「学校のことはお前に任せてる」と言った人。関わることを拒んだ人。


 中学の担任。「双方から話を聞いて対応する」と言って、結局何もしなかった人。


 鶴見。「話を聞きたい」と言って近づいてきた人。優しい顔で情報を集めていた人。


 白石さんは、どれとも違った。


 母さんみたいに踏み込んでこない。父さんみたいに無関心でもない。担任みたいに形だけの対応でもない。鶴見みたいに何かを求めてもこない。


 白石さんは「何かあったら電話して」と言って、去った。


 それだけだ。


 でも、その「それだけ」が、わたしにはこれまでなかった大人の形に見えた。押さない。引かない。ただ「ここにいるよ」と伝えて、あとはこっちに任せる。名刺を渡すという行為は、「わたしの番号はこれです。使うかどうかはあなたが決めてください」ということだ。選択権をこちらに渡している。


 鶴見も名刺を渡した。ルカに、そしてグループ全体に。あの名刺は「僕に連絡してね」というメッセージだった。「連絡してほしい」という欲求が名刺の裏に貼りついていた。白石さんの名刺にはそれがない。「もし必要なら」という条件つきの控えめさがある。


 その控えめさが、逆に信頼できると感じるのは、わたしが鶴見を経験した後だからかもしれない。押してくる大人を知ったから、押さない大人の価値がわかる。順番が大事なんだろう。白石さんが先に来ていたら、わたしはこの名刺を受け取らなかったかもしれない。鶴見が先に来て、「大人には二種類いる」と学んだから、白石さんの態度の意味がわかった。


 ルカは白石さんを信じなかった。ルカの人生では、「大人は全部同じ」が正解だったから。でもわたしは受け取った。わたしの人生では、「大人にも種類がある」が正解かもしれないと思い始めていたから。


 どちらが正しいかは、まだわからない。


 電車が埼玉に入る。窓の外の景色が変わる。高層ビルが消えて、住宅街になる。空が広くなる。


 名刺を二枚重ねて、財布の中にしまった。お守りみたいに。使うかどうかわからない。たぶん使わない。でも、ルカの話を聞いた後にポケットに入れた一枚目と、白石さんの手から受け取った二枚目を、わたしは捨てなかった。


 どうして捨てなかったのか。その理由を言葉にできたら、もしかしたらメモ帳に書ける。でも今はまだ、形にならない。


 最寄り駅に着いた。改札を出る。朝の住宅街。セミはもう鳴いていない。夜明けの空気は、九月になって少しだけ涼しくなった。


 家に帰る。玄関のドアを静かに開ける。リビングは暗い。今日は母さんが起きて待っていなかった。テーブルの上にラップをかけたおにぎりが二つ置いてある。付箋に「おかえり。食べてね」。


 母さんの字。母さんの「おかえり」は、直接言うと重くなる。だから付箋に書いた。その判断が、母さんの成長なのか、諦めなのか、わたしにはわからなかった。


 自室に入る。ベッドに座る。天井を見る。罅は三本。


 財布から名刺を出した。二枚の白い名刺。テーブルの上に並べて見る。スマホのライトに照らされた白い紙。


 メモ帳を開いた。書く。


 一枚目は誰かが捨てた名刺。二枚目はわたしが受け取った名刺。同じ名前。同じ番号。同じ場所。でも——捨てた人と受け取った人では、この名刺の意味が全然違う。


 書き終えて、保存した。


 二枚の名刺をテーブルに置いたまま、布団に潜った。目を閉じる。セミの声はもう聞こえない。秋が近い。歌舞伎町の匂いも、そろそろ変わるだろう。


 この名刺が必要になる日が、来るのかもしれない。来ないのかもしれない。でもわたしは二枚持っている。一枚は偶然で、一枚は選択で。その二枚が何を意味するのか、このときのわたしには、まだわからなかった。

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