第17話 : メモ帳の言葉
第17話 : メモ帳の言葉
ネカフェの空調は、夜中になると音が変わる。
昼間は気にならないけど、深夜二時を過ぎると客が減って、周りが静かになる分、天井の排気口が呼吸するような低い音を出しているのがわかる。ブースの仕切りは薄い合板で、隣の人がキーボードを叩く音も、寝返りを打つ音も筒抜けだ。消毒液とコーヒーが混ざった匂い。ネカフェ特有の、どこにいても同じ匂い。
わたしはブースの薄い布団に仰向けになって、スマホのメモ帳をスクロールしていた。画面の光が天井に反射している。カケルの曲を聴いてから二週間。「おれの曲に言葉つけてよ」への答えは、まだ出ていない。
考えてはいる。毎日考えている。メモ帳を開くたびに、どの言葉がカケルの音楽に合うだろうと考える。でも「これだ」と思える言葉が見つからない。いや、見つからないんじゃなくて、差し出す覚悟ができていない。
隣のブースに、レンがいる。
「なぎー、寝た?」
仕切りの向こうから、ひそめた声。でも全然ひそまっていない。レンの声はどんなにボリュームを絞っても通る。
「寝てない」
「おれも。暑くて無理。ネカフェの冷房って上だけ冷えて足元あったかくない? 中途半端なんだよなー」
レンの言うとおりだった。顔のあたりは冷たい空気が当たるのに、足先は布団の中でじっとりしている。八月下旬。夏の終わりが近いのに、夜の暑さはまだ衰えない。
レンが仕切りの上から顔を出した。マナー違反だけど、深夜のこの時間帯はブースがほとんど埋まっていない。受付のスタッフも奥に引っ込んでいる。レンの顔が逆さまにわたしを見下ろしている。前髪が垂れて、目が隠れかけている。
「何見てんの?」
「別に」
「スマホいじってるでしょ。画面見えてたよ」
「見えてないでしょ。下からじゃ」
「見えた見えた。メモ帳でしょ。なぎっていつも書いてるよね、あれ」
わたしは咄嗟にスマホを胸に伏せた。レンが「あー、隠した」と笑う。
「見せてよ」
「嫌だよ」
「なんで。おれもう読んだことあるじゃん」
レンの言い方に引っかかった。「読んだことある」。先週カケルから聞いた話を思い出す。レンがグループLINEにわたしのメモのスクリーンショットを送っていたこと。
「レン、わたしのメモ、グループLINEに送ったの」
レンの表情が一瞬固まった。仕切りの上から顔を引っ込めかけて、また出す。
「あー……バレた? カケルに言われた?」
「カケルに聞いた」
「ごめん。でも、だってすごかったから。おれだけ読んでるのもったいなくて」
怒るべきだったのかもしれない。勝手にスクショを撮って、勝手に共有した。わたしの許可なく。中学のLINEグループで画像を加工されたときと、構造は似ている。自分の知らないところで、自分のものが流れていく。
でも、あのときとは違った。中学のLINEグループに流れたのは「笑い物にするための画像」だった。レンがグループに送ったのは「すごいから見てほしい」というメモだった。動機が違う。悪意がない。あるのは、興奮と善意の暴走だ。
「勝手に送らないでよ。次からは」
「うん。ごめん。マジで」
レンの「マジで」は、ふざけているときと本気のときがある。今のは本気のほうだった。声のトーンが半音下がっている。
少し沈黙があった。ネカフェの空調の音。遠くで誰かが咳をしている。レンがまた仕切りの上に顎を乗せた。
「なぎ、一個だけ見せてよ。一個だけ」
「レンしつこい」
「一個だけ。おれが選ぶんじゃなくて、なぎが選んで。なぎがいちばん軽いと思うやつ。重くないやつ」
軽いやつ。重くないやつ。レンはわたしのメモ帳に「重い言葉」が並んでいることを知っている。前に送ったスクショの中に、重いものがあったんだろう。だから「軽いやつ」と指定してきた。配慮だ。雑な配慮だけど、レンなりの。
わたしはメモ帳をスクロールした。軽いやつ。重くないやつ。候補を探す。天井の罅の話は重い。透明人間の話も重い。歌舞伎町の朝の話は……重くはないけど、恥ずかしい。ルカの話は論外。
一つ、目が止まった。先月書いたやつ。コンビニで昆布のおにぎりを食べた夜に書いた。
スマホの画面をレンのほうに向けた。
「コンビニのおにぎりは、100円で買える小さな約束だ。明日もここにあるっていう」
レンが黙って読んでいる。仕切りの上に乗せた顎が動かない。目だけが画面の文字を追っている。
五秒。十秒。レンが黙っている時間は長く感じる。レンは普段、沈黙を嫌う。空白があれば何かで埋める人だ。ジョーク、ツッコミ、SNSの話題。何でもいいから声を出して、場の空気を動かし続ける。それがレンの役割であり、レンの防衛だ。
そのレンが、黙っている。
「……なぎ、これすごいよ」
声が変わっていた。いつもの軽快な調子が消えている。レンが真面目な話をするときの声。深夜のネカフェで、仕切り越しに聞くその声は、低くて、静かで、いつものレンとは別の人みたいだった。
「ただのメモだよ」
「ただのメモじゃないよ。おれ、こういうの書ける人初めて見た。マジで」
マジで。今のも本気のほうだ。レンの「マジで」の使い分けが、最近わかるようになってきた。口癖のほうの「マジで」は語尾が上がる。本気のほうの「マジで」は語尾が落ちる。今の「マジで」は、落ちていた。
「100円のおにぎりを "約束" って呼ぶの、やばくない? おれ、おにぎり食べるたびにこれ思い出しそう」
「大げさだよ」
「大げさじゃないって。なぎは自分のこと過小評価しすぎ」
過小評価。その言葉にわたしは何も返せなかった。過小も過大もない。自分の言葉の価値を、わたしは測れない。定規がない。学校の作文にはA・B・Cの評価がついたけど、メモ帳の言葉を評価する人はいなかった。レンが最初の「評価者」だ。カケルが二人目。ルカが三人目。でも、身内の評価は信じていいのかわからない。友達だから「すごい」と言ってくれるのか、本当にすごいのか。その区別がつかない。
「もっと見せて」
「え、一個だけって」
「一個見たらもっと見たくなるでしょ。自然の摂理。人間の本能」
「それ全然理屈になってない」
「なってるよ。おれの本能が言ってんだから」
わたしは笑った。レンとの会話は、気がつくと笑っている。レンにはそういう力がある。深刻な話の最中でも、空気を一度軽くして、それからまた深く潜る。浮き沈みのリズムをコントロールできる人。
もう少しだけ、見せてみようと思った。レンが笑わないとわかったから。いや、笑いはする。でもそれは嘲笑じゃなくて、感動の笑いだ。中学のLINEとは違う。
メモ帳をスクロールして、いくつか見せた。レンが仕切りの上から身を乗り出して画面を覗き込む。髪の毛がわたしの顔に垂れてくる。「近い」と言ったら「ごめんごめん」と引っ込んで、すぐまた寄ってくる。
レンが特に反応したのは、これだった。
「透明人間には影がない。だから誰にも踏まれない。でもそれは、誰にも触れられないということでもある」
レンが画面を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。仕切りの上の腕が少し震えている。筋力の問題じゃない。
「これ、おれのことでもあるじゃん」
レンの声がかすれていた。
「そう?」
「おれも透明だった。地元では。ここに来て、やっと色がついた気がする」
地元。レンは地元の話をほとんどしない。「地元が無理」とだけ言って、それ以上は語らない。カケルの「家に誰もいない」、ルカの「父親がクソ」と同じように、レンの「地元が無理」は一行の要約だ。その一行の裏に何百行もの話が折り畳まれている。
「透明だったのに、影がなかったのに、それでも踏まれなかったかっていうと——踏まれてたよ。おれは。見えてないのに踏まれてた。見えてないから踏まれてたのかも」
レンが自分の過去を語っている。断片的に。わたしはスマホを下ろして、仕切りの上にいるレンの顔を見た。逆さまの顔。目が潤んでいる。でも泣いてはいない。レンは泣かない。泣く代わりに笑う人だ。
「だからさ、なぎの言葉読んで、うわって思ったの。この人、おれのこと書いてるって。書いたのはなぎ自身のことだろうけど、おれにも刺さった。そういう言葉って、すごいんだよ。一人のために書いたのに、別の人にも届くやつ」
一人のために書いたのに、別の人にも届く。
その言い方が、胸に残った。わたしはメモ帳に自分のことを書いていた。透明になったこと、声を失ったこと、歌舞伎町で息ができること。全部、わたしの話だ。でもレンが「おれのことでもある」と言った。わたしの言葉がわたしの手を離れて、レンの中に着地した。
先週の屋上を思い出した。カケルの曲。歌舞伎町の環境音で作った電子音楽。あれはカケルの「声」だった。カケルが歌舞伎町で聴いたものを、カケルのやり方で組み替えて、別のものにした。わたしのメモもそうなのかもしれない。わたしが見たものを、わたしの言葉で組み替えている。
でも、カケルの曲はまだ誰にも公開されていない。わたしのメモも同じ。カケルがわたしに聴かせたのは、信頼できる一人に差し出す行為だった。レンがグループLINEに送ったのは、その円を少し広げる行為だった。どちらも「外に出す」の一歩目。
じゃあ、二歩目は?
レンが仕切りから降りて、自分のブースに戻った。しばらく静かだった。わたしはメモ帳を閉じて、天井を見ていた。ネカフェの天井。罅はない。蛍光灯の光が薄く漏れている。
レンの声が仕切り越しに聞こえた。
「なぎ」
「なに」
「これネットに上げなよ」
予想していた言葉だった。カケルが「曲に言葉つけてよ」と言ったように、レンは「ネットに上げなよ」と言う。二人とも、わたしの言葉を「外」に出したがっている。
「カクヨムとか、noteとか。今どきいくらでもあるじゃん。匿名で出せるし」
「無理。恥ずかしい」
「恥ずかしいのはいいことだってルカ姉も言ってたじゃん。恥ずかしいもんがいちばんいいもんだって」
ルカの言葉だった。あの夜、メモ帳を見せたわたしに「他のも見せてよ」と言ったルカ。「恥ずかしいもんが、いちばんいいもんなんだよ」。レンがその言葉を覚えていたのか、それともルカが別の場面で同じことを言ったのか。どちらにしても、その言葉はわたしの中に残っている。
「もったいなくない? こんないい言葉、なぎのメモ帳に閉じ込めとくの」
閉じ込める。レンの言い方が鋭い。メモ帳に「保存する」のではなく「閉じ込める」。わたしの言葉は、メモ帳の中に閉じ込められている。鍵をかけているのはわたし自身だ。
「レン、わたしさ」
「うん」
「書くのは好き。メモ帳に書いてるときは、息ができる。自分が見えてくる感じがする。でも、それを外に出すのは——」
言葉が途切れた。外に出す。それは、自分の内側をめくって見せるのと同じだ。
「怖い?」
「怖い」
「何が?」
「笑われるのが」
正直に言った。恥ずかしかったけど、正直に。中学のLINEグループのことは、レンには話していない。でも「笑われるのが怖い」という感覚は、レンにも伝わるはずだ。レンも透明だった人だから。
レンが少し黙った。
「おれさ、メイクの自撮り、最初にSNSに上げたとき、めっちゃ怖かった」
「うん」
「おれみたいなのがメイクしてるの、絶対笑われるって思った。キモいって言われるって。実際、最初は言われたよ。知らない人に」
「……そうなんだ」
「でもさ、一人だけ "きれい" ってコメントくれた人がいた。それだけで全部チャラになった。百の悪口より、一個の "きれい" のほうが強かった。おれはその一個のために上げてよかったと思った」
百の悪口より、一個の「きれい」。レンの言葉には、経験の重みがある。軽い口調で言っているけど、その裏にはSNSの画面を見て手が震えた夜があるんだろう。わたしが中学のLINEグループで震えたのと同じように。
「なぎの言葉もさ、百人が無視しても、一人が "すごい" って思うかもしれないじゃん。カケルみたいに。おれみたいに」
一人。たった一人でいい。その一人がいるかもしれない。どこかの知らない誰かが、わたしの言葉を読んで、「おれのことでもある」と思うかもしれない。レンがそう思ったように。
でも、怖さは消えなかった。
恥ずかしいんじゃない。怖いんだ。自分の言葉を外に出したら、また傷つくかもしれない。中学のLINEみたいに、笑われるかもしれない。わたしの言葉が加工されて、切り取られて、別の意味にされるかもしれない。ネットは何でも残る。一度出したら取り消せない。ルカが「顔は出すな。出したら取り消せない」と言ったのと同じだ。顔じゃなくて言葉でも、同じことが起きる。
「……ありがとう、レン。考えてみる」
また「考える」と言った。カケルにも同じことを言った。「考える」はわたしの口癖になりつつある。断定を避ける、答えを先延ばしにする言葉。
レンが「うん」と返した。追及しなかった。レンもカケルと同じだ。言うことは言うけど、決めるのはわたしだと知っている。
仕切りの向こうが静かになった。レンが寝たのかもしれない。しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえてきた。レンはいつも突然寝る。話の途中でも、スマホを握ったままでも。スイッチが切れるみたいに。
わたしはまだ眠れなかった。
スマホのメモ帳を開いた。スクロールする。一番上から一番下まで。百を超えるメモが並んでいる。「この家の天井には罅が入っている。三本」から始まって、「カケルは音で喋る。わたしは文字で喋る」まで。四ヶ月分のわたしの声。
こんなに書いていたのか。
一つひとつ読み返す。暗い部屋で書いたもの。始発の電車で書いたもの。歌舞伎町の地べたで書いたもの。ネカフェのブースで書いたもの。場所が違う。気分が違う。でも、全部わたしの言葉だ。同じ「わたし」から出てきた言葉なのに、読み返すと知らない人が書いたみたいに感じるものもある。自室にいたときの自分と、歌舞伎町にいるときの自分は、同じ人間なのに声が違う。
カケルの「曲に言葉つけてよ」。レンの「ネットに上げなよ」。ルカの「作家になれよ」。三人がそれぞれのやり方で、わたしの言葉を「外」に出そうとしている。わたしだけが、蓋を閉めている。
でも、蓋を閉めている理由もある。外に出したら壊れるかもしれない。外の空気に触れたら溶けるかもしれない。メモ帳の中で安全に保存されている言葉が、外に出た瞬間に「作品」になって、評価されて、傷つけられて。
カケルは曲を作って、わたしに聴かせた。怖かったはずだ。でも差し出した。レンは自撮りをSNSに上げた。笑われた。でも一人の「きれい」が届いた。二人とも、怖いまま動いた。
わたしは、まだ動けていない。
「書くことは、わたしの呼吸だった」
メモ帳に新しい一行を書いた。
「でもそれを誰かに聞かせることは、息を止めるくらい怖いことだった」
保存した。
ネカフェの天井を見上げる。低い天井。その向こうに空がある。歌舞伎町の空。狭くて、星が見えなくて、ネオンに染まった空。でもその空の下に、わたしの言葉を「すごい」と言ってくれる人たちがいる。
レンの寝息が規則正しく聞こえている。カケルは多分どこかのネカフェで、イヤホンをしたまま眠っている。ルカはルカのブースで、爪を噛みながらスマホを見ているかもしれない。
四人がこの街のどこかにいる。わたしの言葉を知っている人が、三人いる。ルカが「作家になれよ」と言い、レンが「すごい」と言い、カケルが「曲に合う」と言った。三人の声が、メモ帳の中に閉じ込めているわたしの言葉を、外に引っ張り出そうとしている。
蓋を開けるのは、わたしだ。いつかは開けなきゃいけない。でも今夜じゃない。もう少しだけ、このまま。もう少しだけ、メモ帳の中で息をしていたい。
目を閉じた。レンの寝息を聞きながら、眠りに落ちた。
夢の中で、おにぎりを食べていた。コンビニの昆布おにぎり。100円の小さな約束。明日もここにあるっていう。その約束が、不思議と温かかった。




