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第16話 : カケルの音

 第16話 : カケルの音


 八月の夜。歌舞伎町は熱を溜め込んだ水槽みたいだった。


 空気が動かない。風がない。ネオンの光が湿気に滲んで、建物の輪郭がぼやけている。汗が首筋を伝って、Tシャツの襟に染みる。居酒屋の換気扇から吐き出される油の匂い、路面に張りついたガムの甘い匂い、すれ違う人たちの体温。八月中旬の歌舞伎町は、街全体が誰かの体温を持っているように感じる。


 ローソンの前。四人がいる。ルカが壁にもたれて爪を噛んでいる。レンが自販機の前でスマホの画面を誰かに見せている。わたしはアイスのカフェオレを飲んでいる。氷はもう溶けて、薄い茶色の水になっている。


 カケルが、いつもと違うものを持っていた。


 スマホとイヤホンの他に、小さな黒い箱。手のひらに収まるサイズ。Bluetoothスピーカーだ。カケルの足元に置いてある。


「カケル、それ何」


 わたしが聞くと、カケルはイヤホンを片耳だけ外して、スピーカーをちらっと見た。


「……後で」


 短い。いつものカケルだ。質問に一語で答える。でも、「後で」という返事は珍しかった。カケルは普通、「別に」か「知らない」で会話を終わらせる。「後で」は、予告だ。何かを見せるつもりがある。


 先週のネカフェで考えていたことを思い出した。カケルが新しい曲を作ったこと。スピーカーを持ってくると言っていたこと。今夜がその「後で」なんだろう。



 二十三時を過ぎた頃、カケルが動いた。


 地面から立ち上がって、スピーカーを拾い上げる。そしてわたしのほうを見た。カケルがわたしを真正面から見ることは滅多にない。いつも斜め下か、スマホの画面か、どこか遠くを見ている。今夜は、わたしの目を見ている。


「なぎ、ちょっとこっち来て」


 レンが「え、おれっちは?」と反応したけど、カケルは「すぐ戻る」とだけ言って歩き出した。ルカがわたしに目配せをした。「行っておいで」という顔。


 カケルの後を追った。ローソンの前から路地に入り、歌舞伎町の裏側を歩く。カケルの歩き方は静かだ。足音がほとんどしない。スニーカーの底がアスファルトを擦る、かすかな音だけ。わたしの足音のほうがずっと大きい。


 雑居ビルの前で立ち止まった。外付けの非常階段がある。錆びた鉄の手すり。壁にはスプレーの落書き。読めない文字。


「上」


 カケルが上を指差した。


「え、ここ上がるの?」


「屋上。いい場所」


 カケルは慣れた動きで階段を上り始めた。鉄の段が足音で鳴る。カンカンカンと、乾いた音。三階建てのビルの外階段を上がりきると、柵があった。立入禁止の札が結束バンドで括りつけてある。カケルは柵の隙間をすり抜けた。わたしは一瞬躊躇して、でもついていった。


 屋上に出た瞬間、風が吹いた。地上にはなかった風。三階分の高さがあるだけで、空気が動いている。汗ばんだ肌に風が当たって、鳥肌が立つ。涼しい。


 そして、景色。


 新宿の夜景が広がっていた。都庁のライトが遠くで静かに光っている。高層ビルの窓灯りが、ひとつひとつ、生活の証みたいに並んでいる。道路を流れる車のヘッドライトが、赤と白の線になって伸びている。歌舞伎町の中にいると見えない景色。ネオンの光に囲まれていると、その先に何があるか見えない。でもここからは、全部見える。


「すごい」


 声が出た。歌舞伎町を上から見るのは初めてだった。夜の街が足元に広がっている。看板の光、路地の暗がり、コンビニの蛍光灯、タクシーのテールランプ。全部が小さくて、全部がきれいだ。


 カケルはスピーカーを屋上のコンクリートに置いた。スマホを取り出して、Bluetoothの接続をしている。画面の光がカケルの顔を青白く照らす。


「聴いて」


 再生ボタンを押した。


 最初は静かだった。ピアノの音。一つの鍵盤が、ぽつりと鳴る。それが二つになり、三つになり、ゆっくりとメロディを紡いでいく。前に一度聴かせてもらった曲と似ているけど、違う。もっと複雑で、もっと重層的で、もっと——生きている。


 ピアノの音にビートが重なった。低い、心臓の鼓動みたいなビート。その上に、別の音が乗ってくる。


 ざわめき。


 人の声。何を言っているかはわからない。でも、この音を知っている。歌舞伎町の雑踏だ。客引きの声、カラオケから漏れる低音、酔っぱらいの笑い声。全部が混ざって、一つのざわめきになっている。カケルがそれを録って、曲に組み込んでいる。


 次にサイレンが来た。救急車だ。遠くから近づいてきて、通り過ぎて、また遠ざかる。その波形がピッチを変えて、メロディの一部になっている。サイレンが音楽になっている。


 タクシーのクラクション。一瞬の鋭い音。それがリズムのアクセントになる。電車の走行音。ガタンガタンという規則的な振動が、ビートの底に沈んでいる。


 歌舞伎町の音だった。全部。この曲を構成しているのは、わたしが毎週聞いている音ばかりだ。客引き、カラオケ、サイレン、クラクション、電車。どれも聞き慣れた、歌舞伎町の夜のBGM。でもカケルの手を通ると、それが音楽になる。ノイズが旋律になる。雑音が表現になる。


 曲が展開していく。中盤でピアノが消えて、環境音だけになる瞬間があった。歌舞伎町の夜がそのまま流れている。一分ほどの無音ならぬ「有音」。何も演奏していないのに、音がある。街が歌っている。


 そこにピアノが戻ってくる。最初と同じメロディ。でも、環境音を通過した後に聴くと、同じ旋律が全然違って聞こえる。街の音を知った後の静けさ。ノイズの中にいた後の一音。


 曲が終わった。スピーカーから音が消えて、屋上に夜の風が戻ってきた。遠くで本物のサイレンが鳴っている。さっきまで曲の中にいた音が、現実に戻っている。


 わたしは何も言えなかった。息を止めて聴いていたことに、終わってから気づいた。


「これ、歌舞伎町の音?」


 やっと声が出た。カケルが頷いた。


「毎晩録ってた。スマホで」


 毎晩。カケルがイヤホンをしている理由が、この瞬間に明かされた。音楽を聴いているだけだと思っていた。外界を遮断するための壁だと思っていた。でも違った。カケルはイヤホンの中と外の両方を聴いていた。外の音を拾いながら、それを素材として蓄えていた。


「ずっと録ってたの? ここに来た最初の日から?」


「……最初のほうは、ただ聴いてただけ。録り始めたのは、三ヶ月くらい前」


 三ヶ月前。わたしがトー横に来始めた頃とほぼ同じだ。


「DAWはBandLabってやつ使ってる。スマホだけでできる。パソコンあったほうが本当はいいんだけど、持ってないから」


 カケルが喋り始めた。音楽の話になると、別人になる。いつもの一語二語の返事が消えて、言葉が溢れてくる。DAWソフトの機能。サンプリングの技法。ピッチシフトとタイムストレッチの違い。リバーブのかけ方。好きなアーティストの名前。Aphex Twin、Boards of Canada、Burial。わたしは一つも知らなかったけど、カケルの声が弾んでいるのはわかった。


「サイレンの音、そのまま使うとうるさいんだよ。だからピッチを下げて、リバーブかけて、エコーをつける。そうすると、サイレンが——なんていうか、鳴き声みたいになる。街が泣いてるみたいな音になる」


 街が泣いてる。カケルの口からそんな比喩が出てくることに、わたしは驚いた。カケルは言葉の人じゃないと思っていた。でも、音を通じて世界を比喩で捉えている。わたしが目で見て言葉にするのと同じように、カケルは耳で聴いて音にする。


「この曲、タイトルあるの?」


「ない。番号だけ。Track 07」


「七番目?」


「前の六曲は全部ボツにした。これがいちばんマシ」


 マシ。カケルは自分の曲を「マシ」と言う。謙遜じゃなくて、本気でそう思っているんだろう。完璧じゃないことを知っている。でも完璧じゃないまま、差し出した。わたしに。


「誰かに聴かせたことある?」


「……ない。なぎが初めて」


 初めて。その言葉の重さが、胸に沈んだ。カケルにとって、この曲を聴かせることは、わたしがメモ帳を見せるのと同じくらい怖いことだったはずだ。自分の一部を差し出すこと。判断されるかもしれないこと。笑われるかもしれないこと。


「なんでわたし?」


 カケルは少し黙った。新宿の夜景を見ている。都庁のライトが遠くで点滅している。風が髪を揺らしている。イヤホンは両耳とも外れている。カケルがイヤホンをしていない姿は珍しい。耳が夜の空気に直接触れている。


「なぎは、ちゃんと聴いてくれそうだったから」


 ちゃんと聴く。レンが「なぎってさ、黙ってるけど見てるよね。全部」と言ったことがある。カケルはそれを「聴く」に置き換えた。わたしが見ている人間だとしたら、カケルは聴いている人間だ。そして、聴いている人間が「聴いてくれそう」と思った相手にだけ、自分の音を差し出す。


「すごいよ、カケル」


 素直に言った。飾らずに。テクニックのことはわからない。DAWもサンプリングも、言葉としては知っているけど中身は知らない。でも、この曲が「すごい」ことはわかる。歌舞伎町の夜が、五分間の音楽になっている。わたしが百以上のメモで書き溜めたこの街の記録を、カケルは一曲に凝縮した。


 カケルが少し目を見開いた。褒められ慣れていない顔。前に第八話の夜、「自分で作ってる」と言ったカケルに「すごい」と言ったときと同じ反応。あの夜は荒削りのメロディだった。今夜は完成した楽曲だ。でもカケルの反応は変わらない。褒められることに、まだ慣れていない。


「……ありがと」


 小さく言った。ほとんど聞こえないくらいの声で。でも聞こえた。カケルが「ありがとう」と言うのを、わたしは初めて聞いた。


 カケルの音楽は、歌舞伎町の記録であると同時に、カケル自身の声だった。カケルは喋らない。教室みたいな場所では透明だったんだろう。家にも居場所がなかった。声を出す場所がなかった。でもカケルは音で喋っていた。イヤホンの中で、スマホの画面の上で、DAWのタイムラインの中で。わたしが文字で喋っているのと同じように。

 表現が人を救う。大げさな言い方かもしれない。でも、カケルにとって音楽は「声」で、わたしにとってメモ帳は「声」だ。声を持っていることと、声を出せることは違う。出せる場所を見つけること。聴いてくれる人を見つけること。それが、救いの形なのかもしれない。


 風が吹いた。屋上の端まで歩いて、新宿の夜景をもう一度見た。都庁の灯り、無数のビルの窓、車の流れ。歌舞伎町の中にいると聞こえる音が、ここからは遠い。代わりに風の音が聞こえる。ビルとビルの間を吹き抜ける風。カケルがもしこの風を録ったら、どんな音楽になるだろう。



 屋上から降りる途中だった。


 鉄の非常階段を一段ずつ降りていく。カケルが前、わたしが後。足元が暗い。スマホのライトで照らしながら降りる。二階の踊り場で、カケルが立ち止まった。


「なぎ」


「なに」


「今度、おれの曲に言葉つけてよ」


 足が止まった。階段の途中で、カケルの背中を見ている。カケルは振り返らない。前を向いたまま言っている。


「言葉って?」


「メモ帳に書いてるやつ。レンから聞いた」


 心臓が跳ねた。レンがカケルに話したのか。わたしのメモ帳のこと。トー横日記のこと。


「え、レンに言ったの」


「レンがグループLINEに送ってた。なぎのメモのスクショ」


 知らなかった。レンがグループLINEにわたしのメモを共有していたなんて。いつ? どれを? わたしがレンに見せたのは先月の夜だ。あの後、レンが勝手にスクショを撮ったのか。


 怒り、ではなかった。驚き。そして、奇妙な恥ずかしさ。わたしの言葉が、わたしの知らないところで、誰かに読まれていた。


「いいじゃん。おれの音に、なぎの言葉。合うと思う」


 カケルの声は淡々としていた。提案というより、確認。カケルの中ではもう決まっているのかもしれない。おれの音となぎの言葉は合う。それは事実だとカケルは思っている。あとはわたしが「うん」と言うだけ。


 でも、言えなかった。


 自分の言葉に価値があるかもしれない。その可能性が、怖かった。メモ帳に閉じ込めている間は安全だ。誰にも見られない。笑われない。評価されない。でもカケルの曲に言葉をつけたら、それは「作品」になる。わたしの言葉が、わたしの手を離れて、誰かの耳に届くものになる。


 中学のLINEグループを思い出した。わたしの顔が加工されて笑い物にされた夜。あのとき、わたしは「見られること」の恐怖を知った。見られることは、傷つくことだ。メモ帳の言葉を外に出したら、またあの恐怖が来るかもしれない。


「……考える」


 それだけ答えた。イエスでもノーでもない。保留。わたしはいつもこうだ。断定を避ける。答えを先延ばしにする。怖いから。


 カケルは「うん」とだけ言った。追及しない。急かさない。カケルはそういう人だ。「別に」と「うん」で世界と折り合いをつける人。わたしが「考える」と言ったら、考える時間をくれる。


 階段を降り切って、路地に出た。歌舞伎町の夜がまた始まる。さっきまで屋上にいた数十分が、別の時間軸にあったみたいだ。ネオンの光、人の声、アスファルトの熱。全部が戻ってきた。


 ルカとレンが待っているローソンに向かう。並んで歩く。カケルはイヤホンを片耳だけ戻した。右耳にイヤホン、左耳は開放。外の音を拾っている。録っているのかもしれない。今この瞬間の歌舞伎町の音を。


 ローソンの前。ルカが「遅かったじゃん」と言った。レンが「何してたの? デート?」とニヤニヤする。カケルが「違う」と短く返す。わたしも「違うよ」と言った。レンが「じゃあ何」。カケルが「曲聴かせた」。レンが「おー、あのやつ? おれっちにも聴かせてよ」。カケルが「そのうち」。


 ルカがわたしを見た。


「どうだった?」


「すごかった」


「そ。カケルすごいでしょ。あの子、ああ見えて天才だから」


 ルカはさらっと言った。天才。ルカにとってカケルの音楽は、とっくに「すごいもの」として認識されている。わたしが今夜初めて聴いたものを、ルカは前から知っていた。


 それなのに、カケルが「なぎに聴かせたい」と選んだ。ルカでもレンでもなく、わたしに。「ちゃんと聴いてくれそうだったから」。その言葉が、まだ耳に残っている。


 午前一時。四人でローソンの前に座って、アイスを食べた。ルカがガリガリ君を選んで、レンがハーゲンダッツを選んで、「レンそれ高くない?」「夏だしいいでしょ」というやりとりがあった。カケルは何も食べなかった。イヤホンをつけたまま、スマホの画面を見ている。曲の波形を眺めているのかもしれない。


 わたしはスイカバーを齧りながら、さっきの曲のことを考えていた。歌舞伎町の音が音楽になること。カケルの手を通ると、ノイズが旋律に変わること。だったら、わたしの手を通ると、日常が言葉に変わるのかもしれない。カケルが「なぎの言葉と合うと思う」と言ったのは、そういう意味なのかもしれない。


 音と言葉。耳と目。カケルとわたし。別々のやり方で、同じ街を記録している。もしその二つが合わさったら、何ができるんだろう。


 怖い。でも、少しだけ嬉しかった。


 自分の言葉に価値があるかもしれないという可能性。それは、カケルの曲を聴いた後では、もう無視できないものになっていた。カケルの音楽がすごいなら、その音楽が「合う」と言ったわたしの言葉にも、何かがあるのかもしれない。


 帰りの始発。カケルとは新宿駅で別れた。カケルはどこかのネカフェに泊まると言っていた。自宅には帰らない日。ルカとレンはまだ歌舞伎町にいる。わたしだけ、埼玉に帰る。


 電車の中で、メモ帳を開いた。書く。


 「カケルは音で喋る。わたしは文字で喋る。二人とも声が小さい。でも、小さい声にも周波数がある。誰かのイヤホンに届く周波数が」


 保存した。窓の外を見る。空が白くなり始めている。歌舞伎町の朝。先週、ルカと一緒に見た朝。今週は電車の中から見る朝。同じ朝なのに、毎週少しずつ違う。


 カケルの「おれの曲に言葉つけてよ」が、頭の中でリピートしている。答えはまだ出ていない。でも、「考える」と言ったのは、断る気がないからだ。本当に嫌だったら「無理」と言っていた。「考える」は、時間が欲しいという意味で、怖いけど嫌じゃないという意味で、たぶん——「うん」の手前にある言葉だ。


 自分の言葉に価値があるかもしれない。その可能性が、怖かった。でも、少しだけ嬉しかった。

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