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第15話 : 歌舞伎町の朝

第15話 : 歌舞伎町の朝


 午前四時半。空の色が変わり始めていた。


 紫。歌舞伎町の朝は、紫から始まる。ビルの輪郭がうっすらと浮かび上がって、ネオンの光が一段階薄くなる。消えたわけじゃない。まだ光っている。でも、空の色に負け始めている。夜の光と朝の光が押し合っている。その境目の時間。


 わたしはネカフェの自動ドアを出て、外の空気を吸った。ひんやりしていた。八月に入ったのに、夜明け前の空気はまだ涼しい。昼間の四十度近い熱が嘘みたいだ。腕に鳥肌が立つ。Tシャツの袖口から入り込む風が、一晩分の疲労を少しだけ洗い流してくれる。

 水で洗われたアスファルトの匂い。どこかの店がもうホースで歩道を流している。その水に混じった洗剤の匂いと、まだ残っている夜の匂い——排水溝、タバコの残り香、誰かがこぼしたビールの甘い発酵臭。二つの匂いが重なっている。夜と朝の匂い。


 夏休みに入って、わたしのトー横通いは頻度が上がっていた。


 金曜だけじゃなく、水曜や木曜にも来るようになった。母さんには「友達のところ」としか言っていない。母さんはもう追及しなくなった。聞いても答えが返ってこないと学んだから。代わりに、冷蔵庫にパックの麦茶と作り置きのおにぎりを補充してくれるようになった。「食べてね」の付箋つきで。


 ルカとレンとカケルは、ネカフェで寝ている。夏休みに入ってからは四人で泊まることも増えた。ペアシートを二つ取って、仕切りを挟んで四人並んで寝る。レンのいびきがうるさい。カケルは寝言で何か呟く。ルカはいちばん遅くまで起きていて、いちばん早く寝落ちする。

 わたしだけ、眠れなかった。


 先週のルカの話が、まだ頭の中にある。壁の穴。拳。保護所。脱走。三年。そして、「わたしがいなくなったら」。あの夜から一週間経っても、ルカの「別に」の声が耳に残っている。だから眠れない夜は、ネカフェを抜け出して歌舞伎町を歩く。一人で。



 歌舞伎町の朝は、別の街だった。


 夜の歌舞伎町しか知らなかったわたしにとって、これは発見だった。ネオンと人混みと客引きの声で構成された夜の街が、朝になると全く違う顔を見せる。


 ゴミ収集車が角を曲がってきた。エンジンの低い唸り。作業員が二人、黒いゴミ袋を次々と荷台に投げ込んでいく。手際がいい。プロの動き。この人たちは毎朝ここに来て、夜の残骸を片づけていく。居酒屋の前に積まれた空き瓶の箱、路上に散らばったチラシ、名前も知らない液体で濡れた紙袋。夜の歌舞伎町が吐き出したものを、朝の歌舞伎町が呑み込んでいく。


 ホストクラブの看板がまだ光っている。ガラスの向こうで男の子たちが笑っている写真。加工された完璧な顔。朝日の中で見ると、その笑顔が少し疲れて見える。昼間にネオンが光っていても気づかないように、朝の中のホストの看板は、夜の文脈を失ってただの写真になっている。


 路地を猫が横切った。三毛。痩せている。歌舞伎町にも猫はいる。夜は人に紛れて見えないけど、朝の静かな時間帯に姿を現す。猫はゴミ袋の横で立ち止まり、わたしを見た。目が合った。猫は興味なさそうに歩き去った。


 コンビニに入った。ローソン。いつもの場所のローソン。店内は蛍光灯が明るくて、冷房が効いていて、深夜と何も変わらない。でも客層が違う。夜はわたしたちみたいな子や酔っぱらいが多いけど、朝はスーツの人がコーヒーとサンドイッチを買っていく。


 おにぎりを一つとカフェオレを買って、外に出た。シネシティ広場のほうに歩く。この時間帯はフェンスの前のベンチに座れる。監視の人がまだ来ていないから。


 ベンチに座って、おにぎりの包装を剥がした。昆布。ルカは先月のファミレスで「なぎは昆布でしょ」と言い当てた。わたしの好みを知っている人がいる。そのことが、コンビニのおにぎりを少しだけ特別なものにしている。


 食べながら、空を見上げた。紫からオレンジに変わっている。ビルの輪郭が、影から形へと変わっていく。歌舞伎町タワーのガラスの外壁が、朝焼けの色を反射してピンクに光っている。夜はネオンを映していたガラスが、朝は空を映している。同じ建物が、時間によって全く違うものを映す。人みたいだ、と思った。


 人の流れが変わっていくのを見ていた。


 始発で帰る人たちが駅のほうに向かっている。スーツが汚れたサラリーマン。ヒールを手に持って裸足で歩く女の人。カラオケのリストバンドをまだ腕につけた大学生ふうの男の子。みんな、疲れた顔をしている。でも足は駅に向かっている。帰る場所がある人たちだ。


 入れ替わりに、出勤の人たちが増えてくる。清掃員のおじさんが歩道にホースで水をかけている。飲食店の店員が搬入口でダンボールを受け取っている。コンビニの店員が入口の看板を出している。この人たちにとって、歌舞伎町は「職場」だ。ネオンでも逃げ場でもない。仕事をする場所。


 わたしたちは夜の側にいる。夜が明けると、この街でのわたしたちの存在感が薄くなる。昼の光は、わたしたちを透明にする。


 教室にいたときと同じだ。昼間の世界では、わたしは透明になる。夜の歌舞伎町でだけ、色がつく。


 それなのに今、朝の歌舞伎町に一人で座っている。夜と昼の狭間の時間。透明ではないし、色がついているわけでもない。ただ、ここにいる。おにぎりを食べて、空を見て、息をしている。それだけのことが、妙に心地よかった。


 スマホを取り出した。メモ帳を開く。書きたいことが溢れている。


 「ゴミ袋は夜の記憶を詰め込んで、トラックに運ばれていく。でも匂いだけは残る。匂いはゴミ袋に入らない」


 書いた。もう一つ。


 「ホストの看板の笑顔は、朝日の中では少し寂しそうに見える。笑うことを強制されている人の顔みたいだ」


 もう一つ。


 「始発で帰る人たちの靴音は、夜の靴音とリズムが違う。夜はゆっくりで、酔っていて、迷っている。朝は速くて、疲れていて、でも方向が決まっている」


 指が止まらなかった。三週間前にレンに「トー横日記」を見せてから、メモ帳に書く量が増えている。前は一日に一つか二つだったのが、今は五つ六つ書く日もある。歌舞伎町の風景を、言葉に変換する速度が上がっている。

 カケルが歌舞伎町の音をスマホで録音しているように、わたしは歌舞伎町の景色を文字で記録している。耳で捉えるカケルと、目で捉えるわたし。方法は違うけど、やっていることは同じだ。この街を、自分のやり方で、留めておくこと。


 「歌舞伎町の朝日は、他のどこよりも切ない。だって、この光が来ると、わたしたちの時間は終わるから。夜の住人は朝日に追い出される。でも、追い出される直前に見る空はきれいだ。悔しいくらい」


 保存した。メモの数を確認する。「トー横日記」のタイトルの下に、もう百を超えるメモが並んでいる。最初の頃に書いた「この家の天井には罅が入っている。三本」から、今朝の「歌舞伎町の朝日は切ない」まで。三ヶ月分のわたしの言葉。

 自室の天井から始まって、歌舞伎町の空に辿り着いている。見ている世界が広くなっている。でも、言葉にすることで何かが変わるのかは、まだわからなかった。



 午前五時を過ぎた。空が完全にオレンジに変わっている。


 ネカフェの方向から、見覚えのある影が歩いてきた。黒髪に赤いメッシュ。長袖のTシャツ。八月なのに長袖。


「あんた、朝から何してんの」


 ルカがあくびをしながら言った。寝癖がついている。左側の髪がぴょんと跳ねている。目がまだ半分閉じている。


「散歩」


「散歩って、ここで?」


 ルカが笑った。その笑い方に、先週の夜の痕跡はなかった。いつもの姉御肌のルカに戻っている。先週の話が夢だったみたいだ。でもわたしは知っている。ルカが長袖を着ている理由を。「仮の話」が仮じゃないことを。知っているけど、触れない。ルカが触れてほしくないものには触れない。


「コーヒー買ってくる。なぎもいる?」


「いる」


 ルカがローソンに入っていった。わたしはベンチに座ったまま、ルカの背中を見ていた。自動ドアが閉じる。ガラス越しにルカがドリンクの棚に向かうのが見える。缶を二本取って、レジに並ぶ。


 数分後、ルカがアイスコーヒーを二本持って戻ってきた。一本をわたしに渡す。冷たい。手のひらに水滴がつく。


「ありがとう」


「いいよ」


 二人で並んでベンチに座って、アイスコーヒーを飲んだ。ストローをくわえて、無言のまま。歌舞伎町の朝が進んでいく。ゴミ収集車が遠ざかっていく。通りを挟んだ向こう側で、居酒屋の店長らしき男の人が看板を仕舞っている。夜が片づけられていく。


「わたしさ」


 ルカが言った。コーヒーのストローを噛みながら。


「歌舞伎町の朝って嫌いだったんだよね」


「なんで」


「夜が終わるのが嫌で。朝が来ると、ここでの時間がリセットされる感じがしてさ。夜のうちは何でも許されるのに、朝になると現実に引き戻される。お前の時間は終わりだよって、太陽に言われてる気がして」


 ルカの言葉を、わたしは静かに受け止めた。ルカにとって夜は安全な時間で、朝は終わりの合図だった。わたしにとっても同じだ。始発の電車に乗るとき、いつも少しだけ心が沈む。夜の「なぎ」が、朝の「凪沙」に戻る時間。


「でもさ」


 ルカがわたしを見た。


「なぎといると、朝も悪くないかも」


 わたしはルカの横顔を見た。朝日が左側から当たっている。赤いメッシュがオレンジ色に光っている。目の下のクマは相変わらず深いけど、口元が少し緩んでいる。


「わたしも」


 それだけ言った。ルカが「ん」と鼻で笑った。


 二人でコーヒーを飲み終わるまで、あと何も喋らなかった。言葉がなくても、隣にいることが十分だった。沈黙が気まずくない相手。それは、わたしにとって初めてのことだった。教室ではいつも沈黙が怖かった。誰かがわたしのことを笑っているんじゃないか、陰口を言っているんじゃないかと。ルカの隣の沈黙は違う。ただ、空を見ているだけ。同じ朝を、同じ場所で見ているだけ。


 空がオレンジから白に変わっていく。太陽がビルの向こうから顔を出す。歌舞伎町の夜が完全に終わる。


「そろそろ戻ろっか。レンたち起きるかも」


 ルカが立ち上がった。わたしも立つ。空き缶をゴミ箱に捨てて、ネカフェに向かって歩き出す。


 そのとき、足元に何かが落ちているのが見えた。


 ベンチの脚の下。白い紙。名刺だった。


 屈んで拾い上げた。少し汚れている。踏まれた跡がある。でも文字は読めた。


 「NPO法人 灯台 白石遥」


 電話番号。メールアドレス。住所は新宿区内。小さな名刺だった。誰かが受け取って、読んで、そして捨てたのだろう。ここに座っていた誰かが。わたしたちと同じように、夜の歌舞伎町にいた誰かが。


 捨てた。この名刺を。


「なぎ、何拾ってんの?」


 ルカが振り返った。わたしは名刺をルカに見せなかった。ポケットに入れた。


「ゴミ。気になっただけ」


 嘘をついた。三つ目のルール。ヤバいときだけは嘘つかない。これはヤバいときじゃない。たぶん。名刺を一枚拾っただけ。それだけのこと。


 でも、ポケットの中の名刺が、指に触れるたびに気になった。白い紙。柔らかい紙。角が少し折れている。


 NPO。支援団体。困っている若者を助ける場所。レンが言っていた。「"話を聞くよ" って近づいてくるやつもやばい」。でもレンが言っていたのは、鶴見みたいな個人の話だ。NPOは組織だ。名刺がある。住所がある。電話番号がある。鶴見の名刺にはメールアドレスしかなかった。この名刺には電話番号がある。


 その違いが何を意味するのか、わたしにはまだわからなかった。ただ、鶴見の名刺をルカが警戒したのと、この名刺をわたしが拾い上げたのは、全然違う感覚だった。鶴見の名刺には引力があった。引き寄せられそうな力。この名刺にはそれがない。ただ静かに、地面に落ちていた。拾っても拾わなくてもいい。でもわたしは拾った。


 なぜだろう。わからない。ルカの話を聞いた後だからかもしれない。保護所を出て、シェルターを脱走して、歌舞伎町に流れ着いたルカの話。その過程のどこかに、こういう名刺を渡す人がいたはずだ。ルカは受け取らなかったのか。受け取ったけど捨てたのか。それとも、渡される前に走り出してしまったのか。


 ネカフェの自動ドアが開いた。冷房の風。消毒液の匂い。ルカが受付でブースの延長をしている。わたしはポケットの中の名刺をもう一度指で確かめた。角が折れた白い紙。灯台。海の灯台みたいだ。暗い中で光を出して、船に「ここにいるよ」と知らせる場所。


 船がその光に向かうかどうかは、船が決める。


 ブースに戻った。レンがまだ寝ている。仕切りの向こうから、規則正しい寝息が聞こえる。カケルのブースは静かだ。イヤホンをつけたまま寝ているのかもしれない。


 薄い布団に横になった。今度は眠れそうだった。先週の夜から持ち越していた重さが、少しだけ軽くなっている。ルカと朝を見たからかもしれない。歌舞伎町の朝は嫌いだとルカが言って、でもなぎといると悪くないとルカが言って。わたしもそう思った。朝が怖くなくなったわけじゃない。でも、怖い朝を一緒に見てくれる人がいる。それだけで、少しだけ違う。


 ポケットから名刺を出した。もう一度、文字を読む。「NPO法人 灯台 白石遥」。知らない名前。知らない場所。でもこの名刺を持っていることが、お守りみたいな気がした。使うかどうかわからない。たぶん使わない。でも、持っていること自体に意味がある。


 メモ帳を開いた。今朝最後のメモを書く。


 「捨てた人がいた。でもわたしは、拾った。その違いが何を意味するのか、このときはまだわからなかった」


 保存した。目を閉じた。


 ネカフェの天井は低い。自宅の天井とは違う。罅はない。代わりに、換気口の蓋が少しだけ開いていて、そこから空調の音がしている。低くて、一定で、途切れない音。カケルならこの音も録るのかもしれない。来週はスピーカーを持ってくると言っていた。新しい曲ができたらしい。カケルが歌舞伎町で録り溜めた音で作った曲。わたしがメモ帳に書き溜めた言葉。二人とも、この街を自分のやり方で記録している。


 誰かに聴いてもらうこと。読んでもらうこと。それは、自分の一部を差し出すことだ。怖い。差し出した先に何かがあるかもしれないけど。


 ポケットの中で、名刺の角が指に触れた。白い紙。柔らかい紙。誰かが捨てたもの。わたしが拾ったもの。この名刺が必要になる日が来るのか、来ないのか。それはまだ、わからなかった。

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