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第14話 : ルカ姉の秘密

第14話 : ルカ姉の秘密


 七月最後の金曜夜。歌舞伎町の湿気は、もう暴力ではなく呪いに近かった。


 肌にまとわりつく空気。吸っても吸っても足りない酸素。汗が乾く前に次の汗が出る。ネカフェの排気口から、消毒液と汗が混ざったような匂いが漏れている。自動販売機のボタンを押した指先がべたつく。缶コーヒーの表面に水滴がびっしりとついて、持つと手のひらが濡れた。

 区役所通り沿いのネットカフェの前。ベンチに座っている。ルカとわたしの二人だけ。


 レンは今日、通信制高校のレポート提出日で来られなかった。LINEに「おれっち真面目にやってるの信じて」と泣き顔のスタンプが添えてあった。カケルは珍しく自宅に帰る日だと言っていた。「親が帰ってくるから」とだけ。カケルが親の話をするのは滅多にない。


 だから今夜は、ルカと二人きりだった。


 自動販売機の白い光が、わたしたちを照らしている。ネオンの色とは違う。蛍光灯に近い、冷たい白。ルカの顔が青白く見える。影が濃い。目の下のクマが、いつもより深い。


「ルカ姉、元気ない?」


 聞いてから、余計なことを言ったかもしれないと思った。ルカは「元気ない?」と聞かれるのが嫌いだ。元気じゃないことを認めたくない人だから。


 ルカは缶コーヒーを片手に、ベンチの背もたれに頭を預けていた。空を見上げている。歌舞伎町の空は狭い。ビルに挟まれた細い帯。星は見えない。飛行機のライトだけが、時々横切る。


「別に」


 短い。ルカの「別に」。それはカケルの「別に」と同じ響きがした。元気のない人は、みんな同じ「別に」を使う。語尾が沈んで、唇が閉じるのが早くて、目が合わない。


 わたしは黙った。聞かないほうがいいときもある。ルカが話したくなったら話す。それがわたしたちのルールだった。追及しない。踏み込まない。「そっか」で済ませる。


 五分くらい、二人とも黙っていた。遠くでカラオケの低音が響いている。酔っぱらいの笑い声。タクシーのクラクション。歌舞伎町の夜のBGM。もう聞き慣れた音。ノイズキャンセリングの逆みたいに、全部の音が入ってくる。でも今夜は、その音の間に沈黙が挟まっている。ルカの沈黙が、夜の音よりも大きい。


 ルカが缶コーヒーを一口飲んだ。


「なぎ」


「うん」


「わたしさ、この街に来て三年になるんだよね」


 三年。わたしがここに通い始めて二ヶ月。ルカは三年。その差が、急に重く感じられた。


「中二のときに家出した。最初のやつ」


 ルカの声が変わっていた。いつもの姉御肌の口調が消えている。ぽつぽつと、途切れながら話す声。ルカが誰かに甘えるときの声じゃない。ルカが何かを手放すときの声だ。


「父親がさ、酒飲むとダメなやつで。普段は普通なの。仕事も行くし、テレビ見て笑うし。でも酒入ると変わる。最初は怒鳴るだけだった。母さんに。うるさいとか、飯がまずいとか。そのうち物を投げるようになって。壁に穴が開いた。二つ。リビングの壁に」


 ルカの声は淡々としていた。感情を抑えているのか、もう感じなくなったのか。壁の穴の話を、天気の話みたいにしている。


「母さんは何もしなかった。見て見ぬふり。わたしが殴られても。あ、わたしにも来たよ、そのうち。最初は押されるだけだったのが、拳になった。顔は殴らないの。お利口でしょ。バレるところは避ける」


 胃が重くなった。ルカの話す言葉の一つひとつが、わたしの身体の中に沈んでいく。石を飲み込むみたいに。


「中二の冬に家出した。友達の家に三日泊まって、友達の親にバレて、そのまま児童相談所に通報された。一時保護所に入った」


 一時保護所。テレビのニュースで聞いたことがある。でも、それがどんな場所なのか、わたしは知らなかった。


「保護所はね、安全だった。殴られないから。でも——自由がなかった。門限がある。スマホは取り上げられる。外出は付き添いなし。"保護" って名前がついてるけど、中身は管理だよ。わたしは "家に帰りたい" って嘘をついて出た。帰りたくなんかなかったのに」


 ルカの声が少しだけ揺れた。「帰りたくなんかなかった」の部分で。


「その後、シェルターに移された。NPOがやってるやつ。保護所よりはマシだった。部屋があって、ご飯が出て、相談員の人が話を聞いてくれた。でもルールが多くて。門限十時。スマホは一日二時間。友達と会うのは報告制。わたしは耐えられなくて、脱走した」


 脱走。その言葉をルカは軽く言った。でも、十代の女の子がシェルターを「脱走」するということの意味を、わたしは考えていた。行く場所がなくて、でもここにもいられなくて、走り出すしかなかった夜のことを。


「で、歌舞伎町に来た。十六のとき。最初は怖かった。でもすぐに慣れた。ここには、わたしみたいな子がいっぱいいたから」


 ルカが缶コーヒーを空にした。空き缶をベンチの横に置く。金属がコンクリートに当たる音が、やけに大きく聞こえた。


 話しながら、ルカの右手が無意識に左腕に触れていた。長袖のTシャツ。七月の夜に長袖。暑くないのかと聞いたとき、「慣れた」と返した。その理由が、今わかりかけていた。


 ルカが長袖の裾を引っ張った。手首のほうに。でも、その動作で逆に袖が少しだけめくれた。前腕の内側。自動販売機の白い光が、そこを照らした。


 細い線が、何本か走っていた。古い傷痕。赤くはない。白っぽく、皮膚の表面より少しだけ盛り上がっている。平行に、等間隔に。


 わたしは見えていないふりをした。目を逸らした。でも、見えてしまった。一瞬だったけど、見えた。


 言葉にしたら、この傷が「本当のこと」になってしまう気がした。今はまだ、わたしが見たものと、ルカが隠しているものの間に、薄い膜がある。その膜を破ったら、もう戻れない。


 ルカも気づいたのかもしれない。袖を引き下ろして、腕を組んだ。


 沈黙。


 遠くで救急車のサイレンが鳴っている。歌舞伎町の夜には、サイレンがよく似合う。赤い光が、建物の壁に反射して消えていく。



「ごめんね、重い話して」


 ルカが笑った。いつもの笑い方に戻ろうとしている。でも、口の形だけで、目が笑っていなかった。


「謝らないでよ」


 口から出た。考えるより先に。


 ルカが少し驚いた顔をした。わたしを見る。わたしもルカを見る。自動販売機の白い光の中で、二人の目が合った。


「ルカ姉が話してくれたこと、わたしはちゃんと聞いてる。ごめんって言わなくていい」


 声は小さかった。でも、震えてはいなかった。わたしの中にある言葉が、初めて誰かのために使われた気がした。自分を守るための言葉じゃなくて、誰かを受け止めるための言葉。


 ルカの目が潤んだ。涙は落ちなかった。ルカは泣かない人だ。泣くことを、ずっと前にやめた人。泣いても何も変わらなかったから。泣いても殴られたから。泣いても母親は助けてくれなかったから。


「あんた、いいこと言うじゃん」


 ルカが笑ってごまかした。でも、さっきの笑顔とは違っていた。口だけじゃなく、目の端が少しだけ緩んでいた。


 わたしはスマホを取り出した。メモ帳を開いて、一つの短文を探す。先週書いたやつ。見つけた。画面をルカのほうに向けた。


 「強い人は、ぜんぶの痛みを知ってる人のことじゃない。痛いのに立ってる人のことだ」


 ルカが画面を見た。黙って読んでいる。わたしはルカの横顔を見ていた。自動販売機の光が、ルカの睫毛の影を頬に落としている。


「あんた、これ書いたの」


「うん」


「何のために?」


「わかんない。書きたくなっただけ」


 ルカが少し笑った。今度は、ちゃんとした笑い方だった。


「あんた、作家になれよ」


「無理だよ」


「無理じゃないよ。こんなの書けるの、才能だって」


 才能。その言葉が、胸の中で小さく弾けた。才能なんて、言われたことがなかった。学校ではテストの点数で評価されて、家では「学校に行けない子」として見られて。誰もわたしの書く言葉を見たことがなかった。レンが先週「すごい」と言ってくれたのと、ルカが今「才能」と言ってくれたのと。同じ言葉じゃないのに、同じ場所に届く。


 ルカがメモ帳の画面をスクロールしようとした。わたしは慌ててスマホを引っ込めた。


「他のも見せてよ」


「それはダメ」


「けち」


「けちじゃなくて、恥ずかしいの」


「恥ずかしいもんが、いちばんいいもんなんだよ。知らないの?」


 知らなかった。でも、ルカの言い方には説得力があった。恥ずかしいものがいちばんいい。それは、隠したいものほど本当のことだ、という意味だと思った。


 わたしたちは少しだけ、さっきまでの重い空気から抜け出していた。ルカの話は終わっていない。傷痕のことも、父親のことも、保護所のことも。でもルカはそれ以上話さなかったし、わたしも聞かなかった。今夜はここまで。それでいい。


 ルカ姉は強い人だと思っていた。初めて会った夜、酔っぱらいを追い払ってくれたルカ。「こっちおいで」と手を引いてくれたルカ。「ファミリー」のルールを決めて、みんなを守ってきたルカ。

 でも違った。ルカは強くなかった。強いふりをしている人だった。壁の穴と、腕の傷痕と、帰る場所がない十六の夜を全部抱えて、それでも立っている人。倒れそうなのに、まだ立っている人。

 それはわたしの「透明のふり」と、きっと同じだ。見えないふりをして、消えたふりをして、痛くないふりをして。ふりをしている人同士が、歌舞伎町のコンビニの前で出会った。それが、わたしたちの始まりだった。



 午前二時を過ぎた。


 空気が少しだけ涼しくなった。風が出てきたのかもしれない。ビルの間を通り抜ける風。湿っているけど、さっきよりは肌に優しい。


 ルカが新しい缶ジュースを買ってきた。二本。わたしにカルピスソーダ。ルカはメロンソーダ。いつもの組み合わせ。


「ねえ、なぎ」


「なに」


「わたしがいなくなったら、あんたはここで大丈夫?」


 心臓が跳ねた。


「いなくなるって何」


 声が硬くなった。自分でもわかるくらいに。ルカの言葉が、ちゃんと聞こえていたのに、もう一度確認したかった。聞き間違いであってほしかった。


「いや、なんでもない。仮の話」


 ルカが缶ジュースを開けながら、軽く言った。仮の話。さっきまであんなに重い話をしていたのに、「仮の話」で片づけようとしている。


「仮の話って、どういう意味」


「だから仮だって。もしもの話。わたしがここにいなくなったら——たとえば、どっか遠くに行くとか。あんたとレンとカケルで、やっていけるかなって」


 ルカの声は軽かった。でも、目がわたしを見ていなかった。缶ジュースの表面を、親指でなぞっている。水滴が筋になって流れていく。


「やっていけるよ。でも、ルカ姉がいたほうがいい」


「そっか」


 ルカが笑った。「そっか」。わたしたちの共通言語。何かを受け止めるときの「そっか」。でも今夜の「そっか」は、いつもと少し違った。受け止めているのか、流しているのか、わからなかった。


 わたしは不安だった。ルカの「いなくなったら」という言葉が、胃の底に石みたいに沈んでいる。仮の話だとルカは言った。でも、ルカの「仮の話」は、いつも仮じゃない気がする。ルカは「仮」という言葉で本音を包む人だ。「もし帰る場所があったら」は「帰る場所がない」の裏返しで、「もしわたしがいなくなったら」は——何の裏返しなんだろう。


 聞けなかった。聞いたら、答えが返ってくるかもしれない。その答えが、わたしには受け止められないかもしれない。


 だから黙った。カルピスソーダを飲んだ。甘くて、少し炭酸が抜けていて、ぬるい。


「なぎ」


「うん」


「さっきの、メモ帳に書いてたやつ。痛いのに立ってる人のことだ、ってやつ」


「うん」


「あれ、わたしのこと?」


 わたしは少し考えた。


「書いたときは、誰のことでもなかった。でも、今はルカ姉のことだと思う」


 ルカが何も言わなかった。缶ジュースを持ったまま、空を見ている。歌舞伎町の細い空。星は見えない。ビルとビルの間に、暗い帯が伸びている。


「あんたの言葉、ちゃんと持ってるよ。ここに」


 ルカが左胸を拳で軽く叩いた。心臓の上。


 わたしは泣きそうになった。でも泣かなかった。ルカが泣かないのに、わたしが泣くわけにはいかない。


 自動販売機の光が、二人を照らし続けている。白くて、冷たくて、でも真っ暗よりはずっとましな光。ルカの笑顔は夜道の街灯みたいだった。全部は照らせないけど、足元だけは見える。それで十分だった。


 始発まであと二時間。わたしたちはベンチに座ったまま、缶ジュースを飲んで、時々話して、時々黙った。ルカの過去の話はもうしなかった。鶴見の話もしなかった。先週のことも、来週のことも。今夜の話は、今夜だけのものだった。


 午前三時半。ルカが「そろそろネカフェ入ろうか。シャワー浴びたい」と言った。わたしは「うん」と答えた。


 立ち上がって、ネカフェに向かって歩き出す。ルカの背中を見ていた。長袖のTシャツ。七月の夜に長袖。その袖の下にあるものを、わたしは今夜見てしまった。でも、見たことをルカには言わない。言わなくていい。ルカが話したいときに、ルカの言葉で話せばいい。


 わたしにできるのは、ここにいることだけだ。ルカの隣に座って、缶ジュースを飲んで、話を聞いて、「謝らないでよ」と言うこと。それだけしかできない。でも、それだけでいいのかもしれない。


 ネカフェの自動ドアが開いた。冷房の冷たい風がわたしたちを迎える。ルカが振り返った。


「なぎ、今日はありがとね」


「何が?」


「聞いてくれて」


 わたしは首を振った。ありがとうと言われるようなことはしていない。ただ座っていただけだ。でもルカは「聞いてくれて」と言った。聞くことが、ルカにとっての「何か」だったのだ。


 ネカフェのブースに入って、仕切りを閉める。狭い空間。スマホの充電ケーブルを挿す。薄い布団に横になる。天井が低い。


 目を閉じたけど、眠れなかった。ルカの声が頭の中で反響している。壁の穴。拳。保護所。脱走。歌舞伎町。三年。長袖。傷痕。


 そして、「わたしがいなくなったら」。


 ルカ姉の「仮の話」は、いつも本当のことだった。わたしはそのことに、もっと早く気づくべきだった。

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