第13話 : カメラの男
第13話 : カメラの男
七月の後半に入ると、歌舞伎町の夏は暴力的になった。
夜の九時を過ぎてもアスファルトが熱を持っている。靴底から温度が伝わってくる。湿度のせいで空気が重く、息を吸うたびに肺に水分が溜まるような感覚がある。ネオンの光も湿っている気がする。赤、青、ピンク、金。ぜんぶが滲んで、歌舞伎町全体がぼやけた水彩画みたいに見える。
居酒屋の排気口から出てくる油の匂い、路上に放置されたゴミ袋から漂う甘い腐臭、すれ違うホストの甘い香水。七月中旬の歌舞伎町は、匂いすら暑い。
「なぎ、いい感じになってきたじゃん」
ルカがわたしを見て言った。ローソンの前。いつもの場所。わたしは半袖のTシャツに、ルカからもらった黒いプリーツスカートを履いていた。レンに教わったアイラインも、前より上手くなった。家の洗面台で毎日練習している。母さんが出かけた後に。
「スカート似合ってるよ。前のジーンズよりぜんぜんいい」
「ルカ姉のだけどね」
「元の持ち主より似合ってんだから、もうあんたのだよ」
ルカが笑った。缶ジュースを片手に、壁にもたれている。今夜も長袖。七月なのに。暑くないのかと聞いたことがあるけど、「慣れた」とだけ返された。それ以上は聞けなかった。
レンが自販機でスポーツドリンクを買って戻ってきた。
「暑すぎない? おれっち溶けるんだけど」
「溶けたら拭いてやるよ」
「ルカ姉ひどくない?」
カケルは少し離れた場所で、電柱にもたれてイヤホンをしている。片耳だけ外しているから、聞こえてはいるのだろう。時々口元がかすかに動く。笑っているのか、音に合わせて何か口ずさんでいるのか。
金曜夜のルーティンが、身体に染みついていた。家を出て、電車に乗って、新宿で降りて、歌舞伎町を歩いて、ローソンの前でみんなに会う。先週、ファミレスで「ファミリー」になった。三つのルールを決めた。一、困ったら言う。二、見捨てない。三、ヤバいときだけは嘘つかない。
あれから一週間。ルールが変えたものはまだない。でも、ルカの笑い方がほんの少しだけ柔らかくなった気がする。わたしの気のせいかもしれない。
二十三時を過ぎた頃だった。
ローソンの前でレンがスマホを見せびらかしていた。新しいメイク動画がバズったらしい。「三百いいねだよ。おれっちインフルエンサーじゃん」と騒いでいる。ルカが「三百でインフルエンサーとか片腹痛い」とツッコんで、レンが「だから伸びしろがあるんでしょ」と返して、カケルが無言でスマホの画面だけ覗き込んでいた。
わたしはそのやりとりを聞きながら、缶ジュースを飲んでいた。七月の夜のカルピスソーダ。ぬるい。自販機で買ったばかりなのに、この湿度では五分で常温になる。
そのとき、視界の端に人影が映った。
先週見た男だった。
黒いジャケットにジーンズ。首からカメラをぶら下げている。ミラーレス一眼。大きなレンズ。先週はタワーの反対側の街灯の下にいた。今夜は、こちらに向かって歩いてくる。
歩き方が落ち着いている。急いでもいないし、ためらってもいない。まっすぐ、わたしたちのほうに。
わたしはルカの腕を引いた。
「ルカ姉」
「ん?」
「あの人。先週の」
ルカの目が細くなった。男を見つめている。男はわたしたちの五メートル手前で立ち止まり、軽く片手を上げた。
「こんばんは。ちょっとだけ、お話しさせてもらえないかな」
声は穏やかだった。低すぎず、高すぎず。聞き取りやすいトーン。笑顔。先週見たのと同じ、穏やかな笑顔。街灯の光がカメラのレンズに反射して、一瞬だけきらりと光った。
レンが顔を上げた。ミキもいつの間にか来ていて、レンの隣に座っている。ミキの地雷系メイクが、ネオンの光を受けて濃い影を作っている。
「誰?」
ミキが小声でレンに聞いた。レンが肩をすくめる。
男がポケットから何かを取り出した。名刺だった。白地にシンプルな黒い文字。ルカに差し出す。
「鶴見恭平といいます。映像クリエイターをやっていて、歌舞伎町のドキュメンタリーを撮ってるんだ」
ルカは名刺を受け取らなかった。手をポケットに入れたまま、男を見上げている。
「ドキュメンタリーって、何の」
「この街にいる若い子たちのリアルな声を届けたいんだ。ニュースとか行政の報告書じゃなくて、当事者の言葉で」
当事者の言葉。その響きが、わたしの中で引っかかった。
鶴見と名乗った男はスマホを取り出して、画面をルカのほうに向けた。SNSのプロフィールページ。フォロワー数は一万を少し超えている。投稿内容は、夜の歌舞伎町のモノクロ写真、路上で暮らす若者へのインタビュー動画の切り抜き、支援活動への寄付の呼びかけ。
「この動画、見てもらえればわかると思うんだけど」
鶴見がスマホをスクロールして、一本の動画を再生した。音量は小さい。画面の中で、十代くらいの女の子がぼかし加工越しに話している。「家にいるのが辛かった」「ここに来て、やっと息ができた」。テロップがついていて、BGMは控えめなピアノ。
「えー、すごい。テレビみたい」
ミキが身を乗り出した。目が輝いている。レンもスマホの画面を覗き込んでいる。
「フォロワー一万って、結構すごくない?」
レンが呟いた。鶴見が「ありがとう。まだまだだけどね」と笑った。
ルカは動かなかった。腕を組んだまま、鶴見の顔をじっと見ている。
「で、何が聞きたいの」
ルカの声は平坦だった。笑顔も警戒もない。ただ事実を確認する声。
「特にテーマは決めてないんだ。君たちが普段どんな話をしているか、どんな気持ちでここにいるか。無理強いはしない。撮影も、顔を出したくない子はぼかすし、声だけでもいい。もちろん同意を得た上でしかしないよ」
丁寧な説明だった。押しつけがましくない。質問があれば答える、という姿勢。鶴見はルカの前に出した名刺を、テーブルの上——コンビニの前に置かれたプラスチックのケースの上に、そっと置いた。
「今日は顔合わせだけ。考えてみてくれたら嬉しい」
鶴見はそう言って、一歩引いた。去ろうとしている。押しすぎない。引き際がいい。
「待って」
ミキが声をかけた。
「あたし、興味ある。話聞いてほしい」
鶴見が振り返って微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ、連絡先を——」
「ミキ」
ルカの声が鋭かった。ミキが肩をびくっとさせた。ルカは鶴見を見ている。
「今日は顔合わせだけって言ったよね。連絡先のやりとりは、また別の話でしょ」
ルカの声には棘があった。でも、怒鳴っているわけじゃない。冷静に、一線を引いている。鶴見は一瞬だけ笑顔が消えた。ほんの一瞬。瞬きするくらいの時間。そしてすぐに笑顔が戻った。
「そうだね。ごめん。焦りすぎた。名刺だけ置いていくから、気が向いたら連絡して」
鶴見は会釈して、歌舞伎町の人混みの中に消えていった。背中が見えなくなるまで、ルカはその方向を見続けていた。
鶴見がいなくなった後、空気が変わった。
「ルカ姉、なんであんなに警戒してんの? ちゃんとした人っぽかったじゃん」
ミキが不満そうに言った。レンも同意するように頷いている。
「フォロワー一万だよ。バズったら、おれたちも有名になれるかもじゃん」
「有名になってどうすんの」
ルカが冷たく返した。
「ちゃんとした人が、こんな夜中に十代のガキに名刺配って歩くわけないでしょ。マスコミだって取材申し込みは昼間にやるよ。夜に来て、路上にいる子に声かけるのは——取材じゃなくて、接触」
ルカの言葉には重さがあった。知識じゃない。経験だ。この街で何年も過ごしてきた人間の、身体で覚えた勘。
「でも、動画見た? ちゃんと顔ぼかしてたし、コメント欄も応援ばっかだったよ」
ミキが食い下がる。ルカが溜息をついた。
「コメント欄が応援ばっかなのは当たり前じゃん。"かわいそうな子たちを助ける僕"を演出すれば、いい人に見えるに決まってる。問題は、カメラの外で何してるかだよ」
沈黙が落ちた。ミキは黙った。レンも口を閉じた。カケルはイヤホンを両耳ともつけていて、この会話に参加していない。
わたしは名刺を見ていた。プラスチックのケースの上に置かれた白い紙。「映像クリエイター 鶴見恭平」。その下にSNSのアカウントとメールアドレス。電話番号はない。
ルカの言うことは正しいと思った。レンが第九話の夜に教えてくれた「危ない大人の見分け方」を思い出す。「ドキュメンタリー撮ってる」と言って近づいてくる大人は警戒しろ。レンがそう教えてくれたのは、レン自身が過去にそういう大人に会ったことがあるからだ。
でも。
鶴見の「当事者の言葉で届けたい」という一文が、頭の隅に残っていた。わたしたちの声を聞きたいと言う大人。それは、教室で無視されたわたしにとって、少しだけ魅力的に聞こえてしまう。母さんはわたしの話を聞かなかった。担任はわたしの訴えを聞かなかった。ルカや レンやカケルは聞いてくれるけど、彼らは大人じゃない。わたしたちの声を外に届ける力を、持っていない。
鶴見は「届ける」と言った。カメラとSNSという道具を使って、わたしたちの言葉を外に出すと。
それが本当だったらいいのに、と思ってしまう自分がいた。
「なぎ」
ルカに声をかけられた。
「名刺、取るなよ」
ルカの声は静かだったけど、指示じゃなくて忠告の響きがあった。わたしは名刺から手を離した。もともと取るつもりはなかった。でもルカには見えていたのかもしれない。わたしの指が、少しだけ名刺のほうに伸びかけていたことを。
「わかってる」
「わかってるならいい」
ルカはそれ以上言わなかった。ポケットに手を入れて、ローソンの壁にもたれ直した。爪を噛む癖が出ている。親指の爪。考えごとをしているときの癖だ。
鶴見のことが、ルカの中で何かに触れている。警戒というよりも、もっと根の深い何かに。ルカがここまで明確に「あの人はダメ」と言う理由が、わたしにはまだ見えていなかった。
始発の電車に乗った。
七月の朝は早い。午前四時台で、もう車窓の外が明るくなっている。空が白く霞んでいる。湿度のせいだ。窓ガラスに結露がうっすらとついていて、指で線を引くと水滴が流れた。
車内はほぼ空席だった。わたしは窓際に座って、スマホを取り出した。
鶴見恭平。検索した。
SNSのアカウントはすぐに見つかった。フォロワー一万二千。プロフィールには「歌舞伎町の若者たちに寄り添う映像制作者」と書いてある。投稿はほぼ毎日。モノクロの写真が多い。歌舞伎町の路地、ネオンの反射、地面に座っている若者の後ろ姿。どれも顔は映っていない。構図がきれいだ。プロっぽい。
動画もいくつかある。「トー横の声」というシリーズ。ぼかし加工の奥で十代の子たちが話している。「親が離婚して、居場所がなくなった」「学校でいじめられて、逃げてきた」「ここに来たら、初めて自分でいられた」。
コメント欄をスクロールした。
「素晴らしい活動ですね。応援しています」「この人のおかげで、トー横の現状を知りました」「鶴見さんの動画で初めて子どもたちの声を聞きました。胸が痛いです」。好意的な反応ばかりだ。批判はほとんど見当たらない。
表面上は、善意の活動だった。
わたしは画面をスクロールしながら、何かを探していた。綻びを。矛盾を。ルカの警戒心を裏づける何かを。でも、見つからない。鶴見のSNSは整っていた。投稿も返信も丁寧で、炎上も問題発言もない。
「いい人なのかもしれない」。そう思いかけた。でもルカの声が頭の中で鳴る。「ちゃんとした人が、こんな夜中にガキに名刺配って歩くわけないでしょ」。
どっちが正しいのか、わからなかった。
ルカの勘を信じるべきか。鶴見の実績を見るべきか。わたし自身の感覚はどっちに傾いているのか。
電車の窓に自分の顔が映っている。アイラインが少し崩れている。一晩中起きていた顔。目の下にクマ。先週と同じ顔。でも、先週とは違うことを考えている。先週はファミレスでの「ファミリー宣言」に浮かれていた。今週は、「ファミリー」の外側から近づいてくる人のことを考えている。
鶴見の動画をもう一本見た。今度はインタビューじゃなくて、鶴見本人が語っている動画。自撮りのアングルで、背景は夜の歌舞伎町。
「僕がこの活動を始めたのは、この街の子たちの声が、どこにも届いていないと感じたからです。メディアは "トー横キッズ" というラベルを貼って、面白おかしく報じる。行政は数字でしか見ない。でも、一人ひとりに名前があって、物語がある。その物語を、僕のカメラで届けたいんです」
一人ひとりに名前があって、物語がある。
その言葉が胸に刺さった。わたしたちは「トー横キッズ」とまとめて呼ばれる。ニュースのテロップに映る集団。でもわたしには名前がある。凪沙。なぎ。ルカにもレンにもカケルにもミキにも、それぞれの名前と事情がある。鶴見はそれを「届ける」と言っている。
嬉しい。素直に、嬉しい。自分たちの声に価値があると言ってもらえることが。
でも、その「嬉しさ」こそが危ないのかもしれない。嬉しいと感じたとき、人は判断力を手放す。飢えているときに差し出された食事を、相手の意図を確かめずに食べてしまうように。わたしたちは声を聞いてほしくて飢えている。その飢えに、鶴見はぴったり合う形で近づいてきた。
偶然か。それとも、計算か。
スマホの画面を閉じた。車窓の外に、住宅街の屋根が流れている。朝の光が白い壁に反射している。歌舞伎町の夜からどんどん遠ざかっていく。
メモ帳を開いた。書く。
「"話を聞きたい" と言われると、嬉しくなる。でも、嬉しくなることが、いちばん危ないのかもしれない。だって、誰かに聞いてもらいたいのは、わたしたちの弱さだから。弱さを差し出すことは、武器を手放すことと同じだ」
書いた。保存した。
でも、書きながら思っていた。ルカは鶴見のことを即座に切り捨てた。あの判断の速さは、ルカが過去に似たような人間に出会ったことがあるからだ。ルカが何を経験してきたのか。長袖の下の傷痕と、あの警戒心がどこから来ているのか。
わたしはまだ、ルカのことを知らない。ルカ姉と呼んで、ファミリーと言って、ルールを決めた。でも、ルカが何を抱えているかを、わたしはほとんど知らない。
電車が最寄り駅に近づいている。窓の外の景色が見覚えのあるものに変わっていく。住宅街。紫陽花はもう枯れかけていて、代わりに朝顔がフェンスに巻きついている。夏の花。
帰ったらシャワーを浴びて、ベッドに倒れて、月曜まで充電する。そしてまた金曜に、あの場所に行く。鶴見がまた来るかもしれない。来なくても、あの名刺はプラスチックのケースの上に残っている。ミキが持って帰ったかもしれない。
スマホが震えた。グループLINEの通知。ルカからだ。
「さっきの男の名刺、誰も持って帰ってないよね?」
レンが返信する。「持ってないよ」。カケルは既読だけ。わたしも「持ってない」と返した。
ルカから返信。「おっけー。あの人が来ても、一人で話しちゃダメ。約束」
約束。先週決めた三つのルール以外の、新しい約束。ルカがここまで念を押すのは、それだけ本気で警戒しているということだ。
わたしは「わかった」と返信した。スマホを閉じて、窓の外を見た。
わかった、と打った。でも、わかっていないことのほうが多い。鶴見が何者なのか。ルカがなぜあそこまで警戒するのか。ミキが鶴見に惹かれた理由。レンがルカに反論しなかった理由。
わたしたちの話を聞きたいと言う大人。それは、いつだって少しだけ魅力的に聞こえてしまう。その魅力が本物の善意から来ているのか、それとも別の何かから来ているのか。見分ける方法を、わたしはまだ持っていなかった。




