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第11話 : 二重生活

第11話 : 二重生活


 七月に入って、梅雨が本気を出した。


 月曜の朝。カーテンの隙間から灰色の光が差し込んでいる。雨の音が窓を叩いている。わたしはベッドの中で目を覚まし、スマホを見る。午前十時半。階下から母さんの気配はしない。もう出勤している。陸も学校だ。この家にいるのは、わたしだけ。

 いつもの朝だ。月曜から木曜まで、この部屋で天井を見て過ごす。起きて、スマホを見て、冷蔵庫のおにぎりを食べて、またスマホを見て、シャワーを浴びて、また寝る。繰り返し。時計の針が進んでいるのか止まっているのか、わからなくなる。


 天井の罅を数える。三本。増えていない。


 でも、月曜から木曜の四日間は、もう以前のような底なしの暗さではなかった。以前は、五日間が真っ白で、何も起きない空白だった。今は違う。四日間の向こうに、金曜日がある。金曜日という目印があるだけで、月曜から木曜の景色が変わる。砂漠の真ん中にオアシスの方角を知っている人は、砂漠にいても歩ける。わたしにとっての金曜日は、そういうものだった。


 スマホが震えた。LINEグループの通知。


 グループ名は「なぎルカレンカケル」。レンが最初に作ったときは「トー横ファミリー」だったのを、ルカが「名前にトー横って入れんな」と怒って変更させたらしい。わたしが入る前の話だ。

 レンが写真を送っている。ラーメンの画像。湯気が立っている。


 「朝ラーしたらマジで天国だった。なぎも来ればよかったのに」


 朝の八時に送っている。レンの生活リズムはめちゃくちゃだ。朝にラーメンを食べて、昼に寝て、夕方から動き出す。通信制高校のスクーリングがある日だけ、普通の時間に起きるらしい。


 ルカからスタンプが返ってきている。猫が「うまそ」と言っているやつ。ルカはスタンプで済ませることが多い。文章を打つのが面倒なのか、言葉を選んでいるのか。たぶん両方。


 カケルは既読だけつけて何も返していない。カケルらしい。


 わたしはラーメンの写真を見ながら返信を打った。


 「美味しそう。お店どこ?」


 送信した。すぐにレンから返事が来る。


 「歌舞伎町のはずれ。金曜に案内するっしょ」


 金曜日。あと四日。カレンダーを見なくても、あと何日かわかっている。身体が金曜日を覚えている。


 このグループLINEを見ている時間が、一日でいちばん穏やかだった。ルカが食べたものの写真、レンがバズった動画を共有、カケルがたまに送ってくる曲の断片。わたしもときどき返信する。「これ美味しそう」「笑った」「いい曲」。短い言葉だけど、以前のわたしには言えなかった言葉だ。自分の感想を、誰かに向けて発信すること。画面の向こうに、受け取ってくれる人がいるということ。



 木曜の夜。鏡の前に立っている。


 明日は金曜日だ。リュックの中身を確認する。財布、充電器、タオル、替えのTシャツ。このルーティンも五回目になると手が勝手に動く。最初の頃は何を持っていけばいいかわからなくて、リュックにペットボトルの水まで入れていた。今は必要なものだけ、迷わず詰められる。

 鏡の中のわたしを見る。パーカーにジーンズ。最初の頃と同じ格好だけど、何かが少し違う。髪をまとめている位置が変わった。レンに「なぎ、髪はこうしたほうが顔まわりすっきりするよ」と言われて、ハーフアップにしてみた。それだけで印象が変わる。


 母さんが階下から声をかけた。


「凪沙、明日も友達のところ?」


「……うん」


「何時に帰るの」


「土曜の朝」


 沈黙。数秒。テレビの音が聞こえる。


「わかった。気をつけてね」


 母さんはそれ以上聞かなくなった。最初の頃は「友達って誰」「どこに泊まるの」「連絡先教えて」と質問が続いた。でも、聞くたびにわたしが殻に閉じこもるのを見て、追及をやめたらしい。母さんなりの妥協だ。聞かないでいること。それは優しさのようで、問題を先送りにしているだけだと、わたしにはわかっていた。

 でも、聞かれないことに救われている自分もいた。嘘をつくとき、詳しく聞かれるより「わかった」で終わるほうが楽だ。罪悪感は軽くならないけど、嘘の回数が減る分だけ、呼吸が一回分楽になる。



 金曜夜の歌舞伎町。七月の夜はまだ蒸し暑い。


 梅雨の湿気にアスファルトの熱が加わって、空気が重い。Tシャツの背中が汗で貼りつく。歌舞伎町の匂いが鼻に押し寄せてくる。焼き鳥、排水溝、どこかのビルの換気扇から出てくる油の匂い。もう慣れた匂い。最初の頃は「テレビで見るのと匂いが違う」と思ったこの匂いが、今は「帰ってきた」の匂いに変わっている。


「なぎ、今日メイクしてきたでしょ」


 レンがわたしの顔を覗き込んだ。ローソンの前。いつもの場所。ルカは壁にもたれて缶ジュースを飲んでいる。カケルは少し離れた場所でイヤホンをしている。いつもの光景。


「……ちょっとだけ」


「ちょっとじゃないじゃん。アイラインちゃんと引いてるし。おれっちが教えたやつでしょ」


 先週、レンがわたしにメイクを教えてくれた。コンビニの化粧品コーナーで安いアイライナーを選んで、ネカフェのトイレの鏡で「こうやって引くの。目尻をちょっとだけ跳ね上げるの」と実演してくれた。わたしは不器用で、何度もはみ出して、レンが「ティッシュ、ティッシュ」と笑いながら拭いてくれた。

 今日は家の洗面台で練習してきた。母さんが出かけた後に、鏡の前で三十分。まだぎこちないけど、先週よりはましになった。


「なぎ、似合ってるよ。もうちょっと練習したら完璧」


 レンの言葉が嬉しかった。学校では誰もわたしの外見を褒めなかった。中学では容姿を揶揄する動画を撮られた。見た目に関する言葉は、わたしにとってずっと凶器だった。でもレンの「似合ってる」には棘がない。


 ルカが近づいてきて、紙袋をわたしに渡した。


「これ、あげる。サイズ合わなくなったやつ」


 中身は黒いプリーツスカートだった。ルカがときどき着ていたやつ。


「いいの?」


「あたし最近太ったから入んないの。なぎのほうが細いし。似合うと思う」


 スカートを広げてみた。膝上くらいの丈。わたしは学校ではジーンズかジャージしか履かなかった。スカートを履くのは中学の制服以来かもしれない。


「今度履いてきなよ。レンにメイクしてもらってさ」


 ルカが言った。わたしは「うん」と答えた。


 「なぎ」が変わっていく。パーカーにジーンズの「なぎ」が、メイクをして、スカートを履く「なぎ」になっていく。地雷系に寄っていく——とまでは言わないけど、歌舞伎町の夜に馴染む見た目に近づいていく。

 変装みたいだ、と思った。「なぎ」は凪沙とは違う。なぎはアイラインを引ける。なぎはスカートを履ける。なぎは「似合うよ」と言われて素直に喜べる。透明じゃない。色がついている。

 でもそれは、瀬川凪沙が色を手に入れたわけじゃない。「なぎ」という別の器に色を塗っているだけだ。月曜から木曜の凪沙は、相変わらず透明のままベッドに沈んでいる。



 深夜。四人で歌舞伎町を歩いた。


 七月の夜は、歩いているだけで汗をかく。レンが自販機でスポーツドリンクを買って、四人で回し飲みした。ルカが「汚い」と言いながら飲んで、カケルが無言で受け取って一口だけ飲んだ。わたしも飲んだ。同じペットボトルに四人の唇がつく。学校では絶対にしなかったこと。でもここでは自然にできる。


 ルカのグループの中で、わたしのポジションが固まりつつあった。口数は少ない。でも、時々言う一言に、みんなが反応してくれる。


 レンが道端のポスターを見て「このホストのヘアスタイル、ヤバくない?」と笑ったとき、わたしが「風の強い日にアイス落としたみたい」と言ったら、レンが爆笑した。


「なぎのそういうとこ好き。黙ってるけど見てるよね、全部」


 見ている。観察している。歌舞伎町の夜を。すれ違う人たちの靴を。ネオンの色が路面の水たまりに映る角度を。客引きの声のトーンが時間帯で変わることを。ルカの缶ジュースを握る手の力加減を。レンが笑うときに少しだけ左に傾く癖を。カケルがイヤホンを外すタイミングを。

 全部見ている。そして、メモ帳に書いている。


 最近、書く量が増えていた。トー横での出来事だけじゃない。ルカの台詞、レンの笑い方、カケルの沈黙、歌舞伎町の夜の匂い、朝の光、始発の電車の揺れ。書くことが多すぎて、メモ帳のスクロールが長くなっている。

 それはもう日記じゃなかった。日記なら「今日はこれをした」で終わる。わたしが書いているのは、見たものと感じたことの断片。物語のかけらみたいなもの。自分でもそれが何なのかわからないまま、指が動いて文字が並んでいく。


 書いているとき、わたしは透明じゃない。言葉が、わたしの輪郭を画面の上に描いてくれる。



 午前三時。レンとカケルがネカフェに行った。


 ルカとわたしが残った。コンビニの前。七月の深夜三時は、まだ生ぬるい風が吹いている。湿度が高くて、肌がべたつく。缶ジュースの表面に水滴がついている。


「なぎ、家のこと大丈夫?」


 ルカが聞いた。缶ジュースを見つめたまま。わたしのほうは見ていない。ルカはこういう聞き方をする。目を合わせると相手が構えるから、視線を外して聞く。

 先週、母さんに泣かれた話はしていない。「学校行ってないのに友達なんているの」と言われた話も。ここでは家のことを話す必要がない。でもルカは聞いてくれる。聞くだけで、踏み込まない。


「大丈夫じゃないけど、大丈夫」


 口から出た言葉に、自分で驚いた。矛盾している。大丈夫じゃないのに大丈夫って、日本語として破綻している。でも、この感覚にはこの言い方しかなかった。


 ルカが少し笑った。


「うん、わかる。その感じ、すっごいわかる」


 ルカも缶ジュースを飲んだ。二人で黙った。沈黙が、心地よかった。


「大丈夫じゃないけど大丈夫」。この矛盾したフレーズが、わたしとルカの間の共通言語になった。母さんには通じない言葉。先生にも通じない言葉。でもルカには、一発で通じる。「大丈夫じゃない」の部分を受け止めてくれて、「大丈夫」の部分を信じてくれる。両方を同時に持っていい。どちらかを選ぶ必要がない。


 ルカが缶ジュースを飲み干して、空き缶を横に置いた。


「あんたさ、最近変わったよね」


「変わった?」


「うん。最初来たとき、声ちっちゃくて、目も合わせられなくて。今は笑うし、メイクもしてるし。レンと喋るときとか、全然違う」


「そう、かな」


「自覚ないの? それがなぎのいいとこだけど」


 変わった。そうかもしれない。でもそれは「なぎ」が変わっただけだ。金曜夜の「なぎ」は笑える。喋れる。メイクをして、スカートを履いて、ルカの横に座って缶ジュースを飲める。

 でも月曜から木曜の「凪沙」は変わっていない。ベッドの中で天井を見て、冷蔵庫のおにぎりを一つ食べて、母さんの足音を聞いて息を止める。食事の量は減っている。体重計には乗っていないけど、パーカーの中で身体が泳いでいる感覚がある。

 陸が先週、わたしの顔を見てぽつりと言った。「姉ちゃん、最近痩せた?」。わたしは「そう?」と返した。陸は何も言わなかった。でも目が心配していた。あの目を見ると、胃の奥がきゅっとなる。陸にまで心配をかけている。でも、心配をかけないためには、何をすればいいのかがわからない。


 二重生活の代償は、月曜から木曜の無気力として現れていた。金曜に全部のエネルギーを注いで、土曜に帰って倒れて、日曜から木曜まで充電する。充電が終わるのが木曜の夜で、金曜にまた放出する。サイクル。回すたびに、充電に必要な時間が長くなっている気がする。


 でも、やめられない。



 始発の時刻が近づいてきた。


 空の端が明るくなっている。灰色と紫が混ざった色。七月の朝は早い。四時半にはもう薄明るい。ゴミ収集車のエンジンが遠くで唸っている。ホースの水音。洗い流されていく歌舞伎町。

 レンとカケルがネカフェから出てきた。四人でコンビニのおにぎりを食べた。わたしは昆布。ルカはツナマヨ。レンは鮭。カケルは明太子。毎週同じ。変わらない。この変わらなさが、安心だった。


 始発の時間。新宿駅に向かう。ルカが片手を上げる。レンが手を振る。カケルが目だけ向ける。いつもの別れ方。五回目で、もう儀式みたいに定着している。


「また来週」


 わたしが言うと、レンが笑った。


「当たり前じゃん。なぎがいないと始まんないっしょ」


 わたしがいないと始まらない。その言葉が胸に残った。学校では、わたしがいなくても何も変わらなかった。教室はわたし抜きで回っていた。わたしの席が空いていても、誰も気にしなかっただろう。でもここでは「いないと始まらない」と言ってくれる人がいる。


 駅に向かって歩きながら、スマホのメモ帳を開いた。書きたいことがあった。電車に乗る前に、忘れないうちに。


 「大丈夫じゃないけど大丈夫。この言葉が通じる人がいる。通じるというのは、翻訳しなくていいということだ。母さんに説明するには百の言葉が必要なことが、ルカ姉には七文字で届く」


 書いた。保存した。メモ帳の一覧をスクロールすると、「トー横日記」のメモが画面に収まりきらないほど増えている。いつの間に、こんなに書いていたのか。


 電車に乗った。窓際の席。車窓に映る自分の顔を見る。アイラインが少し滲んでいる。汗のせいだ。目の下にクマ。一晩中起きていた顔。でも口元が、ほんの少し上がっている。笑った残像みたいに。


 わたしは「二重生活」をしている。

 月曜から木曜は、瀬川凪沙。天井の罅を数える女の子。母さんの溜息を聞く女の子。透明で、無気力で、おにぎりを一個食べるのがやっとの女の子。

 金曜の夜は、なぎ。アイラインを引いて、スカートを履いて、缶ジュースを回し飲みする女の子。「名前のない場所」と言って笑われる女の子。「いないと始まらない」と言われる女の子。


 どっちが本当のわたしなんだろう。

 部屋で天井を見ている凪沙。地べたで空を見ているなぎ。同じ人間なのに、同じ目で世界を見ているのに、見えている景色がまったく違う。凪沙の目には灰色の天井が映り、なぎの目にはネオンの光が映る。


 どっちも本当で、どっちも嘘かもしれない。凪沙は本当に無気力なのか。なぎは本当に元気なのか。凪沙が透明なのは、なぎに全部の色を渡しているからじゃないのか。なぎが輝いているのは、凪沙の分まで光を集めているからじゃないのか。


 電車が揺れる。住宅街の屋根が流れていく。七月の朝は湿度が高くて、車窓の外が霞んで見える。


 メモ帳を開いた。書く。


 「二人のわたしがいる。片方は声を失くした透明人間。もう片方は、ネオンの下で息ができる子。いつか二人が出会ったとき、わたしは何になるんだろう」


 書いた後、画面を見つめた。答えは出ない。出る気配もない。ただ、この問いを持っていること自体が、以前のわたしにはなかったものだ。天井の罅を数えるだけだった頃は、問いすら浮かばなかった。「わたしは何になるんだろう」と考えられるようになったこと。それは、前に進んでいるのか、それとも引き裂かれているだけなのか。


 最寄り駅に着いた。改札を出る。住宅街の朝。梅雨の雲が低い。紫陽花が重たそうに咲いている。家に帰る。玄関のドアを開ける。母さんは出勤前で、台所にいる。


「おかえり」


「ただいま」


 母さんはそれ以上何も聞かなかった。わたしも何も言わなかった。靴を脱いで、階段を上がって、自室のドアを閉めた。


 ベッドに倒れ込む。天井を見る。罅。三本。


 金曜夜のなぎが消えて、月曜の凪沙に戻っていく。アイラインの残りを洗い流したら、鏡の中にはいつもの顔がある。色のない顔。来週の金曜まで、また四日間。この部屋で、天井を数えて、メモ帳をスクロールして、グループLINEの通知を待つ。


 でも来週は、ルカがラーメン屋に連れていってくれるかもしれない。レンがメイクの新しい技を教えてくれるかもしれない。カケルが新しい曲を聴かせてくれるかもしれない。四人で何かが起きるかもしれない。そう思うだけで、天井の罅が少しだけ遠くなる。


 目を閉じた。二人のわたしが、まぶたの裏で重なっている。透明な凪沙と、ネオンに染まったなぎ。まだ出会えていない。でも、同じ身体の中にいる。同じ心臓が、二人分の血を送っている。

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