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第10話 : 帰る場所、帰りたくない場所

 第10話 : 帰る場所、帰りたくない場所


 歌舞伎町の朝は、水の音で始まる。


 清掃員がホースで歩道を洗っている。アスファルトの上を流れていく水が、夜の匂いを薄めていく。焼き鳥の煙も、排水溝の湿気も、香水の甘さも、全部が水に押し流されて、朝の匂いに変わる。濡れたコンクリートと、どこかのパン屋の焼きたての匂い。六月の終わりの朝は、もう明るい。空は曇っていて、梅雨の灰色をしているけど、ネオンより強い光が東の空から差してきている。

 ネオンが消えていく。赤が消え、ピンクが消え、金が消え、最後まで残っていた青白い看板の灯りも、朝の光に溶けていく。夜の街が、昼の街に上書きされていく。


 わたしはローソンの前で立ち上がった。始発の時刻が迫っている。ルカはもう少しここにいると言った。カケルはネカフェに移動するらしい。レンはとっくに帰った。

 朝の歌舞伎町を歩く。夜とは人種が違う。スーツ姿の人が増えている。コーヒーカップを片手に早足で歩く人。始発で帰る酔客がふらふら歩いている。ゴミ収集車がエンジンをかけて、ゴミ袋を飲み込んでいく。ゴミ袋は黒くて膨らんでいて、夜の残骸みたいだ。

 わたしもこの街の夜の残骸かもしれない。始発で帰る子ども。夜の歌舞伎町にいて、朝になると消える存在。清掃員のホースで洗い流される前に、自分の足で去っていく。


 一番街のアーチをくぐって、新宿駅に向かう。空気が湿っている。梅雨の朝は、肌にまとわりつく重さがある。Tシャツの背中が汗で少し湿っている。夜通し座っていたせいで、腰が痛い。足が重い。身体全体に、夜の疲労が沈殿している。

 でも、心は不思議と軽かった。先週もそうだった。先々週も。身体は疲れているのに、帰りの電車に乗るとき、わたしはいつも少しだけ浮いている感じがする。歌舞伎町の地面に座っていた重さが消えて、代わりに言葉が残っている。メモ帳に書いた言葉。「名前のない場所」。あの言葉が、わたしの中でまだ温かい。



 新宿駅のホーム。始発の電車を待つ。


 早朝のホームにはまばらな人影がある。酔い覚ましのサラリーマンがベンチに座って、スマホを見ている。作業着の人がコーヒーの缶を握っている。わたしはホームの端に立って、線路を見下ろした。

 スマホを取り出す。母さんのLINE。「まだ帰ってこないの?」。夜中の一時に送られたメッセージ。さっき既読にしてしまった。返信はしていない。

 母さんは起きているだろうか。先週は寝ていた。先々週はリビングの灯りがついていたけど、ソファで寝落ちしていた。今週は既読をつけてしまったから、わたしがスマホを見ていることが伝わっている。起きて待っているかもしれない。

 胃の底に重いものが沈んでいく。罪悪感。この感覚はもう四回目だ。毎週、始発の電車に乗るたびに、罪悪感が胃の底に沈む。重くて、冷たくて、溶けない。歌舞伎町にいるときは感じない。帰りの電車に乗った瞬間から、それは始まる。


 電車が来た。乗り込んで、端の席に座る。車内はがらがらで、蛍光灯の白い光が目に刺さる。窓ガラスに自分の顔が映っている。クマが濃い。唇が乾いている。一晩中起きていた顔。毎週同じ顔。

 目を閉じた。電車の揺れに身を任せる。


 歌舞伎町では呼吸ができた。名前を呼ばれた。言葉を褒められた。「名前のない場所」と言ったら、ルカが笑ってくれた。レンが「すごい」と言ってくれた。カケルが曲にしたいと言ってくれた。あの場所にいると、わたしは透明じゃなくなる。

 でも帰りの電車に乗ると、透明に戻っていく。窓ガラスに映る自分の顔がどんどん薄くなって、向こう側の住宅街の屋根が透けて見えるような気がする。


 電車が最寄り駅に着いた。


 駅から家まで、歩いて十二分。


 住宅街の朝は静かだった。犬の散歩をしている人とすれ違った。ジョギングしている人が追い抜いていった。カーテンが開いている家がある。朝食の匂いがどこかの窓から漏れてきている。トーストが焼ける匂い。味噌汁の匂い。普通の朝。普通の住宅街。わたしが三週間前まで普通に暮らしていた場所。

 でも今のわたしにとって、この「普通」は異物だった。歌舞伎町のネオンに慣れた目には、住宅街の朝が白すぎる。静かすぎる。清潔すぎる。まるで消毒液で拭かれたみたいに、何の匂いもない。


 家が見えてきた。二階建ての建売住宅。築十五年。外壁のクリーム色が少しくすんでいる。庭に母さんが植えた紫陽花が咲いている。梅雨だから、青い花が雨に濡れて重たそうに頭を垂れている。


 玄関に立った。ドアの向こうから、テレビの音が聞こえる。起きている。母さんが起きている。

 深呼吸した。鍵を回す。ドアを開ける。


 リビングの灯りがついていた。テレビがつけっぱなしになっている。朝のニュース番組。天気予報の声が聞こえる。「今日も引き続き梅雨前線の影響で」。

 ソファに母さんが座っていた。パジャマのまま。髪がぼさぼさで、顔が疲れている。目の下にクマ。わたしと同じ顔をしている。眠れなかった夜が、顔に刻まれている。


 母さんがわたしを見た。テレビのリモコンを持ったまま、ソファから半分立ち上がりかけて、また座った。


「凪沙」


 名前を呼ばれた。「なぎ」じゃなくて「凪沙」。フルネーム。母さんは愛称で呼ばない。いつもフルネーム。瀬川凪沙。わたしの本名。あの場所では隠している名前。


「どこ行ってたの」


 母さんの声は低かった。怒っているのか、疲れているのか、わからない。両方かもしれない。


「友達のところ」


「友達って、誰」


 聞かれた。先週まで聞かなかった質問。母さんは先週まで「友達のところ」で納得してくれていた。今週は、踏み込んできた。


「学校の子?」


「ううん」


「じゃあ誰? 中学のとき?」


「違う。別の友達」


「別って、どこの?」


 わたしは答えられなかった。歌舞伎町の友達です、とは言えない。トー横で知り合った子たちです、とは言えない。母さんがニュースで見たことがあるであろう「トー横キッズ」という言葉が頭をよぎった。あれを聞いたら、母さんはどんな顔をするだろう。


「凪沙」


 母さんの声が震えた。


「学校行ってないのに、友達なんているの」


 その一言が、胸に刺さった。

 母さんは悪意で言ったのではないと思う。純粋な疑問だったのだと思う。不登校の娘が「友達のところにいた」と毎週末言う。学校に行っていないのに、友達がどこにいるのか。当然の疑問だ。

 でも、「学校行ってないのに友達なんているの」という言葉は、わたしにとって別の意味を持っていた。学校に行かないお前に友達がいるわけがない。お前には友達を作る資格がない。お前は、一人でいるべき人間だ。

 母さんはそこまで言ったわけじゃない。でもわたしの耳は、そう変換してしまった。「あなたにも原因がある」と言ったときと同じだ。母さんの言葉は、わたしの中で歪む。歪んだ形で刺さる。


「いるよ」


 声が出た。小さかったけど、出た。


「いるよ。友達」


 母さんがわたしを見ている。信じていない目。信じたいのに信じられない目。


「どこの子なの。どこで会ったの」


「それは……言えない」


「なんで言えないの。何かやばいことしてるの。ねえ、凪沙。お母さん、心配で」


 母さんの目に涙が溜まった。まばたきした瞬間に、一粒こぼれた。


「心配してるのよ。毎週末いなくなって、朝まで帰ってこなくて。LINEも返してくれないし。学校にも行かないし。お母さん、何がどうなってるかわからないの」


 涙が止まらなくなっていた。声を抑えながら泣いている。鼻をすする音。テレビの天気予報の声が、泣き声の隙間で流れ続けている。


 わたしは立ったまま、母さんを見ていた。

 泣いている母さんを。


 悪いのはわたしだ。母さんを泣かせている。嘘をついて、毎週末いなくなって、朝まで帰らない。心配させている。苦しめている。母さんは何も悪いことをしていない。夜通し起きてわたしを待っていた。LINEを送って、返信を待っていた。わたしが帰ってくるのを、ソファで待っていた。

 悪いのはわたしだ。


 でも。


 あの場所にいると、息ができる。

 この家にいると、息ができない。


 その矛盾が、わたしの中で引き裂くように共存していた。母さんを泣かせている罪悪感と、あの場所にいたいという欲求。両方が本物で、どちらも消せない。片方を選ぶことは、もう片方を殺すことだ。


「ごめん」


 声に出た。それしか言えなかった。


「ごめんね。心配かけて」


 母さんが顔を上げた。涙で目が赤い。わたしの顔を見ている。何かを言いたそうにしている。でも言葉が出てこないらしく、唇が小さく動いただけだった。


「部屋に、行くね」


 わたしはリビングを離れた。階段を上がる。自分の部屋のドアを開ける。閉める。ベッドに倒れ込む。布団に顔を埋めた。


 泣けなかった。泣きたいのに、涙が出ない。歌舞伎町では泣かなかった。ルカの「そっか」を聞いたとき、泣きそうになったけど泣かなかった。今も泣けない。涙が出ないまま、胸の奥がぎゅっと締まっている。呼吸が浅い。歌舞伎町では深く息が吸えたのに、この部屋では肺の底まで空気が届かない。


 天井を見た。罅が三本。変わっていない。何も変わっていない。この部屋も、この家も、母さんの涙も。変わったのは、わたしだけだ。歌舞伎町を知ってしまったわたしだけが変わって、この家は三週間前のまま止まっている。



 スマホが震えた。LINEの通知。


 陸からだった。


 「姉ちゃん、おかえり」


 弟の陸。中1。この家でわたしが唯一、呼吸できる相手。陸は二階にいたはずだ。わたしが帰ってきたことを、足音で気づいたのだろう。でも降りてこなかった。母さんの前では何も言わない。二人きりのときにだけ、LINEで声をかけてくれる。この子なりの距離感。踏み込みすぎない優しさ。


 「ただいま」


 返信した。すぐに既読がつく。


 「大丈夫? 母さんずっと起きてた」


 知ってた。テレビの音がずっとしていたから。母さんが夜通し起きてわたしを待っていたことを、陸も自分の部屋から聞いていたのだろう。


 「ごめんね」


 また「ごめん」を打っている。母さんにも「ごめん」。陸にも「ごめん」。わたしの語彙から、「ごめん」以外の言葉が消えていく。歌舞伎町では「名前のない場所」と言えるのに、この家では「ごめん」の三文字しか出てこない。


 陸からの返信。


 「姉ちゃんが謝ることじゃないけど。気をつけてね」


 画面がにじんだ。涙だった。母さんの前では出なかった涙が、陸のLINEで出た。「姉ちゃんが謝ることじゃない」。その一文が、わたしの何かを緩ませた。

 陸は聞かない。どこに行っていたのかも、誰と会っていたのかも。「気をつけてね」とだけ言う。ルカの「そっか」に似ている。追い詰めないで、受け止めて、それだけで終わらせる。この子は十三歳なのに、大人より距離感を知っている。


 スマホを胸の上に置いて、天井を見た。罅。三本。


 母さんはわたしを心配している。それは本当だ。嘘じゃない。母さんはわたしのために夜通し起きていた。LINEを送った。泣いた。

 でも、母さんの心配はわたしを楽にしない。母さんの涙はわたしの罪悪感を増やすだけで、わたしの息苦しさは解消しない。母さんが泣けば泣くほど、わたしは「悪い子」になる。悪い子のわたしは、ますますこの家にいられなくなる。母さんの心配が、わたしを追い出しているのだと、母さんは気づいていない。

 母さんが悪いわけじゃない。わたしが悪いわけでもない。たぶん、誰も悪くない。ただ、わたしと母さんの間には言葉が足りなくて、足りない言葉の隙間に誤解が溜まって、誤解が壁になっている。壁の向こう側で母さんが泣いていて、壁のこちら側でわたしが黙っている。


 母さんに「歌舞伎町に行ってる」と言ったら、どうなるだろう。

 想像した。母さんの顔が青ざめる。「歌舞伎町」という単語を聞いた瞬間、母さんの頭にはニュースの映像が浮かぶだろう。トー横キッズ。補導。薬物。犯罪。母さんは叫ぶかもしれない。「何してるの」と。わたしは「友達がいるの」と言うだろう。母さんは「そんなの友達じゃない」と言うだろう。

 会話が成立しない。わたしの「友達」と母さんの「友達」は、意味が違う。母さんの「友達」は学校のクラスメイトで、放課後にファミレスに行って、LINEで宿題の相談をする相手だ。わたしの「友達」は歌舞伎町の路上で出会った子たちで、コンビニのおにぎりを分け合って、地べたに寝転がって空を見る相手だ。

 同じ言葉なのに、指しているものが違う。だから「友達のところ」と言っても、母さんには伝わらない。伝わらないから嘘になる。嘘をつくから罪悪感が溜まる。罪悪感が溜まるから、もっと伝えたくなくなる。悪循環だった。


 眠くなってきた。一晩中起きていた身体が、布団の温度に溶けていく。目が閉じかけた。スマホがもう一回震えた。


 陸からだった。


 「姉ちゃん、朝ごはん冷蔵庫にあるよ。母さんが作ってた」


 母さんが朝ごはんを作っていた。泣きながらわたしを問い詰めた母さんが、冷蔵庫にわたしの朝ごはんを入れていた。わたしを心配して、泣いて、怒って、でも朝ごはんは作る。それが母さんだ。「あなたにも原因がある」と言う人で、夜通し起きてわたしを待つ人で、冷蔵庫におにぎりを入れてくれる人。矛盾しているようで、矛盾していない。母さんはただ不器用なだけだ。愛情の出し方がわからないだけだ。

 わたしもわからないけど。


 目を閉じた。意識が遠のいていく。最後に考えたのは、来週のことだった。


 来週の金曜日が来る。また母さんに嘘をつく。また歌舞伎町に行く。また朝まで過ごす。また始発で帰る。また母さんの顔を見る。また「ごめん」と言う。

 やめればいいのに。歌舞伎町に行くのをやめればいいのに。そうすれば母さんは泣かないし、陸も心配しないし、わたしも罪悪感に潰されない。簡単な話だ。

 でも、やめたら、息ができなくなる。この部屋で、天井の罅を数えるだけの日々に戻る。月曜から金曜まで、何も変わらない五日間。誰にも名前を呼ばれない五日間。透明なまま、溶けていく五日間。

 それは無理だ。あの場所を知ってしまった今、あそこに行かずにいることは、もう無理だ。


 歌舞伎町のコンクリートの硬さを。レンの笑い声を。ルカの「座りな」を。カケルのイヤホンから流れる音を。おにぎりの塩味を。ビルの隙間から見えた細い空を。

 あれを知ってしまったら、もう戻れない。


 眠りに落ちる直前、頭の隅で思った。


 帰ってきた。でもここが「帰る場所」なのか、まだわからない。天井の罅がある部屋。母さんの涙がある家。冷蔵庫のおにぎりがある台所。全部がわたしの家だ。わたしの住所がここにある。でも住所があることと、帰りたい場所であることは、同じじゃない。

 あの地べたのほうが、わたしの場所だった。あの硬くて冷たいコンクリートのほうが、わたしの身体に合っていた。


 来週の金曜が、また来る。わたしは、また行くだろう。母さんを泣かせることを知っていても。

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