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第1話 ネオンの匂い

第1話 ネオンの匂い


 ネオンの匂い


 歌舞伎町の夜は、匂いから始まる。


 改札を出た瞬間、それは押し寄せてきた。焼き鳥の煙、排水溝の湿った空気、すれ違う人の香水、タバコの残り香。全部が混ざって、ひとつの大きな匂いになっている。

 テレビで見るのと、匂いが違う。

 当たり前のことなのに、わたしはそれに驚いていた。


 六月の夜は蒸し暑くて、パーカーの背中がもう汗で貼りついている。リュックの肩紐を握りしめて、地下道から吹き上がる風に目を細めた。生ぬるくて、甘くて、少し腐ったような風。新宿の地下には何かが溜まっている気がする。人の体温とか、排気ガスとか、行き場のないものが全部。


 東口の階段を上ると、夜の空気が顔にぶつかった。

 金曜の夜の新宿は、人が川みたいに流れている。スーツの男の人、ヒールの高い女の人、外国人の観光客がスマホを構えて立ち止まる。その隙間を、わたしはすり抜けていく。誰もわたしを見ていない。パーカーにジーンズ、リュックひとつ。制服じゃないから、高校生には見えないと思う。たぶん。


 靖国通りの信号待ちで、スマホの地図アプリを確認した。青い点が、わたしの現在地。歌舞伎町の入口はすぐそこだった。

 信号が変わる。人波に押されるように横断歩道を渡る。左側からホストの呼び込みの声が聞こえた。


「お時間あります? いい店ありますよ」


 わたしじゃない。わたしの後ろを歩いていた女の人に声をかけている。当たり前だ。こんなパーカーの子どもに声をかけるホストはいない。

 少しだけ、安心した。

 少しだけ、寂しかった。


 一番街のアーチをくぐる。

 赤と金色のネオンが、頭上から降ってくるみたいだった。光が路面に反射して、濡れてもいないのにアスファルトが光っている。居酒屋の看板、カラオケの看板、マッサージの看板。全部の看板がわたしに何かを売ろうとしている。

 ネオンは嘘の太陽みたいだ。明るいのに、温かくない。


 奥に進むと、新宿東宝ビルが見えてきた。ゴジラ像が屋上からこっちを見ている。SNSで何度も見た景色。動画で、写真で、誰かのストーリーで。でも画面越しに見るのと、自分の足でここに立つのは、全然違う。

 画面には匂いがない。湿度がない。足の裏に伝わるアスファルトの硬さがない。


 わたしが目指しているのは、「トー横」と呼ばれる場所だった。

 東宝ビルの横。シネシティ広場。SNSの動画では、同年代の子たちが大勢いて、地雷系メイクの女の子や髪を染めた男の子が笑ったり泣いたりしている場所。

 でも——広場はフェンスで区切られていた。

 警備員が立っている。人がいない。


 思ってたのと、違う。


 わたしはフェンスの前に立って、中を覗いた。がらんとした広場。ベンチが何脚か並んでいるだけ。あの動画の賑わいは、どこに消えたんだろう。

 スマホで調べる。指が少し震えている。検索結果をスクロールすると、「規制強化」「排除」「巡回」という言葉が並んでいた。なるほど、と思った。SNSの中のトー横は、もうここにはないのかもしれない。


 フェンスの前を離れて、周辺を歩いた。歌舞伎町タワーの裏手に回ると、路地に数人の若者がいるのが見えた。壁にもたれてスマホを見ている子。地面に座っている子。暗い路地にスマホの画面だけが青白く光っている。

 近づきたかった。声をかけたかった。

 でも足が動かない。電柱の影に立ったまま、わたしはその光景を見ていた。


 わたしは何をしに来たんだろう。


 その問いが、頭の中でぐるぐる回った。居場所を探しに? 仲間を探しに? 違う気がする。居場所がないことを確かめに来たのかもしれない。家にも学校にもなかった「わたしの場所」が、ここにもなかったと確認するために。

 だとしたら、最悪の旅だ。


 結局、路地の若者たちに声をかける勇気は出なかった。わたしは来た道を戻り、ドン・キホーテの前の自動販売機で缶コーヒーを買った。ブラック。苦いのは好きじゃないけど、手に持っていると少しだけ安心する。温かくて、重くて、「ここにある」という感じがするから。


 ベンチに座った。時刻は午後十時を過ぎていた。

 缶コーヒーを両手で包んで、通り過ぎる人を見た。酔っぱらいのサラリーマン。腕を組んで歩くカップル。キャリーケースを引く観光客。みんな、どこかに行く場所がある。帰る場所がある。

 わたしは——帰ろうかな、と思った。

 でも、帰る場所を思い浮かべたら、足が動かなくなった。


 あの家の天井。三本の罅。カーテンを閉めた薄暗い部屋。母さんの溜息。

 帰っても、あそこにいるだけだ。天井を見て、スマホを見て、また天井を見る。その繰り返しの中で、わたしの輪郭はどんどん薄くなっていく。

 透明になる。

 誰にも見えなくなる。

 ここにいても、家にいても、同じだった。


 ぼんやりしていたら、声をかけられた。


「ねえ、一人? お兄さんとちょっと飲みに行かない?」


 顔を上げると、スーツ姿の中年の男の人が立っていた。ネクタイが曲がっている。目が据わっている。酒の匂いがした。焼き鳥の匂いとは違う、もっと生々しい、胃の中から上がってくるような匂い。

 声が出なかった。

 立ち上がろうとしたけど、足に力が入らない。逃げなきゃ、と思った。逃げなきゃ。でも身体が固まっている。リュックの紐がベンチの手すりに引っかかって、引っ張っても外れない。


「いいじゃん、ちょっとだけ。おごるよ」


 男の人が一歩近づいた。アスファルトを踏む革靴の音が、やけに大きく聞こえた。わたしは缶コーヒーを握りしめたまま、ベンチに縫い止められたみたいに動けない。

 そのとき、横から声が飛んできた。


「ちょっと、その子うちの連れなんですけど」


 低くて、はっきりした声。女の子の声だった。

 振り向くと、黒髪に赤いメッシュの女の子が腕を組んで立っていた。わたしを見下ろしている。目つきが鋭い。でも——怒っているんじゃない。わたしじゃなくて、男のほうを睨んでいる。


「あ? なんだよ、おまえ」


「だから、その子はうちの連れ。わかります? 日本語通じます?」


 男の人が何か言いかけたけど、赤いメッシュの女の子は一歩も引かなかった。腕を組んだまま、まっすぐに相手の顔を見ている。わたしよりずっと背が低いのに、その場の空気を全部持っていっている。

 男の人は舌打ちして、「なんだよ、つまんねえ」と言いながら去っていった。革靴の音が遠ざかる。


 わたしは、まだベンチに座ったままだった。缶コーヒーを握りしめた手が、白くなっていた。


「危ないよ、ここで一人でぼーっとしてたら」


 赤いメッシュの女の子がわたしを見下ろしている。怖い、と思ったのは一瞬で、その目が笑っていることに気づいた。口元は笑っていない。でも目が笑っている。


「……ありがとう、ございます」


 わたしの声は、自分でも聞こえないくらい小さかった。


「敬語? いくつ?」


「じゅう……十六です」


「十六。高校生じゃん」


 赤いメッシュの女の子は、ふうん、と言ってわたしの隣に腰を下ろした。座ると、さっきまでの威圧感が少し和らいだ。近くで見ると、まつ毛が長い。耳にはピアスが三つ。長袖のカットソーを六月の夜に着ている。


「初めて? ここ」


「……はい」


「見ればわかる。顔に全部書いてある。"わたし初めてです" って」


 わたしは何も言えなかった。そのとおりだった。


「一人で来たの?」


「……はい」


「度胸あんのか馬鹿なのかわかんないけど、一人はやめな。マジで」


 赤いメッシュの女の子は立ち上がった。わたしを一瞥して、少しだけ首を傾げる。


「帰れるなら帰りな。電車ある?」


「……終電、たぶんまだ」


「じゃあ帰んな」


 それだけ言って、背を向けた。


 わたしは慌てて立ち上がった。リュックの紐がやっと手すりから外れた。「あの」と声を出したけど、その先が続かない。赤いメッシュの女の子は振り返らずに歩いている。

 その背中が、ネオンの光に染まっていた。赤と青とピンクの光が交互に流れて、黒い髪の赤いメッシュが光るたびに違う色に見えた。


 五歩くらい歩いたところで、振り返った。


「また来るなら、もうちょっと奥。タワーの裏のローソンの前。あそこのほうが安全だから」


 それだけ言って、今度こそ行ってしまった。


 わたしは一人で、ドン・キホーテの前に立っていた。缶コーヒーはすっかり冷めていた。ぬるくて苦い液体を一口飲んで、捨てた。


 タワーの裏の、ローソンの前。

 その言葉が頭の中で繰り返されていた。帰りなと言われたのに、帰れとは言われなかった気がする。「また来るなら」——その三文字が、わたしの胸に引っかかっていた。


 終電の時間を確認した。まだ間に合う。新宿駅に向かって歩きながら、さっきの女の子のことを考えていた。名前も知らない。赤いメッシュの、目が笑っている女の子。

 あの子は、わたしの名前を聞かなかった。

 それが、不思議と心地よかった。名前を聞かれないということは、名前を持っていなくてもいいということだ。ここでは。


 改札を通る。ICカードの残高が表示される。帰りの電車賃は足りた。

 ホームに立って、電車を待つ。金曜の深夜、下り方面のホームは空いていた。酔っぱらいが一人、ベンチで寝ている。蛍光灯の白い光が、さっきまでのネオンとは全然違う。嘘みたいに均一で、冷たい光。


 電車が来た。乗り込む。

 窓際の席に座って、窓に映る自分の顔を見た。目の下にうっすらとクマがある。唇が乾いている。パーカーのフードに隠れた顔は、自分でもよく見えなかった。

 車窓の外を、新宿の灯りが後ろに流れていく。ネオンの光が遠ざかるたびに、胸の中で何かが引っ張られるような感覚があった。


 スマホを開いた。メモ帳アプリ。何を書くかは決まっていなかった。でも指が動いた。


 「歌舞伎町の匂い。焼き鳥と排水溝と香水とタバコ。全部混ざって、ひとつになってる。きれいじゃない。でも、生きてる匂いだった」


 書いたら、少しだけ息ができた。


 電車は地下を抜けて地上に出た。郊外の夜景が広がる。住宅街の灯り。コンビニの看板。信号が規則正しく点滅している。歌舞伎町とは違う、静かで予測可能な光の列。

 わたしはこの景色の中に住んでいる。毎日、この信号が点滅する場所で、天井の罅を数えている。


 でも今夜、わたしはネオンの下に立った。

 匂いを嗅いだ。声を聞いた。缶コーヒーの苦さを知った。知らない女の子に助けられた。


 それがどういう意味を持つのか、今のわたしにはわからなかった。ただ、指先がまだ少しだけ震えていて、それは恐怖なのか興奮なのか、区別がつかなかった。


 ここに来るまでの話を、しようと思う。

 わたしがどうして金曜の夜に、歌舞伎町で缶コーヒーを握りしめていたのか。どうして家に帰れなかったのか。どうして「透明」になったのか。

 全部、話す。

 話さないと、わたしはこのまま透明なままだから。



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