第02話:家の温度
基地の居住区画は、家のふりをしていた。
壁は白く塗られ、照明は温かみのある色温度に調整され、廊下には観葉植物のプランターまで置かれている。でも、窓がない。外の景色が見えない。空気は循環装置が運んでくる。
ここは、家じゃない。
昴は、自分に言い聞かせた。
それでも、ドアを開けると、日和がいた。
「おかえり、お兄ちゃん」
妹が、笑顔で迎えてくれた。
天城日和。二十歳。昴より四つ下。
エプロンをつけて、キッチンに立っている。匂いが漂ってきた。味噌汁と、焼き魚。
――ああ、と昴は思った。
ここは、家のふりをしている。
「……ただいま」
昴は、靴を脱いだ。軍が用意した部屋履きに履き替える。
日和が、昴の顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃん、顔色悪いよ。ちゃんと寝てる?」
「……寝てる」
「嘘。目の下にクマできてる」
日和の指が、昴の頬に触れた。冷たい。
いや、昴の顔が熱いだけかもしれない。
「お風呂、先に入る? ご飯、先に食べる?」
「……ご飯」
「了解」
日和が、テーブルに食事を並べ始めた。
味噌汁。焼き魚。ほうれん草のお浸し。白米。
いつもの、日和の手料理。
昴は、テーブルに座った。
椅子が軋む。軍の支給品だ。家で使っていた椅子じゃない。
「いただきます」
二人で、手を合わせた。
昴は、箸を取った。
魚を一口、口に運ぶ。
――美味い。
日和の料理は、いつも美味い。味付けが絶妙で、火加減が完璧で、素材の味を殺さない。
でも、喉を通らない。
昴は、箸を置いた。
「……ごめん、ちょっと」
「無理しないで」
日和が、昴の手に自分の手を重ねた。
「お兄ちゃん、今日も戦ったんでしょ? 無理に食べなくていいから」
「でも、せっかく作ってくれたのに――」
「明日食べればいいよ。冷蔵庫に入れとく」
日和が、微笑んだ。
優しい笑顔。でも、どこか寂しそうな笑顔。
昴は、妹の顔を見た。
日和も、疲れている。目の下に、うっすらとクマがある。
「……日和、お前も無理してないか?」
「してないよ」
「嘘だろ。顔色悪い」
「お兄ちゃんに言われたくない」
日和が、少しだけ笑った。
でも、すぐに表情が曇る。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「何?」
「ここ、いつまでいるの?」
昴は、答えられなかった。
三日前、昴と日和は軍に保護された。
理由は、単純だった。昴がVEGAの搭乗者になったから。
VEGAは、極秘機体だ。
搭乗者の情報が漏れれば、Aion側に狙われる。だから、昴は保護された。
そして、日和も。
一人で残せば、人質にされる。報復の対象にされる。だから、一緒に保護された。
それが、軍の説明だった。
「……分からない」
昴は、正直に答えた。
「でも、しばらくはここにいると思う」
「……そっか」
日和が、俯いた。
「私、明日から医療班で働くことになったんだ」
「え?」
「軍の人が言ってた。『民間委託として、医療補助をやってもらう』って」
昴は、眉を寄せた。
「お前、まだ二十歳だぞ。医者でもないのに――」
「救急処置なら、できるよ」
日和が、顔を上げた。
「お兄ちゃんが怪我したとき、すぐ手当てできるように勉強したもん。止血、固定、ショック対応。一通りできる」
「……それは、俺のために――」
「うん。お兄ちゃんのために」
日和が、昴の目を見た。
「お兄ちゃんが戦うなら、私は後ろで支える。それが、私のやり方」
昴は、何も言えなかった。
妹が、自分のために戦場の近くに来ようとしている。
「……危ないだろ」
「お兄ちゃんのほうが危ないでしょ」
「それは、そうだけど――」
「じゃあ、文句言わないで」
日和が、少しだけ笑った。
でも、目は笑っていなかった。
昴は、妹の手を握った。
冷たい。震えている。
「……怖いよな」
「うん」
日和が、小さく頷いた。
「怖い。すごく怖い」
涙が、零れた。
「お兄ちゃんが、毎日戦って、帰ってこないかもしれないって思うと、怖くて、夜も眠れない」
「……ごめん」
「謝らないで」
日和が、昴の手を強く握った。
「お兄ちゃんは、悪くない。悪いのは、戦争」
二人は、しばらく黙っていた。
味噌汁の湯気が、立ち上っている。
――その時。
ドアがノックされた。
二人は、顔を見合わせた。
「……誰?」
昴が、ドアに近づく。
「天城昴様、失礼します。監視員です」
男の声。抑揚がない。
昴は、ドアを開けた。
廊下に、男が立っていた。三十代くらい。軍服を着ている。表情がない。
「何か用ですか」
「定期確認です。お二人とも、異常はありませんか」
「……異常って?」
「体調、精神状態、不審な接触の有無」
男が、淡々と答えた。
昴は、苛立ちを覚えた。
「俺たち、監視されてるんですか」
「保護です」
男が、即答した。
「お二人の安全を確保するため、定期的に状態を確認しています」
「……それって、監視じゃないんですか」
「保護です」
男は、表情を変えなかった。
昴は、ドアを閉めようとした。
「異常ありません。もういいですか」
「一つ、お伝えすることがあります」
男が、懐から端末を取り出した。
「天城日和様には、明日から医療班への配属が決定しました。SPA――Special Protection Attachment(スペシャル・プロテクション・アタッチメント)という保護措置が適用されます」
「……それは、何ですか」
「限定権限です。医療班としての活動範囲内で、一部の区画へのアクセスが許可されます」
男が、端末を操作した。
「詳細は、明日の朝、黒瀬司令から説明があります」
「黒瀬……?」
「Genea側の統合司令部・特別措置室の責任者です。お二人の保護措置を決定した方です」
男が、一礼した。
「では、失礼します。何かあれば、ドアの外におりますので」
男が、去った。
昴は、ドアを閉めた。
日和が、不安そうな顔で昴を見ていた。
「……お兄ちゃん、これって」
「……分からない」
昴は、テーブルに戻った。
「でも、俺たちは『保護』されてる。それは確かだ」
「保護、ね」
日和が、苦笑した。
「監視と、何が違うんだろう」
「……分からない」
昴は、味噌汁を一口飲んだ。
冷めている。
家の温度が、冷たくなっていた。
――翌朝。
昴は、黒瀬という男に会った。
会議室に通され、テーブルの向かい側に座る男。五十代くらい。白髪混じりの短髪。軍服を着ている。階級章が見えるが、昴には意味が分からない。
「天城昴、天城日和。初めまして。私が黒瀬だ」
男が、静かに言った。
「お二人の保護措置を決定した責任者だ」
昴は、男の顔を見た。
厳しい顔。でも、怒っているわけではない。ただ、疲れている。
「……俺たち、いつまでここにいるんですか」
昴が、率直に聞いた。
黒瀬は、少しだけ目を細めた。
「それは、戦争が終わるまでだ」
「……つまり、いつ終わるか分からない、と」
「そうだ」
黒瀬が、頷いた。
「君たちには、申し訳ないと思っている。巻き込んでしまった」
「……巻き込んだ、って」
「朔が死んだことで、君がVEGAの搭乗者になった。それは、PQの判断だ。私たちは、事後承認しただけだ」
黒瀬が、昴の目を見た。
「でも、君を保護すると決めたのは、私だ。日和さんも含めて」
日和が、小さく息を呑んだ。
「……私も、ですか」
「ああ。君を一人で残せば、Aion側に狙われる。人質にされる可能性がある」
黒瀬が、淡々と説明した。
「だから、軍の保護下に置いた。医療班への配属も、その一環だ」
「……私、役に立つんですか」
日和が、不安そうに聞いた。
黒瀬は、少しだけ表情を緩めた。
「君の救急処置の技術は、記録で見た。優秀だ。現場で役に立つ」
「……ありがとうございます」
「ただし」
黒瀬が、厳しい顔に戻った。
「君には、SPAという保護措置が適用される。これは、監視員がつくことを意味する」
「監視……」
「保護だ」
黒瀬が、訂正した。
「君の安全を確保するため、常に監視員が扉の外で待機する。面会や同席には、時間制限がある」
日和が、俯いた。
「……それって、牢屋みたいじゃないですか」
「牢屋ではない」
黒瀬が、静かに言った。
「君たちは、罪人じゃない。ただ、戦争に巻き込まれただけだ」
昴は、拳を握った。
「……俺たちに、選択肢はないんですか」
「ない」
黒瀬が、即答した。
「君がVEGAの搭乗者である限り、保護は続く」
「じゃあ、搭乗者を辞めたら――」
「辞められない」
黒瀬が、昴の言葉を遮った。
「VEGAは、Rebirth Protocolで君とリンクしている。リンクが解除されるのは、君が死ぬか、行動不能になったときだけだ」
昴は、息を呑んだ。
「……つまり、俺が死ぬまで、搭乗者のままってことですか」
「そうだ」
黒瀬が、頷いた。
「申し訳ないが、それが現実だ」
部屋が、静かになった。
昴は、何も言えなかった。
隣で、日和が震えているのが分かった。
黒瀬が、立ち上がった。
「詳しい説明は、また後日する。今日は、これで終わりだ」
黒瀬が、ドアに向かう。
その背中に、昴が声をかけた。
「……黒瀬司令」
黒瀬が、振り返った。
「何だ」
「……俺、ちゃんと戦えますか」
昴の声が、震えた。
「俺、民間人で、三日前まで戦争なんて他人事で……それなのに、人を守るために戦えって言われて……」
昴は、言葉に詰まった。
「怖いんです。戦うのが。死ぬのが。日和を残して死ぬのが」
黒瀬は、少しだけ目を細めた。
「……怖いのは、当然だ」
黒瀬が、静かに言った。
「怖くない人間は、いない。兵士だって、怖い。私だって、怖い」
「でも、黒瀬司令は――」
「私は、怖さを隠しているだけだ」
黒瀬が、昴の目を見た。
「君は、怖さを隠さなくていい。PQがいる。整備班がいる。医療班がいる。そして、私たちがいる」
黒瀬が、一歩だけ昴に近づいた。
「君は、一人じゃない。それだけは、覚えておけ」
そう言って、黒瀬は部屋を出た。
昴と日和が、残された。
日和が、昴の手を握った。
「……お兄ちゃん」
「……何?」
「私も、怖い」
日和の声が、震えた。
「でも、お兄ちゃんが一人じゃないなら、私も一人じゃない」
昴は、妹を抱きしめた。
小さな身体。温かい。
家の温度が、少しだけ戻った。
――その日の午後。
昴の端末に、通信が入った。
《VEGA搭乗者・天城昴。整備区画へ至急来られたし》
昴は、端末を見た。
差出人は、整備班。
《何かあったんですか?》
《VEGAに、"お客さん"が来た。会ってやってくれ》
お客さん?
昴は、整備区画へ向かった。
格納庫に入ると、VEGAが立っていた。
灰色の巨体。鋭角的なシルエット。
そして、その足元に、男が一人。
三十代くらい。整備服を着ている。髪は短く、顔に傷がある。
男が、昴に気づいた。
「……お前が、天城昴か」
「はい」
「俺は、ヤヒロ。八尋丈一郎。VEGAの整備を担当してる」
男が、昴に手を差し出した。
昴は、その手を握った。
固い手。油で汚れている。
「……よろしくお願いします」
「ああ。こっちこそ」
ヤヒロが、笑った。
荒っぽい笑顔。でも、悪い感じはしない。
「お前、VEGAの新しい搭乗者なんだってな」
「……はい」
「朔から、引き継いだのか」
昴は、頷いた。
ヤヒロが、VEGAを見上げた。
「……朔は、いい奴だった」
ヤヒロの声が、少しだけ沈んだ。
「真面目で、優しくて、機体を大事にする奴だった」
「……そうですか」
「ああ」
ヤヒロが、昴を見た。
「お前も、VEGAを大事にしてやってくれ」
「……はい」
「あと、PQとも仲良くな」
ヤヒロが、ニヤリと笑った。
「PQは、いい奴だぞ。口は悪くないが、たまに毒を吐く」
「毒……?」
『ヤヒロ、余計なことを言うな』
頭の中に、PQの声が響いた。
昴は、思わず笑った。
「……PQ、聞いてたんですか」
『常に聞いてる。君とリンクしてるから』
「じゃあ、さっきの会議も――」
『全部聞いた。黒瀬司令の言う通りだ。君は、一人じゃない』
PQの声が、優しかった。
ヤヒロが、昴の肩を叩いた。
「な? いい奴だろ」
「……はい」
昴は、VEGAを見上げた。
この機体が、これから昴の相棒になる。
「……よろしく、VEGA」
『こちらこそ、スバル』
PQの声が、温かかった。
ヤヒロが、懐から何かを取り出した。
「あ、そうだ。これ、お前に渡しとく」
小さな機械。イヤホンのような形。
「……これは?」
「イヤモニだ」
ヤヒロが、説明した。
「PQと会話するための端末。これをつけとけば、PQが周りの人間とも会話できる」
「え? PQって、俺としか話せないんじゃ――」
「リンクがあれば、お前の頭の中で会話できる。でも、周りの人間には聞こえない」
ヤヒロが、イヤモニを昴の手に乗せた。
「これがあれば、PQが"外"で話せる。便利だぞ」
『……ヤヒロ、それは必要ない』
PQの声が、少しだけ困ったように響いた。
『僕は、スバルとだけ話せればいい』
「何言ってんだ。お前、もっと人と話せ」
ヤヒロが、笑った。
「引きこもってんじゃねえよ、AI」
『……僕は、引きこもっていない』
「引きこもってるだろ。スバルの頭の中に」
『それは、僕の仕事だ』
二人のやり取りを聞いて、昴は笑った。
初めて、心から笑えた気がした。
「……ありがとうございます、ヤヒロさん」
「おう。困ったことがあったら、いつでも来い」
ヤヒロが、昴の肩を叩いた。
「お前は、もう家族だ」
――家族。
昴は、その言葉に救われた気がした。




