吸血少女は忘れない
「じゃあ……すぐに元の世界に返して」
ベルは警戒の色を隠さず、両親を見据えて言った。
信じたわけじゃない。ただ、少しの余地を与えているだけ。
でも、その一歩が踏み出される前に、別の声が割り込んで来た。
「いいのかい?本当にそんなことを言って……」
ぬめったような声だった。
どこか粘着質で、耳に絡みつくような響き。
視線をさまよわせた先――それは、部屋のテーブルの上。
そこに置かれていた銀縁の手鏡の表面が、波打つように揺らいでいた。
「……!?」
その鏡の中から、ゆっくりと何かが現れた。
緑がかった顔、深く刻まれた皺、曲がったわし鼻に、針のような目。
老婆の顔のようなそれが、手鏡の表面に立体的に現れ、ベルの方へ笑みを向けた。
それは強大な魔力を感じさせた。
直感的に、この鏡の世界の本体のような存在だとわかった。
「この世界に入ったものを出すには……この世界を壊すしかないんだよ」
声は甲高く、ぞわりと冷気が肌を撫でるような気がした。
「だがね、可愛いお嬢さん。この世界が壊れれば、魂だけの者たちは……その身ごと消えるのさ。お前の父も、母も、跡形もなく、だ」
「……っ!」
ベルは息を呑んだ。
「それでも、見捨てるのかい?やっと穏やかに暮らしている両親をーーお前の手で、また地獄へと落とすのかい?」
冷たい汗が、背中を伝う。
こんな言葉を信じてはいけないと、自分に言い聞かせる。
冷静にーーこの悪魔を倒す方法を考えなければ。そう思うのに、老婆の声は、容赦なくささやいてくる。
「母親は、病に侵されながらも、最期までお前のためにほほ笑んでいた。
父親は、命を懸けて、家族を救うために傷ついて死んだ。
そのふたりを……もう一度、苦しめるというのかい?」
その声は、耳を通さずに、直接頭の中に響いてくるかのようだった。
心の内側に、黒く濁った液体が染み込んでくるようだった。
「お前は、この先も生きていく。吸血鬼として、永い、永い時を。闇を歩きながら、思い出すのさーーお前が、自分の手で、父と母を殺したことを」
「やめて……」
かろうじて、ベルは声を出した。
けれど、その声はかすれていた。
「後悔するよ、夜ごと夢を見るさ。両親の最期の声を。叫びを。問いかけを。――どうして?」
「やめてっ……」
視界がにじむ。
呼吸がうまくできない。
喉の奥が詰まり、胸が焼けるように苦しくなる。
「お前は永遠に……この先ずっと……その罪から逃れられないーー」
ドンッ!!!!
「ギェッ……!!」
轟音とともに、老婆の声が歪んだ。
何かが砕け、黒い液体が飛び散る。
ハッとベルが瞬きしたときには、父の拳が、鏡に叩きこまれていた。
魔力の光を帯びた拳が、鏡の中心を直撃し、老婆の鼻は曲がり、全体的にぐしゃりとつぶれていた。
「…え……」
ベルがあっけに取られてそれを見つめていると、すかさず母が駆け寄り、汚いものをつまむようにして鏡をひっくり返し、その上に花の生けられた大きな花瓶を、
「えいっ」
「……ピェッ!」
容赦なくのせた。
鏡は断末魔のような声を上げて沈黙した。鏡の破片が、花瓶の周りに散っている。
「まったく……うるさい鏡だな!」
父は、拳をぶんぶんと振りながら、明らかに苛立っている。
「ほんとにそうね。まったく、うちのベルちゃんに、何てこと言うのかしら」
そういって、汚いものを振り払うかのように、パンパンと手を払った。
混乱して固まるベルの前で、父が、ハッとしたような顔をした。
「――アッ……!」
そして、困惑したような顔で母の方を見る。
「勢いでやっちまった……!この世界、もう持たないぞ……!どうしよう……」
「もう……あなたったら、本当に考えもなしにこんなことして」
それに対して母は、大きくため息をつき、肩をすくめた。
しかしその顔は、どこか晴れやかだった。
「でも……ベルちゃんを返すためには、こうするしかなかったものね。仕方ないわ」
ベルは、そんな両親を見上げた。
「……父さん、母さん」
かすれたような声がベルの唇からこぼれた。
震える眼差しで見上げられたベルの両親は、一瞬だけハッとしたような表情を見せた。
母がそっとしゃがみこみ、ベルの肩に手を置く。
それから、やさしく、ゆっくりとーー抱きしめた。
「ベルちゃん、気にしなくていいのよ」
その声はやわらかく、春の風のようだった。
「さっきの鏡の言葉……あんなの、全部嘘だからね」
背中をなでる手が、温かかった。
「えーっと……」
父は、頭をかきながら、ぎこちない口調で言った。
「実は、やっぱり父さんたち……ただの幻影なんだ!だからな、あんまり気にせず、現実に帰るといい。うん」
「……ばかね」
ベルは、唇をきゅっと噛みしめ、うつむいた。
「そんなこと言うなんて……本物だって言ってるようなものじゃない……」
つぶやいた言葉は、震えていた。
涙が、ぐっと奥から込み上げてきた。
「余計に帰りにくくなったじゃない……」
母は少しだけ体を離して、ベルを正面から見つめた。
「ねぇ、ベルちゃん」
囁くような優しい声でベルに語りかける。
「顔をあげて。笑ってごらんなさい」
ベルは目を伏せたままだった。
「お母さんね、ベルちゃんの笑った顔が、一番好きなの。まるで天使みたいで、見てると元気になれるのよ」
ベルのまつげが震える。
「私たちは、ずっとあなたのそばにいる。目には見えなくても、心の中にいるの。それが……本当の私たち」
「……」
「あなたが、元気に、健康で、幸せに生きてくれること。それが、私たちのただ一つの願い」
その言葉に続いて、父がひとつ頷き、ベルのそばに立った。
「だから、ベル」
その声も、やはりどこか頼もしくて。
「行きなさい。まっすぐに、自分の道を」
ベルは、ゆっくりと顔を上げた。
涙がまだ頬に残っていた。
けれどーー
「……母さん、父さん」
ベルは、にこっと笑った。
「大好き。絶対、忘れないから」
母はほほ笑み、また、ぎゅっと抱きしめた。
父も、ふたりの肩を優しく包むように、抱きしめる。
ベルは、そのぬくもりをずっと覚えていようと心に誓った。
どこか、遠くでパキン、と何かが割れるような音がした。
続いて、シャランシャランと砕けた欠片が雨のように降り続くような音。
そして、その音が、耳元でひときわ強く響いたとき、ふっと風が吹き抜けたような気配がした。
そしてーー気が付くと、ベルは舞台に立っていた。
明かりは灯っていたが、観客席は空っぽで、音ひとつしない空間。
たった今までいたはずの家も両親も、夢だったかのように消えていた。
「お~、ベルちゃんおかえり」
呼ばれて振り向くと、すぐそばの床にリュカが座っていた。
その後ろには、割れた鏡。
ベルが反射的に後ろを振り返ると、そこにも同じように割れた鏡が残っていた。
「……帰って、きたのね」
ベルは少しだけうつむき、手をぎゅっと握りしめた。
でも、すぐに顔を上げる。
瞳に浮かぶ光に、もう迷いはなかった。
それを隣で見ていたリュカが、ふっとほほ笑んだ。
「ノアと、サザは……?」
そう尋ねたベルに、リュカは穏やかに言った。
「まだだよ」
リュカの視線の先――
舞台には、まだ割れてない鏡が二つ、静かに残されていた。
ふたりは並んで、その鏡に近付く。
鏡の中には、それぞれ薄暗い空間に目を閉じたまま座り込んでいるノアとサザの姿があった。
「……ちゃんと、戻ってくるかしら」
ベルの呟きに、リュカは鏡のそばにしゃがみこみながら、肩をすくめた。
「信じるしかないね」
そして、小さく笑って付け加える。
「ま、大丈夫だとは思うけどね」
そう言って、ふぅっと息をはく。
ベルは言葉を返さず、ただじっと、鏡の奥にいるふたりを見つめていた。




