吸血少女は鏡の中へ
ベルは、ハッと目を開けた。
光が優しく差し込む窓。
木の床の軋む感触。
温かくて少し懐かしい、そこは自分の家だった。
「ベルちゃん、おかえりなさい。今日も森で遊んでいたの?」
懐かしい声が耳に響いた。
まさかと思って振り向いたその先にはーー母がいた。
病に伏し、細く痩せていたはずのその体は、今はふっくらとしていて、元気そのものの笑顔を浮かべていた。
ベルは胸がぎゅっと苦しくなるのを感じた。
けれどすぐに、思考が追いついた。
……違う。そんなはず、ないわ。
ベルはすぐにそれが、“現実ではない”と理解した。
ここは試練の場。ファウストの仕掛けた、甘くて残酷な幻影。
「そう……これが、試練なのね」
静かに呟いたその言葉のあと、ベルは勢いよく母の前に立ちふさがり、指をビシィッと突きつけた。
「都合のいい幻影を見せて、ここに閉じ込めようって魂胆ね!見え見えよ!」
驚いたように目を丸くする母。
「べ、ベルちゃん?どうしたの?」
「母さんは死んだの。私は、そんな幻に騙されないわ!」
そう宣言しながら、ちらりとその顔をみてしまった。
あまりにも懐かしくて、優しくて、本物に見えてしまう。
ぐっと唇を噛みしめて、視線をそらす。
「……騙されないんだから……」
そう、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
「ただいま」
そのとき、聞こえてきたのは父の声だった。
振り向けば、狩り帰りの装いの父が玄関をくぐってくる。
ごつごつした手に、獲物の袋。
昔と変わらない、あの頼もしい笑顔。
ふと、ベルの姿を目にしてほほ笑む。
「おお、ベル。今日は大量だぞ。ベルの好きなウサギのシチュー、それに、父さんの得意な山鳩のパイも作ってやろう」
懐かしい言葉に、心がぐらりと揺れる。
でも。
「うるさい!」
ベルは叫んだ。
「幻影が父さんのふりしないで!」
驚いた父が、ぽかんと目を見開く。
「お、おいおい……ベル、落ち着きなさい」
「こんなことしてる場合じゃないの。私、すぐに戻らなくちゃいけないんだから!」
腕を組み、ふんっと鼻を鳴らす。
「そこの偽物の父さんと母さん、さっさと、この幻の出口を教えなさい!」
静かな部屋に、少し間の抜けた空気が流れる。
「もう、ベルちゃんは相変わらずね」
母が肩をすくめて笑い、
「この気の強さは、誰に似たんだか……」
父も、眉を下げて苦笑いした。
そんな言葉に、ベルの心がまた揺れる。
表情も仕草も、言葉までもが、生きていたときの両親そのもので、涙が出そうだった。
「やめてよ……」
思わず目をそらした。
「そんなふうに言うの、ほんとの父さんたちみたいで……辛くなっちゃうじゃない」
そうつぶやいたベルに、母がそっと手を伸ばしてきた。
びくりと身構えるベルの髪を、優しくなでる。
そしてーーぎゅっと、抱きしめた。
温かかった。懐かしかった。
香りも、力加減も、全部があのころと同じだった。
「わかったわ、ベルちゃん」
母の声が、そっと耳元でささやく。
「母さんたちは、ベルちゃんの味方よ。だから一緒に……現実に帰りましょう」
その言葉に、頷きそうになってしまった。
けれど、ベルはハッとした。
「……やめて!」
ベルは叫び、バッと母の腕の中から飛び退いた。
「そうやって、私をこの世界に閉じ込めようって魂胆なんでしょ!わかってるんだから!」
今にも泣きそうな声だった。
そんなベルを見て、父が言った。
「ベル……私たちは、幻なんかじゃないんだ」
父の声は、今までと変わらぬ温かい響きを持っていた。
けれどそれが逆に、ベルの警戒心を強くさせる。
「ベル、私たちはね、ファウストとの魂の契約魔法によってこの鏡の世界に来たんだ。本当の……本物の私たちだ。確かに、体はない。いわば、魂だけの幽霊かもしれない。けど、この世界にいる限り、私たちは生きていられる。偽物なんかじゃないんだ」
ベルは、すっと目を細めた。
「それを、私が信じると思うの?」
淡々とした声だったが、その内心には動揺が走っていた。
もしそれが本当ならーーけれど、それを信じるのは怖かった。
不安そうにベルを見つめる両親。
ベルは、ぐっと奥歯を噛みしめた。
「……じゃあ、こう聞くわ」
腕を組み、すっと父に向き直る。
「父さんは、ファウストの城に挑んだはず。けど、帰っては来なかった。その理由を、教えてもらえるかしら。本当っぽかったら……信じてあげなくもないわ」
父は、目を伏せて小さく息をついた。
そして、「わかった」と答えて、ゆっくりと話し始めた。
「父さんは……試練を受けて、三階まで辿り着いた。ギャラリーの錬金術の実験室を調べて、その棚の裏に隠し通路を見つけたんだ」
ベルの眉が、わずかに動いた。
「そこは、最上階へと一気に続く秘密の道だった。そこを通って、ファウストのもとへ辿り着こうとした。でも、たどり着く寸前で、通路を守る番犬に見つかってしまってーー」
父は、言葉を止めた。
しばし、沈黙。
「……負けたんだ。瀕死の重傷を負って、動けなくなって。あのとき、ファウストが現れて言ったんだ。この世界に来て、もう一度家族と過ごさないかって。母さんの魂もここにある、と」
「それで、頷いたのね」
「……ああ」
ベルは目を伏せる。
話の内容に妙な説得力があった。
ありふれていて、でも妙に具体的で。
だからこそ、信じたくなってしまう。
けれどーー
「……待って。おかしいわ」
顔を上げる。目には疑念の光が宿っていた。
「母さんは病気で死んだの。家で、静かに。だから、城には来ていない。ファウストが捕らえるのは、城に挑んだ魂だけ。そうでしょ?じゃあ、どうして母さんがここにいるの?」
父は、少しだけ悲しげな顔をして言った。
「ベル……ファウストが捕らえる魂は、城に入った者だけじゃないんだ。あの村と、この城――今はもう全部が、ファウストの領域になってる。だから、領域内で死んだ魂は全て、ファウストのもとに送られるんだよ」
「……なんですって!?」
ぐらりと、足元の地面が揺らいだ気がした。
それじゃあ、村の人も……ここに来た人は結局全員、ファウストに魂を奪われるって事じゃない……!
ベルは青ざめながらも、考えを巡らせた。
城に挑ませるのはフェイクで、本当は村に留まらせること自体が、ファウストの真の狙いだったってこと……?
ふいに父の顔を見る。
真剣にベルを見つめるその顔は、あまりにも、本当の父にしか見えなかった。
これが全て嘘だという可能性はまだ捨てきれない。けれどーー
「……わかったわ。じゃあ、仮にそれが全部本当だったとしてーーどうしてここに、私が呼ばれたの?やっぱり、私をここに捕らえるつもりだったんでしょう?」
沈黙。
けれど、それを破ったのは、父の穏やかな声だった。
「ファウストの希望は、そうだろう」
そして、すぐに言葉を重ねた。
「でも、私たちは違う。私と、母さんはーーベル、お前を無理に引きとめようなんて思ってない」
そして優しい眼差しでほほ笑み、言った。
「私たちの大切なベルが望むなら、すぐにでも元の世界に返してあげるよ」
その言葉を信じていいものか、ベルは少しの間、沈黙した。




