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短編

【電子書籍化】次の婚約者は人の気持ちのわからないサイコパスです

作者: 紺青

「サイコパス令息ね……」

 父から次の婚約者の名を告げられて、メアリーはため息をついた。

 メアリーはどうやら男運がないようだ。


 伯爵令嬢メアリー・シーウェルは疲れていた。

 最近ようやく問題児である元婚約者との婚約が破棄できたところだ。あれからまだ一ヶ月と経っていない。しかし、十八歳と貴族令嬢としてはやや行き遅れの年齢であるメアリーは贅沢を言える立場ではない。


 前の婚約は幼い頃に結ばれたものだった。

 伯爵家の唯一の子供で、跡取り娘であるメアリーの婚約者は慎重に選ばれた。両親に野心はなく一人娘のメアリーを愛していた。婚約者に選ばれたのは父親の友人である伯爵家の次男だ。家格も合い、それなりに容姿が整っていて、利発で物怖じしないタイプの人間だった。その頃から不愛想で口数の少なかったメアリーを思って父が選んでくれたのだろう。幼い頃はそれなりに仲が良かった気はする。


 なにが転機だったのかは、わからない。

 ――メアリーがベタベタしてくる彼に嫌悪感を示したから?

 ――次期伯爵として周りの令嬢にちやほやされて、だんだんと彼が天狗になったから?

 ――メアリーがあまり感情を表わさず、口数が少ないつまらない女だから?

 ――彼の従妹のカレンが領地から王都に出て来たから?


 婚約者の生家の伯爵家は、メアリーが十二歳の頃に両親を亡くした姪のカレンを引き取った。

 メアリーと元婚約者と同じ年齢の令嬢を預かることに両親も抗議した。しかし、伯爵家からは「伯爵家の籍には入れていないし、別宅で住まわせていて生活は共にしていない。将来のために行儀見習いをさせている。だから問題ない」との回答が来た。


 婚約者は従妹のカレンが来てから、常に彼女を優先した。

 「カレンが寂しがるから」「カレンの用事があるから」「カレンの体調が悪いから」

 出かける約束や交流の茶会も遅刻が続き、次第に欠席するようになった。手紙や贈り物などもぱったりとなくなり、主要な夜会へのエスコートはするものの、会話したり踊ったりすることもなくメアリーは壁の花となっていた。彼の従妹ではあるが、亡くなった両親が爵位を持たないカレンが夜会に現れることはなかったが、メアリーが一人ぼっちであることに変わりはなかった。


 それだけでなく、婚約者は伯爵家で行われていた次期伯爵としての当主教育もさぼりがちになった。

 さすがに両親が伯爵家に抗議すると、「こちらの家で教育しているから問題ない」と回答がきた。その返事に、父はがっくりと肩を落とした。家格は同じだが、婚約者の祖母が侯爵家の出身でそちらからの圧力があり、簡単に婚約を破棄することはできなかった。


 更に、婚約者がカレンと王都の街中でデートしているという噂が出回った。カフェや公園、貴族ご用達のお店などにまるで本物の婚約者のように仲睦まじい雰囲気で出没しているらしい。


 メアリーも恋人同士のように腕を組んで身を寄せ合う二人とばったり出会ったことがある。責めることもなく青ざめるメアリーにカレンは勝ち誇ったような笑顔を向けた。婚約者はそれを注意することも、悪びれることもなかった。

 貴族の結婚に愛なんて求めていない。でも、最低限の義務は果たしてほしい。当主教育を受けて、最低限の婚約者の交流は図ってほしい。メアリーがそう訴えると婚約者は「嫉妬は見苦しいぞ。カレンは従妹だ。妹のようなものだ。変な邪推をするな」などと妙に論点のずれた返事をして、メアリーを残してカレンと共に去って行った。


 恋愛関係ではなく家族として従妹を大事にしていると主張していたくせに、二人は体の関係を持っていた。

 

 それが発覚したのは王宮の夜会だった。高位貴族専用の休憩室で事に及んでいたのだ。

 貴族令嬢ではないカレンがどうやって王宮の夜会に紛れ込んだのかはわからない。その日は体調が悪くてエスコートできないと婚約者から連絡があったので、おそらく彼がエスコートして参加したのだろう。


 婚約者は伯爵家の令息で相手のカレンは貴族令嬢ですらない。そもそも、その休憩室を使用する権利はなかった。警備の関係上、使用する時には休憩室担当の騎士に言づけなければならない。それすらもせず、勝手に休憩室に入り体を重ねたのだろう。使用許可を出していない休憩室から人の気配がしたことから、騎士が踏み込み、二人の関係は公になったのだ。


 さすがに婚約者の祖母の生家である侯爵家も彼をこれ以上かばうことは出来ずに、無事婚約を破棄することができた。


 しかし、メアリーは現在十八歳。本当は成人してすぐに結婚するはずだった。しかし、彼の当主教育の遅れと不誠実な態度から結婚がずるずると引き延ばされていた。


 メアリーは婚約者に浮気されて、婚約破棄した傷物令嬢だ。中堅どころの伯爵家の婿入りという条件もあって、それなりに釣書はきているようだ。だが、前の婚約者より条件が落ちるのは仕方のないことだろう。傷物である自分は贅沢なことは言えないのだ。メアリーに瑕疵はないのに、『婚約者に浮気された魅力のない令嬢』として社交界では今、面白可笑しく噂されている。


 だから、次の婚約者が『サイコパス令息』と噂される男でもメアリーは受け入れるしかない。


「噂だけで人を断じてはいけないぞ、メアリー」

 前の婚約についての顛末を思い返していたメアリーは父の言葉に、意識を今に戻した。

 体型も顔も厳つい父の言葉は、人によっては叱責に聞こえるだろう。でも、父の人となりを知っているメアリーはその言葉通りに受け取った。自分だって、貴族が好き勝手にさえずる噂にはたくさん傷ついてきたのだ。噂だけで新しい婚約者を勝手に決めつけてはいけない。


「そうね、人の噂があてにならないって、お父様や私が一番わかっているわよね」

 父方の血を色濃く受け継ぎ、冷たい顔立ちのメアリーは表情がほとんど動かず、口数も少ないため、『人形令嬢』と揶揄されている。


 対面に座り次の婚約について話す父とメアリーは、まるで領地の政策でも語りあっているかのように堅苦しく見えるだろう。でも無表情の父が前の婚約を早々に破棄できなかったことを悔やんでおり、メアリーの幸せを心から願っていることを知っている。


 厳しく淑女教育を叩き込んでくれた家庭教師も、「もう少し微笑みを浮かべてもいいのでは?」と言うくらいメアリーの表情は変わらない。絶対に父からの遺伝だ。父は男だから寡黙キャラで通るが、やはり令嬢にはもう少し愛想が必要かもしれない。


「彼はサイコパスではない。ただ、人の感情に疎くて、周りの空気が読めないだけだ。彼は仕事に真面目で実直な人間だ。メアリーも噂に惑わされずに、彼自身を自分の目でちゃんと見なさい」


 『サイコパス』とは、共感性が低く、感情に乏しくて傲慢で自分さえ良ければいいという人のことを現す言葉だ。外見や性格などは個人差があるようだが、己の利益のみを追求し、外面が良く、相手をコントロールすることが得意な人物を現すようだ。


 王都で昨シーズンから流行っている歌劇『サイコパスな吸血男爵は虐げられた男爵令嬢に薔薇を捧ぐ』のおかげでやたらと、貴族が『サイコパス』という言葉を口にするようになった影響かもしれない。


 メアリーの次の婚約者であるジェフリーは、侯爵家の長男で近衛騎士をしている。しかも、令嬢受けする美しい外見をしているらしい。それなのに、無表情で無言でたまに口を開けば失礼なことを言う。彼に寄ってくる令嬢は皆無で、婚約の顔合わせも惨敗し続けて未だに婚約者がいないらしい。

 

 弟の婚約者に初対面で「痩せた方が良い」と言ったり、婚約の顔合わせをした令嬢に「香水の臭いが強すぎる」などと言ったらしい。相手が女性であれ、一刀両断する彼は貴族令嬢から敬遠されているらしい。


 蝶よ花よと愛でられることに慣れ、言葉や表情に数々の思惑を乗せる貴族令嬢にとって、彼の端的で鋭い言葉は耐えられないものなのだろう。


 コミュニケーション能力が皆無であり、相手の気持ちや言葉の裏を汲み取れない。本人の希望もあって次期侯爵家を継ぐのは彼の弟だと最近発表された。彼では侯爵家当主として領地を治め、貴族社会で交流を深めるのは無理だとみなされたのだろう。


 侯爵家に長男として生まれたのに、二十三にして婚約者もおらず、次期侯爵失格の烙印を押された彼には『サイコパス令息』という不名誉なあだ名がついている。


「わかりました。お父様」

 父は王宮で財務大臣の補佐をしている。近衛騎士である彼とは面識があるのだろうし、その仕事ぶりも見ているのだろう。噂に惑わされずにきちんと彼と向き合おうとメアリーは背筋を正した。


 『人形令嬢』に『サイコパス令息』、案外、お似合いかもしれない。

 元婚約者のようになんの問題もなさそうに見せかけて、中身が屑な人間だっている。彼が問題を起こさなければ、それでかまわない。


 ただ両親は父がメアリーと同じように寡黙なタイプで、母はほがらかで社交的なタイプだ。夫婦が二人とも無表情で話すことが苦手で大丈夫だろうか?という懸念はメアリーの中に少し残った。



 ◇◇



 『サイコパス令息』と噂される新たな婚約者の第一印象は"美しい"だった。元婚約者も整った華やかな顔立ちをしていて、次期伯爵ということもあり令嬢達が群がっていた。


 でも、彼の美しさは元婚約者の比ではない。感情がないだとか、失礼な物言いをするという噂が先行していて、外見については詳しく知らなかった。そういえば、釣書があったのに目を通していない。


 メアリーは美しいものが好きだ。特にガラス製品や陶磁器が好きで、食堂で侍女が銀製品を磨いている横でティーカップや食器に見惚れている。侍女達もそんなメアリーに慣れたもので、しばらく経つと「ここはお嬢様のいるべき場所ではないですよ」とやんわり追い出される。

 

 夜会や茶会でも料理やお菓子ではなく、それらが盛られている器やグラスをもっぱら鑑賞している。屋敷に飾られた花瓶や置物に目を取られ、足が止まることもしばしばある。それを知っているメアリー付きの侍女や護衛達は周りに不審がられる前に、咳払いして前に進むように注意をうながすのが常だった。


 彼の水色とも銀色とも言える不思議な色合いの髪をじっと見つめる。まるで色ガラスのように綺麗だ。この色を出そうと思ってもなかなか出せないだろう。


 髪と揃いの瞳の色は髪より少し濃い。こちらもいつまでも見ていたくなる程、美しい。

 なにより騎士なのに、きめの細かい陶磁器のように美しい肌をしている。目鼻の配置といい、形といい、メアリーが見た中で極上のものだ。陶磁器を愛でるようにじっくりと彼を鑑賞した。


 ただ、美しい彼の瞳や顔にはなんの感情も浮かんでおらず、メアリーの不躾な視線にも動じることはなかった。


 夜会に放り込んだら貴族令嬢が群がりそうな彼が余っていて、婚約破棄した傷物令嬢のメアリーを押し付けられているなんて信じられない。きっと、『サイコパス令息』なんて不名誉なあだ名をつけたのは、美しい彼に袖にされた令嬢達の意趣返しも込められているのだろうなとメアリーは思った。


「……ということで、若い二人で庭でも散歩してきたらどうかな? 今が見ごろの花も咲いている。ジェフリー、メアリー嬢を案内してあげなさい」

 父とメアリーと彼が無口という状況にしびれをきらしたのか、彼の父親である侯爵が遠回しにメアリー達に交流しろと勧めてきた。


 彼は父親の提案に異議を唱えることなく、すっと立ち上がりメアリーの元へ来るとエスコートするために手を差し出してくれる。彼と目が合った。確かに彼の目にメアリーが映っているけど映っていない、そんな感覚を覚えた。


 彼の腕に手をかけ、美しく整えられた庭を歩く。美しく整えられた庭は陶器の次に好きだ。侯爵家の庭は派手さはないが、季節の花を際立たせるように上手く草花が配置されていた。彼は色ガラスのように涼し気な雰囲気なのに、隣に感じる体温は高い。


「あなたはこの婚約に異議はないですか?」

「ない」

 しばらくはお互い無言で彼に誘導されるように歩いていたが、これだけは確認せねばと質問する。


「私に聞いておきたいことはありますか?」

「特にない」

 メアリーが"人形令嬢"だとか、婚約者に浮気されて婚約破棄された傷物令嬢であることを知っているかもしれないと思い、前の婚約について聞きたいかと話を振ってみた。彼はメアリーに興味はないようだ。


「私で良かったんですか?」

「君は騒がしくない」

「なるほど……?」

 騒がしくない? これは誉め言葉に当たるのだろうか?

 意味がわからなくてメアリーは首を傾げた。口数の少ないメアリーが不快ではないということなのだろうと、勝手に自分にいいように解釈する。


 侯爵家を継ぐことがなくなったので、伯爵家に婿入りできるというのは、彼にとって大きなメリットかもしれない。でも、彼は侯爵家当主である父親の意見になんでも従うようには見えない。伯爵家に婿入りするという事にも頓着してなさそうだ。貴族として伴侶がいたほうがいいかもしれないが、そんな外聞を気にするとは思えなかった。彼がなぜこの婚約を受けたのかはわからないが、異議もないようだ。


「それに、お互いなにか不満があれば、その時に申し出て婚約の継続を考えれば良いだろう」

「それもそうですね」

「騎士としての仕事もあるし、一生一人でもいいと思っていた。家を継ぐつもりもなかった。ただ、両親や弟に多くの迷惑や心配をかけてきた。これまで、どの縁談も顔合わせで潰れている。家族に報いるためにも、婚約が恙なく遂行され君と結婚できたらと思っている」

 意外と口数の多い彼に驚いた。どうやら、質問すれば素直に答えてくれるようだ。明け透けに自分の事情をさらしても良いのかと他人事ながら心配になる。確かに彼は侯爵家当主向きじゃないかもしれない。


「私も前の婚約は散々でした。あなたが伯爵家に婿入りして、一緒に伯爵家を盛り立てて下さって、素行を慎んでいただければ問題ないです」

「その条件に関しては問題ない。よろしく頼む」

 彼から手を差し出されて、その手を握り返す。手袋ごしでも彼の手はあたたかかった。全然、ロマンチックさの欠片もなくメアリーの新たな婚約がまとまった。


 個人的には、甘ったるい言葉や態度がなくたって、彼の極上の陶磁器のように美しい造形を間近で見られるだけで満足だ。この婚約に異議などない。


 確かに彼の表情は変わらないし、感情も伝わってこない。でも、父の言うように、実直で真面目な青年であるのは間違いないようだ。悪意や自分本位な部分は欠片も感じなかった。


 顔合わせの翌日には、彼から一輪の花とメッセージカードが届いた。シンプルで真っ白なカードに、角ばった文字でお礼とこれからよろしく頼むと書かれている。そこに淡い紫色の花が一輪添えられていた。


 きっと彼の両親か弟に、今度こそ婚約者をつなぎとめろと厳命されているのだろう。それでも、真面目な彼はカードのメッセージも花の手配も自分でしたのだろうと思うと、少し心がくすぐったかった。



 ◇◇


 

 顔合わせが無事終わり、二人の婚約はすぐにまとまった。ジェフリーは伯爵家に通い、父から直々に伯爵家の当主教育を受けることになった。元々、彼は弟と共に侯爵家の当主教育を受けていた。そのおかげで伯爵家の書類の取り回しの仕方や領地の運営について学ぶだけで事足りそうだ。ジェフリーは父のお眼鏡に適ったようで、父は婚約破棄の時の落ち込みぶりが嘘のように上機嫌だ。


 ジェフリーは近衛騎士の仕事を続けながら伯爵家の当主教育を受け、半年後には仕事を辞め伯爵邸に入り、一年後には結婚することになった。


 近衛騎士としての不規則な勤務の合間に伯爵家を訪れているので、ジェフリーとメアリーはあまり顔を合わせることはなかった。感情の薄い子供達に任せていると没交渉になると危惧した父親達の根回しにより、婚約してから週に一回は会う機会を設けることになった。


 メアリーは仕事や伯爵家の当主教育で忙しいジェフリーに、時間を割いてもらうことを申し訳なく思った。でも前回、メアリーと婚約者の関係が悪かったのは、そうやって遠慮しすぎたせいかもしれないとそれにおとなしく従うことにした。


 彼から特に出かける場所の提案がなかったので、時折、侍女と出かけるいつものお気に入りのコースに誘った。王都の大通り沿いにある緑豊かな公園を散歩し、オープンカフェでお茶をするというありきたりなものだ。元婚約者と夜会以外に出かけることはなかったので、メアリーは異性との初めての外出に少し緊張していた。彼は初対面の日と同じ黒色のスーツに身を包んでいた。


「メッセージとお花、ありがとうございます」

「ああ。ドレスが紫だったから」


 前回と同じようにエスコートを受けながら、用意していたセリフを話す。顔合わせをした日のメアリーのドレスが、薄い紫色だったからその色の花にしたという意味だろうか? 

 顔立ちがきつめで、髪や瞳が濃い紫色のメアリーをなんとか柔らかい印象にしようと侍女達ががんばって選んでくれたドレスだ。


 彼が花を選ぶのに困惑している様子を思い浮かべて、メアリーからくすりと小さな笑いがこぼれた。花に興味などなさそうな彼が婚約者に贈る花を選ぶのは至難の業だっただろう。


「今日は寒色系でまとめているのだな」

 今日は手持ちの中で、彼の瞳の色に一番近いブルーのデイドレスにした。あからさますぎるかと思ったが、きっと彼なら気づかないだろうと踏んでのことだ。話題の『人形令嬢』と『サイコパス令息』の婚約だ。周りの視線もあるし、雰囲気で仲睦まじさを表現できないので、衣装でこの婚約が上手くいっていることをアピールするしかない。


「もう少しゆっくり歩いてください」

 近衛騎士である彼の歩幅は大きく速い。腕を引くようにして注意する。

「すまない。エスコートに慣れていなくて。このぐらいの速度なら大丈夫か?」

「もう少しペースを落としてもらってもいいですか? 今の半分くらいの速度がいいです」

「このぐらいか?」

「そうね」


 やっとメアリーが会話しながらでも息切れしない速度に落としてくれたので、彼に身を任せるようにして緑豊かな公園沿いの道を、咲き誇る花々を鑑賞しながら歩く。雑談も気の利いた会話もない。二人とも押し黙って歩いているが、彼の少し高めの体温を隣に感じながら、景色を楽しみながら歩くのは案外楽しい。


 そんな二人に同じように道行く貴族達の不躾な視線が刺さった。

 彼らにメアリー達はどう映っているのだろうか?


 物語であれば、他の女性には冷たくてすげない態度を取っていたのに、『サイコパス令息』は実は『人形令嬢』を元々好きで、ドロドロに溺愛するという筋書きになるのだろう。


 隣を歩く彼の顔を見上げる。相変わらずその瞳に温度はなく、表情が変わることもない。彼がこれまで相対してきた人とメアリーへの態度は変わらないのだろう。


 オープンカフェに着いても、ジェフリーはマイペースだった。さすがに人目に晒されるのに疲れて、個室で彼と向き合う。甘いものが好きなメアリーは飲み物に合わせて、いつものようにケーキも注文した。でも、彼は飲み物だけを頼んだ。

 メアリーはコーヒーを飲む美しく整った彼の顔を愛でながら、ケーキを味わい、食器やティーカップを鑑賞した。

 

 このカフェには様々なシリーズの食器や茶器が揃っている。来店する度に違うシリーズの食器で提供される。飲み物やケーキの味、店の雰囲気も好きだが、器や茶器への並々ならぬこだわりもメアリーがこの店を贔屓にする理由の一つだ。

 彼はさっさと自分の飲み物を飲み切ってしまったが、メアリーを急かすこともなかったし、ケーキを食べ終えるまで席を立つこともなかった。


 彼はこちらに合わせることもないし、エスコートにも慣れていない。会話だってほとんどないのに、なぜか彼と一緒にいる時間は心地よかった。


 婚約者の交流として週に一回、いつも同じコースを散歩して、お茶をする。

 そして毎回、デートの翌日にはメッセージカードと花が一輪届いた。毎回、花の色はメアリーが着ていたドレスの色だった。最近は水色ばかりなので、それに近い色の違う種類の花が添えられていた。


 そのうち珍しい色のドレスを着て、困らせてやろうかなどとメアリーは考えた。そうしたら、彼からなんらかの感情を引き出せるかもしれない。だけど残念ながら、メアリーの手持ちのドレスはよくある色味のドレスばかりなので、実行に移されることはなかった。



 ◇◇



 そうして、三回ほどデートを重ねた。いつも同じコースだ。変化といえば、メアリーのドレスやアクセサリーくらい。彼はスーツやタイ、カフスピンに至るまで、いつも同じだった。

 はじめは興味津々で、ジロジロと見ていた周りもあまりにも変化のないメアリー達に飽きたのかあからさまな視線は減った。


 四回目のデートの前に、さっと目を通していただけの彼の釣書を引っ張り出して読み込んでみた。なんと彼の誕生日が二ヶ月後に迫っている。メアリーは彼に事前に宝飾店にいきたいことを伝え、店に先ぶれを出した。


「私の瞳の色のカフスピンを贈っても良いですか?」

 メアリーは店に向かう馬車の中で、店でのやり取りがスムーズになるように根回しすることにした。


「なぜ?」


「もうすぐ、ジェフリー様の誕生日でしょう? 本当はサプライズで贈り物をしたかったのですけど、気に入らない物を贈りたくはないので、一緒に選んでほしいんです。できれば、私の瞳の色のカフスピンを身につけていただきたいなと思って……」


「そうか……。誕生日か……。婚約とは仕事や勉学より、難解だな……」

 彼は普通の婚約者がやりとりするであろうこと全てが新鮮なようだ。一生懸命、情報を処理しているのが伝わってくる。


「気分が乗らなければ、やめておきましょう。すみません、事前にご相談すべきでしたね。私の普段使いのアクセサリーの購入に変更しますわ」

 ジェフリーは普通の婚約者同士がするような事をするのは気分が乗らないのかもしれない。浮かれて勝手に企んでしまった自分が急に愚かに思えてくる。


「嫌……ではない。家族以外から個人的な贈り物をもらうのは初めてで……その戸惑っている。嫌ではない。大丈夫だ」

「よかった。いつも同じものをお召しになっているけど、とても気に入っているのですか?」

「いや、着る物や身に着ける物に拘りはない。ないんだが、着心地や着け心地は好き嫌いがあって……」

「そうなんですね。色、形へのこだわりはなくて、着け心地が大事なんですね」

「ああ」

「じゃあ、着け心地が気に入れば、色はいつもと違っていてもいいですか?」

「ああ」


 着け心地までは使ったことのない自分にはお手上げだと、店に着いて早々に店員を呼ぶ。

「でしたら、加工にお時間かかりますが、台座をお決めいただいて、石を選んでいただくというオーダーメイドでいかがでしょう?」


 メアリーの端的な説明を聞いた店員の提案に彼も異論はないようなので、二人でジェフリーの気に入る台座を探し出した。そして、メアリーはこれまでの人生で最大の集中力をもってして、自分の瞳に瓜二つの宝石を選び抜いた。


 そして、彼の誕生日ぎりぎりにメアリーの瞳の色のカフスピンは仕上がった。


 その贈り物を手に、うきうきした気分で侯爵家の晩餐会へ向かった。ジェフリーの誕生日は大規模な夜会などせずに、家族でゆっくりと晩餐を楽しむのが恒例行事らしい。家族の輪の中に招待してもらえて、メアリーは婚約者として認められたようでうれしかった。


 面識のある侯爵だけでなく、侯爵夫人も涙を流してメアリーの来訪を歓迎してくれた。ジェフリーと違って気さくな弟とその妻も列席していた。ジェフリー以外の家族はみんなおしゃべりが好きなようで、メアリーもいつの間にか自然に侯爵家の会話に加わっていた。


 ジェフリーは相変わらず、求められたら相槌を打つだけで表情は変わらない。でも、家族と共にいる彼の表情は心なしか柔らかいように思う。どうやら彼は家族に恵まれているらしい。家族は不器用なジェフリーを心配し、心から幸せになってほしいと願っているようだ。だから、メアリーとの婚約を継続しようと彼なりにがんばっているのだろう。


 和やかな雰囲気の中、晩餐会は終わった。侯爵一家から食後に談話室でのお茶に誘われたが、それを断って、日の落ちた侯爵邸をジェフリーと散策している。侯爵家の玄関で見た花瓶をじっくり見てみたいとジェフリーにおねだりしたら、横から侯爵夫人に邸内の探索を提案されたのだ。


「これは侯爵領で製造されている白磁器でしょう? なんて美しい白さなのかしら! この形も素晴らしいわね」

「よくわかるな」

 いちいち花瓶や置物の前で立ち止まるメアリーに、ジェフリーは嫌な顔もせずに付き合ってくれる。家族との気の置けない時間の後に、二人で静かに散策できることがメアリーは嬉しかった。


「ええ、混じりけのない真っ白な色。侯爵領で白磁器の元になる土が産出されたおかげよね」

「本当に詳しいな」

 ジェフリーは知識欲があるのか、専門外の陶磁器についても詳しかった。メアリーの知識を褒めてくれて、自分の知っていることを静かに語ってくれる。雑談は苦手なようだが、こういった専門的な知識に関しては舌が良くまわるようだ。珍しく長く語るジェフリーの低い声にメアリーはうっとりと聞きほれた。


 帰り際に、侯爵夫人に個人的なお茶会に誘われた。侯爵夫人のお友達にティーカップの収集家がいるそうで、一緒にお話ししましょうとのことだ。侯爵家に嫁入りするわけではないが、義母との仲も良好に保てそうで良かった。


 あまりにも侯爵家で過ごす時間が楽しすぎて、メアリーは一番大事な目的を忘れていた。

 出来上がったカフスピンを渡すのを忘れていたのだ。結局、ジェフリーに馬車までエスコートしてもらって、馬車に乗る時にバタバタと渡すことになってしまった。ちなみに父から預かった伯爵家からの贈り物は、侯爵家に着いたときに渡している。


「その…ありがとう。大切にする。家族以外からの贈り物は初めてだ。色々と俺が相手だと難しいところがあると思うが、いつもつきあってくれることに感謝している」

 贈り物を渡しても、彼の表情も顔色も変わらない。言葉も固い。

 でも、メアリーにとって贈り物を受け取ってくれて、きちんとお礼を言ってくれる。それで十分だった。確かにお父様の言う通り、人は噂によらない。ジェフリーとの縁は得難いものだとしみじみ思った。



 後日ジェフリーから珍しく提案があった。誕生日の贈り物のお礼にどこかメアリーの好きな所へ行こうと誘われたのだ。これは小さな進歩だ。お誘いの手紙を手にしてメアリーは拳を握りしめた。


 少し迷ったけど、侯爵夫人のお友達が経営する陶磁器の工房への見学をお願いした。

 ジェフリーの母である侯爵夫人との交流は続いている。侯爵夫人の周りにも陶磁器やガラス製品を愛好するご婦人が数人いるらしく、そのお茶会へメアリーも招かれたのだ。それから、メアリー自身も着実に人脈を広げている。ジェフリーと婚約したことによる副産物だ。


 工房の職人たちを委縮させてもいけないので、工房の片隅で短時間だけ、立ち見させてもらった。見学が終わった後にいつものオープンカフェに寄って、一息ついているところだ。


「本当にあんなところで良かったのか?」

「ジェフリー様も私の陶磁器への情熱はご存じでしょう? 今までつてもなかったし、あったとしても女性一人では護衛や侍従がいたとしても許可されませんから、おつきあいいただけて感謝しています」

「そうか。君は本当に陶磁器が好きなのだな……」

「そうなんです! あのつるりとした滑らかな白さとそれに模様付けされた優雅な文様。はー、製造するところを見学できて眼福でした」

 ふと手元の紅茶のティーカップが目に入る。今日のティーカップは白地に金の縁取りがされていて、太い水色のラインが入っている。繊細な草花の模様が多い中で、珍しいデザインだった。


「うふふ、綺麗なブルーね。あなたの瞳の色みたい。あなたもこのティーカップにも負けないくらい美しいわよ」

 念願の陶磁器の製造工程を見学できて夢実心地で、ふわふわした気分になっているメアリーは、いつもより口が軽くなってしまい、心の中で思っていることがそのまま口から出てしまった。

「そうなのか?」


「ええ。ほんっとうに楽しかった」

「それは良かった」

 相変わらず彼は無表情だし、彼の感情や気持ちは彼のセリフに入らない。でも、返事のバリエーションは心なしか増えた気がする。彼を観察していると飽きることがない。


 相変わらず自分から何か提案することは苦手なようだ。好きな物やしてほしいことを察することはできない。それでも、少しずつ少しずつ彼なりにメアリーと交流しようと努力してくれているのが伝わる。


 それに、ジェフリーはメアリーがどんな言動をしようとも態度を変えないし、気になればそのまま質問してくれるので、気兼ねなく感情を出せるし、言いたいことを言える。おかげでメアリーは表情が豊かになった。そんなメアリーの変化に両親も驚いている。


 メアリーはそろそろ『人形令嬢』の名を返上しないといけないかもしれない。

 


 ◇◇



 婚約から半年経ってジェフリーが近衛騎士を辞め、伯爵家に移り住む直前にメアリーは初めてジェフリーの心の柔らかい部分に触れた。最近では、週に一度のお出かけ以外にも、彼が伯爵家に当主教育を受けに来た時に一緒にお茶をするようになった。


 週に一度のお出かけの習慣は継続されていて、用事がないときはいつもの定番のオープンカフェに来る。メアリーは今日もご機嫌でジェフリーとケーキとティーカップを堪能していた。 


 ふと気づくと、メアリーといる時にも家族といるときのようなリラックスした雰囲気になる彼の表情が、初対面の時のように固くなっていた。メアリーは彼の苦手なものを間違えてオーダーしてしまったのかと思い、テーブルに載る皿やティーカップをチェックした。


「君は誰とでも上手くやっていける気がする。本当に俺でいいのか? 俺が騎士を辞めて伯爵家に入ってしまったら、もう後戻りは出来ない」

 

 彼が発する内容を理解するのに時間がかかった。無表情な顔の下でそんなことを思っていたのかとメアリーは驚いた。そして、婚約者である自分や伯爵家のことをしっかりと考えてくれている彼の真面目さにじんとした。


「私、幸せです。ジェフリー様と一緒にいる時間が好きです。ジェフリー様って陶磁器よりも美しいし、話していても話していなくても楽しいし」


「君は俺といて楽しいのか?」


「ええ、とっても。ジェフリー様ほどぴったりなお相手って、きっと見つからないと思います。それに、私の表情筋が動くようになったのも、交友関係が広がったのもジェフリー様と婚約して毎日が楽しいからだと思います」

 最近、自然に浮かぶようになった笑みを浮かべてメアリーは言った。


「そうか」

 この「そうか」はたぶん、うれしい時の調子。相変わらず表情が変わらない彼の感情は、言葉の端々から伝わってくる。


「そうですよ。だから、なんの憂いもなく伯爵家にいらして下さいね」

 メアリーは弾むような声で返答した。



 ◇◇



 ジェフリーが伯爵家に移り住んでからもメアリーとの交際は順調だった。


 同じ屋敷に住むようになって、部屋こそ離れているが食事を共にし、時間のある時はお茶をする。相変わらず彼の表情も言動も変わらない。でも、その一貫性がいいなと思うメアリーは彼にすっかり夢中なのかもしれない。


 夜会や出かける先で、エスコートを受けるメアリーはいつも少し頬を染めていて、人形令嬢と言われていた面影はない。周囲も上手くいっている様子の二人に飽きて噂にすら上らなくなるぐらいだった。


 結婚を一ヶ月後に控えて、二人とも式の準備などに追われていたが、相変わらず週に一度は外出していた。


 何を言っても受け入れてくれる彼に甘えたメアリーのリクエストで、歌劇『サイコパスな吸血男爵は虐げられた男爵令嬢に薔薇を捧ぐ』を観に来ている。


 メアリーのデートの定番は水色のドレスだ。今日のドレスは水色の光沢のある生地に、シルバーのラメの入ったシフォンを重ねたもので、手持ちのものの中で一番、彼の色の再現度が高い。メアリーのクローゼットは現在、綺麗な水色の形違いのドレスで埋め尽くされている。


 劇場に足を運ぶということで、全身を飾るアクセサリーも彼の色に染まっている。メアリーの誕生日にジェフリーから贈られた物だ。自分の濃い紫の髪と瞳が差し色のようになっていて、メアリーは自分の装いに満足していた。


 『サイコパス令息』と『サイコパス男爵』を見に行くことになるとは。人生わからないものだ。


 歌劇自体は、さすが王都の劇場で昨シーズンに引き続き、今年も再上演されるほどおもしろい出来栄えだった。ハラハラドキドキするサスペンス仕立てで、こじれた愛憎劇が織り交ぜられており、見応えがあった。


 でも、舞台上のサイコパス男爵とジェフリーは似ても似つかなかった。人の感情に疎いところは同じだけど、ジェフリーはあんなに我儘で傲慢で、人を人とも思わないような冷たい人じゃない。ジェフリーを劇の役柄に重ね合わせて、『サイコパス令息』と言うのは違う。


 確かにサイコパス男爵とジェフリーの髪や瞳の色味は似ている。でも、舞台役者よりもジェフリーの方がずっと格好いいし、美しい。ジェフリーの美貌はどんなガラス製品も陶磁器も敵わないのだ。生身の人間が勝てるはずがない。


「ジェフリー様、いかがでした?」

 歌劇が終わり、斜め上の感想を抱いて興奮しているメアリーは隣に座るジェフリーに問いかけた。


「まず、吸血鬼という存在はいない」


「ふふ、そこからですか? もしいたら、と想像するのが楽しいんじゃないですか?」


「楽しい……? なるほど……?」

 ジェフリーの反応が面白くて思わず笑いが零れた。現実主義のジェフリーと歌劇との相性は良くないようだ。なんでも話すメアリーだが、さすがに斜め上の感想を聞かせるわけにはいかない。劇の話はそれで終わりとなった。


 侯爵家の持つ個別のブースで鑑賞していた二人は他の観客がはけてから、ゆっくりとロビーを歩いていた。ジェフリーはエスコートにもだいぶ慣れて、スムーズに進むことができる。人影がまばらなので正面から来た人物にすぐ気づいた。メアリーが目礼だけして通り過ぎようとすると、声をかけられた。


「よお、メアリー」

 貴族らしからぬ、粗野な言葉使いにメアリーは眉を顰めた。


「お前も後悔しているだろう? 俺と婚約破棄して、『サイコパス令息』と婚約するはめになって」

 すっかり存在を忘れていた元婚約者だが、風の噂で困った立場になっていると聞いている。


 公の場で交わっていることが露見したので、責任を取って二人は結婚するのかと思っていたのだが、そうすることはなかった。メアリーとの婚約破棄の元凶であるカレンに怒り心頭の伯爵が、カレンを知り合いの商家の後妻に差し出したのだ。あれだけ仲が良かったのに、駆け落ちして愛を貫くほどの情熱はこの二人になかったらしい。


 メアリーとの婚約が破棄された元婚約者は伯爵家の入り婿になる予定で、自分で身を立てるつもりはなかった。今更、文官にも騎士にもなれない。かといって、次期伯爵である兄を手伝うでもなく、家の金でぶらぶらと遊び歩いているらしい。


 メアリーの家にも伯爵や元婚約者から復縁を望む手紙が何通も届いていた。父は学生時代からの友人であった伯爵との縁を切った。そして、伯爵家にも連絡を寄こすなと抗議を入れている。父が伯爵と絶縁したことも、手紙に対する抗議もこの元婚約者は知らないのだろうか?


「なにをおっしゃっているの?」

 せっかく着飾って、ジェフリーと出かけて最高潮に機嫌の良かったメアリーは元婚約者に絡まれて、不機嫌さを隠せなかった。それに気づくこともなく、元婚約者はにやにやとした笑いを浮かべて、メアリーを舐めるように見ている。気持ち悪い。


「今のお前だったら、もう一回婚約してやってもいいよ」


「なにを言っているのか本当に理解に苦しむのですが。あなたとの婚約はあなたの瑕疵で、こちらから破棄しました。慰謝料の返済は滞っているようですが。それに、私は彼との婚約に満足しています。どこかの誰かさんと違って、不誠実なことはしないし、当主教育もお父様からお墨付きをいただいています」


「今のお前なら、浮気なんてしないよ。婚約してる時は愛想も色気もなかったし、他の女に慰めてもらっても仕方ないだろう? 当主教育だって、お前が受けてるなら問題ないじゃないか」


「お話になりませんね。本日のあなたの無礼な行いは伯爵家と侯爵家の連名で抗議しますわ。では」

 話の通じない元婚約者にメアリーは見切りをつける。こういう輩と話すのは時間の無駄だ。


「これまでだって、婚約することすらできなかった男だぞ。こんな気の利かない男より俺のがずっといい男じゃないか。こいつのことを次期伯爵としては認めていても、夫としては不足してるとお前だって思ってるだろ!!」


「そうなのか?」

 隣で無表情で成り行きを見守っていたジェフリーが初めて反応して、メアリーに問いかけてくる。


「いいえ」

 彼を安心させたくて、感情を映すことのない彼の瞳を見て言い切る。


「強がるなよ。『サイコパス令息』との婚約なんて破棄したいだろ?」


「いいえ、私から婚約を破棄することはありません。わたし、ジェフリーを愛しているんです」

 

「「え?」」

 新旧の婚約者の戸惑う声が重なった。


「なぜ、ジェフリー様まで驚くんですか? 私の気持ちは伝わっていませんでしたか? だって、はっきり言わないとこの元婚約者(バカ)には伝わらないでしょう?」

 わかりやすく態度でも言葉でもジェフリーへの好意を伝えていたのに、伝わっていなかったのだろうか?

 これからはもっとはっきりと言葉にしないといけないなとメアリーは心の中で決意した。


「でも、こいつは人の気持ちなんてわからなくて……」


「ええ。確かに彼は場の空気を読んだり、人の気持ちを察することは苦手です」


「そんな奴と結婚するなんて……」


「でも、こちらの好意にあぐらをかいて、自分は従妹と浮気して、なにもしてくれない婚約者よりうんとマシです。確かにあなたの方が女心はよく分かっていて、女の扱いも上手なのでしょう。エスコートや贈り物は完璧だと評判だったものね。婚約者以外の女へのね。それに外見だけ比べたら、あなたなんてそこら辺の塵にも等しいわよ。鏡をもう一度よーく見た方がいいわ」

 これまでの鬱憤を晴らすかのように、メアリーは食い気味に言葉を返した。


「これからは態度を改めるよ。よそ見もしない。こいつより満足させてやるよ。お願いだ、メアリー。お前に見捨てられたら俺は終わりなんだよ」


「そんなこと私の知ったことではないわ。ジェフリー様といると他に何もいらないくらい満たされてるの。あなたなんてお呼びじゃないのよ」


「こんな無表情で人との会話が成り立たない男が貴族社会でやっていけるわけがないだろう?」


「ジェフリー様が人とのやりとりが苦手な分は私がカバーするわ。ジェフリー様にだって得意なことがあるの。人を色眼鏡なしによく見ているし、知識も豊富。情報も貴族社会では立派な武器になるのよ。夫婦で補い合って伯爵家を盛り立てていくから、ご心配なく。それに、会話が成り立たないという意味ではあなたのほうが、よっぽどひどいわよ。これ以上自分の醜聞を広めてどうするの?」

 いつの間にか、三人の周りには物見高い貴族達の輪ができていた。ひそひそと聞こえてくるものは、元婚約者を非難する内容のものだ。


「でも……」

 野次馬に新たな醜聞の種を蒔いているというのに、後がないからか元婚約者はまだ引き下がらない。


「ねぇ、あなたの方が伯爵家の当主として相応しいとでも思っているの? 伯爵家の血筋の妻をないがしろにして、入り婿の分際でどこに種を蒔いてくるかわからない男が?」


「それは……」


「何度言えばいいのかしら? 彼は『サイコパス令息』なんて言われている。確かに人の機微にうとい。でも、それ以上に魅力があるのよ。私、彼に夢中なの」


 いつか街中で見かけた元婚約者の従妹を真似をして、ジェフリーの腕に自分の腕を絡ませて体を寄せる。メアリーの本気を感じたのか、対面する元婚約者の顔が強張った。以前のメアリーはこんなに感情的に話すことも、人前でベタベタすることもなかった。婚約者のことをあからさまに惚気ることも。


「それに彼の事をサイコパスって言うけど、私の気持ちなんておかまいなしで、傲慢で我儘で自分の事ばかり、あなたの方が彼よりよっぽどサイコパスじゃないの?」


「お前……」

 次の瞬間、メアリーの左上の辺りにあるジェフリーの顔を見て、元婚約者は驚愕の表情を浮かべた。周囲でこの騒ぎを遠巻きに見ていた貴族達からも戸惑いの声が漏れる。


 「ああ」だか「うん」だか、なにかを呟きながら元婚約者は逃げるようにして去って行った。


 なにに驚いたのか、見ようと周囲が凝視している位置にあるジェフリーの顔を覗き込むと、顔を真っ赤にして泣いていた。


「メアリー」


「なぁに?」


「ありがとう」


 私の婚約者は人の気持ちにも自分の気持ちにも鈍い人なの。

 でもね、サイコパスなんかじゃない。とってもかわいい人なのよ。

 メアリーはくすりと小さな笑いをこぼすと、婚約者にハンカチを差し出した。

(終)








☆電子書籍化 お礼の小話(およそ2000字)☆

 ~ジェフリーの香水を買いに行こう~


「どうしたのですか? ジェフリー様」


 定番のデートコースである公園沿いの道を二人は歩いている。

 ジェフリーはどこか上の空で、時折、足が止まる。


「……その、メアリーの匂い……香水?」


「香水? 匂いがキツイですか? いつも着けているのと同じもので、同じような着け方をしていますが、気になりますか?」


 ジェフリーはとても鼻がいい。

 役に立つ事より、日常生活で困る事の方が多いと聞いて、メアリーも気をつけるようにしている。

 メアリーはふだん香水を着けているので、その話を聞いて香水を着けるのをやめた。

 そうしたら、「そのままのメアリーの匂いも好きだけど、香水を着けているのも好き」と言われて、お出かけする時には着けるようになった。


「メアリーと同じ香水が欲しい」


「ジェフリー様が香水を着けるのですか?」


「……着けない。けど、欲しい。どこで買えるだろうか?」


「自分の好みに合わせてオーダーメイドで調合してくれる店で作ってもらっています。いつも行くカフェのすぐ傍にあるお店なのですが、行きますか?」


 「うん」


 どこか悲壮な決意をにじませたジェフリーに疑問を抱きながらも、メアリーは店に向かった。

 小さな店舗にはちょうど客はおらず、メアリーの香水を調香してくれた技師がいたので事情を話してお願いする。

 

「どんな香りがお好みですか?」


 母と同世代の女性がジェフリーの固い表情も気にせず、お決まりの質問をする。


「……メアリーの……香りが……」


「えーと、私の香水が気に入ったみたいなのですけど……」


 ジェフリーの目的がわからないので、補足するメアリーもしどろもどろだ。


「まったく同じものにしますか? それとも細かい部分を変えますか?」


「……」


「それでは、ベースは同じにして、少しだけ男性が好みそうなものに変えましょうか」


 固まって返答しないジェフリーに、次々に香りのついた紙が差し出される。


「ジェフリー様、どれか気に入った香りはありましたか?」


 ジェフリーを見ると、青白くなって口元を覆っている。

 メアリーは技師に断りを入れると、ジェフリーの腕を引くようにして店を出た。


「すまない。俺が行きたいと言ったのに……」


 公園のベンチでぐったりとしながら、ジェフリーが謝る。

 侍女に買って来てもらったレモネードを手にして、気になっていたことを尋ねる。


「あの、なぜ香水が欲しくなったんですか?」


「……メアリーの」


「私の? 私の香水が好きだから、欲しくなったんですか?」


「……この前、三日間、家を空けた」


 急に香水から話が飛んで、メアリーは目をぱちぱちさせた。


「ええ。お父様とジェフリー様が二人で、領地の視察に行った時のことでしたね。私は陶磁器のプロジェクトの打ち合わせでお留守番でしたね」


「メアリーに会えなくて、メアリーの匂いが恋しくなった」


「匂いが恋しい?」


 それは会えなくて、寂しかったということだろうか?

 時々、ジェフリーの表現は難解だ。

 嗅覚が鋭いジェフリーが、メアリーの不在時に匂いを必要としてくれるということは……。

 ジェフリーの言わんとすることがわかって、メアリーの頬が染まる。


「あの、もしよかったら、私の香水をお分けします。女性っぽい香りなので、直接着けるよりハンカチなどにシュッとして持ち歩いたらいかがでしょう?」


「ありがとう、メアリー」


 ジェフリーの口角が少し上がった様子に、やっと正解を導き出せたとメアリーはほっとした。


「メアリー、この香水、本当に一緒?」


 帰宅して早々、新品の香水をジェフリーに渡すと、すぐに手持ちのハンカチに吹きかけた。

 ジェフリーが身をかがめて、メアリーの首元の匂いを嗅いでいる。

 頬を彼の髪がさらっとなでて、至近距離にある空色の瞳に、どきっとする。


「ジェフリー様!!」


「……ああ、すまない。でも、この香水とメアリーの匂いはなんか違う」


「あの、嫌ではないのですが、突然ですとびっくりしますし、嫌ではないのですが、人前では恥ずかしいので……」


 距離の近さに慌てふためくメアリーに対して、なにかを探求する時のジェフリーは冷静だ。

 

「きっと香水に、メアリー自身の匂いが加味されているから、違うんだな……。確かにメアリーっぽいけど、メアリーの匂いが再現できていない……」


 そう言って、ハンカチとメアリーの首元の匂いを嗅ぎ比べている。

 メアリーは顔を真っ赤にさせながらも、ジェフリーの好きにさせることにした。


「うーん……。やっぱりメアリーの匂いがいい。落ち着くし、爽やかでいい匂いだ。でも、香水もなんとなくメアリーっぽいかんじはする……。メアリー不在時はこれで我慢するしかないのか……」


 真剣にメアリーの首元とハンカチを往復するジェフリーを見て思った。

 ジェフリーはちょっと頭がおかしいのかもしれない。

 でも、そんな彼の行動を見て、愛を感じてしまう自分はもっとおかしいのかもしれない。

 それでも、二人が満たされているのならいいか、とメアリーは思うのだった。

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『次の婚約者は人の気持ちのわからないサイコパスです』
書籍化情報

3月25日に、コミックシーモアにて先行配信されます。
コミックシーモア 販売ページ
☆コミックシーモア購入特典 3000字の短編(歌劇の脚本家令嬢から見た二人)


他書店での発売は4月18日予定です。
楽天Kobo電子書籍ストア 販売ページ
Amazon Kindleストア 販売ページ

i942907
 カバーはおだやか先生の華麗なイラストです
 
 ※本文中に挿絵はありません。


【詳細情報】
☆リブラノベル様より
☆構成はメアリーサイドとジェフリーサイドの2部構成。
☆Web版(3万2000字)+加筆分(3万2000字)=6万4000字
 それぞれの視点に等分に加筆。

 描き下ろし加筆分は、歌劇の観劇の後から結婚式までの二人。

※Web版の取り下げはありません。
+注意+

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