96 リュスメースの勇気
協議が始まると、夏希はさっそく西部同盟側の提案をリュスメース王女に披瀝した。
「外交団長として公的な見解を申し上げます。西部同盟のこの提案は、非現実的です。当外交団は、この提案をタナシス政府が拒否されることを期待するものであります」
「それは……厳密に言えば、中立的立場とは言い難いのでは?」
うっすらと笑みを浮かべたリュスメースが、問う。
「そうですね。しかしながら、当外交団は憲章条約諸国の利益も考慮せねばなりません。現状で、タナシス王国が憲章条約に加盟しても、得られるものはきわめて少ないでしょう。憲章条約とタナシス王国の友好維持のためにも、この提案は考慮に値しないと思いますが」
「それは、同感ですね」
リュスメースが、うなずいた。
「ところで殿下。今朝から流れている街の噂をご存知ですか?」
「憲章条約が我が国を強引に加盟国にする云々、との噂ですか?」
「左様です。その根も葉もない噂です」
「面白いタイミングで流布しましたね。公安に調べさせましたが、どうやら意図的な流布のようです」
軽くうなずきながら、リュスメースが応じる。
「やはりそうですか。これはきわめて私的な見解ですが、流したのは西部同盟関係者ではないか、とわたしは見ております」
「根拠をうかがってよろしいでしょうか」
「外交団から漏れた情報でないことは確かです。もしそうであれば、これほど早く市民に広まるとは思えません。自然発生した噂と見るのも、不自然です。この情報を知っており、なおかつ流布させられるだけの能力があり、貴国と憲章条約との関係悪化を願っている組織は、ひとつしか思い当たりません」
「ようやくわかっていただけましたか。西部同盟と我が政府。どちらが正直で、主張に正当性があり、悪意がないことを。どうでしょう。これを機に中立的立場を捨て、我が国と同調して西部同盟に圧力を掛け、紛争終結に至る手伝いをしていただけませんでしょうか?」
リュスメースが、期待を込めた眼差しを夏希に向ける。
「中立的立場を捨てるのはご勘弁願いたいです。一度中立を謳った以上、それを貫かねば外交団としての立場がありません」
……それに、この情報操作がタナシス側の手の込んだ工作だという可能性はゼロではないし。
夏希はそう内心で付け加えた。もし西部同盟上層部にタナシスの間諜が潜り込んでいれば、ササウの提案内容を事前に知ることもできただろう。憲章条約とタナシスの関係を悪化させるような噂をわざと流し、その罪を西部同盟になすりつけ、憲章条約を味方に付ける、という策謀だった、ということも、ありえない話ではない。
「ともあれ、タナシス王国としては、この西部同盟の提案は正式に拒否いたします。立場も主張も、従来と何ら変わることはありません」
きっぱりと、リュスメースが言う。
と、閉じられていた扉が突然勢い良く開いた。
室内にいた全員の視線が、戸口に注がれる。
乱入してきたのは、三人の王宮護衛隊士だった。いや、先頭のひとりは士官だ。さきほど王宮の正門で出迎えてくれた、背の高い壮年の男である。三人とも血相を変え、抜き身の片手剣を手にしている。
夏希は腰を浮かした。ここは王宮護衛隊立ち入り禁止区域である。そこへ、武器を手にした護衛隊士が現れたということは。
敵襲。
それしか考えられない。危険が迫っているので、護衛隊士が規則を破って助けに来てくれたのだ。急いで、逃げ出さねば。
「どうしたのです?」
リュスメースが、甲高い声で問う。
隊士たちは答えずに、足早に室内に踏み込んできた。座っていた全員が、立ち上がる。
いきなり、先頭を行く士官が剣を一閃させた。一番下手にいた夏希の部下……ラクトアス出身の書記が、鮮血を撒き散らしながら倒れる。
「何をするか!」
ハルントリー王子が、憤怒の形相で一喝した。
夏希は硬直した。
王宮内部なのに。王宮護衛隊なのに。顔を見知っている士官なのに。
剣を振るった。書記を斬り捨てた。夏希の部下なのに。
「夏希殿!」
ビアスコ王子が、夏希を守るかのように数歩前に出る。
三人の剣士が、一斉に走りだした。二人の隊士がハルントリーとアフムツに、そして士官がビアスコに斬りかかる。
夏希は焦って得物を探した。机上には、紙やペンしか置いていない。
椅子だ。
夏希は掛けていた椅子を持ち上げた。背もたれ付きの木製で、かなりの重量がある。
男性の悲鳴が聞こえる。
悲鳴を上げたのはビアスコだった。脇腹を深く切り裂かれ、膝をついている。
ビアスコに止めを刺そうとしている士官に向け、夏希は椅子を突き出した。士官が、飛び退いてこれを躱す。
夏希はなおも椅子を突き出し続けた。剣と椅子では、もちろん剣のほうが有利である。間合いを取られ、体勢を整えた上で斬り掛かられれば、まず負ける。このまま勢いに任せて攻勢に出て、敵の動きを封じる以外に、身を守るすべはない。
夏希の視野の端に、周囲の状況が映った。すでに、ハルントリー王子とアフムツ氏族長は床に倒れ伏していた。タナシス側の書記は、彼女と同様椅子を手にして、隊士の一人とやりあっている。リュスメースは、驚きに目を見開いたまま硬直しているようだ。もう一人の隊士は、どこにも見えなかった。
嫌な予感に襲われた夏希は、手にした椅子を士官に向け放り投げると、身を沈めつつくるりと振り向いた。
間一髪であった。突き出された片手剣の切っ先が、左頬の側をかすめる。身を沈めていなければ、心臓を貫かれていたかもしれぬ位置だ。
夏希は急いで後退しつつ、新たな椅子に手を伸ばそうとした。だが、一足早く回りこんだ士官が、剣を手にしたままテーブルと夏希の間に立ちはだかる。
……得物がないと、確実に殺られる。
心底びびりながらも、夏希は必死に打開策を探った。戦場慣れしているせいか、こんな状況でも頭が冴えきっているのがわかる。刺客の動きも、なんだかゆっくりしている様にも感じる。……ひょっとして、死期が迫っているのだろうか。
背中に、温みを感じる。
そうか、暖炉だ。
視線で隊士を牽制しつつ、夏希は暖炉から火かき棒を掴み取った。打ち込んできた隊士の剣を、危うい所で打ち返す。
……武器は手に入った、だが、二対一では勝ち目はない。
夏希はそう計算した。アンヌッカや生馬に手ほどきを受けたとは言え、夏希の剣の腕前は並以下だ。エリートたるタナシス王宮護衛隊相手に、敵うわけがない。
夏希の視野から、士官が消えた。背後に回ったのだ。
もはや、夏希に逃げ場は残されていなかった。火かき棒一本を頼りに、凄腕剣士二人と戦わねばならない。一秒でも長く時間を稼いで、生き延びねば。いずれ、近衛隊やまともな王宮護衛隊、アンヌッカにコーカラットが、駆けつけてくれるはず。
正面の隊士が、斬り込んでくる。
夏希は火かき棒でこれを受けた。
隊士が、笑みを浮かべる。
背後に、殺気にも似た濃厚な気配。
夏希は動けなかった。もう間に合わないことを、悟ったのだ。奇跡でも起きぬ限り、一太刀浴びせられるのは確実だろう。致命傷にならぬことを、願うしかない。
押し殺したような悲鳴が、響いた。
隊士の注意が逸れた。
夏希は攻勢に出た。二度ほど激しく火かき棒を振るい、隊士に後退を強いる。少しばかり余裕ができた夏希は、立ち位置を変えて背後を確認した。
リュスメースが、腹部を押さえてうずくまっている。その前には、呆然とした表情の王宮護衛隊士官。
夏希を守るために、リュスメースがその身を盾にしてくれたのだ。
「……剣を引きなさい、ズィラーヌ」
食いしばった歯の間から搾り出すように、リュスメースが言った。
「で、殿下。殿下の御身を傷つけるつもりは……」
おろおろと、士官が言い訳する。
二人目の隊士も駆け寄ってきたが、腹部を赤く染めているリュスメースを目にし、蒼白になる。
「なぜこんなことを……。憲章条約との友情が、タナシスの生命線なのに……」
絞り出すように、リュスメースが口走る。
夏希は躊躇した。リュスメースの止血をしてやりたいが、刺客三人はいまだ剣を下ろしてはいない。少しでも隙を見せれば、ばっさりとやられてしまうだろう。
隊士二人が、横目で士官の様子をうかがう。士官が、呆然とした表情のまま小さくうなずいた。
視線を夏希に据えた二人が、一歩前に出る。夏希は火かき棒を構え直した。
隊士たちが踏み込もうとした刹那、リュスメースがゆらりと立ち上がった。刺客二人が、思わず動きを止める。リュスメースは、腹部を抑えたままおぼつかない足取りで、夏希の前に出た。
「わたくしの命に替えても、夏希殿はお守りします」
怪我人とは思えぬしっかりとした口調で、リュスメースが宣言する。その言葉を強調するかのように、リュスメースが血まみれの両手を腹部から離し、大きく腕を開いた。夏希の鼻に、鮮血の匂いが届く。
隊士が躊躇する。
「どけっ」
士官が、ためらっている隊士二人を押しのけるように前に出た。
「リュスメース!」
低い男性の声が、響き渡る。
声の主は、オストノフ国王だった。数名の近衛隊士を引き連れ、部屋に駆け込んでくる。
「貴様らぁ! 何をしておるか!」
状況を一瞬にして見て取ったオストノフが、憤怒の表情で愛剣を抜き放った。年齢を感じさせない足さばきで素早く接近し、驚きの表情を浮かべている護衛隊士の一人に斬りつける。
鮮血とともに、護衛隊士の首が床に転がった。
「陛下、殺さず捕えてください!」
夏希は慌てて声を掛けた。テロリストは殺してはいけない。生きたまま捕えて尋問し、背後関係を暴かねばならないのだ。
「剣を捨てろ!」
なおも憤怒の表情で、オストノフが迫る。
残る護衛隊士が剣を捨てた。だが、士官の方は剣を手放さなかった。それどころか、左手を刀身に添え、首筋に近付ける。
自害する気だ。
「やめなさい!」
夏希は無駄と知りつつ一喝した。
「タナシス王国に栄光あれ! オストノフ陛下万歳!」
強張った表情で言い放った士官が、剣を手前に引いた。刀身が首筋を滑り、おびただしい量の鮮血が吹き出す。夏希は思わず顔をそむけた。
駆け寄ってきた近衛隊士が、生き残った刺客を拘束する。
いきなり、リュスメースの身体が崩れ、夏希にしなだれかかってきた。火かき棒を手放した夏希は、急いでその身体を支えた。
「リュスメース!」
愛剣を収めたオストノフ国王が、愛娘の身体を夏希から奪い取るようにして抱きかかえる。
「陛下、殿下の傷を診させて下さい」
緊張状態が急激に解けたことによる身体が冷えるような感覚を味わいながら、夏希はそう願い出た。
「頼む」
さきほどの憤怒の表情はどこへやら、今は気弱な父親の顔になってしまったオストノフが、許可を与える。夏希はまず腹部の傷を検めた。突かれただけのようで、傷口は小さかったが、出血の具合からして相当深そうだ。呼吸は浅く、脈拍は早い。素人目にも、かなり危険な状態と思われた。
「陛下、殿下をここへお載せになって下さい」
駆けつけてきた宮廷侍医らしい初老の男性が、そう声を掛けてくる。夏希は、リュスメースをテーブルの上に横たえようとするオストノフを手伝った。すかさず、侍医が手当を始める。夏希は邪魔にならぬように身を引いた。
いつの間にか、部屋の中は人でいっぱいになっていた。ほとんどが、近衛隊士だ。
夏希はあたりを見回して、他の者の生死を確かめた。アフムツ氏族長と、ビアスコ王子は絶命していた。二人の書記も、死んでいるようだ。
夏希の目に、涙が浮かんだ。寡黙だが、信頼できたアフムツ。最後に、男らしく夏希を守る姿勢を見せて死んでいったビアスコ。
ハルントリー王子は、かろうじて息があった。近衛隊士が二人がかりで、止血に務めている。すでに、意識はないようだ。夏希は歩み寄った。
「どうですか?」
「残念ですが、手の施しようがありません」
止血を続けながら、隊士の一人が答える。
……これ以上、死人は出したくない。
夏希は指で涙を拭うと、テーブルの上に横たわる愛娘の手を握っているオストノフのところへ歩んだ。リュスメースの容態もかなり悪いようだ。治療を続けている宮廷侍医の表情も冴えないし、リュスメースの顔面も蒼白を通り越して青白くなってきている。出血が、止まらないのだろう。
「陛下、お願いがあります」
「夏希殿、今は忙しいのだ」
「外交団に、魔物が一匹属しております。彼女は高度な医療技術の持ち主です。タナシス王国の医学水準を愚弄するつもりは毛頭ありませんが、彼女に任せれば殿下もあるいは……」
オストノフが、涙の溜まった目を夏希に向けた。
「許可する。一刻も早く、その魔物をここへ連れてきてくれ」
絹糸。清潔で乾燥した布。清浄な水とお湯。
さすがに大国の王宮である。コーカラットが要求した品々はあっという間に揃えられた。
手をコーカラットの黄色いジュースで消毒した夏希は、宮廷侍医とともにコーカラットの手術を手伝った。テーブルの上にリュスメースとハルントリーの二人を並んで横たえての、同時手術である。傍らでは、オストノフ国王と、エミスト王女が見守っている。
傷口をコーちゃんジュースで洗って、きれいにする。触手で開いた傷口に、縫合用触手を突っ込んで、血管や腸壁、腹膜などを縫い合わせる。後日抜糸の必要があるので、皮膚は軽く縫い合わせる。手術そのものは、一時間足らずで終わった。
「お二人とも、かなり血液を失っていますので、危険な状態ですねぇ~。これは輸血が必要ですぅ~」
コーカラットが、触手の先をリュスメースの腹部につけ、わずかに血液を付着させた。それを、口の中に突っ込む。
「リュスメース殿下は、Rh+のAB型なのですぅ~」
「舐めてわかるの?」
「魔物ですからぁ~」
ハルントリーの血液型は、Rh+のO型だった。夏希は、オストノフに近衛隊士を集めるように要請した。同時に、輸血について簡単な説明を行う。あとで『娘の血に男の血を混ぜるとは何事か!』などと切れられないための用心である。オストノフは怪訝そうな表情をしたものの、輸血には同意してくれた。手術を見学し、どうやら愛娘が助かりそうだと知って、コーカラットの治療を信頼したのだろう。
居並んだ近衛隊士たちに、コーカラットが鋭く尖った触手の先端を突き刺し、血液型を調べてゆく。Rh+ABとOを三人ずつ選び出したコーカラットは、それぞれの患者の横に血液提供者を一人横たえると、先端を尖らせた触手を腕に突き刺した。別な触手をリュスメースとハルントリーにも突き刺し、自分のボディを媒介にして輸血を開始する。
「夏希殿。話がある」
オストノフが、部屋の隅へと手招く。
「なんでしょう、陛下」
「どうやら娘は命を取り留めそうだ。礼を言う」
「礼を言わねばならぬのはこちらです、陛下」
夏希は、オストノフが部下を率いて突入してくる寸前の出来事を物語った。
「リュスメース殿下は、わたしの身代わりとなって負傷されたのです。殿下の勇気ある行動がなければ、わたしは死んでいました」
「そうか。あの小さな身体に、そのような勇気があったとはな」
オストノフが、慈愛のこもった視線を、横たわる愛娘に向ける。
「夏希殿。謝罪もさせてもらうぞ。事情はどうあれ、ここはわが王宮内。しかも、外交団を襲った刺客はわたしの配下の者だ。今回の件、心よりお詫び申し上げる。いかなる賠償にも、応じるつもりだ」
「それよりも、一刻も早く背後関係をつかんで下さい。刺客のリーダーは、あの自害した士官でしょうが、彼が独断で行った犯行とは思えません。命じた者を探し出し、その意図を知らねば、また同じようなことが起こるでしょう。それは、絶対に防がねばなりません」
「もっともだ。必ずや首謀者を探し出し、償いをさせよう」
第九十六話をお届けします。