9 増員要請
「夏希様、起きてください。朝ですよ」
湯気の立つカップを盆に載せて入ってきたシフォネが、寝台に横たわる夏希にそう呼びかける。
「ん~。……あと五分」
夏希は寝返りを打ちながら、ごにょごにょとつぶやいた。
「五分ですか。ってことは、六十まで五回数えればいいんですね」
盆をサイドテーブルに置いたシフォネが、真剣な面持ちで数を数え始める。
「いーち、にーい、さーん……」
……恒例となった、朝の儀式である。
夏希は枕を抱きかかえたままシフォネの可愛らしい声を聞いていた。渋々ながら、脳が覚醒してゆく。
「ろくじゅう。いーち、にーい……」
六十まで数え終わったシフォネが、また一から数え始める。彼女が数えられる数字は、百までなのだ。ちなみに、ジンベルには分という時間の単位は存在しない。『人が百まで数える』を一とするヒネという単位があるが、その長さはおよそ一分半から二分近くまでとかなりアバウトである。
上掛けを跳ね除けた夏希は、目蓋を半ば閉じたままのっそりと上体を起こした。数えるのをやめたシフォネが、すかさずカップを夏希の手に押し付ける。
夏希は両手で包み込むように持ったカップの中身をひと口飲み下した。温めの湯で濃く淹れた緑茶である。
……コーヒーが飲みたい。
二口目を飲みながら、夏希はぼんやりとそう思った。むこうにいた頃は、出かける予定のない日曜日などはドリップコーヒーを一日八杯くらい飲んでいたものだ。インスタントコーヒー一瓶を、同量の金と交換してもいい。そう本気で思っているくらい、夏希はコーヒーに飢えていた。何度か大豆や根菜、植物の種などで代用コーヒー作りに挑戦したが、ことごとく失敗している。苦味や香ばしさはある程度得られるものの、味の方は本物の足元にも及ばぬ出来であったのだ。
「今日もいいお天気ですよ、夏希様」
シフォネが、おそらくこの世界唯一の窓用網戸……粗く織った麻布を張った木枠……を外した。眩しい陽光が、さっと室内に入り込む。夏希は眼を細めて窓外を見やった。
相変わらずの風景が、そこには広がっていた。高床式の家屋と、田んぼ。所々に突っ立っている椰子の木が、鮮やかな緑色の葉をわずかな風に揺らしている。遠くに眼を転ずれば、濃い緑色の熱帯多雨林……平たく言えばジャングル……に覆われた低い山々が見える。
夏希専用の邸宅は、エイラの家からそれほど離れていない場所にあった。食堂と厨房、居間、それに寝室兼仕事部屋がみっつという、結構大き目……ジンベル基準で言えば……の建物だ。狭い庭には、トイレと水浴び小屋も併設されている。
夏希がこの都市国家ジンベルに召喚されてから、二十日あまりが過ぎていた。
すでに彼女は、いくつかの発明品……というか、改良品を作り上げていた。先ほどまで抱えていた枕も、そのひとつだ。
ジンベルの枕は、籐に似た植物の茎を編んだものであった。熱がこもらないから涼しくていいのだがいささか硬く、柔らかい枕に慣れた夏希には寝苦しかった。そこで、籾殻枕を作ってみたのだ。流行らせようとエイラやシフォネにも勧めてみたが、反応はいまひとつだった。やはり、慣れている寝具の方が安眠できるのであろう。
「食事中に居眠りなさらないで下さい、夏希様」
シフォネが、やんわりと注意する。
「……ごめん」
夏希は頭を軽く振って眠気を追い払おうとした。もともと、睡眠時間は長い方である。高校受験の時でも毎日七時間は寝ていたし、最近でも日曜日ともなれば九時過ぎ、十時過ぎに起きるのが当たり前であった。ジンベルへ来てからは、色々と忙しくて平均睡眠時間は五時間足らずだ。眠いわけである。
昨晩も遅くまで寝台の上でメモを取ったり考えをまとめたりしていた。なまじ光る球体などという便利な明かりがあるから、ついつい夜遅くまで仕事をしてしまうのだ。
夏希は箸を手にした。これは細工師に作らせた、夏希専用の短めのものだ。テーブルに並べられた料理は、相変わらず代わり映えしない。例の巨大目玉焼きの一切れと、付け合せの茹で野菜。フルーツの盛り合わせと、夏希好みにちょっと固めに仕上げられた米のお粥。野菜の塩漬けが少々。
「あ~、醤油がほしい」
目玉焼きに塩をぱらぱらと振りかけながら、夏希はぼやいた。大豆は輸入ものだがふんだんにあるし、味噌もどき造りに使われているのはたぶん米麹なので、試しに適当に煮て潰した大豆に塩と麹を混ぜて樽にぶち込んであるが……さてどうなることか。
「糠漬けも食べたいなぁ」
箸で塩漬け野菜をつまみ、粥の上に載せる。米糠も塩もあるのだから、糠床くらい簡単にできるはずだが、時間がなくまだ取り掛かってはいない。
時間がない。本当に、時間が足りない。
一応、アンヌッカとは別に部下として自由に使える男女を数人宛がわれてはいるが、これがまた実に使えない連中である。みな読み書きはできるし、物覚えも悪くないのだが、基礎的な知識に欠けるのである。日本の小学校高学年のちょっと勉強のできる子の方が、よっぽど役に立つだろう。例えば、小学校六年生に定規と分度器を与えて、『もっとも長い辺を底辺とする直角三角形を紙に描け』と言えば、よほどおバカな子でもない限りすらすらと描くであろう。しかし、普通のジンベル人は『直角三角形』を知らない。いや、そもそもここの言語に直角三角形という単語がないのである。『直角』に相当する用語は直訳すれば『きちんとした角』であり、『三角形』は『このような形』と言いつつ左右の親指と人差し指を使って実際に作ってみせるやり方でしか正確には表現できない。一応、『三角』に相当する単語はないことはないが、それは正三角形や二等辺三角形を表す単語であり、直角三角形はその中に含まれないうえに、三角錐やおにぎり型を含めた広い意味合いを持っている。したがって、直角三角形は、『図形の一種で、角のひとつがきちんとしている、こんな形』(と言いつつ指で形を作る)という方法でしか他者に伝えることができないのだ。学術関係の単語が、決定的に不足しているのである。そしてもちろん、専門的な用語がないということは、それに関する知識も需要も存在しないことを意味する。
夏希はため息をつきつつ、緑茶の入った重いマグカップを置いた。これも、改良したい点のひとつである。さながら、小学生が紙粘土で作ったかのような、分厚く重いマグカップ。シーキンカイからの輸入品で、この地ではもっとも優れた技術で作られた品物のはずなのに、この程度である。もっとよい土を探し、高温で焼くことができれば、軽くて丈夫なものが作れるはずだ。
……エイラに頼んで、もう一人召喚してもらうか。
粥を箸で口に運びながら、夏希はそう思案した。このまま仕事を続ければ、過労死しかねない。
すでに夏希の仕事ぶりは、ヴァオティ国王の高い評価を受けていた。一番好評だったのは、ポケットの発明である。この世界の衣服にはポケットがなく、小物はみな小袋に入れてベルトから下げるか、ベルトそのものに手挟むしかなかったのだ。おそらくは、暑い気候ゆえ衣服に裏地をつける習慣がなく、それゆえにポケットの発想も生まれなかったのだろうが。
ポケットの普及ぶりは驚くほどで、わずか数日でジンベルの人々の衣服の多くにポケットが縫い付けられた。広めるにあたって夏希は位置や形状に関してそれなりの助言をしておいたが、よく判らずに使いにくい箇所……酷いものになると絶対に手が届かない背中あたり……にポケットをつけてしまった例も散見されたが、これはご愛嬌というものだろう。
「もう一人、召喚してほしいとおっしゃるのですか?」
夏希の依頼を聞いたエイラが、細い片眉をあげる。
「召喚にお金が掛かるのは知ってるし、もう一人との契約にもそれなりのものを支払わなければならないことも知ってる。でも、このままじゃわたしが身体壊しちゃうわ」
夏希はエイラを掻き口説いた。
「そうですねえ……。できればわたくしとしても、夏希殿にはこの調子で様々なことを伝授してもらいたいですし」
エイラが視線を落とし、腕を組む。
「でしょ? 有能な助手がいれば、もっと効率よくいろんなことを伝授できると思うの」
夏希はすかさずそう売り込んだ。彼女が短期間で様々な知識や新案、有用な物品を生み出したおかげで、召喚したエイラの株も王宮内でそうとう上がっているらしい。
「よろしいですわ。わたくしから、陛下に言上いたします」
予想よりもあっさりと、エイラが助手召喚を承諾する。
夏希の活動実績を高く評価していたヴァオティ国王も、すぐに助手召喚を認可してくれた。ただし、契約のさいに支払われる金は夏希のときよりも少なくする、と申し渡された。……助手である以上、同額は払えないということらしい。
「ではさっそく、明日召喚することにしましょう。どのような方を希望しますか?」
エイラが訊く。
「どの程度細かいところまで指定できるの?」
夏希は訊き返した。
「そうですね。おおよその年齢、性別、それに、属している国、知性の度合い、性格の良し悪し、といったところですか」
エイラが条件を並べ立てる。
「年齢は……比較的若い方がいいわ。できれば、わたしと同じくらいか、少し上がいいな。性別は、やっぱり女性の方がやり易いと思う。母国語でやり取りしたいから、日本人がいい。わたしと同じ国の出身ね。知性はもちろん高い方が。性格は、穏やかな方で。とにかく、もっとも重要なことは、わたしとの相性の良さよ」
「相性ですか。努力します」
生真面目な表情でエイラがうなずく。
翌日。
早朝から、夏希はエイラと共に王宮に出向いていた。狭い一室に篭り、召喚の儀式の準備を整える。
「……って、魔法陣とか描くわけじゃないんだ」
部屋の中央に、簡素な木製の雛壇のようなものが設えられている。そこに並べられた四十枚ほどの小皿に、エイラとコーカラットが様々な『供物』を供えてゆく。きな粉のような黄褐色の粉末、切り餅くらいの白い塊、妙な斑点のついた鳥の卵のようなものがひと山、からからに乾燥させたスペアリブみたいな気持ち悪いもの、きれいな薄紫の鉱石、摘み取ったばかりの瑞々しい黄水仙に似た花、色も形も大きさも、臭いまでも正露丸にそっくりな黒い小球数十個、まばらに毛の残った何かの毛皮などなど。
「緊張しますね」
夏希の隣に立つアンヌッカが、言う。
「そうね」
夏希はおざなりに同意した。今日も寝不足気味である。先ほどから、生あくびが絶えない。
「では、召喚の儀式を執り行ないます」
エイラが、厳しい面持ちで居並ぶ見学者を見渡す。コーカラットがふわふわとエイラのもとを離れ、壁際に寄った。
エイラの指先が、胸の前で複雑なダンスを始める。唇のあいだから洩れるつぶやきが、夏希の耳にも届いた。ジンベルの言葉とはまた違った、肉食獣の唸りを思わせる低く単調な声音だ。
ぼん。
どことなく間の抜けた爆発音と共に、雷光を思わせる紫がかった黄色い光が一瞬部屋を満たした。並べられた小皿から一斉に白い煙が立ち昇る。
夏希は慌てて手で口元を覆った。硫化水素のような悪臭が、部屋に満ちたからだ。
「終わりました。成功です」
そう宣したエイラも、顔をしかめている。彼女も臭いには閉口しているらしい。
控えていた王宮の侍女とコーカラットが、窓を開けてまわる。夏希は口元を覆ったまま、エイラに歩み寄った。
「ありがとう、エイラ」
「どういたしまして」
澄ました顔で、エイラが応じる。
「では、召喚した人物に会いに行きましょうか。……夏希殿の御要望通りの女性が召喚できたのであれば、良いのですが」
三人一組になったジンベル防衛隊の兵士が、召喚された人物を探しに散ってゆく。夏希のアドバイスを入れて、今回は全員非武装である。
「どこに出現するかわからない、ってのは厄介よね」
「済みません、わたくしが未熟なもので」
エイラが、わずかに頭を下げる。
「別にあなたを非難しているわけじゃないわ」
慌てて、夏希はフォローした。
しばらく座って待つうちに、報せがもたらされる。小柄な女性が、東の農地のあたりに現れたらしい。
「どうやら、お目当ての人物のようですね。参りましょう」
エイラが、腰をあげた。夏希も立ち上がり、そのあとに続く。少し離れたところで暇そうに浮いていたコーカラットも、すぐにやってきてエイラに従った。
足早に市街地を抜け、田んぼの中を抜ける道を進む。密林の際のあたりで、待機していたジンベル防衛隊の兵士が、エイラに状況報告を行った。どうやら、件の女性はこの奥に逃げ込んだらしい。
夏希はジャングルの奥を見透かそうとした。たぶん日本人なのだから、日本語で呼びかければ出てきてくれるはずだ。
と、いきなり四十メートルほど右手で、密林から人影が飛び出した。小柄な体躯、短い黒髪。チェックのミニスカートに、紺色のサイハイソックス。上半身に着ているのは、クリーム色の長袖トレーナーか。足には、白っぽいスニーカーのような履物。
女性のあとを追うように、密林から防衛隊の兵士が数名飛び出してくる。
女性が、田んぼのあぜ道を走り出す。あまり優雅な走り方ではなかった。長いとは言いかねる脚をばたばたと動かす、遅くかつぎこちない走りだ。
……どっかで見たことがあるような。
夏希は内心で首をひねった。あの不器用な走り方。体格。なんだか、よく知っている女の子にそっくりだ。
まさか。
ありえない、と思いつつも、夏希は脳裏に浮かんだその女の子の名を叫んでみた。
「凛!」
ばたばたと走っていた女性が、つんのめるようにして止まった。声の主を探して、あたりを急いで見回す。
……やっぱり。
「凛、そこにいて。大丈夫、追っかけてくる連中は危ない奴らじゃないから」
半ば呆れ返りながら、夏希はあぜ道を辿って早足で凛に近づいた。エイラとコーカラットも、あとをついてくる。防衛隊の兵士は、状況を見て取って凛を追うのを止め、成り行きを遠巻きに見守っているようだ。
「お知り合いですか」
エイラが、訊いてくる。
「知り合いも何も。親友よ」
藤瀬 凛。小学校の頃からの友人である。中学、高校も一緒だし、今は同じクラスだ。その人となりは、お互い裏の裏まで知り尽くしている。
「確かにわたしとの相性はぴったりだわね」
夏希はそっとつぶやいた。
第九話をお届けします。当話から第二部に突入です。