89 魔界の賢者再び
実に十四日間に及んだ長い休暇を過ごした夏希ら四人の異世界人は、ようやくマリ・ハに戻ってきた。駿が憲章条約総会に諮った『タナシス王国への貸付計画』は数日前に賛成多数で可決されており、同案をタナシス王国へ提案する使者は外交部より選抜され、すでにルルト市から出航していた。
第八の魔力の源に関する捜索の進展はいまだ皆無であった。人間界縮退対策本部の要請を受け、東部海岸諸国海軍とオープァ海軍は、二回目の捜索活動を東群島と西群島で行ったが、こちらも成果はなかった。タナシス王国からも、新たなる魔力の源の発見の報告はもたらされていない。
人間界は、相変わらず一日五キッホのペースで縮退を続けていた。
「駿、おめでとう。タナシスが憲章条約が提案した融資計画を受け入れたわ。これで、補償交渉も速やかに終結するはずよ」
事務局まで出向いて駿を探し出した夏希は、にこやかに告げた。
「ありがとう。担保は決まったのかな?」
「アノルチャ州内の銀山と、ディディリア州内の金山。融資額は、こちらが請求していた補償金額の半分。残りは、タナシスが直接物品で払うことになりそうよ。ジンベルも、これで一安心ね」
金と銀の産出で儲けている……昨今は異世界人が発明した商品もかなりの額を稼いではいるが……ジンベルにとって、南の陸塊に大量の金が流入することは死活問題である。言うまでもなく、物品の価値はその流通量に左右されるからだ。この世界の金はハードカレンシー代わりに使われているが、その安定性は夏希らがいた世界ほど保障されてはいない。
「となると、残る懸案は第八の魔力の源か。これさえ押さえれば、人間界縮退は治まるはずなんだが」
駿が、笑顔を消して深刻な表情になる。
「見つからないんじゃ、手の打ちようがないわよね」
夏希は肩をすくめた。
「ひとつ提案なんだが……魔物の力を借りることはできないだろうか」
「魔物?」
「以前に君と拓海が会った、ニョキハンに接触してみてはどうだろう? なにか新しい情報をつかんでいるかもしれない。彼を通じて、他の魔物に協力を求めることも可能じゃないかな」
「魔物ねえ」
魔物は人間同士の争いには不介入だが、人間界縮退を歓迎しているわけではない。確かに、協力を求められれば拒むことはないだろう。しかし、先日エイラとサーイェナが魔力の源をニョキハンに借りに行った時には、人間界縮退に関する新たな情報は得られなかったはずだ。だが……。
「そうね。少しでも可能性があるのならば、試してみる価値はあるわね」
現状は手詰まり状態なのだ。補償交渉が軌道に乗れば、外交部も暇になる。
「エイラとコーちゃんに相談してみましょう」
夏希の話を聞いたエイラが、即座に魔界訪問に賛成する。コーカラットも、協力を快諾してくれる。
夏希は高原にいるサーイェナに対し、協力を依頼する書状を書き送った。次いで、同行者の人選に入る。
すぐに名乗りを上げたのは拓海であった。
「暇なの?」
「憲章条約防衛隊の編成は終わったし、訓練は生馬に任せておけばいいからな。高原の民にも顔つなぎしておかないと。凛ちゃんは行かないのか?」
「駿と凛は忙しくて無理。となると、わたしとアンヌッカ、エイラとコーちゃん、拓海と……もちろんリダも行くでしょ? なんだか拉致された時の面子に近いわね」
夏希はくすくすと笑った。
「ところで話は変わるが……」
訝しげな表情で切り出した拓海が、夏希の顔をじっと見つめる。
「あんた、背伸びてないか?」
「え。マジで?」
「マジだ。俺が縮んだのでない限り、あんたが伸びてる」
「ただでさえもう少し小さい方がいいと思ってるのに……」
夏希は落ち込んだ。
「たぶん、百七十五は越えたな。俺と凛ちゃんに少し分けてくれよ」
にやにやしながら、拓海が言う。
船頭ごと借り上げた川船が、ノノア川を遡る。
「こんなことなら、ジンベルで休暇取ってるあいだに、高原に顔出しとけばよかったかな」
「いや、休暇は必要だよ。人も国家も、走り続けていてはろくなことにならん。足を止めて内省する時もなきゃいかん」
夏希のぼやきを聞きつけた拓海が、言う。
「そういうもんなの?」
「そういうもんだ。日本がいい例だろ。十八世紀の末ごろからの外国船来航。開国をめぐるごたごた。幕末の諸騒動と、戊辰戦争。明治の諸改革と、大日本帝国成立。日清戦争に日露戦争。日韓併合。第一次世界大戦。シベリア出兵。中国内戦への介入。満州事変と国際連盟脱退。百五十年ほど、日本は全力疾走しちまったんだよ。どこかで一回立ち止まって、走ってきた道筋を再確認し、進むべき道をしっかり吟味していれば、もう少し国際社会で賢く立ち回ることができたはずなんだがな」
「外交は苦手だからねえ」
夏希は苦笑いした。歴史に詳しくない彼女でも、日本の外交下手ぶりは理解している。
「日本の外交下手は伝統だからな。中国の各王朝と仲良くやっていれば、侵略されることもなく文化や技術を取り入れることができたんだから、経験値が上がりようがない。朝鮮は無視できる土地だったしな」
旅の二日目、夏希らが乗る川船はジンベルを素通りして、高原へと通じるジンベル川をさらに遡っていった。
ジンベル王国以南のジンベル川は、以前と比べて様変わりしていた。平原と高原を結ぶ交通路として、さかんに使われていたのだ。様々な物品や人を乗せた川船が、十数分に一隻ほどのペースで夏希らの船とすれ違う。
「賑やかになったわねえ。ついこのあいだまでは、秘境ムードたっぷりだったのに、いまじゃ交易路状態じゃない」
「いいことだ。ジンベルにも、だいぶ金が落ちているはずだしな」
満足げに、拓海が言う。
密林地帯を抜け、高原地帯に入る。ほどなく、川沿いに新しくできた小さな集落が現れた。差し掛け小屋を寄せ集めたような、粗末なものだ。
「なに、あれ」
「水路掘削工事用労働者の宿舎だ。あそこから東の方へと、川船が通れるだけの水路を掘ってる」
夏希の質問に、拓海が答えてくれる。
「水路? どこへ繋がるの?」
「鉱山さ。ススロンとエボダを中心に、平原の数カ国が出資して、共同事業体が立ち上がってる。第一弾が、鉄鉱石の採掘だ。荷車で川まで運ぶよりも、あらかじめ水路を掘っておく方が、長い眼で見ればコストを抑えられるからな」
「ふうん。いつの間にやら開発が進んでいたのね」
午後半ばに、川船はイファラ族の居住地に到着した。サーイェナが、出迎えてくれる。
「あれ、ユニちゃんは?」
夏希はあたりをきょろきょろと見回したが、いつも元気で騒がしい魔物の姿が見当たらない。
「時間を節約しようと思いまして、ユニちゃんには一足先に魔界に行ってもらいました」
サーイェナが、説明する。
「ニョキハン殿に話を通し、明日の朝に人間界との境界までお連れするように指示してあります」
「さすがですな」
拓海の褒め言葉に、サーイェナが優雅に微笑んで応える。
一行はサーイェナに案内され、宿舎に向かった。途中で、拓海がリダの任を解く。
「平原にもどるまで、休暇だ。自由にしていいよ」
「しかし、拓海殿」
「高原で護衛は必要ないだろう。たまには、兄上と水入らず、というのも楽しいぞ」
拓海がそう言って、親密そうにリダの肩を抱く。……ベンディスの思惑通り、仲は順調に進展しているようだ。
翌早朝、夏希、拓海、エイラ、サーイェナの四人は、二本の触手を座席モードに変形させたコーカラットに乗って、魔界との境界を目指した。夏希はアンヌッカも連れてゆきたかったが、さしものコーカラットも一度に五人となるとバランスを取るのに苦労するらしい。
快適な速度で、コーカラットが飛ばす。二時間ほどで、前方に黒い壁のようなものが見えてきた。
魔界である。
コーカラットが速度を緩め、魔界との境界から三百メートルほど離れたところに立っている一群のテントの前で停止した。すぐに中から数名の高原の民が出てきて、降り立ったサーイェナに挨拶する。
「調査部の方々です」
サーイェナが、そう紹介してくれる。
「で、ユニちゃんは?」
「まだ来ていないようですね」
「急ぐことはない。冷たいものでも飲んで、待っていようや」
拓海がそう言って、コーカラットを見る。
「お任せ下さいぃ~」
早速コーカラットが、水差し状にした触手を顎下に入れた。調査部の面々にも、コーちゃんジュースが振舞われる。
ほどなく、魔界の闇の中からひょっこりと大小ふたつの影が現れた。言うまでもなく、ニョキハンとユニヘックヒューマだ。
「ご指示どおり、ニョキハン殿をお連れしたのであります!」
ユニヘックヒューマが、ステッキをぶんぶんと振り回してサーイェナに報告する。
「急な頼みを聞き入れてくださって、ありがとうございます、ニョキハン殿。ユニちゃんからすでにお聞き及びとは思いますが、知恵をお貸しいただきたいのです」
「うん。諸君らも、元気そうでなによりなんだな」
ニョキハンが、被っていた麦藁帽子をひょいと持ち上げて挨拶する。魔物の賢者は、相変わらずのユニークな姿であった。短い手足と、小太りの体型。全身を覆う白い柔毛と、魔物特有の単純な顔の造作。
「魔力の源が七つではなく、八つだったというのは驚きなんだな。この世は広く、ボクの知らないこともまだまだ多いんだな。だからこそ、知識を探求するのは極めて興味深いことなんだな」
「どうでしょう、八つめの魔力の源の位置に関して、なにか情報をお持ちではないでしょうか」
エイラが、遠慮がちに尋ねる。
「まったく知らないんだな。諸君らの役には立てそうにないんだな」
「そうですか」
サーイェナが、唇を噛む。
「ただ、ひとつだけ推測を言わせてもらえば、八つめの魔力の源は、おそらく北の陸塊にあると思うんだな」
「その根拠はなんでしょうか」
すかさず、拓海が訊く。
「ボクのコレクションで、いま貸してある魔力の源は、もともと南の陸塊にあったものなんだな。バランスを考慮すれば、南の陸塊に四個、北の陸塊に四個でちょうどいいんだな」
「九つ目の魔力の源が存在する可能性は、あるのでしょうか」
夏希は以前から危惧していた質問をぶつけてみた。
「ボクの推測では、たぶんないと思うんだな」
なぜかはわからないが、左の脇腹をぼりぼりと掻きながら、ニョキハンが答える。
「やはり北の陸塊ですか」
エイラが、眉根を寄せて考え込む。
「魔術を使い続けているにもかかわらず、その場所をつかめない。やっぱり、辺境域なのかしらね」
夏希も考え込んだ。大国タナシスは一枚岩ではないし、辺境州やその外側で行われていることすべてを掴んでいるわけではない。どこかの蛮族がひっそりと使用しているだけならば、見付け出すのは難しいだろう。
「結局、大した成果は挙げられなかったわね」
コーカラットの触手座席に座った夏希は、前に座るエイラにそう話しかけた。
「そうですね。タナシスの捜索活動に期待するしかないようです」
「焦っても仕方ないな。タナシスとの関係改善に尽力し、彼らが魔力の源捜索に心置きなく掛かれるような状況を作り上げてやるしかないだろう。例えば、捜索予算に関しては無担保無利子で貸し付けてやるとか」
前方の触手座席に座った拓海が、言う。
「積極的に動けないのは、辛いわね」
夏希は横を向いた。快調に低空飛行するコーカラットの脇を、肩にステッキを担いだユニヘックヒューマが並走している。ステッキの先の座席に座っているのは、もちろんサーイェナだ。その向こう側には、いかにも高原地帯らしい雄大な景色……延々と続く大草原……が広がっている。
「で、これからどうする?」
エイラの肩越しに、夏希は拓海に向かってそう問いかけた。
「マリ・ハに戻るしかないだろ。八番目の魔力の源の行方を気にしつつ、憲章条約諸国の改革を進めてゆくだけだ。凛ちゃんが経済改革。駿が教育改革。生馬が軍事面の改革」
「拓海は何をするの?」
「交通網の整備でも始めるかな。物流にしろ人の動きにしろ、これから増大するのは間違いない。そろそろ自由競争に任せるのはやめて、各国に出資させて公共交通機関を立ち上げる頃合いかもしれん」
「赤字垂れ流しにならない?」
「かもな。しかし交通や通信関連はある程度国家が成熟するまでは官主導でやるべきことがらだからな。そのあたり、駿と相談してみるか。で、あんたは何をやるんだ?」
「外交委員としての仕事に集中するしかないわね」
夏希は言った。タナシス王国との良好な関係を維持し続けること。これが、夏希に課せられた最重要命題である。
マリ・ハに戻った夏希は、すぐにタナシス王国に送付する書簡を作成した。もっとも、いまだこちらの言語の読み書きはできないから、外交部の事務方に口述を筆記させ、さらに清書させただけではあるが。
内容は、もちろん第八の魔力の源に関してである。南の陸塊では、徹底した捜索にもかかわらず未だ発見に至っていないこと。魔界の賢者と接触し、その意見では北の陸塊に存在する可能性が高いこと、などを書き綴ってある。
書き上がった書簡は、マリ・ハ駐在のルルト外交官に託された。マリ・ハからルルト、ラドーム、アノルチャ経由で、王都リスオンへと運ばれることになる。
「早いとこ、外交官を常駐させるようにしたほうがいいかもね」
地図を眺めながら、夏希はつぶやいた。表層的なお付き合いに務めるつもりだから、領事館などは必要ないが、ある程度の権限を付与された外交官……いわば特命全権大使に近い立場の者……をお互いの中心都市や沿岸部……つまりはマリ・ハとリスオン、それにルルトとアノルチャ……に置くべきだ、という案は以前からあるが、いまだ実現していない。
「外交特権の問題とか、いろいろ整備しないといけないからねえ。ま、これも駿に相談してみますか」
夏希が出した書簡が、ラドーム公国グルージオン市でルルト商人からタナシス外交官へ手交された頃……。
そのグルージオン市で行われていた、海岸諸国とタナシス王国の補償交渉は暗礁に乗り上げていた。海岸諸国側が、物品での補償額支払いに難色を示したのである。
問題は、物品の価値の算定基準にあった。言うまでもなく、北の陸塊の特産品……例えば絹布は、北の陸塊と南の陸塊ではその実売価格は大幅に異なる。
タナシス側は、少しでも補償金額を安く上げようと南の陸塊物価基準で算定しようとする。当然、海岸諸国側は少しでも多くむしり取ろうとタナシス王国内の物価基準での算定を主張する。
双方とも妥協点を見いだせないまま、交渉は続けられた。
第八十九話をお届けします。当話より本作は最終章である第三部に突入いたします。