77 戦略的包囲と戦術的包囲
軍事における用語としての包囲には、二種類ある。すなわち、戦略的包囲と戦術的包囲である。
前者は言うまでもなく、戦略的状況における包囲である。つまり、味方部隊の配置によって敵が戦略的に『動けない』状況を作り出せれば、そこで戦略的包囲に成功したことになる。例えば、一本道を進軍中の敵部隊に対し、その道の両端に味方部隊を配すれば、戦略的包囲が完了した、と看做す事が可能だ。戦略的包囲とは、あくまで敵が『動けない』あるいは『動きにくい』状況を作り出すことが目的だからだ。
戦術的包囲は違う。その目的は、あくまで敵の殲滅、ないしはそれに近い打撃を敵に与えることにある。したがって、ただ単に囲んだだけでは、戦術的包囲とは言えない。包囲部隊各個が有機的に連携している状態でなければならないのだ。この原則を理解せず、ただ単に漫然と敵の周囲に部隊を分割して配置し、兵力の優越という有利な点を自ら捨ててしまい、敵に局所的、時限的な兵力の集中を許し自滅するといった例は、歴史上いくつか見られる。
包囲の一般的なイメージは、動きが少ないにらみ合いに近いものだろうが、上質な戦術的包囲は、きわめて攻撃的かつ機動的である。すなわち、一部の部隊が交戦によって敵を拘束し、その間に他の部隊が退路を断ち、さらに主力部隊が敵側面ないし後背という弱点に襲い掛かるのが、理想的な戦術的包囲と言える。
今回のルルト市攻防戦で、拓海が採用した作戦も、このような戦術的包囲のひとつのバージョンであった。
「西側の敵戦力は、オープァ防衛隊を中核として、推定三万。東側の敵戦力は、東部海岸諸国防衛隊を中核として、推定二万五千。南側の戦力は、平原共同軍を主力として、推定四万。以上です」
「少ないな。二万以上の予備部隊を控置しているに違いない。こちらに戦力の分散を強いた上で、突破できそうな箇所に大量の予備部隊を投入する作戦だな」
ランブーン将軍の説明に、シェラエズが微笑んだ。
「報告は入っていませんが、海軍の攻撃もあるものと思われます」
「だろうな。ま、切り札を使えば、二日程度は持ちこたえられるだろう」
立ち上がったシェラエズが、窓際に寄った。すでに真夜中近いが、空に星は見えない。
「雲が多いな。明日の天候はどうだ?」
「おそらくは雨かと。海も、若干荒れてきております」
側近の一人が、答えた。
「不利だな。この地は雨が多い。敵は雨中での戦闘に慣れているはずだ」
シェラエズは顔をしかめた。
遠方には、いくつもの小さな明かりがちらついているのが見えた。包囲軍の、野営の火であろう。
「あの中に、彼女もいるのだろうな」
「竹竿の君ですか。まず間違いなく、いるでしょうな」
シェラエズの独り言じみた言葉に、律儀にランブーンが答えた。
捕虜にした敵兵士。街の噂。何度も聞いた名である。戦女神のごとく、竹竿を振り回す美しい女性。その正体が、以前シェラエズに目通りした人間界縮退対策本部本部長補佐を名乗っていたナツキという女性と同一人物だと知ったのは、つい最近のことである。
「美しく、そしておもしろい女だ。もう一度会ってみたいものだな、できれば戦場以外で」
夜半から、雨が降り始めた。
「珍しいわね。こんな曇天」
夏希は天幕の入口から顔を突き出して、空を眺めた。すでに明け方だが、外は薄暗く、温かな雨がしとしとと降っている。まるで日本の梅雨時のようだ。
「どちらに有利に働くかしらね」
夏希の下から顔を突き出した凛が、問う。
「そりゃ、立てこもっている敵の方でしょう。濡れなくてすむし、ぬかるみに足を取られることもないし」
今回、夏希が仰せ付かった任務は二万からなる予備部隊の指揮であった。半数が市民軍、残る半数が高原戦士からなる、あまり上質とは言えぬ部隊である。一応南側から攻める共同軍主力の背後に位置するが、状況によっては東からのオープァ部隊や、西からの東部海岸諸国部隊を支援することもありうる遊撃部隊だ。
「ま、温かい雨だから、体が冷えることもないし」
戦支度を整えた夏希は、アンヌッカを伴って天幕の外に出た。平原や高原の民には、雨具を使う習慣はない。雨季であっても激しい雨は短時間で降り止むので雨宿りすれば済むし、仮に濡れたとしてもすぐに乾いてしまうので、誰もが雨に濡れることを厭わないのだ。一番雨具に近いのは頭に被る笠だが、これも主たる目的は日除けである。雨季のない海岸諸国にはさすがに雨具があるが、防水布を使った合羽のようなものであり、あまり普及していない。
「……そうしてみると、人類の進歩って、なんなのかしらね」
夏希は皮肉めいた笑みを浮かべた。雨の中でも雨具を使い、仕事や作業を強いられたり歩行を続けたりする現代日本の人々と、雨が降れば止むまでのんびりと休憩していられる平原や高原の人々。どちらが本当に豊かな暮らしをしているのであろうか。
ルルト王国の王都ルルト市は、ノノア川河口の西に位置する大都市である。
河岸から都市東端までの距離は八百メートルほど。むろん、洪水対策のためである。都市東端には高い堤防が築かれており、東からルルト市への出入りは階段を使うしかない。
最初に戦端が開かれたのは、その東側からであった。東部海岸諸国防衛隊と市民軍、高原戦士の計二万二千が、一斉に押し寄せる。
高い堤防の防衛能力を当てにして、こちらを守備していたタナシス軍兵力はわずかに四千五百名であった。堤防の上に陣取った奴隷弩兵が、押し寄せる軽装備の市民軍に矢を浴びせる。すかさず、高原戦士弓兵が射返す。
西側と南側からの攻撃は、ほぼ同時に始まった。西側の攻撃部隊はオープァ防衛隊、オープァ市民軍、高原戦士の計二万五千。南側からは共同軍主力として、二万八千名。その内訳は、共同軍正規部隊、平原各国防衛隊、平原市民軍、高原戦士、それに新たに加わった新生ワイコウ国軍兵士を交えた元ワイコウ亡命軍、これも新たに参加したワイコウ市民軍など、多岐にわたっている。
対するタナシス軍は、西側に五千五百、南側に六千の兵力を貼り付けて待ち構えていた。兵力差は、単純に見ても四倍半である。市街地にこもっているとは言え、ルルトは城塞都市ではない。明らかに、タナシス側は不利であった。
「予想通りではあるが、泥臭い戦いになったな」
ルルト市街地から南へ約一キロ、農家の屋根の上に陣取った拓海が、ぼやき気味に言った。
夏希はその傍らで、望遠鏡のレンズについた雨のしずくを布で拭った。うっとおしい雨は、霧雨状になってなおも降り続いている。
市街地外縁での防御戦闘に失敗したタナシス側は、抵抗ラインを下げて市街地内部での防御に作戦を切り替えたようだった。街路にバリケードを築き、建物そのものを遮蔽物にして、こちらの前進を阻もうとしている。随所で、一軒の家屋の支配権をめぐって小部隊同士が激突したり、ひとつの部屋を取り合ったりというきわめて局所的な小戦闘が行われていた。
「まるでスターリングラードだ」
続けて、拓海がぼやく。
泥臭い戦闘は、午前中いっぱい続いた。汗と血と雨にまみれた両軍兵士が、街路の石畳の上で、商家の軒先で、あるいは民家の居間や食堂の中で、近接戦闘を繰り広げる。高原投げ槍兵の多くは、家屋内での戦闘では得物を鉈に持ち替えて振るった。狭苦しい場所では、長物は使いづらい。果敢に接近戦を挑み、器用に鉈を操る高原戦士を前にしては、さしものタナシス正規軍兵士も苦戦を強いられた。
拓海の命令で、最前線の部隊が順次交代し、昼食を含む休憩を取る。夏希も自分の部下……二万人の予備部隊……のところへ戻ると、給食の手配をした。すでに、参謀部補給局食料部によって、クートロア市民有志が動員されて、雨よけの仮小屋や天幕の下で早朝から大量の米が炊き上げられている。夏希自身も食欲はなかったが、無理やり白米をわずかな野菜の漬物とともに口に押し込んだ。このままいくと、徹夜での戦いになるかもしれない。へばらないためには、食べておくしかない。
「そろそろ限界だな。例の策を」
「はっ」
シェラエズ王女の命令に、ランブーン将軍が厳しい表情でうなずく。
十数ヒネ後、東西南三箇所の戦線に、一斉に麻薬を服用した奴隷歩兵が現れた。その数は少なかったものの、一時的にではあるが包囲側の攻勢が鈍る。特にゾンビ兵士に始めて出くわした海岸諸国の防衛隊や市民軍は、その対応に苦慮した。
「やられたな」
拓海がつぶやく。
ゾンビ兵士で時間を稼いだタナシス側は、東西南すべての戦線から一斉に兵力の引き上げを行っていた。そしてそれら兵力は、ルルト海港とその周辺に再集結していた。
「こちらの有利な点である兵力の優越を消すために、あえて大幅な戦線の縮小を行ったわけだ。たしかに、連中にはルルト市そのものを防衛する意味はないからな。くそっ。あんな狭いところにこもられたんじゃ、隙が無さ過ぎる」
「ランクトゥアン王子に、海から攻撃を掛けてもらったら?」
夏希はそう提案した。
「あまり意味はないな。敵の予備隊を引きずり出して消耗させる戦法は、予備隊をいかに早期に、かつ主戦場より離れた場所で使用させるかがポイントだ。あの狭い防衛陣の中で予備隊を使わせても、あまり意味はない。加えて、戦線縮小により兵力の節約ができ、予備隊の兵員数も当初より増加しているだろう」
「じゃ、手はないの?」
「一番効果的なのは風向きを見計らって火をつけちまうことだが……さすがにそいつは無理だ」
拓海が、自嘲気味に笑う。
「明日までに制圧できないと、逃げられるわよ」
「市街戦は難しいんだよ。機械化された現代の軍隊でさえ、都市の制圧は歩兵に頼らにゃならん。当然、時間が掛かる」
「映画でよく見るやつね。ドアを蹴破ったり、部屋の中に手榴弾を投げ込んだりするやつ」
「そうだ。損害も当然多いし、辛気臭いルーチンワークとなる。まあ、このまま圧力を掛け続けるしかないな」
「どうやら、共同軍側が有利なようだな」
戦闘の喧騒が近付いてくるのを聞き取った生馬は、部下への励ましの意味も込めて聞こえよがしにそう口にした。
海港そばの倉庫に、生馬とその部下百五十名は閉じ込められていた。見張りはいないが、すべての戸口と窓には外から角材が打ち付けられているので、逃げる手立てはない。
すでに、生馬が部下の解放と引き換えにタナシス本国へ捕虜として連れて行かれることは、全員に知れ渡っていた。主だった士官らは生馬に同行を申し入れていたが、生馬はソリスのそれを含め、すべて拒否した。辱めを受けるのは、一人で十分である。
解決策は、意外な方面からもたらされた。
「お久しぶりですな、夏希殿。拓海殿、作戦への協力、深謝いたします」
突然陣営に訪れたのは、ランクトゥアン王子であった。
「これはこれは、殿下。民間船舶脱出作戦の成功、おめでとうございます。鮮やかなお手並みでした」
拓海が、心底からと思われる祝辞を述べる。
「これも共同軍の協力があればこそです」
ランクトゥアン王子が、その端正な日に焼けた顔をほころばせる。
「殿下。後ろの方はどなたですか?」
夏希は、王子の背後で突っ立っている男性を手で指し示した。がっちりとした体格の中年男で、褐色に近い肌にウェーブした黒髪。海岸諸国人には見えない。
「紹介しましょう。ラドームの商人、イェスパ船長です」
王子に促され、中年男性……イェスパが半歩前に出る。
「彼は主にオープァとラドームのあいだで商売をしていましてね。わたしが子供の頃からよく知る人物です。今日こうして拓海殿と竹竿の君のもとへと参ったのは他でもありません。船長がもたらしてくれた情報に基づく作戦に協力していただきたいのですよ」
「作戦ですか」
拓海の表情が、急に生気を帯びる。
「ご存知かと思いますが、ラドームには反タナシス組織があります。退位を強いられた先王……現公王女の父君ですな……を再び元首として戴き、ラドーム王国の復活、すなわちタナシス王国の支配からの脱却を目指している組織です。タナシス統治下では当然非合法活動ですから、地下組織ですが。実は、そこがタナシス派遣軍の第二次撤収船団の航行に関する諸情報を入手したのです。これを利用すれば、洋上でわが艦隊がタナシス船団を捕捉するのも可能かと」
「その情報を、イェスパ船長が伝えてくださったんですね」
夏希はそう口を挟んだ。
「その通りです。出発時刻、その後の針路、こちらの艦隊を避けるための変針位置など。ルルト市の沖合いで待ち構えていれば、捕捉できないこともないですが、長時間の待機は困難ですし、夜陰に紛れて接近されれば阻止は不可能です。ルルト海港出航時を叩こうにも、兵員満載の敵では返り討ちにあうおそれがある。しかし、空船同然の往路で、しかも昼間に油断しているところを急襲すれば、勝利は間違いありません。何隻か沈めるか拿捕できれば、それだけでタナシス側の撤退計画を妨害できます」
「素晴らしい。で、我々への協力要請とは?」
「艦隊を増強するために、すでに二十隻を超える民間船舶を臨時に海軍に組み入れましたが、兵員が足りていないのです。オープァおよび東部海岸諸国の防衛隊と、市民軍の一部を引き抜かせてください。それと、高名な高原弓兵もお借りできればありがたい」
「お易いご用です。すぐに手配しましょう。ですが、ひとつだけ条件が」
「なんですかな?」
「共同軍側の高級指揮官も、船に乗せていただきたいのです。もちろん、殿下の指揮下に入りますが」
「その程度でしたら。まったく問題ありません」
鷹揚に、ランクトゥアンが微笑む。
「じゃ、頼んだぞ」
拓海が、夏希の肩に手を置いた。
「……って、わたしが行くの?」
「殿下、ちょっと失礼します」
にこやかに言った拓海が、夏希をずるずると天幕の隅へと引き摺ってゆく。
「いいか、夏希。この作戦、パーフェクトに行ったら第二次撤収船団に大打撃を与えて、ラドームに追い返すことが可能だろう。それを知ったシェラエズ王女が、あっさり降伏するなんてシナリオも考えられる。そうなると、共同軍がルルト市を解放する、というプランが水の泡だ。だが、艦隊に共同軍の高名な人物が参加していたとなれば、それなりに名目が立つ」
「理屈はわかるけど、いやよ。船酔いするもの。ユニちゃんがいれば、別だけど」
夏希は拒んだ。ユニヘックヒューマのジュースなしで、外洋船に乗りたくはない。
「あ、ユニヘックヒューマがいればいいのか。なら話は早い。実はついさっき、エイラとサーイェナがクートロア市に到着したという報告があったんだ。早速、使者を遣わして呼び寄せよう」
「あれま」
あまりのタイミングの良さに夏希は半ば呆れたが、船酔いの特効薬が手に入るとすると、拒む理由はない。
「わかったわ。ランクトゥアン王子の指揮下に入るわよ」
「結構」
納得した夏希をそのままにして、拓海がランクトゥアン王子に向き直る。
「ということで、わが竹竿の君を参加させます。ところで殿下、お茶を一杯付き合ってくださるお時間はありますかな?」
「もちろん、喜んでご馳走になりますよ」
「それは良かった」
拓海が、従卒を呼び寄せた。イェスパ船長には、別のテントで一休みしてもらうように手配する。
「さて殿下。ラドームの地下組織について、もう少し詳しくお話をうかがいたいのですが」
腰を落ち着け、運ばれてきたお茶を味わいながら、拓海が切り出した。
「当然ですな。もちろん、こちらとしても気は遣っていますよ。イェスパ船長は、あくまで自主的に情報を旧知の仲であるわたし個人に伝えたに過ぎません。オープァ海軍も、オープァ王国も、ラドームの反タナシス組織を公的な交渉相手として認めたことはありませんし、今回の作戦に共同軍が参加したとしても、同様に平原共同体がラドームの反タナシス組織と政治的関係を結んだと看做されるようなことはありえません」
にこやかに、ランクトゥアン王子が説明する。
「杞憂だったようですな。いやいや、殿下の先見の明には恐れ入りました。ご配慮にも感謝いたします」
深々と、拓海が頭を下げた。
「……えーと。話がよく見えないんだけど」
「あのなあ」
拓海が呆れ顔をする。
「ラドーム公国の地下組織が、今回の情報提供をオープァ王国や平原共同体承認のうえの協同軍事行動だ、なんて看做したらどうなると思う? 外交上の義務らや面子やらでこちらが縛られちまう。下手をしたら、ラドーム独立のための内戦かなにかに介入しなきゃならない羽目に陥るぞ。俺たちはあくまで平原共同体総会の下部組織である平原共同軍参謀部の所属だ。政治的判断は下せないんだよ。だからこそ、殿下はイェスパ船長からの情報を公人ではなく私人として受け取ったんだ。個人が知りえた情報を活用する分には問題ないからな」
「そうか。総会が認めたのはルルト解放までだもんね」
「わたしとしても、ラドーム公国への介入は時期尚早だと思っています」
ふたりのやり取りをにこやかに眺めていたランクトゥアン王子が、真顔になって言った。
「戦略的に見れば、ラドームがタナシスによる南の陸塊侵略の拠点となったことは事実。そして、そこを押さえれば再侵略を効果的に防げることも、また事実でしょう。しかし、島嶼防衛は負担が多すぎます。海岸諸国は、いまのところラドーム情勢に介入する意図も能力もありません。わたし個人としては、ラドーム人には同情していますが」
「平原を代表する立場ではありませんが、平原も同様の考えです。いずれにしろ、今回の作戦が成功し、タナシス派遣軍を粉砕できれば、しばらくはタナシスが南の陸塊に手を出してくることはないでしょう」
拓海がすかさず言った。
「同感ですな」
ランクトゥアン王子が、うなずいた。
第七十七話をお届けします。