表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白き巫女と蒼き巫女【改稿中】  作者: 高階 桂
第二章 海岸諸国編
76/145

76 民間船舶脱出作戦

 すでに数日前から、ルルト市を占領するタナシス軍政当局によって徴用された民間外洋船舶……ルルト船籍が七割を占める……は出港準備に取り掛かっていた。船腹の継ぎ目には、麻屑と防水樹脂が詰め込まれ、帆の繕いも終わっている。食料の積み込みも行われ、各船長にはラドーム公国までの海図の写しも配られた。

 もちろん、タナシス側は民間船舶が逃亡を図る可能性を考慮し、それなりの手は打っていた。外港の沖には、常に複数の軍船が出て警戒に当たっていたし、夜間に船に残る人員は最小限に留めるように通達を出していた。港自体の警備も、数日前から強化されている。

 最大の保険と言えるのが、船内への水の持ち込みの禁止であった。言うまでもなく、洋上で水を得るのは困難である。水を積み込まずに出航するのは、自殺行為と言えた。


 ルルトの元軍人や有志、一部貴族や王室関係者で構成された地下組織は、ルルト市占領直後から活動を開始しており、自ら立案したこの『民間船舶脱出作戦』に関しても、オープァおよび東部沿岸諸国と綿密な連絡を取っていた。

 機密保持のために、作戦決行当日の明け方の時点で、その詳細について知悉している者の数は全部で二十人に満たなかった。脱出予定リストに挙げられている船舶の船長でも、約三分の一が作戦への参加要請を受けていただけで、出航がいつごろなのか、最終的にどこへと向かうのか、警備のタナシス兵をどうやって制圧するのか、航海中の飲料水の確保はどうするかなどの細部は伝えられていなかった。

 午前中早い時間に、作戦の第一段階が開始される。市街近郊の農地複数で、都市住民からなる強制徴用者が警備のタナシス兵に反抗し、その一部が手製の武器……農具の多くはそのまま、あるいは少しばかり手を加えるだけで、効果的な近接戦闘兵器になりうる……を手に、立てこもりを行う。

 すぐさま、市街地の守備部隊の一部が、反抗鎮圧のために派遣される。その結果、ルルト市内におけるタナシス軍兵力は、一千名以下となった。

 その間に、地下組織も動いていた。脱出予定リストに乗っている船の船長すべてと接触し、協力を取り付ける。さらに、警備兵力阻止のための市民動員準備も開始された。

 昼近くになると、タナシス側も不穏な動きに気付いていた。おそらくは裏切った船長がいたのだろう、海港付近の警備が急に増強される。昼過ぎには追加の軍船も出港し、通常ならば二隻態勢の警戒船が、倍の四隻となる。

 次に動きがあったのは、洋上であった。ランクトゥアン王子率いるオープァ海軍を主力とする海岸諸国連合海軍から派遣された一戦隊七隻が、ルルト海港沖合いに姿を見せる。タナシス警戒船が、すぐさま集結して迎撃態勢を整えた。待機していた軍船の出港準備も、慌しく進められる。

 呼応するように、地下組織側も動きを見せた。動員されたルルト市民に囲まれるようにして、急遽集合を掛けられた民間船舶の船員たちが海港へと向かう。

 すぐさま、海港警備の正規団の一部、約百名がその前に立ちはだかる。だが、非武装のルルト市民の群れは、前進を続けた。タナシス兵の指揮官は、慌てて部下に後退を命ずる。歩んでくる市民の数は、三千を越えるだろう。非武装の彼らに刃を向ければ、全市を挙げた反乱に発展しかねない。ルルト市の人口は、約七万。南の陸塊随一の大都市である。これが一斉蜂起すれば、千名程度の占領軍部隊はた易く蹂躙されてしまうだろう。それを恐れていたからこそ、タナシス軍部隊は高い規律を保ち、ルルト王国民に対する残虐行為や略奪を最低限に留めていたわけだが。



 タナシス派遣軍ルルト王国占領部隊……通常は指揮官の名をとってオンスロー部隊と呼ばれる……の指揮所は、市街地西部にある船員用宿泊施設(ホテルや旅館、と言えるほど洗練されたものではなく、船員向け食堂兼居酒屋に貸し部屋が付随している程度の建物である)に置かれていた。

 二階の一室に陣取るオンスロー将軍の元には、様々な情報が飛び込んできていた。だがその大半は、地下組織が意図的に流した虚報であった。中には、海岸諸国連合海軍艦艇によって郊外の漁村のひとつが占拠されたなどという情報や、平原の工作員によってシェラエズ王女が暗殺された、ラドーム公国が叛旗を翻したなどの一見してデマとわかる情報まで含まれていた。

「正確な情報をよこせ! ルルト側の動きをつかみ、先手を取るんだ!」

 オンスロー将軍は喚いた。野戦指揮は得意ではないが、兵站などの後方支援に関しては手腕を発揮する、官僚肌の初老の軍人である。

 扉にノックがあった。当番兵が開けると、褐色の髪の少女が茶器の載った盆を手にしていた。この宿の下働きの一人である。当番兵が盆を受け取ると、少女が一礼して去る。

 当番兵はサイドテーブルに盆を置くと、茶を淹れ始めた。すでに習慣と化している、午後のお茶である。当番兵は何の疑いもなく、熱い茶が入ったカップをオンスロー将軍の前に置いた。

 三ヒネ後、オンスロー将軍が昏倒した。これが、民間船舶脱出作戦における唯一の死者となる。



 『独断専行』という言葉がある。

 軍事における独断専行とは、前線部隊指揮官や同様の職務にある者が、事前の作戦計画や上官、あるいは上級司令部の命令に一時的に従わず、独自の判断で部隊運用などの行動を行うことを言う。近代以降の軍隊においては、分隊長レベルの者に対してさえ、この独断専行の権利が認められている。最前線にいる者こそが、もっとも詳しい敵情を始めとする情報を得ている以上、これを活用しない手はないからだ。不十分な情報に基づいて立てられた作戦計画にこだわっていては、流動する戦場で好機をつかむのは不可能である。

 とはいえ、独断専行は諸刃の剣である。最前線で得られる情報は、ミクロなものでしかない。目先の利益に囚われれば、全体の利益を逸することにも繋がりかねないのだ。局地的に見れば、無駄としか思えぬ作戦行動でも、戦局全体を俯瞰すればきわめて有用なものである、といったことは、実戦ではしばしば見られるものである。

 きわめて中世的な軍隊であるタナシス軍ではあったが、この独断専行の権利は存在していた。だが、これを認められているのは、正規軍団長クラス以上であった。士官学校や下士官教育課程が設けられていない状況では、知識や経験の足りぬ一般の士官や下士官に独断専行を許すわけにはいかない。そしてもちろん、今現在海港に至る街路を封鎖している男は正規軍野戦指揮官クラスで、独断専行の権利はなかった。

 彼が命じられたのは、海港の警備だけである。非武装の市民が押し寄せてくるという異常事態を処理するには、上官の指示を仰ぐ必要があった。しかしながら、指揮所へ走らせた伝令はいまだ戻ってこない。彼は知らなかったが、指揮所の周囲は地下組織のメンバーと徴用された市民三十名ほどによって、完全に固められていたのだ。出入りしようとするタナシス兵はすべていきなり大きな麻袋を被せた上に殴打されるといった荒っぽいやり方で捕らえられ、近くの倉庫に簀巻きにして放り込まれていた。仮に、伝令が指揮所内にたどり着いたとしても、そこはオンスロー将軍の突然死でパニック状態であり、まともな指示を受けられるはずもなかったが。

 新たな指示が受けられない以上、海港警備責任者は従前の命令に忠実に従うしかなかった。すなわち、『ルルト市民に対しては丁寧かつ親切に接すること。武器などによる威嚇は最小限に留めること。不正行為時の逮捕、または自衛のため以外の武器の使用は原則禁止。市民が占領軍に対し敵愾心を持つ行為、特に武装蜂起に繋がりかねない行為は厳禁』

 なんとも矛盾した命令である。海港は現在封鎖状態にあり、ここに市民が侵入することは不正行為であり、阻止されなければならない。これに伴う武器の使用は、許容範囲だ。だが、武器を振るえば確実に流血沙汰になる。相手は三千名以上である。ほんのわずかなきっかけで、武装蜂起に発展してしまうだろう。

 考えあぐねた指揮官は、部下に人垣を作るように命じた。こちらも非武装状態で、市民を押し留め、時間を稼ごうとしたのだ。これにより、一時的に市民の動きは止まったが、他の市民や船員は裏通りや建ち並ぶ家々のあいだを伝って海港へと侵入していった。



「もっと接近せよ。ただし、矢の射程内には踏み込まないように」

 楽しそうに、ランクトゥアン王子は命じた。

 オープァ海軍十七隻。亡命ルルト海軍八隻。東部沿岸諸国海軍七隻の、合計三十二隻。すべて軍船からなる、堂々たる大艦隊である。一個戦隊に釣り出されたタナシス軍船が、こちらを見て慌てて逃げてゆく。

 タナシス側の軍船は、全部で十五隻が確認されている。数は少ないが、大きさはタナシス側の方が上である。戦力的には互角だろう。だがもちろん、ランクトゥアン王子はタナシス側と一戦交える気はなかった。本作戦の目的は、いかにしてタナシス側死傷者を少数に留めつつ、一隻でも多くの民間船舶を脱出させるかに掛かっている。ルルト国民が、いわば人質に取られている状態なのだ。シェラエズ王女が市民に対し報復を考慮するような事態になってはまずい。



 海港に侵入した船員たちが、小船を漕いで三三五五自分の属する船に乗り込んでゆく。彼らの大半が、ついさきほど脱出作戦について知らされたばかりである。

 気の早い何隻かは、乗員が三分の一ほど集まった時点で、早々と出航を開始した。置いてきぼりをくらった船員が、手近の船に潜り込む。

 その頃になってやっと、タナシス側に増援の奴隷歩兵部隊二百名が到着した。だが、奴隷歩兵部隊指揮官には独断専行の権利などまったく与えられていない。いずれにせよ、その時点では海港周辺には騒ぎを聞きつけたルルト市民多数が繰り出してきており、その数は軽く五千名を越えていた。



 ランクトゥアン王子の艦隊は、タナシス軍船を牽制しつつ、続々と出航してくる民間籍船舶を西方へと逃がした。待ち構えていたオープァ商船から、水を詰め込んだ樽を満載した小船が漕ぎ寄せ、各船に飲料水を積み込ませる。

 緊急出航できたタナシス軍船は十隻に満たず、また指令所から明白な攻撃命令が出されていなかったので、隻数で上回る連合艦隊に対し積極的に仕掛けてくることはなかった。

 海港内では、出航が続いていた。一部市民をも便乗させた民間船が、帆をあげて港を出てゆく。脱出リストに含まれていなかった小型船や何隻かの漁船も、あとに続いた。

 太陽が西に傾き、その色合いが赤味を帯びる頃には、予定していたすべての船舶が、洋上に出ていた。水を受け取った各船は、数隻ごとに船団を組むと、西のオープァ王国を目指した。



 シェラエズ王女のもとにこの一件の詳細が届けられたのは、日没後かなり経ってからのことであった。

 すでにタナシス派遣軍本隊は、クートロア市に入っていた。ここまでくれば一安心、と誰もが思っていたところにもたらされた、凶報であった。

「やられたな、これは」

 シェラエズ王女は、からからと笑った。

「笑い事ではありませんぞ、閣下」

 ランブーン将軍が、渋い顔をする。

「敵はよほどわたしを本国へと帰したくないらしい。これは、根本的に計画を練り直さねばならぬな」

「オンスロー将軍の失態ですな。一服盛られて死んだのは当然の報いだ」

 苦々しげに、ヤンバス将軍が言う。

「いや。失態とまでは言えぬな。無理に阻止しようとすれば、多くのルルト市民を殺傷せねばならなかっただろう。おそらくは、百年先でも語り継がれるような大虐殺になりかねない。兵力が限られている以上、オンスローが生きていたとしても、民間船舶脱出を阻止するのは難しかったろうな。最悪の場合は、武装市民にオンスロー部隊が市内から叩き出され、わが軍は腹背に敵を抱えたまま立ち往生したかも知れぬ」

 真顔に戻ったシェラエズが、言った。

 兵站担当者を呼び寄せたシェラエズは、側近を交えて撤退計画を練り直した。侵攻に際し、軍用輸送船五十五隻に搭乗した兵員数は、最大で一万七千二百五十名。ただし、当座の食料なども積載していたので、撤退の際にはそれ以上の兵員を詰め込めるはずだ。

「軍船にまで詰め込んでも、二万一千が限度か」

 計算結果を見たシェラエズ王女は、軽くため息をついた。

 現在、彼女の手元にある兵員数は三万九千三百。これに、オンスロー将軍が指揮していた四千名が加わる。合計、四万三千三百を、無事にラドーム公国まで撤退させねばならない。

「逃げ損ねた民間船を徴用すれば、半数は撤退できるでしょう」

 ランブーン将軍が、言った。

「ラドームで新たに船舶を徴用できれば、二回目の撤退はさらに大勢運べます」

 側近の一人が、進言する。

「精鋭を残さざるを得ないな。正規団32個で一万六千。これに奴隷歩兵と弓兵をあわせて七千。合計二万三千あればルルト市に籠城できるだろう」

「閣下。僭越ながらわたくしがその指揮を執らせていただきます」

 ランブーン将軍が、進み出る。

「却下する」

 シェラエズが、即座に拒否した。

「では、わたくしが」

 すかさず、ヤンバス将軍が自分を売り込む。

「ヤンバス、そなたには第一次撤退部隊の指揮を命ずる」

「閣下。まさかとは思いますが……」

 ランブーンが、眉をひそめた。

「わたしは最後までこの地に留まるぞ。ランブーン、そなたは補佐を頼む」

 シェラエズが宣言し、にやりと笑った。



 翌日ルルト市に入城したシェラエズがまず着手したのは、ルルト側地下組織の駆り出しであった。もっとも、これを予期していた地下組織側はすでに組織を解散、証拠隠滅を行ったうえで市外に逃亡していたので、成果はほとんどあがらなかった。オンスロー将軍に毒を盛ったと思われる宿の関係者も、すべて姿を消していた。

 二日後、ヤンバス将軍率いるタナシス派遣軍第一次撤収部隊がルルト海港を出航した。外洋船に搭乗した兵員は、公国軍団十三個六千四百名、自治州軍団十一個五千五百名、奴隷歩兵二千名、奴隷弩兵五千三百名、正規団の軽傷者二千名の、合計二万一千二百名。軍船十一隻に護衛された七十隻を超える大船団は、監視していたオープァ海軍艦艇を振り切ると、一路北のラドーム公国を目指した。

 翌日、残留したタナシス派遣軍はクートロア市およびルルト市郊外を放棄し、ルルト市街地に立てこもる構えを見せた。



「早ければ五日、遅くとも六日後には船団が戻ってくるはずだ。すでに一日過ぎたから、猶予は四日とみるべきだな」

 早口で、拓海が言った。

 ワイコウ王国から提供された約八千名を加えて、七万を越える規模となった共同軍は、ようやくクートロア市内に入ったところだった。初動の遅さもあるが、寄せ集めの大軍であり、かつ川船の不足、それにワイコウ王国の食糧事情がタナシス派遣軍のせいで悪化していたため、兵站状況が思わしくなく、行軍速度はかなり低速であったのだ。

「ルルト市まで一日。偵察と情報収集に一日。残り二日以内に制圧しないと、逃げられちゃうわけね」

 夏希は唸った。

「生馬はもう船に乗せられちゃったのかな?」

 凛が、問う。

「貴重な捕虜、と考えればもうすでに洋上にいるだろうな。だが、シェラエズ王女はまだ居残っているらしいから、その手元に置いてある可能性もある。どちらとも言えんね」

「で、何らかの策があるんでしょうね、参謀長」

 肩をすくめた拓海を、夏希はじっと見つめた。

「多方向からの同時飽和攻撃しかないな。オープァ防衛隊と、東部海岸諸国防衛隊には、それぞれ一万程度の高原戦士を貸してやるつもりだ。ランクトゥアン王子には海から。オープァ防衛隊が西から。東部海岸諸国防衛隊が東から。そして俺の主力が南から一斉に攻め立てる。敵予想兵力は二万ちょっとだ。軍船は四隻しか残していないし、一箇所は必ず破れるだろう。市街地に入り込んでしまえば、こっちのものだ。市民は味方だしな」

「あんまり市街戦はやりたくないわね。あのゾンビ兵士のことを考えると」

「そうだな」

 夏希の言葉に、拓海が同意する。麻薬でハイになった奴隷歩兵なら、民間人も見境なく殺傷しかねない。

「とにかく、今日は兵に飯を食わせてたっぷりと寝てもらおう。凛ちゃん、補給局と兵站局の指揮は任せる。俺は、同盟各国部隊と共同作戦に関して連絡を取る。夏希、ルルト市周辺の詳細な地図と詳しい住人を見つけて、作戦局と地図部の連中と一緒に話を聞いてくれ。大まかな布陣計画を早めに立てたいからな。あ、工兵部の連中も一緒にね」

「了解」


第七十六話をお届けします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ