64 ラドームの公女王
ルルト船が、縮帆しつつ湾内に滑り込んでゆく。
「三日目に到着か。まあまあ順調な航海だったわね」
あたりの景色を眺めながら、凛が言った。
島国ラドーム公国の王都グルージオンは、逆V字型の湾の奥にあった。津波がきたらひとたまりもないように思えるが、夏希はこの地に来てから一回も有感地震に出くわしていないことに気付いた。たぶん、このあたりは地盤が安定しており、めったに地震など発生しないのであろう。
「ずいぶんと造船業が盛んなようですね」
サーイェナが、市街地左手の砂浜を指差す。そこには、十を超える丸太で組まれた船台が並んでおり、そのすべてで大きな船が建造されていた。もうすでにかなり出来上がっており、中にはマストまで立てた船もある。
「島国だし、船材にも恵まれているみたいだから、いい商売なんじゃないの?」
夏希はそう言った。海岸部を除けば結構山がちの地形らしく、その山々も濃い緑色の樹木でびっしりと覆われている。
かなり北に来たせいだろう、ラドームの気温は海岸地帯よりもさらに低く感じられた。ただし、海岸地帯同様湿気が多いせいか、あまり快適な感じはしない。
やがて、停船したルルト船に小船が近づいて来た。船長が用向きを告げると、そこから案内人が乗り込んでくる。肌の色は褐色に近くて艶があり、丸顔で頭部は小さい。黒目がちの眼は大きく、鼻は低い。髪の毛は、黒くてウェーブしている。異世界で言ったら、インド南部とかスリランカあたりの人種に近いだろうか。
その案内人の指示で、ルルト船とオープァ船は停泊地へと導かれた。すぐに桟橋から、迎えの小船が漕ぎ寄せる。夏希ら訪問団の主要メンバーは、それにラドーム公王女への土産物とともに乗り込んだ。コーカラットとユニヘックヒューマの姿にびびっているラドーム人水夫が操るオールによって、小船は波の静かな湾内を滑るように進んでゆく。桟橋に上がった一行は、待っていたラドーム外務官僚の出迎えを受けた。その案内に従って、公王宮へと赴く。
「生活レベルは、平原と海岸の中間くらいかしらね」
ラドーム人に聞こえないように気を遣いながら、凛が夏希の耳にささやきかける。
炎暑に悩まされない分、ラドームの一般家屋は平原や海岸のものよりいくぶん開放部が少なかったが、その造りは海岸諸国のものよりも重厚さに欠け、やや安っぽく見えた。ほとんどが木造の平屋で、石造りの建物は見当たらない。住民の衣服も簡素で、平原の民と同じくらいのレベルに見えた。ただし、身長は平原の民と比べると明らかに高かった。夏希よりも背の高い男性の姿も、結構見かけることができる。
案内された公王宮も、木造の建物であった。朱塗りの丸い柱が何本も立っており、梁や垂木が鮮やかな緑や青に塗られているので、なんだか中国の古い寺院を思わせる。
控えの間に通された夏希らに、女官らしい人々が茶菓を持ってきてくれる。だが、それに手を付けた途端に、貫禄のある中年男がやってきて、公女王がお会いになります、と告げた。夏希はしぶしぶと、半分に割った焼き菓子を皿に戻した。中にフルーツ系の餡が入っていて、とてもおいしそうだったのだが。
「ようこそラドームへ。わたくしが、公女王カミュエンナです」
謁見の間で待ち受けていたのは、まだ歳若い女性であった。二十歳前後、と夏希は見当をつけた。褐色の肌と低い鼻はいかにもラドーム人らしいが、少しばかり面長の顔立ちで、大きな黒い眼が愛嬌たっぷりだ。ウェーブした黒髪は長く、腰の辺りまである。
団長である凛から順に、四人は挨拶の言葉を述べた。むろん、コーカラットとユニヘックヒューマは控えの間で留守番である。
凛が土産物を差し出し、タナシス王国との仲介に感謝の意を述べる。控えていた女官が受け取って、中身をカミュエンナに見せた。公王女が、にっこりと笑う。
「カミュエンナ様。タナシスからの連絡は、いつごろ来るのでしょうか?」
あくまで控えめな調子で、凛が尋ねる。
「あなた方のラドーム訪問に関しては、すでに書状を七日前にアノルチャ行きの船に託しました。もうすでに、王都リスオンに着いているはずです。入国許可が下りるまで、どうぞ滞在なさってください。入用なものがあれば、なんなりと係りの者に申し付けてくださって結構。ラドーム滞在を、楽しんでいただければ幸いです」
にこやかなまま、カミュエンナが告げる。
「ありがとうございます、公女王様」
堅苦しく凛が言って、頭を下げた。
「ここもお米文化圏なのね」
夕食に出されたのは、白いご飯であった。
「ラドームは雨が多いと聞きますから」
箸を使いながら、エイラが説明する。
「タナシス本土は、北部を除くと雨が少ないので、お米作りには適していないそうです。北部は涼しすぎて、これまたお米作りができない。だから、小麦やトウモロコシなどを食べているそうです。どんなものかは、知りませんが」
「そうか。エイラは小麦もトウモロコシも知らないんだ。両方とも、おいしいんだよ。タナシスに行けば、食べ放題だよ、きっと」
夏希はすこしばかりはしゃいで言った。小麦さえあれば、パンやパスタが食べられる。
「素直に入国許可が下りてくれれば、の話でしょ」
ぶすりとして、凛が言った。
「それはそうだけど。ねえ、エイラ。名前忘れちゃったけど、タナシスの国王って、どんな人なの?」
「オストノフ国王です。人となりは、実はよくわかっていませんわ。海岸諸国でも、お目にかかったことがあるのは数名の外交官くらいですから。中年の、精力的な人物だと言われています。王女が三人いますが、王子はなし。女系の即位も認められているそうですから、しばらくは安泰でしょうね」
エイラが、ざっと説明した。
「三人娘か。ところで話し変わるけど、ラドームの特産品って、何なの? このメニューを見る限り、食べ物系はあまり期待できそうにないわね」
おかずをつつきながら、凛が訊いた。
「たしかにね」
夏希も同意した。焼き魚の切り身、野菜の漬物、小魚のから揚げ、貝が入ったスープ、茹で豆といったところで、海岸諸国で食べたものと大して変わりはない。
「島国で山がちですから、農産物は自給できるだけなのでしょうね。それでもタナシス本土より暖かいので、果物はかなり輸出していると聞いています。あとは、香木と錫鉱石、それに鉛を産するそうです。海岸諸国の商人が買い付けるのは、ほとんどが香木と鉛らしいですわ」
エイラが、説明する。
「へえ。香木か。何に使うのかな」
「もちろん、燃やすんでしょ?」
凛が、言う。
「香木を燃やしてどうするのですか?」
エイラが、きょとんとした顔をする。
「え。香りを楽しむんじゃないの?」
夏希は少しばかり驚いた。香木といったら、細片や粉末を練り固めたものに火を点けて、その香りを楽しむものだとばかり思っていたのだが。
「燃やしてしまっては、一回しか楽しめないではないですか」
エイラが、きょとんとした表情のまま言う。
どうやらこの世界の香木は、燃やさなくともそのままで十分よい香りがするらしい。夏希が異世界のお香の話をしてやると、エイラとサーイェナが驚いた。
「でも、あんまり香木使ってるとこ見たことないな」
「海岸諸国でしか流行っていませんからね。身につける装身具に加工してよい香りを漂わせたり、家具に組み込んで部屋に香りをつけたりするそうです。まあ、お金持ちの道楽ですね」
夏希の疑問に、エイラが答える。
翌日から、夏希らはグルージオン見物を始めた。タナシスから入国許可が出なければ、動きようがないのだ。せっかく外国まで来たのだから、色々見ておかなければ損である。
ラドーム側がつけてくれた案内人兼護衛の兵士たちは、実に親切であった。案内を頼めばどこへでも連れて行ってくれたし、特定の場所や事柄を隠すようなこともない。
「造船業が盛んなようですね。技術も高いのでしょう?」
市街地を抜け、海岸に出たところで、サーイェナが護衛責任者に訊いた。ルルト船からも見えた砂浜の船台では、大勢の船大工や職人が立ち働いている。総勢百五十人はいるだろうか。
「ラドームの造船技術は、他の土地と比べそれほど高いわけではありません」
護衛責任者が、丁寧に答える。
「大きさからして、交易用の商船でしょ? 一度に十二隻も造るなんて、他所から注文が入ったのかな?」
船台の数を数えた凛が、言った。
「注文……といいますか、タナシス政府からの要請です。大型船を十二隻建造し、納入せよと、指示されたのです。むろん、建造費は支払ってもらえますが、十二隻ともなると船大工の数が足りません。国中から大工や木工職人、さらには樵まで集めて働いてもらっています。まあ、タナシス本国に納める、一種の税金みたいなものですね」
苦笑を浮かべて、護衛責任者が語る。
「旧ソ連みたいなものね」
凛が、言った。
「なにそれ」
「ソビエトも、小型の貨物船や、海軍の使う補助艦艇などはポーランドや東ドイツ、ルーマニアなどに造らせることがあったのよ。砕氷船を、フィンランドに発注したりもしてたわ。それと同じじゃないかしら」
歴史通の凛が、ざっくりと説明する。夏希はうなずいた。
「ふうん。ある種の分業体制なのね」
港を一通り見学した一行は、昼食を採るために宿舎へと戻り始めた。行きに通った大通りではなく、ちょっとせせこましい道を歩く。片側に様々な品物を商う商店が、その反対側には屋台のような店が建ち並んでおり、まるで市場の中を抜けていくかのようだ。
「商業的には平原なんかよりもはるかに進んでるわね。専門の食べ物屋台があるみたいだし」
あたりをきょろきょろと見渡しながら、夏希は言った。昼時ということもあり、屋台の前に置かれた腰掛に座って、どんぶりを抱え、箸を使っている人が多い。
「都市が単なる人口密集地ではなく、本来の都市としての機能を備えているということね」
凛が、考え深げに言う。
「どういうこと?」
「家とは、自然から身を守る一種の砦であると同時に、睡眠場所であり、食料を摂取する場所であった。これは、横穴式住居のころからの人類の常識ね。文明が発達すると、家の重要性が低下する。社会が豊かになると、個人が食料を備蓄し、加工する必要がなくなったので、家で食物を摂取する必然性が薄れた。さらに社会が安全になると、寒暑は別として家は身を守るための存在ではなくなった。狼も、異民族の脅威もなくなったからね。もっと未来になれば、睡眠場所さえ家である必要はなくなるのでしょうね。ネットカフェ難民とか、ホームレスの人々は、ある意味未来に生きているのかも知れない。えーと、都市の話をしていたんだっけ。都市ってのは、単に家が寄り集まった場所、ってわけじゃないのよ。余剰資本や余剰食糧などで、無駄飯食いを養ってゆけるだけの度量と、文化を生み出せる力を備えていなければ、本当の意味で都市とは言えないのよ」
「無駄飯食い?」
「例えば画家ね。絵なんていくら描いても、米粒ひとつ生み出せないのよ。まさに無駄飯食いだわ。農村にいたら、無能扱いされるでしょうね。でも、都市には芸術を理解し、作品に美を見出し、それを買ったり、画家を援助してくたりする人がいる。文化という腹の膨れない産業を育てていけるだけの力量があるのよ。そして、無駄飯食いの人々を受け入れるだけの自由と不干渉の精神が備わっている。これが、本当の意味での都市なの。おそらくこのグルージオンという街は、そこまでの力を持っているのでしょうね」
「そうなんだ」
夏希は納得した。確かに、都市住民にはそのような気風がある。この世界でもっとも都市生活とかけ離れた暮らしをしている高原の民は、ほぼ全員が基本的に狩人か農民であり、籠職人などの専門職も存在するものの、その数はわずかだ。海岸諸国の都市ならば、例えばワイコウのキュイランスのような『賢者』などという曖昧な職業の者さえ、それなりに一目置かれたうえで暮らしてゆけるのである。もっとも、今ではキュイランスは賢者を辞め、大臣となった叔父グリンゲの秘書官として活動しているそうだが。
「ねえ、団長。お昼、ここで食べていかない? なんだか、おいしそうだし」
いくつもの屋台を眺めながら、夏希はそう訊いた。
「だめよ。宿舎で食事を用意してくれている人のことを考えなさい」
凛が、夏希をたしなめる。
「ちぇ」
夏希は子供のように口を尖らせた。歩いていると、本当にいい匂いがあちこちから漂ってくる。ご飯のお焦げの、香ばしい香り。肉の脂が焦げた匂い。煮立ったスープから立ち昇る、ほのかに甘い香り。焼いた魚の匂い。焙煎されたコーヒー豆の、香ばしい香り。魚の燻製だろうか、スモークサーモンのようなちょっと生臭さを残した臭い。イカ焼きを思わせる匂い。油通しした香辛料のような、ちょっと刺激的な匂い。
え。
夏希は思わず足を止めた。鼻腔に大量に空気を吸い込み、匂いを分析する。
「ねえ、凛。コーヒーの匂い、しない?」
「……そういえば、するわね」
鼻をひくつかせた凛が、そう答える。
夏希は急いで来た道を戻り始めた。臭源を探し、路地に入る。
あった。
間口の狭い、古そうな店であった。店頭に大きな笊が置いてあり、各種の豆がうず高く盛られている。
夏希は大股でその店に入っていった。
これは……。
夏希は置いてあった笊のひとつに手を突っ込んで、くすんだ青緑色の豆をひとつ摘んだ。
コーヒー豆だ。
いきなり現れた異国人に驚いたのだろう、店の奥では店主らしい中年男性が、浅い鍋を片手にぽかんとした顔をしていた。夏希はつかつかと歩み寄ると、鍋の中を覗いた。すでに褐色になったコーヒー豆が入っている。煎っている最中だったらしく、鍋からは香ばしい香りが盛大に立ち昇っていた。
「凛、お金!」
振り向いた夏希は、ようやく追いついた凛に向け手を差し出した。地元の通貨を持っているのは、凛だけなのだ。
「どうするつもりなの?」
「買い占める! この店にあるコーヒー豆、全部買い占める!」
「買占めはやめときなさいよ。反感買うわよ」
ラドームのコインを夏希に手渡しながら、凛が言う。
「わかったわ。でも、ラドームでコーヒー作ってるとは知らなかった。なんで宿舎の食事にはついてこないんだろう?」
「飲用の習慣がないんじゃないの? ここ、どう見ても煎り豆屋よ」
凛が、言う。
夏希はあらためて店内を見回してみた。たしかに、コーヒーショップには見えない。コーヒー豆が盛られた笊はひとつだけだ。他の笊には、大豆や落花生などの、各種の豆が盛ってあった。トウモロコシの粒や、木の実らしいものを盛った笊もある。
「どうしたんですの?」
追いかけてきたエイラが訊いてくる。夏希は説明を凛に任せると、驚いている店主にコインを渡して生豆を買い、鍋で煎ってもらった。これ以上煎ったら苦味が出てまずくなる、と店主に言われたが、無理を言ってさらに時間をかけて煎らせる。チョコレート色のシティロースト程度になったところで、追加料金を払って布袋に詰めてもらう。
意気揚々と宿舎へ戻った夏希は、厨房から回転式の石臼を借りてきて、焙煎したコーヒー豆を挽き始めた。出来上がった粉末を清潔な綿布に包み、広口のポットに入れ、上から少量の熱湯を注ぎ込む。
「ネルドリップならぬコットンドリップね」
昼食抜きでコーヒー作りに取り組んでいる夏希を呆れたように見ていた凛が、そう茶化す。
じっくりと浸出を行った夏希は、そっと布を引き上げた。ポットから立ち昇る香気を嗅いでみる。……あまり良くはないが、正真正銘、本物のコーヒーの香りだ。
夏希はカップにコーヒーを注ぎ分けた。凛はもちろん、二人の巫女と、ついでに魔物二匹にも勧める。
「まあまあね。ちょっと渋みが強いかな」
ひと口啜った凛が、言う。
夏希はじっくりと半年ぶりのコーヒーを味わった。確かに、しっかりと焙煎した割には渋みが強く残っている。愛飲していたモカには及ばないが、これはこれで十分においしかった。
「香りはいいですが、苦いですわね」
エイラが、渋い表情でカップを置いた。彼女の口には、合わなかったようだ。
「わたくしは気に入りましたわ」
一方サーイェナは、おいしそうに飲んでいる。
「わたくしは苦手ですぅ~。もっと甘い方が好きなのですぅ~」
コーカラットも、好きになれなかったらしく、カップを置く。
「あたいはいいと思うのです! でも、あたいの飲み物の方が、断然おいしいのです!」
味が気に入ったらしく、一気飲みしてしまったユニヘックヒューマが、空になったカップを振り回しながら叫ぶ。
「こんな熱いの一気飲みして、よく火傷しないわね」
凛が、呆れる。
「ふふふ。これで毎朝コーヒーが飲めるわ。凛、ノノア川水運商会に外洋船を購入させてね。ここからハンジャーカイまで、コーヒー豆の交易ルートを確立させるわよ」
「需要はないと思うな。赤字分補填してくれるってなら、やってもいいけど。むしろ、ルルト商人に頼んで少量を定期輸入した方が断然安上がりよ」
自分の分を啜りながら、凛が言う。
「ともかく、帰りにはたっぷり買い占めて帰るわよ。駿はコーヒー党のはずだし、生馬も拓海も飲むでしょう。いいお土産ができたわ」
夏希は幸せな気分でコーヒーを啜りこんだ。
第六十四話をお届けします。