63 タナシス訪問団
「はあ~。もうあれからひと月経ったのねぇ」
川船の船縁に肘を乗せ、頬杖をついた姿勢で夏希はつぶやいた。
もちろん、こちらの時間の単位に『月』というものはない。しかしながら夏希は、三十日をひと月と考える習慣から、まだ抜け出せないでいた。一日の長さが短いから、当然『月』の長さも、こちらの方がかなり短いのだが。
川船は、オランジ村の脇をゆっくりと下ってゆくところであった。戦死者はもちろんすべて集められ、葬られたし、遺棄された武器武具のたぐいもほとんどが回収されている。折れた矢の鏃や、鎧から落ちた板金なども、地元の住民が換金目当てで拾い集めたらしく、戦場跡はきれいなものであった。河原の石にこびりついた茶色い染みが、辛うじてここが激戦の場であったことを物語っている。
「なに黄昏てるの?」
寄ってきた凛が、夏希の真似をして頬杖をつき、訊いた。
「ここがオランジ村よ。例の、ワイコウ軍との決戦場」
夏希は短く答えた。
「……こんなところ、前に通ったっけ?」
凛が、首を傾げる。
「相変わらずの地理オンチぶりね、団長は」
夏希は笑った。
「団長呼ばわりはやめてよ。腕章も着けてないし」
「はあ?」
「あ、今のは聞き流して」
凛が、苦笑いする。
平原共同体経済部顧問にして、今回のタナシス訪問団団長というのが、今の凛の肩書きである。駿念願の平原共同体は、従来の平原諸国連絡会議を発展させる形で、つい五日ほど前に正式発足していた。その政治的権限は、従前の組織と大差はないが、その下に外交、経済、文化教育の三部門が設置されているのが新しい点である。いまだそれらの組織は人員、予算とも不足しており、その活動は準備段階に留まっている。ちなみに、外交部部長には駿が就任している。
そしてもうひとつ、平原共同体の指揮下にあるのが、平原共同軍である。これももちろん、平原統合軍が発展してできたものだ。平原共同体の最高組織である連絡会議総会の下に、平原共同軍司令部が置かれ、さらにその下に平原共同軍野戦部隊と、平原共同軍参謀部が設置されている。参謀部は六局十四部からなる本格的なもので、参謀部参謀長は拓海が務める。生馬は編成中の仮称『突撃連隊』長と兼任で、参謀部次長となる。
エイラ率いる人間界縮退対策委員会と、サーイェナ率いる対策群も、ワイコウの魔力の源を手に入れたことを契機に合併し、新たに人間界縮退対策本部が発足した。外交部門長兼任の本部長にはエイラが、研究監視部門長にはサーイェナが就任している。夏希は、本部長補佐の肩書きをもらった。平原共同軍の方にも籍があり、共同軍参謀部参謀の地位にある。
凛を名目上の団長とし、人間界縮退問題対策本部からエイラ、サーイェナ、そして夏希が参加したタナシス訪問団。すでにルルトとオープァから、外洋船舶提供の約束は取り付けてあるし、ラドーム当局にも訪問を通告してあったが、実はかなり行き当たりばったりの派遣であった。いまだタナシス王国との連絡が取れていないのだ。場合によっては、タナシス側の許可が下りるまでに何十日もラドームに足止めになる可能性もあるし、最悪の場合タナシスの指図を受けたラドームに入国を拒否されるかもしれない。
それにもかかわらず、対策本部のナンバー1と2の二人の巫女が含まれる訪問団派遣が強行されたのは、とりもなおさず人間界縮退問題が手詰まりであることの証左とも言える。魔界はいまだ一日六キッホ(約3.6メートル)程度の速度で、人間界を蝕みつつあったし、それを遅らせる有効な手立ては、まだ見つかっていないのだ。タナシスを説得し、魔術の使用を断念させるには、直接出向いて説得するしかない。
「先行き不安だわね。色々と」
夏希はため息混じりに言った。ちなみに今回、アンヌッカはハンジャーカイで留守番である。人数的に制限があるため、連れてくるのは難しかったし、彼女の本来の所属はあくまでジンベル防衛隊にある。何十日掛かるかわからない旅に同行させるのは、無理であった。本人はもちろん同行を希望したし、夏希も一緒に来てもらいたかったのだが。
「まあ、いざとなったら頼りになる二匹がいるし」
凛が頬杖を外すと、視線を空に向けた。川船の上空二十メートルほどのところには、コーカラットがふわふわと浮かんでいる。ユニヘックヒューマは、下へ垂れ下がった触手の一本にぶら下がって、なぜか片手懸垂の最中であった。
「船の準備はすべて整っております。ラドーム公国への入国許可も取りました」
ルルトの河港で出迎えてくれたルルト外務官僚が、そう報告する。
「しかしながら、いまだタナシスより連絡はありません。いかがなさいますか?」
「いまさら引き返すわけにはいきません。とりあえず、タナシスまで参ります」
凛がきっぱりと言う。
「では、出航準備に取り掛からせます。案内人を乗せますので、川船はこのまま派遣船へ着けて荷物を積み替えましょう」
うなずいた外務官僚が、控えていた部下に指示を出す。
「ラドームの反応はどうなんですか?」
夏希は訊いた。入国許可は下りたとはいえ、歓迎されないのでは困る。
「ラドーム公国自体は、訪問団を歓迎しているようです。王国時代から、ルルトとは交流がありましたから。しかし、現在のラドームは、タナシスに従属していますので、その意向には従わざるを得ない状況です」
外務官僚が、肩をすくめた。
「タナシスに対する、ラドームの感情はどうなのでしょうか?」
エイラが、訊いた。
「良くはありません。タナシスと直接交戦したわけではありませんが、派兵をほのめかしたうえで従属を誓わせたのですからね。征服されたと同じです。まあ、公国として自治は認められていますし、タナシスの方もそれほどひどいことをラドームに強いているわけではありません。ただし、公国に衣替えする時に、名君と言われた国王を退位させ、扱いやすい王女を即位させたことは、確実にラドーム人の怒りを買ったようです。辺境部族との戦いに投入するために、定期的に少数を徴兵していることも、ラドーム人の反感の元ですね。何年経っても、誰も帰ってこないのですから」
「それはひどい話ですね」
サーイェナが、眉をひそめる。
「では、凛様、エイラ様、サーイェナ様、夏希様はこちらへどうぞ。王宮にご案内申し上げます」
外務官僚が言って、護衛の兵士を呼び寄せた。
ルルト国王に拝謁し、船の調達に対し礼を申し述べた四人の女性は、先ほどの外務官僚に案内されて海港へと向かった。
「お久しぶりですね、みなさん」
待ち受けていた青年が、にこやかに挨拶する。
なんとそこにいたのは、ランクトゥアン王子だった。オープァ海軍司令官にして、オープァ王国第六王子。いつもの水夫ルック……白茶けた麻のハーフパンツと、胸元が大きく開いているシャツ姿だ。
「これは殿下。再びお目にかかれて嬉しいです」
凛が、丁寧に頭を下げる。夏希はもちろん、エイラとサーイェナも前回の海岸諸国訪問の時に出会っているので、久々の再会となる。
「では、殿下の船に乗せていただけるのですか?」
挨拶が終わると、夏希はそう訊いた。
「いやいや。わたしの船はお客様を乗せるにはいささか手狭でしてね。ルルトがより大きな商船を貸してくれますから、皆さんはそちらへどうぞ。わたしは護衛として、お供します」
浅黒い端正な顔をほころばせながら、ランクトゥアンが言う。
「殿下に守っていただけるなんて、光栄ですわ」
エイラが、珍しくこぼれるような笑みを見せて言った。
「ではどうぞこちらへ」
ランクトゥアンが、自ら一行を待ち受けている小船へと誘う。
タナシス訪問団一行……護衛を含め、二十人と魔物二匹……が乗り込んだルルト船は、全長三十五メートルほどの大きなものだった。海岸諸国の技術レベルからすれば、巨船と言えよう。乗員は、運航要員二十名を含め三十人ほど。
「意外と少ないのね」
「軍船じゃないからね。商船の場合、運航経費を抑えないと商売にならないから。企業とおんなじよ。いつの時代も、人件費の抑制が儲けるコツなのよ」
夏希の疑問に、やや辛辣な口調で凛が答えてくれる。
船長への挨拶、船室の割り当て、手荷物の積み込みなどが終わると、さっそく出航となった。夏希は甲板へ出て、水夫たちが働く様を興味深く見守った。白い三角帆が広げられ、風を孕む。巨船は穏やかな水面を滑るように進み出した。ランクトゥアン王子が指揮するオープァの軍船の先導で、半月状の湾を出てゆく。沖合いの島を迂回して外洋に出たところで、夏希は船室に戻った。天井がやけに低い八畳間くらいの部屋に、異世界人二人と巫女二人、それに魔物二匹が同居である。かなり狭苦しいが、これでもこの船では船長以上に優遇された環境である。随員や護衛は空いた船倉に押し込められているし、一般の水夫は船倉の荷物の上に敷物を敷いただけでごろ寝するのだから。
「ルルト-ラドーム間が六百キロ。風さえよければ、二日から三日で航海できるわね」
敷物を敷いた床の上に座り込んだ凛が、つぶやくように言う。
「いまさら言うのはなんだけど、難破とかしないでしょうね」
「海岸諸国の造船技術と航海技術はかなり高いわよ。でも、二十一世紀でさえ運が悪ければ船は難破するんですからね。安全だと断言はできないわ」
「いざとなったら、コーちゃんに助けてもらいましょう」
話を聞いていたエイラが、口を挟んだ。
「あたいは泳げるから、コーちゃんに助けてもらわなくても大丈夫なのです!」
ユニヘックヒューマが、ステッキを小さめに振り回して……船室が狭いので、彼女なりに気を遣っているらしい……言った。
周囲が薄暗くなり、空に星が瞬き始めた頃、夕食となった。
メニューは貝飯だった。オープァの軍船で食べたものより若干味は落ちたが、それでもたいへんにおいしかった。あとは塩味の野菜スープと、これまた塩気のきつい漬物。それに、燻製肉の薄切り。飲み物は、冷たいお茶だった。
食事を終えた夏希は、早々と横になった。火災対策のためか、明かりは薄暗い灯明がひとつあるだけだ。これでは暗すぎて、何もできない。
与えられた寝具は、藁を入れてあるマットレスと、薄い上掛けの布、それにやけに固い枕だけだった。夏希が横になるのを見て、エイラとサーイェナも寝支度を始めた。眠くなさそうだった凛は、隅の方でユニヘックヒューマ相手になにやらぼそぼそと話し込んでいる。コーカラットは、船室の中央でさかさまになって浮いていた。寝ているわけではない……魔物は睡眠をとらない……はずだが、なぜか目を閉じている。
翌日から、海が荒れ始めた。
天気はいいのだが、なぜかうねりがひどい。船は上下に揺れ、当然のことながら夏希は船酔いに掛かった。
「……平気なの?」
青い顔をした夏希は、平然としている凛を羨ましげに見た。
「三半規管だけはなぜか強いのよね」
凛が、笑う。
船室に朝食が運ばれてきたが、夏希の食欲はゼロであった。
「ご気分が悪いのですか? 夏希殿」
エイラが、気遣う。
「船酔いね。あなたもサーイェナも、海には慣れていないはずなのにどうして平気なの?」
「なぜでしょうか?」
エイラが、首を傾げる。ちなみに、彼女のお盆の上のご飯はすでに半分くらいに減っていた。食欲も減退していないようだ。
「夏希殿。ユニちゃんの飲み物を飲んでみたらいかがでしょう」
サーイェナが、そう提案する。
「それは、ちょっと」
「あたいの飲み物は、人間の二日酔いの特効薬でもあるのです!」
ステッキをぽきぽきと折って、カップとポットを作りながら、ユニヘックヒューマが言った。
「きっと、船酔いにも効くのです!」
「……ほんとかしら」
夏希は顔をしかめた。この気持ち悪さが緩和されるのであれば、挑戦してみたい気もする。
「あら。まだユニちゃんのジュース飲んだことないの?」
凛が、意外そうな口ぶりで言った。
「だって、どう見ても青汁じゃない」
「香りは生臭いけど、味はおいしいのよ。飲んでごらんなさい」
凛が、勧める。
ユニヘックヒューマが、ポットをスカートの中に入れた。じょろじょろと水音が聞こえる。
「どうぞ!」
ユニヘックヒューマが差し出したカップを、夏希は不承不承受け取った。注がれた液体の臭いを嗅ぐ。……やはり、野菜ジュースの生臭い臭いしかしない。
「味は……そうね、玄米茶と抹茶を混ぜたような感じかな」
凛が、言う。
「本当?」
「ほんとほんと。絶対、おいしいから」
凛が請合う。
夏希はちょっとためらってから、ひと口含んでみた。青臭い臭いが、鼻腔を満たす。
……あれ。
夏希の舌が、旨みを感じ取った。確かに凛が言った通り、緑茶に近い味わいだ。生臭さが消えると、香ばしい香りが感じられる。あとは適度な渋みと、甘味。
ごくりと飲み下す。……コンビニで売っている、ペットボトル入りのお茶の濃い目のやつの、やや異国調バージョン、といった味わいである。
「た、たしかにおいしいわね」
夏希は残りもごくごくと飲み下した。空になったカップに、ユニヘックヒューマが嬉々としてお代わりを注ぎ込む。夏希はそれも飲み干した。気のせいか、胃がいくぶんすっきりとしたようにも感じる。
結局、夏希はまったく朝食を採らなかったが、時間の経過とともに船酔いの症状は劇的に改善されていった。昼食時にはすっかり食欲も戻り、空腹だったこともあり貝飯を三杯平らげる。
「食後に一杯いかがですかぁ~」
夏希が食べ終わった頃を見計らって、コーカラットがふわふわと近づいてきた。触手カップを、差し出してくる。中身は、もちろん黄色い謎の液体だ。
「ありがとう。いただくわ」
ユニヘックヒューマの青汁が飲めたのだから、コーカラットの液体も飲めないことはないだろう。夏希は意を決すると、カップを手にした。相変わらず尿にしか見えない液体を、思い切って口に含む。
……甘い。
砂糖のような、押し付けがましい甘さではなく、もっと爽やかな、フルーツっぽい甘味だ。香りもフルーツっぽい。しいて例えれば、パイナップルの風味だろうか。
夏希は味を分析しながら、カップ一杯の謎の液体を飲み干した。パイナップル味の強いミックスジュース、という感じがする。かなりおいしい、と評してもいいだろう。
「おいしかったわ。ありがとう」
「恐縮ですぅ~」
コーカラットが、嬉しそうに触手を振る。
第六十三話をお届けします。