62 叛旗
書状を読み終えたアタワン将軍が、唸った。
キュイランスは強いて無表情を保った。アタワン将軍との関係は、互いに顔を知っているという程度である。アタワンがその気になれば、キュイランスを反逆罪で捕らえることはもちろん、この場で処刑することすら可能だろう。
……叔父上の読みが当たっていればよいが。
アタワン将軍の性格からすれば、キュイランスに危害が加えられることはない、とグリンゲは請合ってくれた。万が一の用心として、この天幕の中で騒ぎが起こった場合には、ルルトとオープァの兵士が救出に来てくれる手筈にはなっている。
「この書状は、グリンゲ将軍が自ら認められたのだな?」
アタワンが、殺意さえ感じられそうな冷たい眼差しでキュイランスを見つめる。
「その通りであります、閣下」
「この、ルルトとオープァの関与というのは確実なのかね?」
「派遣部隊将軍をお呼びになって、ご自分で確かめられた方が早いと思います」
キュイランスは、慇懃に答えた。唸ったアタワンが、しばし考えてから従卒を呼び、シュビッツ、ネーゲルスの両将軍を呼びに行かせる。
キュイランスは内心でほっと息をついた。これで、とりあえず処刑の線はなくなった、とみてもいいだろう。
ほどなく、天幕内にルルトとオープァの派遣部隊指揮官が現れた。キュイランスは、視線で支援を要請した。シュビッツが、任せろとでも言わんばかりに軽く手で合図する。
「では単刀直入にお聞きしましょう。彼が主張するには、ルルトとオープァはカキ国王陛下が退位されることを望んでいる。そのため、ワイコウの反国王派を仲介として、平原と手を組んでいる。相違ありませんか?」
アタワンが、二人の将軍を見比べつつ訊いた。
「相違ありません、閣下」
シュビッツが、静かに言った。
「よくお考え下さい、閣下。カキ国王の治世になってから、貴国とルルト、オープァの関係がどれほど冷却化したかを。かつては三人姉妹、とまで形容された盟友が、疎遠になってしまったのかを。今こそ、撚りを戻す好機です」
「しかし、国軍軍人として陛下に叛旗を翻すなど……」
「もしお望みであれば、首謀者をわが叔父上にしてもよろしいです」
キュイランスは、そう口を挟んだ。
「どうせ老い先短い身。ワイコウのためならば、反逆者の汚名を着て自害するなどむしろ名誉、と叔父は申しておりました」
……嘘である。いくらグリンゲでも、そこまで自己犠牲の精神は持ち合わせていない。だが、このキュイランスの作り話は、いたくアタワンを感動させたようだった。
「おお。グリンゲ将軍はそこまでのお覚悟なのか」
アタワンのキュイランスを見る目が、ずいぶんと和らぐ。
それから十五ヒネばかり続けられた説得の結果、ついにアタワン将軍はカキ国王打倒に加担することに同意した。すぐさま、もっとも信用できる士官たちが天幕に集められる。話を聞いた士官らは皆一様に驚いた表情を見せたが、全員がアタワンに忠誠を誓った。一同は、絶対に説得に応じないと思われるカキ国王支持派士官のリストを短時間で作成すると、彼らを捕縛すべく、信頼のおける部下を率いて野営地に散った。
「……というのが、現状です。平原軍がワイコウ領内で北進することは構いませんが、アタワン将軍の部隊に対する攻撃はお控えくださるよう、重ねてお願い申し上げます」
キュイランスが言って、深々と頭を下げる。
「要請はわかりました。協議するから、ちょっと待っていてね」
夏希はそう返答すると、一緒に話を聞いていた拓海と生馬を手招いた。キュイランスと、彼をここまで護衛してきたルルトの兵士たちから十分に離れたことを確認してから、口を開く。
「どう思う?」
「むしろこっちが訊きたいね。あいつのことをもっともよく知っているのは、あんただろ」
笑み交じりに、拓海が訊き返す。
「とりあえず、彼がわたしたちに対し嘘をついた例はないと思うの。信用しても、いいんじゃないかな」
夏希は自信なさげに言った。断言できるほど、キュイランスについて知っているわけではないし、大人の男性の嘘を見抜けるほどの人生経験も積んでいない。
「こんなことになるのなら、ルルトの派遣部隊指揮官と事前に合言葉でも打ち合わせとけばよかったな」
生馬が言う。
「後知恵とは、そういうもんだ」
拓海が、笑う。
「当面彼を信用しても、こちらの行動には影響がないでしょ?」
夏希はそう訊いた。拓海が、うなずく。
「そうだな。アタワンの部隊を攻撃しようがしまいが、こちらが前進することには変わりない」
「問題は、これがアタワンが王都へと退却する時間稼ぎの謀略ではないか、という可能性だが……」
口を挟んだ生馬が、離れたところで大人しく待っているキュイランスに、視線を投げる。
「アタワンが降伏してくれれば、話は早いんだがな」
拓海が、言った。
「形式的に降伏し、その報せが王都にもたらされる。さらに、反カキ国王の旗を翻して、平原統合軍と共に王都を目指す。そんな筋書きなら、さしものカキ国王も、裸足で逃げ出すに違いない」
「アタワン将軍が認めるとは思えないけどね」
夏希は肩をすくめた。キュイランスの言葉を信じる限りでは、アタワン将軍はかなりプライドの高い人物らしい。形式的であれ何であれ、あっさり降伏することはないだろう。
「まあ、この件はローリスクハイリターンだと思う」
拓海が、断定的に言う。
「グリンゲとキュイランスの計画通りに行けば、近日中にカキ国王は玉座を追われ、反カキ国王派とルルトの思惑通りになるだろう。こちらも、一兵も損なわずに済む。もしこちらが騙されていたとしても、すでにオランジ村の戦いでルルトの要請は果たしている。問題は、少ないはずだ」
「たしかにな」
生馬が、同意した。
「じゃあ、キュイランスの要請は呑む、ということでいい?」
「総指揮官殿が、承認すればな」
夏希の言葉に、拓海が苦笑で応ずる。拓海の肩書きは、あくまで総指揮官主席補佐である。もっとも、総指揮官殿はたいへんに聞き分けがよく、拓海の進言はほぼ無条件で承認してくれていたが。
アタワン将軍の突然の裏切りと、それに続く王都への進軍。
ルルト、オープァ両国政府の、カキ国王に対する非難声明。
このふたつが、カキ国王に対する国民の支持を一気に失わせた。
夜間秘かに、数隻の川船がワイコウ川を下った。カキ国王と、その家族、側近など、約八十名が乗った船であった。ノノア川に入った船団は流れに沿って北進を続けた。すでに、西群島にある小国のひとつが、亡命の受け入れを表明していた。カキ国王が、後継者を定めずに退位を表明した王璽と署名入りの書状は、夜明けとともに王宮で公開された。
すでに、趨勢を見極めたカキ国王派の貴族は、こぞって反カキ国王派に鞍替えしていた。以前からの反カキ国王派と、にわか反カキ国王派の貴族が次期国王に推戴したのは、カキ元国王の従兄弟に当たる人物だった。ほぼ無名で、政治経験も浅い。お飾りに使うには、もってこいの人材であった。
平原統合軍派遣部隊は、ワイコウ王都まで一日半の位置に留まったが、平原諸国連絡会議は総会において、ワイコウの政権交代を歓迎する声明を全会一致で議決し、公表した。ルルト、オープァを始めとする海岸諸国も、新国王就任に対し慶祝の使節を送った。
いまだカキ・セドに立てこもっているヒュックリー将軍率いるワイコウ部隊は、本国での政変に動揺して士気が崩壊し、平原統合軍に対し条件付き降伏を行った。
事態は急速に終結しつつあった。
「おめでとう、アタワン将軍」
グリンゲは、いまや『救国の英雄』として筆頭将軍の地位に就くことになった後輩を祝福した。
「ありがとうございます。ですが、わたしの心の中では、いつまでも閣下が筆頭将軍です。今回の件では、お世話になりました」
アタワンが、丁寧に頭を下げる。
「やめてくだされ。わしは引退する老いぼれですぞ」
グリンゲは苦笑した。
王宮の一角で、ふたりはテーブルについていた。大臣や高級官僚が執務の合間に休憩する、サロンのような場所である。
国軍反乱に関するグリンゲとキュイランスの関与は、秘密にされていた。すべて暴露されれば、グリンゲの仮病や早い段階でのカキ国王への反乱加担、さらには平原側との連絡などが明るみになってしまい、色々と都合が悪い。それゆえ、手柄はすべてアタワンの独り占め状態になっている。貴族側でも、動揺する国民を一本にまとめ上げるために、目立つ旗印を必要としていたので、アタワンは短時間のうちに英雄へと祭り上げられた。
グリンゲは、国民的英雄となったアタワンに筆頭将軍の座を譲るために、引退を表明していた。まだまだ健康には自信があったが、仮病を使い過ぎたせいで、周囲からも静かに老後を過ごすようにさかんに勧められている。最後に大きな仕事を成し遂げたこともあり、グリンゲは未練なく王宮を去るつもりであった。
「その件ですが……引退は、もう少し待っていただけませんでしょうか」
アタワンが、そう切り出す。
「なんですと?」
「カキ国王べったりだった大臣が辞任してしまい、いくつか大臣の椅子が余っておるのですよ。貴族の方々の中でも、しばらく混乱が続くと考えて、大臣就任を渋っている方も多いのです。閣下さえよろしければ、わたしがしかるべき大臣の地位に就かれるように、ご推薦いたしますが」
「むう。大臣ですか」
グリンゲは渋った。興味がないといえば嘘になるが、完全引退を決意したあとだけに、即断できない。
「大臣となれば、秘書官が必要です。もちろん、ご友人や身内の方を起用しても問題ありません」
少しばかり意地の悪そうな笑みを見せて、アタワンが言った。
「うってつけの人物が、閣下のお側にいらっしゃるのではないですかな? 聡明で、度胸もある。機転も利く。いかがでしょう」
「むう」
グリンゲは唸った。たしかに、キュイランスは秘書官役には最適だろう。
……そろそろあいつにも貧乏賢者をやめさせて、立派な地位と嫁くらい与えてやる潮時かもしれん。
「よろしい。その話、喜んで引き受けさせていただきましょう」
ワイコウの新国王は、就任二日目に早くも、ノノア川通行税の撤廃と、魔力の源の使用抑制を表明した。三日目には、ルルトとオープァから外務大臣を長とする使節団がワイコウに入国、関係改善に向けた話し合いが始まった。四日目には、マリ・ハに対し使節が派遣され、武力衝突に関する賠償交渉が開始される。ハンジャーカイにワイコウ使節が訪れ、平原諸国連絡会議および平原統合軍に対し、正式な停戦の申し入れが行われたのは、五日目のことであった。
「いやいやいや。呆れるくらい低姿勢だな、ワイコウの連中は」
駿が、笑った。
「魔力の源に関しては?」
夏希は一番の関心事を真っ先に尋ねた。
「管理を人間界縮退対策委員会に委ねることを確約してくれたよ。魔術使用抑制の方針をすでに打ち出しているが、実質的には魔術禁止令だそうだ」
「よかった。これでしばらく、のんびりできるわね」
凛が、言う。
「おいおい。これからが本番じゃないか。タナシスにある魔力の源を、どうにかしないと。サーイェナもエイラも、まだ人間界縮退に関して効果的な対策を見出していないのだろう?」
拓海が、聞く。夏希はうなずいた。
「残念ながらね。サーイェナが色々試しているみたいだけど、効果はないそうよ。魔術の使用を原則的にやめて、これ以上の縮退を喰い止めるのが、現状ではもっとも効果的な対策ね」
「まだタナシスの反応はないのか?」
生馬が、訊いた。
「ラドームからは、何も言ってきていないわ」
夏希は首を振った。天候不順などで航海が遅れたり、タナシス政府の意見がまとまらずに返答が遅延した可能性もあるが、本来ならばもうとっくに何らかの反応が返ってきていいはずだ。
「なんか不気味だな。でかい国なんだろ?」
拓海が、駿に振る。
「まあね。ラドーム公国を含め、七州三自治州四辺境州四公国。総人口は不明だが、王都リスオンだけで人口五万というからね。海岸諸国と平原諸国と高原諸族を合わせたくらいの人口があってもおかしくない」
「超大国ね」
凛が、唸った。
「もっとも、聞いた話では、結構内部はぎすぎすしているらしいけどね」
駿が、笑う。
「ぎすぎす?」
夏希は首を傾げた。
「基本的にタナシスは、征服王朝なんだそうだ。自治州や公国は、以前に降伏した国家の成れの果て。辺境州では、まだ服属していない少数民族が武力闘争を続けているらしい」
「はあ。それは大変ね」
「人間界は、これで全部なんだな? 北にある陸塊は、すべてタナシスの領土。あいだに島国ラドームを浮かべた海。南側に、海岸諸国、平原諸国、そして高原」
拓海が、確認する。
「そういうことになるね」
駿が、うなずく。
「まわりを魔界に囲まれた円形で、真ん中に帯状に海があるわけだ。大中黒みたいだな」
生馬が、笑った。
「おおなかぐろ?」
「家紋だよ。新田家のが有名だな。白い円の真ん中に太く黒い帯が走ってる。人間界の地図を描いたら、似たような感じになるはずだ」
生馬が、笑いながら説明した。
「いずれにしろ、タナシスとは争いたくないな。政治動向はどうなんだ? 国王の外交政策や、権力掌握具合は?」
拓海が、質問した。
「外交は……不干渉主義かな? こちらに接触してこないからね。権力は、かなり中央集権的だろうね。でなければ、これだけの大国は維持できないだろう。王家の歴史もそれほどないらしいし、中華的な地方分権型帝国でもないようだ。聞いた話だと、国王は中年で、娘が三人いるらしい。官僚制はかなり発達していると聞いている。あと、ユニークなのは奴隷制の存在だね」
「奴隷制があるの?」
夏希は眉をひそめた。平原も高原も海岸諸国も、夏希から見ればかなり遅れた社会だったが、奴隷制度だけはなかった。
「なんだ、意外と遅れてるんだな、タナシスは」
生馬が、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「たぶんアフリカ系の奴隷が鞭打たれているようなシーンを頭に浮かべたんだろうが、それは違うよ。貴族の下に市民、そのさらに下に奴隷、という身分制度じゃない。貴族が所有する人間として、奴隷がいるだけだ。身分的には、たしかに市民よりは下だが、一方的に搾取迫害されている存在じゃないらしい。むしろ、イスラムの優遇された奴隷に近いね」
「イスラムの優遇された奴隷?」
夏希は首を傾げた。世界史は習ったが、聞いたことのない話だ。
「イスラム社会にも奴隷がいたが、それには二種類あったんだ。ひとつは、他民族かつ異教徒の奴隷。これは、いわゆる普通の奴隷と一緒だ。もうひとつは、最初から厚遇する目的で集められた奴隷。彼らはムスリムに改宗させられ、高い教育を施されて、イスラム諸国家で軍人や下級官僚、あるいは貴族の家来として働かされたんだ。身分的にはたしかに奴隷なんだが、出世してスルタンや将軍になった者までいるからね。中世的な世界では、官婢が出世して実力者になるのは珍しいことじゃないが、イスラムでのこの手の奴隷の活躍は他とは規模が違う。軍人奴隷であったマムルーク制度なんかは、特に有名だしね。……話がだいぶずれたな。えーと、ワイコウの連中は、誠意を見せる意味でも人間界縮退対策委員会に対し、速やかにワイコウの魔力の源の管理を委ねたいと申し出てきている。どうやら、平原と高原との和解を印象付けようと、派手なパフォーマンスをやりたいらしいんだ。今ならサーイェナもハンジャーカイにいるだろう? 君とエイラ、それにサーイェナの三人で、ワイコウに行ってくれるかな?」
「もちろん行くわよ。そのために、戦争までやったんだから」
夏希は勢い込んで言った。
「とにかくこれで、魔力の源を三つ確保したわけね。残る四つのうちひとつは、すでに魔力を使い果たされて、麦藁帽子を被った魔物が持っている。あとの三つは、おそらくタナシスにあり、いまでも魔力が引き出されている」
凛が、指折り数えながらまとめる。夏希はうなずいた。
「ニョキハンの言葉が正しければね」
「いずれにしても、タナシスが鍵だな。ルルトかオープァに頼んで船を仕立ててもらって、海を渡るか」
生馬が提案する。
「そうだね。外交だから僕が行きたいところだが……この先しばらく忙しくなりそうだから無理だね。平原諸国連絡会議の機能と権限を、もう少し大きなものにしたいんだ。平原共同体基本法を制定して、下部組織も作りたい。文化教育部、とかぜひ欲しいね」
駿が、嬉しげに語る。
「俺も平原統合軍を改革したい。とりあえず、軍縮しなきゃならないし。参謀部を作りたいね。兵站関連の専門家を育てないといけないことを、今回の戦いで痛感したよ」
拓海が、言う。
「……どこと戦うつもりなのよ?」
夏希は聞いた。高原とはすっかり同盟国状態だし、ルルトやオープァとの関係も良好だ。ワイコウも、屈服させた。もはや、平原に敵はいないはずだ。
「あくまで安全保障さ。規模は小さいが、精強で小回りの利く軍隊を、平原共同で保持するんだ。紛争抑止には、役立つ」
「俺も改革したいね。今の大隊編成は効果的だが、衝撃力に欠ける。弓を減らし、長剣兵を主体としたもっと大きな……おそらくは千名規模の野戦部隊が欲しい。決定的な、打撃戦力となるような部隊だ」
生馬が、眼をきらきらとさせて語る。
「あたしはノノア川水運商会の再建をしないと。それが終われば少しは暇になるでしょうから、タナシスに行ってもいいわよ」
凛が、そう言った。
「いずれ、凛ちゃんには手を貸してもらいたいんだけどな。経済調整や技術開発部門を、任せたいんだ」
「いいわよ」
駿の頼みを、凛が快諾する。
「……となると、わたしもタナシス行かなきゃ、だめ?」
自分を指差して、夏希は仲間に問いかけた。
「いずれ、軍に籍は置いてもらうぞ。オランジ村でも、見事な指揮振りだったからな」
拓海が、言う。
「せっかくここまで『竹竿の君』として武名を轟かしたんだ。引退しちゃ、もったいない」
笑いながら、生馬も言う。
「当面、人間界縮退対策委員会は暇になるだろう。船旅を楽しんでくるべきだよ」
駿が言って、にやにや笑いをする。
第六十二話をお届けします。