6 ジンベル王国とその周辺の地誌について
翌朝。
巨大目玉焼き……黄身がCD一枚分くらいあった……四分の一と漬物添えの朝粥を平らげた夏希を、エイラが呼ぶ。
「専属の侍女を手配しました。気に入っていただけると良いのですが」
そう言いつつ、エイラが一室に夏希を連れ込む。
中で椅子に腰掛けていた小柄な女性が、二人に気付きぱっと立ち上がった。
「始めまして、夏希様。シフォネと申します」
緊張しているのか、やや性急そうに名乗って、ぺこりと頭を下げる。
身長は百五十五センチくらいだろうか。年齢はエイラよりも若干上だが、夏希よりも下だろう。ジンベル人にしてはやや色白だ。丸顔を縁取っている髪はちょっと長めで、肩を完全に覆っている。美人ではないが、年齢相応に可愛らしい。
「シフォネ。可愛い名前ね。よろしく」
夏希はにこやかに応じた。長い付き合いになるのだろうから、好印象を与えておくに越したことはない。
「では、王宮へ参りましょうか」
エイラが、きびすを返す。
「え、もう行くの?」
「夏希殿は陛下と契約を交わしたのです。払う分は、きちんと働いていただきます」
足を止め、振り返ったエイラが生真面目に言い放ち、すぐに悪戯っぽい笑顔を見せる。
「……もっとも、今日もアンヌッカとのお勉強会でしょうけどね」
「おはようございます、夏希様」
溌剌たる笑顔で、アンヌッカが挨拶する。
「おはよう、アンヌッカ。……で、さっそくだけど昨夜の騒ぎはなんだったの? ジンベル防衛隊の士官であるあなたなら、詳しく知ってるでしょ?」
仕事部屋としてアンヌッカが確保してくれた狭い一室に入るなり、夏希はそう尋ねた。
「真夜中過ぎに、ジンベル川で正体不明の川船が発見されたのです」
軍人らしいはきはきとした口調で、アンヌッカが説明した。
「そこで、念のため防衛隊が非常呼集されたのです。上流側から接近してきた舟ですので、まず間違いなく蛮族のものでしょう」
「蛮族っていうと……高原地帯にいるとかいう連中?」
夏希は昨日のコーカラットとの会話を思い出しながらそう訊いた。
「そうです。船は小さなもので、せいぜい四ないし五人程度しか乗れぬ大きさです。おそらくは、夜陰に乗じて偵察に来たのでしょう」
「で、どうしたの? 追い払ったの?」
「こちらから川船を繰り出したところ、慌てて上流方向へ逃げてゆきました」
「上流っていうと、北だっけ?」
「いいえ。南になります」
わずかに首を振りつつ、アンヌッカが訂正する。
「昨日ざっと説明してもらったけど、いまひとつジンベルの地理が頭に入ってないのよね」
夏希は頭をかいた。
「では今日は、地理に関する説明からいたしましょうか」
アンヌッカが、そう提案する。
「そうね。お願いするわ」
「平原地帯にある都市国家は全部で十三。小さな地方村落は約八十ありますが、すべて近隣の都市国家に属しています」
夏希と向かい合わせにテーブルについたアンヌッカが、ジンベル周辺の地理に関し解説を始める。
「まず、ジンベルの北東、ジンベル川が主流であるノノア川に注ぎ込む場所にあるのが、フルームです。ここは牧畜が盛んで、ジンベルも多くの家畜を買い入れています。そこからノノア川を下って半日行程のところにあるのがイナートカイで、そこは……」
「ちょっと待った」
必死にメモを取っていた夏希は、アンヌッカの解説をやめさせた。
「口で説明されても、わかりにくいよ。地図とか、ないの?」
「地図ですか」
問われたアンヌッカが、考え込む。
「……って、考え込むようなことなの?」
夏希は半ば呆れた。アンヌッカは軍人のはずである。軍人にとってマップやチャートの類は、建築家と図面、あるいは音楽家と楽譜のように切っても切り離せない関係ではなかったのか?
「たしか、王宮の書庫には置いてあるはずです。探してきましょう」
アンヌッカが言って、立ち上がる。
夏希はため息をつきつつ、それを見送った。おそらく、ジンベル人の大半はこの都市から一歩も外へ出ることもなく一生を終えるのだろう。彼らにとって、世界とはこの都市の内側だけであり、外側は存在しないも同然なのだ。商人などは当然ある程度の地理的概念を心得ているはずだが、それも都市とその間といういわば点と線でしかないに違いない。まあ、日本ですら、二次元的……あるいは三次元的な地理の概念などを一般大衆が普遍的に持ったのは江戸時代に入ってからなのだから、仕方のないことだろうが。
やがて戻ってきたアンヌッカは、大小二本の巻いた紙を手にしていた。
「ついでに、ジンベルの地図も持ってきました」
そう言って、小さい方の紙を広げる。
地図と言うよりも、絵図だった。一部がごく薄く彩色されているだけの、シンプルなものだ。
ジンベルの街の広がりが、三角屋根のついた家の連なりで表現されている。中央に走る一本の水色の線は、ジンベル川だろう。周囲には、薄く緑色に塗られた山々が控えめに描き込まれている。夏希の目は、すぐに王宮の位置を見出した。大きな灰色の建物に、三角旗がはためいている。アンヌッカが、主要な建物や広場の位置を、ひとつずつ指差して教えてくれる。
「この線は、なに?」
夏希は街の右手……おそらく南側……にある一本の線を指差した。ジンベル川と交差するように東西方向に真っ直ぐ伸びており、家屋はその左側にしか描かれていない。
「城壁です」
「蛮族対策?」
「そうです。蛮族に関しても、説明しておいた方がよろしいですね」
アンヌッカが、大きい方の紙を広げる。
「蛮族は、その呼び名ほど、野蛮な連中ではありません。ここが平原地帯。これがジンベルです」
アンヌッカが、紙の左方に指で大きく円を描き、次いでそのほぼ中央やや右寄りにある赤い点を指差す。
「こちらが高原地帯。蛮族の、領域です」
彼女の指が右方に移り、淡い緑色に塗られている箇所を押さえる。
夏希は興味深げに紙を見つめた。こちらはもっときちんとした地図っぽく描かれている。平原地帯はどうやら大河の中流域らしく、周辺の山々から伸びる水色の線が寄り集まりながら、北のほうへと流れている。ジンベル川も、その支流の一本だ。
赤い点は、全部で十三個あった。いずれも川沿いにあり、おそらくは河港……というほど大げさなものではないだろうが……も付随しているのだろう。特に集中している箇所はなく、平原全体に散らばっているようだが、いずれもジンベルよりは北側に位置している。
「ここを見て下さい」
アンヌッカの指が、ジンベルから南へと伸びるジンベル川沿いに、高原地帯まで紙の上をなぞって行く。
「道は通じていませんが、川船を使えば多くの蛮族が平原地帯になだれ込むことができます。ごらんのように平原地帯と高原地帯は険しい山々で分断されており、獣道程度の山越えのルートはいくつかありますが、いずれも他の都市国家の領域に通じているうえ、その往来は非常に困難です。ジンベルは、いわば蛮族を防ぐ砦でもあるのです」
「でも別に、戦争とかしてるわけじゃないんでしょ?」
「はい。お互い敵視してはいますが、交戦状態にはありません。むしろ衝突を恐れ、接触を避けているのが現状ですね。先ほども言いましたが、蛮族はその呼び名に相応しいほど野蛮ではありません」
アンヌッカが、続けた。
「我々ほど大規模な都市を作らず、主に狩猟と農耕で暮らしているだけです。高原地帯は平原よりも植生が密ではないので、狩りに適した動物が多いのです。他の都市の商人の中には、高原地帯へ赴いて蛮族相手に商売をしている者もいますが、あまり儲けは出ていないようです。なしにろ、商品を運び込むだけで大仕事ですから」
「ふうん。で、この外は?」
夏希は地図の外側を指し示した。
「西と東は、無人地帯です」
アンヌッカが、肩をすくめた。
「密林ばかりで、川も細く、人が住むには適していませんから。ここを流れるノノア川は、はるか遠く海まで流れ下っています」
アンヌッカの指が、ジンベル川を始めとする支流が流れ込んでいる大河を指す。
「ノノア川の中流域は密林地帯で、国家はなく、ほとんど人は住んでいません。さらに北に行くと、海岸諸国があります。やや内陸にあるワイコウ、ノノア川河口にあるルルト、西群島との交易で栄えているオープァなどが有名ですね。我々平原諸国とは、ノノア川沿いに設けられた街道と、川船を使って交易が行われていますが、その規模は小さいものです。海を隔てた北方には陸地があり、そこにはタナシスと呼ばれる大国があるそうですが、ほとんど交流はなく、詳細はわかりません。あと、海の真ん中にラドームと言う大きな島国があるそうです。昔は独立国家でしたが、今はタナシスに服属しているという話です」
「南の方は? 高原地帯の先は、どうなってるの?」
「聞いた話では、魔物の領域とされています」
「魔物の領域? まさか、コーちゃんの故郷とか」
「その通りです。常に闇夜で、人はおろか、魔物以外のすべての生き物が棲めぬ領域です」
「生き物が棲めない?」
夏希は小首を傾げた。
「はい。雑草一本すら育たぬ、真っ暗な世界。あるのは硬い地面だけで、そこに少数の魔物が住み着いているのみです。人が入り込めば、数時間と持たずに死んでしまうそうです」
アンヌッカがわずかに顔をしかめながら説明する。
「コーちゃんの故郷ねえ」
ミニサイズのコーちゃんが群れていたりするのだろうか。それはそれで、可愛いかもしれない。
夏希がそんな想像を話すと、アンヌッカが苦笑して首を振った。
「いいえ。魔物は様々な形状を取りますが、同じ姿を持つものはいません。すべて、違う外見をしているそうです」
「じゃ、コーちゃんの両親とかいないんだ。……魔物って、どうやって増えるの?」
「増えないそうです。そのかわり、寿命もない。天地開闢以来、存在しているのだそうです」
アンヌッカが苦笑交じりに言う。
「コーちゃんなら、『魔物ですからぁ~』とか言うところね」
夏希も苦笑した。
昼食は、米麺だった。
きしめんのような平べったい麺で、コシがほとんどなく、伊勢うどんのような食感だった。ベトナム料理の米麺、フォーに似ているだろうか。ただし、スープの味付けはフォーのように肉や魚介の出汁ではなく、昆布出汁に似た味わいの明らかに植物系の出汁であった。アンヌッカに訊くと、都市国家イナートカイ特産の乾燥茸を使ったものだという。具は大きめに切った数種類の野菜で、薬味に生野菜の細切りが載せてあり、こちらは長葱に似た味だったが、噛むとライムを思わせる爽やかな柑橘系の香りが口中に広がった。レモングラスか何かの仲間なのだろうか。
食後のお茶を飲みながら、勉強会を再開する。夏希は真剣にメモを取りつつアンヌッカの話を聞いていたが、一時間もしないうちに目蓋が重くなってきた。
「変な時間に起こされちゃったからなぁ」
夏希は渋い表情で眼を擦った。昨夜は非常呼集の騒音で叩き起こされたあと、寝台に戻ってもすぐに寝付けず、二時間近く悶々としていたのだ。寝付けなかったのは、睡眠周期がずれたことも原因だろう。身体は二十四時間周期に慣れきっているのだから、急に二十一時間半周期に移行できるわけがない。
「では、目覚ましがわりに街を御案内しましょうか」
見かねたアンヌッカが、そう提案する。
「そうね」
夏希は立ち上がった。少し身体を動かせば、眠気も散るだろう。冷房の効いた王宮に閉じこもってばかりというのも、良くない。
「川に沿って歩きましょうか。少しは涼しいはずです」
外に出ると、アンヌッカが言った。
「それがいいわね」
夏希はすたすたと街路を歩みだした。数歩行ったところで、アンヌッカが付いて来ないことに気付き、足を止める。
「あれ? 方向間違えたかな」
照れ笑いしながら、アンヌッカを見る。
「いえ、そちらで合っています」
慌てたように歩み始めたアンヌッカが、夏希に並んだ。驚いた顔だ。
「どうかした?」
「いえ、夏希様は街に不案内のはずなのに、どうして川に至る正しい道がお判りになったのかと、不思議に思いまして」
驚きを顔に張り付かせたまま、アンヌッカが言う。
「だって、地図見せてもらったじゃない」
夏希はくすくすと笑った。
「……それだけで、川への道を知ったのですか?」
「もちろん。東の市場があっちで、西の市場がこっち。ジンベル防衛隊の本部があのへんで……」
夏希は矢継ぎ早に地図で見た主な施設がある方向を指差してみせた。
アンヌッカの表情が、単なる驚きから驚愕に変わる。
「……なんと聡明なお方……」
夏希は内心で苦笑した。現代の日本人にとって、地図はあまりにもありふれたツールのひとつであり、そのおおよその読み方は子供でも知っている。地図をざっと覚えてしまえば、自分の位置と方角さえ承知している限り、よほどの方向音痴でなければ目的地にたどり着けるはずだ。
……地図が普及していない以上、その効果的な利用法や読み方も広まっていないのだろうが……。
夏希は軽くため息をついた。
表面上、このジンベルという都市国家はかなり繁栄している国といえる。食物は豊かで、飢えている人はひとりも見かけない。みな健康そうで、にこやかに暮らしている。争いごとも、蛮族の問題を除けば表面上はないようだ。規模の小さな地域社会であり、おそらくは犯罪なども少ないだろう。一見すると、貧困や失業問題、犯罪、環境汚染などに苦しむ現代の日本より、良い国ではないかとすら思えてくる。
だが、その社会の保持している『知』のレベルには雲泥の差がある。現代日本では、幼稚園児さえ読み書きができるのだ。ホームレス同士が高度な政治談議を闘わせたり、宇宙開発の是非について論じたりできるのが、日本の知的レベルなのである。
そして社会全体が共有している凄まじいまでの情報量と、それに対するアクセスの容易さも見逃せない。古代や中世的社会にも、それなりに高い知識や文化は保持されていたが、その担い手はごく一握りの貴族や文化人、知識人だけであった。呆れるほど少数の人々が、情けないほどに限られた情報を、宝物のごとく後生大事に抱え込んでいる状況が、それら遅れた社会の『知』であったのだ。現代は違う。書籍、ネット上、映像媒体、その他。活字からデジタルデータに至るありとあらゆる情報が公開され、共有され、そして日々書き換えられてゆく。学術論文クラスの専門的情報を、ごく普通の市民がいとも簡単に、しかも無料かきわめて安価に手に入れることが可能なのだ。
ジンベルには、書籍はない。公文書は存在するが、それを眼にすることができるのは王宮の役人だけだ。情報はその場で消費されるだけのものが大半で、後に残るのは人々の頭の中だけ。それを他者に伝授する組織的な教育システムは皆無。これでは、人が育ちようがない。
……当初思っていたよりも、厄介な仕事を請け負っちゃったわね。
夏希はそう思った。いったんは幕末や明治のお雇い外国人に自分をなぞらえたが、どうやら認識が甘かったようだ。江戸時代半ばから、日本の教育システムは徐々に整備されてきており、都市部住民の知的水準はヨーロッパ先進国のそれを凌駕するほどだったのだ。お雇い外国人が相手にした日本の学生や技術者は、かなり高いレベルの学習をこなし、論理的な思考訓練を受けた人々であり、新しい知識や技術を速やかに吸収することが可能だった。
街路を歩みながら、夏希はジンベルの人々をやや冷ややかな視線で眺めた。
みな、いい人たちなのだろう。穏やかで、争いごとを好まず、礼儀正しい。だが、その知性のレベルは江戸時代の日本人以下である。おそらくは、平安時代の庶民レベルだろう。彼らに何の工夫もなしに知識を伝授しても、さながら乳児に硬い固形物を与えるようなことになりかねない。あるいは、サボテンに毎日水を与えるようなものか。いずれにせよ、受容できない上に害悪しかもたらさないだろう。
第六話をお届けします。