59 条約の厳守
ごそごそという気配で、夏希は目を覚ました。
布団代わりに身体に巻きつけていた薄布を剥がし、上体を起こす。小さな小屋の中は、すっかり明るくなっていた。一緒に寝ていた者は、もう数名しか残っていない。
オランジ村は小さな村である。何千人もの兵士が宿営できるだけの建物は、ない。村人に丁寧に『頼み込んで』明け渡してもらった何軒かの家と小屋で眠れたのは、五人に一人くらいであり、しかも雑魚寝とあいなった。夏希は他の女性たちと小屋で横になったが、暑苦しさに閉口した。むしろ、野宿の方が熟睡できたかもしれない。
「お目覚めになりましたか」
アンヌッカが、顔を覗きこんでくる。腰を下ろしてはいるが、すでに革鎧を着込み、剣まで帯びた状態だ。
「おはよう」
「おはようございます。まずは、お顔を洗った方がよろしいですわね」
立ち上がったアンヌッカに手を引かれるようにして、夏希は小屋を出た。誰かが川から汲んできてくれたらしい水の張られた大きなタライの前で、顔を洗う。アンヌッカが差し出してくれた手拭いで顔をごしごしと擦り、水気と眠気を拭い去ろうとしていると、背後から声が掛かった。
「おはよう、諸君」
拓海の声だ。しかも、声調からして上機嫌らしい。
「おはよう。……いやに機嫌がいいじゃない」
「夜のうちに放った偵察隊から報告が来た。敵は夜明け前から起き出して、進軍準備を整えたそうだ。今日中に、接敵できるぞ」
満面の笑みを湛えて、拓海が言う。
「というわけで、朝食前に生馬を交えて最終打ち合わせだ。アンヌッカ、しばらく夏希を借りるぞ。付いて来い、夏希」
「はいはい、平原統合軍派遣部隊総指揮官主席補佐殿」
夏希は手拭いをアンヌッカに返すと、今回の派遣部隊における拓海の正式な肩書きで呼びかけた。ちなみに、夏希の肩書きは同部隊総指揮官補佐、となっている。
「……相変わらず元気な奴だな」
生馬の姿を見つけた拓海が、呆れたように言った。
生馬は上半身裸になり、一軒の農家の裏庭で鞘付きの長剣をぶんぶんと振り回していた。農家の子供だろうか、幼児が二人、しゃがんだ姿勢でその様子をぽかんと眺めている。
「よう、拓海、夏希」
「作戦会議だ。顔を貸せ」
拓海が、生馬を手招く。
「ちょっと待ってくれ。ソリス!」
生馬が、お気に入りの伝令兵を呼ぶ。手渡されたシャツを羽織った生馬が、腰に長剣を手早く吊った。
「よし、いいぞ」
三人は、農家から離れて畑の中に伸びている小道を歩んだ。周囲に人気がないことを確認してから、拓海が足を止める。いまのところ住民とトラブルにはなっていないが、彼らはワイコウ国民である。用心に越したことはない。
「偵察結果から推定するに、敵は早ければ昼ごろ、遅くとも午後早いうちに仕掛けてくるだろう。生馬、頼んでおいた部隊の編成は終わってるか?」
「昨日のうちに終わらせたよ。俺が直卒するもっとも出来のいい大隊二個と高原弓兵四百名。ベンディスが率いる高原弓兵六百名。ただし、乗せる船が揃っていないが」
「午前中には、残りの一千名を乗せて現れるはずだ。そうしたら、手筈どおりやや上流で待機してくれ」
「防塞で敵の前進を阻み、その間に俺の部隊が船で敵主力後方に進出、背後を衝く。役目は承知しているが、どうも作戦の全体像がつかめていない。もう少し詳しく説明してくれるか?」
生馬が、訊く。
「詳しい説明は必要ないよ。ひと目でわかる。ちょっと、高いところへ登ろうか。夏希も来てくれ」
拓海が来た道を戻り始めた。村の北側にある一軒の家の屋根の上に、簡素な低い櫓が組まれている。拓海が昨日のうちに造らせたものだろう。そこに掛けられた梯子を、拓海がひょいひょいと昇ってゆく。生馬と夏希も続いた。
「この地形を見れば、俺がやりたいことはわかるだろう」
拓海がやや自慢げに言って、大げさな身振りで北の方角を指し示す。
夏希は櫓の上からオランジ村の北方を眺めた。以前、コーちゃんに空から見せてもらった時の事を、鮮やかに思い出す。左手にジャングル。右手にノノア川。川沿いには南北に細長く田んぼが広がり、その左側に街道が南北に伸びている。田んぼの北には、小丘。街道を挟んで左手には、青々とした葦に縁取られた大きな沼地。その南側にも、田んぼが広がっている。
「ふむ。守り易いよい地形だな」
生馬が、感心したように言う。
「感想は、それだけかい?」
いたずらっぽい口調で、拓海が問うた。
「感想?」
「田んぼと沼地に挟まれた街道。左手のジャングル。右手に水。なにも思い浮かばないのか?」
拓海がくすくすと笑う。
「沖田畷か!」
生馬の表情が、ぱっと輝いた。
「そう。あの再現をしようというんだよ。ま、かなりアレンジしてあるがね」
「起きたなワテ? なに、それ?」
夏希は首を傾げた。
「島津びいきの生馬に語らせると長くなるので俺が説明するが、戦国時代の合戦のひとつだ。場所は九州は島原半島の東海岸。島津と有馬の連合軍が竜造寺の侵攻軍を打ち破った戦いだ。この敗戦で九州三大戦国大名の一角であった竜造寺家の没落が決定的となった」
「あー、これだけは言わせてくれ」
生馬が嬉々として割り込んだ。
「この合戦で、総大将の竜造寺隆信が討ち死にしている。フィクションの影響か、戦場で戦国大名が討ち死にするのは当たり前だと思われているが、実はそんなことはないんだ。逃げ場のない城攻めや包囲戦で自決するならともかく、野戦ではめったに大名が討ち死にすることはない。あの関が原の合戦でさえ、本戦の戦場で討ち死にまたは自害したのは大谷吉継、島津豊久ら四人しかいない。純然たる野戦で、総大将でもある有力大名が首級を挙げられた例は、長い戦国時代を通じてもたった二例しかない。ひとつがこの沖田畷での竜造寺隆信。もうひとつは、桶狭間での今川義元だ」
「へえ。そんなに凄い合戦なんだ。それにしては、知名度がないわね」
「仕方ないだろ。信長と家久じゃ、その後の出世振りが違いすぎる」
生馬が、肩をすくめる。
「それで、生馬の部隊が前進するタイミングだが……」
拓海と生馬が、細々した打ち合わせを始めた。夏希も真剣に聞き入った。すでに以前の戦闘指揮経験から、戦場においては他の部隊との連携のタイミングが、勝敗を左右しかねない重要なポイントであることは学んでいる。
「とまあ、こんなところだな。とりあえず、朝飯にしようや」
拓海が言って、梯子を降り始めた。
昼前に、平原統合軍と高原の民の合同部隊は、全ての準備を整えていた。
オランジ村の北は隘路である。濃密なジャングルとノノア川の流れに挟まれた土地は、幅が三百メートルほど。しかしながら、街道を挟むように西側に楕円形の沼地、東側に長方形の田んぼが南北方向に伸びているので、通行できるルートは三ヶ所しかない。すなわち、ジャングルと沼地のあいだの狭い草地、河岸と田んぼを守る土手のあいだの河原、そして、街道とその両側の草地である。
平原側は、その三ヶ所の南側に簡素な防塞を築き、その後ろに布陣していた。最も狭いルートであるジャングルの縁には二個大隊と高原弓兵四百名。中央の街道には、四個大隊と高原弓兵三百名。川沿いには、二個大隊と高原弓兵三百名。予備部隊である市民軍一千名は、街道と川沿い両方にいつでも駆けつけられるように、その後方にまとめて置かれている。
夏希は川沿いの部隊を率いていた。総勢一千六十名。主力である大隊は、弓兵二百名を主力に、これを援護する長槍兵百二十名、接近戦に強い長剣兵五十名、それに本営を構成する大隊長とその補佐、護衛や伝令の兵士計十名の総計三百八十名で編成されている。ちなみに弓は、高原戦士が使っているものを参考に改良されており、以前の物よりも短いが威力は同等以上にある。取り回しが良くなった分、射る速度も若干向上していた。
例によって、夏希は竹竿を携えていた。もちろん、すぐそばにはアンヌッカが控えている。さらに、拓海が付けてくれた伝令が三人従っている。
夏希は空を見上げた。珍しく、雲が多い。雨をもたらすような雲ではないが、かなり厚みがあるので、時折日差しが翳るとあたりが急に薄暗くなる。視線を戻すと、くっきりとした雲の影が、細いあぜ道で整然と区切られた水田をゆっくりと横切ってゆくのが見えた。拓海の指示で、水田の排水路は昨晩から板と粘土質の土で暫定的に塞がれていた。水量を多くし、敵兵が簡単に踏破できないようにしたのだ。伸びきっていない稲の葉は水面からちょこんと顔を出している状態であり、さながら田植え直後のようにも見える。
「……戦場に馴れちゃったのかしらね」
夏希はそっとつぶやいて、顔をしかめた。おそらくあと五十ヒネ足らずのうちに、何百もの命が失われる陰惨な戦いが開始されるというのに、まったく動じていない自分に、少しばかり嫌悪感を覚えてしまう。
「それでよろしいのですよ、夏希様」
例によって夏希の考えを読み取ったアンヌッカが、ささやいた。
「大隊の兵士たちも、高原戦士たちも、みな夏希様の評判を聞き及び、そして信頼しているのです。以前拓海様に聞いたことがあります。『指揮官は、部下の前ではよい役者たれ』……。泰然と構えていらっしゃる夏希様と一緒なら、勝てると皆が思い込んでくれれば、それでいいのです」
「よい役者ねえ」
夏希は苦い笑みを浮かべた。もともと、演技は得意ではない。感情がすぐに顔に出てしまうタイプなのだ。カードゲームでも、ポーカーやババ抜きなどは下手くその方である。
……いいでしょう。戦場でくらい、自分を偽ってみますか。
夏希は厳しい表情を作ると、きびきびとアンヌッカに告げた。
「大隊と高原弓兵の様子を視察してきます。後は頼んだわよ」
「了解しました、夏希様」
にやりと笑ったアンヌッカが、すぐに引き締まった表情に戻ると、小さく頭を下げた。
アタワン将軍は平原側の布陣をざっと望遠鏡で観察した。次いで、偵察隊からの報告が書き込まれた地図を見つめる。
「河岸の敵が少ないように思うが?」
「罠ですかな」
側近が、首をひねる。
偵察隊の見積もりでは、密林沿いが約一千。街道沿いが約二千。川沿いが約一千となっている。
「敵は総勢六千から七千のはず。予備部隊を多く取っているようですね」
別な側近が、言う。
「常識的な戦法だな」
戦力を三分し、こちらにも戦力の分割を強いる。戦況に応じて大規模な予備兵力を一ヶ所に投入し、各個撃破と戦線の突破を狙う。しごくまともな戦法といえる。
……この程度の兵力ならば、戦力差で押し切れるはずだ。
そうアタワンは判断した。下手な小細工は失敗の元である。単純な戦術こそ、勝利への近道だ。こちらの戦力には、訓練不十分な市民軍も多いし、友好国の国軍も混じっている。精妙な作戦を行うだけのゆとりは、ない。
「こちらも戦力を分けるぞ。街道沿いと河岸を主攻とする。ルルト部隊には密林沿いを、オープァ部隊は予備にまわってもらおう」
「閣下。作戦会議中申し訳ありません。シュビッツ閣下とネーゲルス閣下が、至急お会いしたいとのことです」
足早に歩んできた士官が、報告する。
「すぐにお通ししろ」
アタワンはそう命じた。シュビッツ将軍はルルトの、ネーゲルス将軍はオープァの派遣軍司令官である。名目上二人ともヒュックリー将軍およびアタワン将軍の指揮下に入ってはいるが、軍人としてはアタワンと同格の地位にある。無下にはできない。
「ようこそお二方。いま、作戦計画を練っていたところです。申し訳ありませんが、ネーゲルス閣下の部隊は予備にまわっていただきますぞ」
アタワンはにこやかに告げた。
「そのことですが、閣下。ここで平原側と戦われるおつもりですか?」
懸念を顔に張り付かせて、シュビッツ将軍が訊いてくる。
「もちろん、そのつもりですが」
「それでしたら、残念ながら我が部隊はご協力することができません」
「なんですと?」
アタワンは目を剥いた。
「アタワン閣下。わがオープァ部隊も、参戦することはできません」
ネーゲルス将軍も、そう通告する。
「どういうことです? 相互防衛条約を、反故にするつもりですか?」
「いや、相互防衛条約を厳守したいだけですよ」
シュビッツ将軍が、首を振った。
「第四条を、思い出してください。『第四条第一項 締約国は、他の締約国の領土に対する武力攻撃に対しては、これを必要と認めるすべての手段を用いて即座に援助を与えなければならない』」
「それが、どうかしましたか? 平原の軍勢は、わがワイコウの領土を侵しているのですぞ。条約に基づいて、一緒に戦ってくださるのでは?」
「閣下。我々の現在地は、ここですね?」
シュビッツ将軍が、手にした地図を広げ、一点を指差した。オランジ村の、やや北側だ。
「そうです」
「で、予想戦場が、ここ」
シュビッツの指先が少しずれ、オランジ村に重なる。
「そうですが……」
「ならば、我が部隊は戦うことはできません。わがルルト王国は、カキ・セドを含む湿原地帯北部のワイコウ王国による領有宣言を公的に認めたことは一度もないのです。それどころか、何度も外交ルートを通じて、領有宣言が無効であることを主張し、取り消すように求めている。相互防衛条約の条文に忠実であるならば、現在の平原軍の行動はワイコウ王国の領土に対する武力攻撃とは認められないのです」
「詭弁だ!」
「そう取られても仕方ありませんな。しかし、わたしは国王陛下に仕える軍人です。国際条約の解釈や祖国の外交政策をみだりに曲げるわけにはいかないのです」
しれっとした表情で、シュビッツ将軍が言い切る。
「まさか、ネーゲルス閣下も……」
「シュビッツ閣下と同意見です。わがオープァも、ワイコウの湿原地帯入植には反対の立場を貫いており、この地の領有も認めていませんから」
……悪夢だ。
アタワンは天を仰いだ。ルルトとワイコウの部隊は、あわせて二千五百。数は多くはないが、質的にはワイコウ国軍に匹敵する。この両者が戦ってくれないとなると、戦力は三割減、ということになるだろうか。
アタワン将軍は、必死になって二人の外国人将軍をかき口説いた。しかし、両者とも頑として首を縦に振らなかった。
……仕方がない。
アタワンは頭を切り替えた。ここで参戦を無理強いしては、後々外交問題に発展してしまう。相互防衛条約違反を言い立てられ、条約の合法的破棄の理由をルルトとオープァに与えてしまうことにもなりかねない。
両部隊には、牽制役を務めてもらおう。
アタワンは頭に浮かんだ案を整理した。予備軍と一緒に、後方に控置すればいい。平原側は、こちらのごたごたなど知らぬはずだ。精鋭予備部隊だと思わせることができれば、役に立たないわけではないだろう。特に、敵がこちらの読みどおりに川船を使ってわが後背に兵力を送り込んできた場合、二千五百の兵力はかなりの脅威と映るはずだ。
「わかりました。国家の政策とあれば仕方ありません。後方で待機していてもらいます。その場所は指定させていただきますが……よろしいですかな?」
「その程度でしたら、喜んでご協力させていただきます。我々は条約を守りたいだけであって、決して閣下の足を引っ張りたいわけではないのですから」
シュビッツ将軍が言って、笑みを見せた。ネーゲルス将軍も、同意する。
第五十九話をお届けします。